■ 落穂拾記(2)    羽原 清雅

   死者85人の航空事故、解決まで20日間
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 もう十数年になるだろうか。新橋の居酒屋で、隣り合わせの老人に話しかけら
れるうち、話のはずみで古ぼけた冊子をもらうことになった。「昭和十三年八月
二十四日東京市大森区ニ生ジタル 航空事故始末報告 航空機事件被害者善後処
置委員会」と表紙にある。
 
  大森といえば羽田、昭和十三(1938)年といえば筆者の生まれる2週間
前。この冊子によると、死者85人、負傷者76人の事故というから、羽田空港
では1966年2月の全日空機着陸時の133人死亡事故に次ぐ大規模なもの
だ。この年の3月に起きたカナダ太平洋航空機着陸時の64人死亡、1982年
2月の日航機長の異常操縦による24人死亡の事故よりも多くの犠牲者を出した
ことになる。
 
  この事故の概要は、8月24日午前9時前、大森上空で日本航空輸送の旅客機
と日本飛行学校の練習機が接触し、錐揉み状態で墜落、「操縦士を救出せんと試
みたる者は機辺に蝟集し、又、墜落を目撃して集合し来たれる者は漸次(墜落し
た山本螺子製作所)構内に充満し道路に溢れたる時、突如ガソリンタンク爆発
し、瞬間、四辺に火焔を噴騰し、百数十名の死傷者を生ぜしむると共に、余焔は
(工場、住宅三棟などを)焼失せしめた」「機体が地上に激突してタンク爆発に
至るまでには、三分乃至五分間を経たりと推算」した、という。
 
  事故のあったこの地にはいま、東京労災病院があり、商店街と町工場、住宅と
入り組んだ街になっている。だが、かつては明治33年に鉱泉の開鑿に成功、「
森ヶ崎鉱泉」として、また夏場の森ヶ崎海水浴場を控えて2、30軒の旅館、料
亭、芸者置屋、別荘などが立ち並ぶ三業地で、かつ一大行楽地だった。この事故
の起きたころから戦時体制が進み、旅館などは徴用工の宿舎に変わっていった。
死者の中に4人の朝鮮人の名があるが、徴用されたのだろうか。

 いまの「大森第4小学校前」というバス停の近くが、旅客機爆発の地点であ
る。羽田空港に向かうモノレールが昭和島駅を出て地下にもぐるあたりの右手
に、かなり広大な森ヶ崎水再生センターと森ヶ崎公園が見えるが、その一帯であ
る。ちなみに、創価学会名誉会長池田大作の出身地(現大森北)に近く、彼の作
詞による「森ヶ崎海岸」は会員たちの愛唱歌になっているという。

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 ライト兄弟の世界初飛行は1903年、日本では1909(明治42)年ころ
から飛行機研究熱が高まり、新宿・戸山学校練兵場で滑空を試みたが失敗、翌年
にヨーロッパで飛行術を学んだ陸軍の日野、徳川両大尉が挑戦して1メートルの
高度で30メートルを飛んだのが最初だという(「航空殉職録 民間編」昭和11
年刊)。
 
  そして、事故を起こした日本飛行学校の創立は1917(大正6)年と比較的
早く、このころの飛行機熱の高まりがわかる。この執筆で知ったことだが、エッ
セイスト内田百間(1889‐1971・本来は門構えの中に月・本名栄造)は、羽田空
港開港のころ法政大学教授として大学航空部の会長を務めるヒコーキ野郎だっ
た。ついでながら熱海の梅園には、日本で航空技術を身につけた韓国の女性パイ
ロット1号朴敬元(1901‐33)が、初の日本海横断飛行に挑戦して熱海市の玄岳
付近で墜落死したのを悼む碑があるが、この遭難は羽田開港の2年後のことだった。
 
  羽田の「東京飛行場」としての開港は1931(昭和6)年8月25日で、長
さ300m、幅15mの滑走路1本だった。小泉純一郎の父親又次郎逓信相時の
開港で、又次郎は娘を清水港まで試乗させたりしていた。今年は81周年にあた
る。現在の空港は1522万㎡と広大だが、当時は三十分の一の52万㎡だっ
た。一日の発着は920便、年間6200万人が利用するというが、当時の利用
者はごくわずかで、軍用機の動きが活発な時期だった。

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 本題に戻ろう。この空中接触事故の扱いを見ると、時代の変化、というのか、
今日と比べると、驚くようなことがいくつか見えてくる。歴史は進歩する、とい
うのか、「ひと」の生命が軽かった、というべきか。
 
  第一。事故の即死者は17人だったが、翌日25人が亡くなり、26日10
人、27日11人、その後も連日5人、2人、3人と増え続け、1ヵ月後まで毎
日のように死者が続いた。この前後二回の合同葬が持たれ、陸海逓の三閣僚も参
加、両陛下から救恤金が贈られた。事故当時の担当閣僚は、弁舌で鳴らした逓信
相永井柳太郎だった。
 
  航空会社、飛行学校は10万円の解決金を提示、使途は弔慰金が世帯主800
円(31人)・妻帯者700円(6人)・独身者600円(43人)、負傷見舞
金が1ヵ月以上の入院者200円(52人)・1ヵ月以内入院者100円(18
人)などと長期入院者24人への追加見舞金、また工場損害見舞金2万5300
円(11工場)・個人損害見舞金2850円(8人)・罹災者137家族への見
舞金6850円だった。総額では、弔慰金が5万4200円、負傷見舞金1万5
180円、各戸見舞金が3万5000円などで、会社側の負担は11万円ほどだ
った。このほか、「同情金」として各方面から寄せられた寄付は2192円余
で、これは被災161人に平等に配分されたという。 ところで、この金額は
「償い」に値したのだろうか。
 
  「物価の文化史事典」「東京府統計書」などによると、初任給は巡査月45
円、小学校教員初任給月45-55円、公務員(高等官)月75円、また給与生
活者(1世帯3.9人)で実収入111円、実支出92円、製材工の日額賃金平
均が2円5銭、製本工2円88銭、旋盤工3円60銭、だった。仮に、稼ぎ手の
主人を失った家庭で、切り詰めた月50円の生活費にしたとして、もらった
800円では1年半も暮らせない。つまり、きわめて低い解決金だったのだ。

 第二。1ヵ月も死者の続くなかで、事故が打開されるまでの期間はわずか20
日間だったのだ。8月24日事故発生、9月12日大森警察署で決着。ありえな
い早さだった。 その交渉の実態を見てみよう。第1回の被害者会には、掲示に
よって集った被害者側15人、地元の川端町会長ら2人、それに応召軍人関係
(帝国在郷軍人会大森分会長ら)3人、愛国と国防婦人会幹部3人、区役所社会
課長ら生活扶助関係3人、それに大森警察署特高主任と情報係が臨席した。そこ
に急遽、大森署長が登場して会社の意向を伝達する。

 生計の扶助、今後の段取りなどが決まり、小沼虎之助なる人物が会社側との折
衝に当たることを一任する。警察を軸とし、軍部とそれに同調する人物が発言権
を握ったようだ。小沼は、地元の旅館に育ち、運輸業などを経営、また大森町議
でもあり、事故後には政友会から東京府議に当選、戦後は初の公選による大田区
長になるという、いわば体制側の人間だった。
 
  第三。決着に向けた、その論理もまたこの時代を反映している。 この冊子の
なかで、中心人物の小沼虎之助は「ひとつの災禍に遭った時、無批判的に之に打
ち負かされ、徒に愚痴をのみ繰り返へしてゐてはならない。災厄に遭った瞬間か
ら、直により高きもの・建設の為に之を活用しやうといふ勇気を失ってはならな
い」と、記している。今日なら、遺族を逆なでする言ともなるだろうが、戦争に
突入していくこの時勢としては「当然」の流れだっただろう。
 
  さらに決着の直前、大森区役所での警察署長、区幹部立会いで開催された解決
金の話し合いの場で、日本航輸の常務は「航空に関することは国力の伸張に重大
な関係がありますので、会社も皆様も此の点を尊重致して速に解決致したい」「
(株主への配当が約束以下で株主を欺いた、と言ったあと)収支が償はぬ此の状
態は我国の航空力を伸す上に障害となりはせぬかと心配している」などと説明、
国策である航空開発を前面に立てて補償交渉に臨んでいる。

 また、東京―福岡間950kmを14人の客を乗せて飛ぶと、1113円の損
失、300日飛ばすと66万円の不足が出るなどと述べ、「国家は・・・此の他
に飛行場の建設や飛行士の養成等に莫大な費用が要りますので、会社が国家の補
助をそう多く求めることは出来ない」として、低額の資金しか出せない、とし
た。結局、10万円の解決金に1万円上乗せすることで落ち着くことになった。

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 「国家」が重く、「生命」の軽い時代だった。
  1928(昭和3)年張作霖爆殺、特高の全国配置などをはじめ、軍部や右翼
の跳梁するなかで昭和恐慌は激化し、活路を旧満州などに求めて満州事変(19
31年)、翌年の満州国建国、5・15、2・26といった軍部テロの一方で、国際連
盟脱退など国際的に孤立が進む。大森事故のあった前年の1937年には、盧溝
橋事件で戦火は日中戦争に拡大、日独伊防共協定が交され、事故のあった春には
国家総動員法が公布されている。 戦争遂行に、一億火の玉になる時代で、国家
事業にはひたすら従い、異論の言えないなかでの飛行機事故だった。
 
  事故による死者の続くなか、8月27日には朝日新聞は軍用機献納を読者に煽
り644万円余を集めたとの社告を出し、この日近衛首相はヒトラー・ユーゲン
トの若者30人を軽井沢で歓待している。さらに、内閣情報部のもとで、菊池
寛、吉川英治、丹羽文雄、林芙美子、吉屋信子、川口松太郎、佐藤春夫ら22人
が「文士連隊」を編成して、漢口(湖北省武漢)に向かおうとしていた。翌28
日、飛行機事故をも恐れず、第1回全日本学生グライダー競技大会が上諏訪で開
催。事故打開策のまとまった9月12日には、帝都防空演習が5日間にわたって
行われ、灯火管制が始まっている。

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 事故の原因については、当時の朝日新聞が伝えている。「上空には所により濃
淡ある霧が発生して居りまして相当視界が不良であったのと 接触せる後方機が
着陸復行のため上昇旋回に当り操縦席の関係上、右方に対する視野狭く且前方機
も又後方警戒困難にして、しかも両機とも未熟なる修業者の教育なりし等のため
他機に対する見張りが十分でなかったため」(桜井航空局技術部長・9月30日
付)。 地元にある法浄院(森ヶ崎観音)には、遭難者を祀る地蔵尊と合同位牌
があり、毎年8月24日に法要が持たれている。せめてもの救いである。

        (筆者は元朝日新聞政治部長・平成帝京大学教授)

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