■A Voice from Okinawa                       

~沖国大ヘリコプター事故を振り返る―終わらない沖縄の戦後 ~  

                           吉田 健正
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  学校や病院などの立ち並ぶ住宅街の真上を、大型ヘリコプターが軍用機特有の
轟音を立てて低空旋回し、タッチ・アンド・ゴー(反復離発着)訓練や急降下訓
練を繰り返す普天間海兵隊基地(Marine Corps Air Station Futenma)。まるで戦
時訓練の光景だが、戦争が止むことのない米国にとっては、「まるで」ではなく
、当然の戦時訓練なのだ。


◇閉鎖か県内移設か


  沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)は、1996年12月の最終報告で、
「今後5ないし7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後、普天間
飛行場を返還(注・閉鎖)する」と確認した。終戦後の強制的土地接収による基
地拡大とそれに伴う本島中南部の人口の過密化。爆音や事故の可能性を知りなが
ら多くの人が普天間基地周辺に移り住んだ。基地の危険性は、長年指摘されてい
たが、日米両政府は県の閉鎖・撤去要請を無視し続けた。ようやく両政府が腰を
上げたのは、1995年の米兵による少女強姦事件で県民の反基地運動が再燃したた
めであった。

 SACOの目的は、「米軍の施設及び区域を整理、統合、縮小」して「沖縄県
民の負担を軽減」することにあったが、普天間飛行場は県内移設の対象とされた

  あれから十年余が過ぎた。しかし、閉鎖・返還はメドさえ立っていない。県内
の反対により県内の代替施設が完成しないために、移設もできない、というのが
その理由だ。普天間基地が政府の予定通り本島北部東岸の辺野古に移設さ
れれば、同地域での事故や騒音公害だけでなく、漁業やジュゴンの棲む沿岸海域
への悪影響も懸念される。何より、移設は新しい米軍基地の容認にほかならず、
それが反対運動を後押ししている。

 危険きわまりない普天間基地を、米国はなぜ閉鎖しないのか。あるいは米本土
や米国領に移転しないのか。日本国内移転なら、日本の負担(「思いやり予算」
)で、終戦直後に建設された普天間基地の機能を高め、近代化できると考えたか
らだ。移転先の辺野古は、海に面するだけでなく、周辺にジャングル戦訓練場、
都市型対テロ射撃訓練場、爆撃演習場、強襲揚陸作戦訓練場、弾薬庫、大型軍艦
が寄航できる湾もある。これに新たに装備された海兵隊航空基地が加われば、米
軍にとっては、願ったりかなったりだ。


◇沖縄内移設にこだわる日本政府


  一方の日本政府はなぜ国内県外ではなく、県内移設に同意したのか。
  小泉純一郎首相は、2004年10月、沖縄の基地負担軽減に関する本土自治体の態
度を「総論賛成各論反対」と評した。沖縄の負担軽減には賛成だが、自らが移転
先になることには反対する、というのである。この点は、麻生首相が、「(沖縄
県内移設に決まるまで)多くの案が検討されたが、移転を受け入れてくれる県は
なかった」と確認し(「沖縄タイムス」、09年6月6日)、ケビン・メア前在沖
米国総領事も、「日本政府が県外移転は無理と判断した」「基地反対は沖縄だけ
ではない。原発、ゴミ処理場、工場なども同じだ」と述べている(同、09年7月1
5日)。

 普天間基地の県内移設にとどまらず、沖縄に在日米軍施設が集中しているのも
、米軍が主張する沖縄の「戦略的位置」によるというより、日本のこのような国
内政治上の理由が大きいものと思われる。
  終戦以来、日本本土の米軍基地が次々と閉鎖される一方で、沖縄が米軍要塞の
まま機能を維持し続け、朝鮮戦争やベトナム戦争における米国の前線基地として
活用されてきたのは、周知の通りである。1972年の本土復帰後も、戦闘機や輸送
機や偵察機が飛び交い、原子力潜水艦や航空母艦や輸送艦が寄航し、地対空誘導
弾パトリオット・ミサイル(PAC3)が持ち込まれ、中東攻撃の出陣・補給基地と
なっている。

 沖縄は「日米同盟」と核として位置づけられ、戦争(戦場)と隣り合わせる運
命におかれたのである。憲法で「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認
」を定めた日本が、世界最大の「思いやり予算」と在沖米軍を通じて海外で戦争
をしているようなものだが、沖縄以外の日本国内でそれを問題視する人はきわめ
て少ない。国民の意識の根底に、「日本」というより、単に「沖縄」の問題だと
いう考えがあるからだろう。「日米同盟」の恩恵を受けるのは本土、負担を担う
のは沖縄、という図式である。太平洋戦争で沖縄が「皇土=本土」の防壁と位置
づけられ、戦後は沖縄が米軍占領下であえぐ中、本土が平和憲法の恩恵を受けつ
つ「朝鮮特需」で経済発展したのと同じ構図だ。


◇日米関係の「いびつさ」を浮き彫りにしたヘリ墜落事故


  しかも、2004年8月13日に大型輸送ヘリコプターCH-53Dが沖縄国際大学の建物
に接触して墜落・炎上した事件は、普天間海兵隊飛行基地の危険性とともに、県
民不在の日米関係の「いびつさ」を浮き彫りにした。
  同日午後2時過ぎにヘリが墜落した大学正門近くの1号館(学長室のある本館
)は、基地の滑走路から数百メートルしか離れておらず、周辺にはガソリンスタ
ンド、民家、アパートビル、食堂、小中学校、保育所、駐車場、病院などが立ち
並ぶ。1号館隣りの樹木も焼けた。大破した事故機の回転翼、尾翼ローター、主
翼や尾翼が路上や小学校の近くや住宅街に、そして回転翼で削り取られたビル壁
のコンクリートの破片が住宅内にまで飛び散った。3人の搭乗員が負傷した以外
、奇跡的に大学本館内の職員や地域住民に人的被害はなかったものの、多くの住
民は、1959年に米軍ジェット戦闘機が民家と宮森小学校(石川市、現うるま市)
に墜落して死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人をだした事故
を思い出して震撼した。

 加えて、事故直後の現場は、沖縄のおかれた状況を象徴するものであった。海
兵隊隊員が次々と基地のフェンスを乗り越えて現場近くにかけつけ、ピストルを
携帯した軍警と思われる兵士たちが、監視員と黄色いテープで本館周辺を強制封
鎖した。宜野湾市の消防車が到着、消火作業を始めたが、一〇分後に鎮火すると
、米軍は消防隊員を追い出して現場検証を拒んだ。県警の立ち入りも拒否にあっ
た。米軍は、事故の証拠物件となるはずの機体や破片も持ち去った。まったく治
外法権の植民地扱いである。

 ところが、都内のホテルのテレビでオリンピック観戦をしていた「夏休み中」
の小泉首相は、墜落事故に対処しようとせず、主権侵害に抗議することもなく、
再発防止策や当面の飛行停止を米軍に強く働きかけて欲しいと上京した稲嶺沖縄
県知事との面会も断った。中央メディアもオリンピック報道に集中し、国民もオ
リンピックに浮かれ、ヘリ墜落にはほとんど関心を示さなかった。事故直後、大
学や地域住民に謝罪に立ち回ったのは那覇防衛施設局(現防衛省沖縄防衛局)の
職員、事故による損害を補償したのも米国政府ではなく、日本政府であった。事
故機のパイロットの所属・氏名は明らかにされず、事故責任が問われることもな
かった。


◇終わりなき戦後、終わりなき戦闘訓練


  佐藤栄作首相は、昭和37(1962)年、沖縄の祖国復帰は「国民の念願」だが、
総理大臣としては、「わが国の安全保障をまず第一に考えます」と述べた。その
3年後の8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦
後は終わらない」という名言をはいた佐藤が終わらせたのは、「わが国の戦後」
であって、沖縄の戦後ではなかった。69年11月、日米は、「日本を含む極東の安
全を損なうことなく沖繩の日本への早期復帰を達成するための具体的な取決め」
について協議に入ることを合意した。その結果実現したのが、強大な米軍基地つ
きの沖縄返還であった。「わが国の安全保障を守る」という担保つきの返還だっ
たのである。
 
米国の戦争は止むことがない。米軍基地がある限り、沖縄における戦闘訓練も
止むことはなく、沖縄の戦後が終わることもないだろう。日本国民はそれを座視
・黙認するのだろうか。墜落事故から5年以上たった現在も、基地周辺の普天間
上空では、危険なタッチ・アンド・ゴー訓練と高爆音の旋回飛行が続いている。

                   (筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

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