■ 落穂拾記(8)
田中角栄 「疑惑」の残照 羽原 清雅
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経済学者の伊東光晴さん(京大名誉教授)が2月15日、日本記者クラブの講
演中に心筋梗塞で倒れた。筆者はたまたま、「原子力発電の経済学」をテーマと
する講演を聴きに行った現場でのことであり、予想外の事態だった。声も表情も
84歳の年齢を思わせることなく、話の内容も蓄積ある論理で、歯切れのいい批
判だった。ただ、顔が紅潮して相当ハイテンションだった、とあとからそんなこ
とを感じさせたのだが、その講演の冒頭での、柏崎刈羽原発を巡る「新潟日報」
の報道がきっかけになって、この稿を書きたくなった。
じつは筆者が新聞記者の第1歩を踏み出したのは新潟で、1963年の大豪雪、
翌64年の新潟大地震、65年の発覚時の新潟水俣病、塚田十一郎知事の選挙が
らみの贈賄事件など、4年間にわたって災害、事件、政争など全国紙の一面、社
会面を飾るような記事を取材する立場に恵まれた。トロッコにも至らない記者生
活のなかで、「新潟日報」は毎朝、恐い存在だったことも懐かしい。
柏崎刈羽原発の建設計画が発表されたのは69年、ひそかに土地売買の動きが
始まったのはそれ以前のことであったが、筆者が東京に転勤して間もない時期だ
ったので、知る由もなかった。
伊東さんの話はこうだ。東京電力が柏崎刈羽原発を建設する際に地元選出の元
首相・田中角栄に4億円のカネが動いた、これを書いた新潟日報はエライ、とい
うのだ。どういうことかなどくわしいことには触れず、約40分後に倒れたのだ
が、筆者はこのカネをめぐる事実を知らないでいたので、興味をそそられた。
それは、2007年7月の中越沖地震によって、この原発7機全部が停止した
際、新潟日報社が1年間にわたって紙面企画を続けるなかで掘り起こした事実だ
った。ちなみに、この企画は『原発と地震-柏崎刈羽「震度7」の警告』(講談
社)にまとめられている。
東電が「活断層」の存在を隠し、「安全神話」をカネとともにばら撒いていた
ことなど、福島原発事故に先立つこの警鐘を、なぜ早くから予知しようとしなか
ったか、どうしてその内情を掘り起こして、さらに広範な世論に出来なかったか、
報道に関わってきた者として申し訳ない気分である。さらに、こうしたウラの動
きが安全の確認を黙殺した結果、被害の拡大につながったとするなら、政治家と
カネの昔ばなしにとどめるわけにもいくまい。
ただ、ここで取り上げたいのは原発自体のトラブルではなく、伊東さんが指摘
した「角栄の政治献金」、正しく言えばウラガネが動いたことについてである。
2007年12月13日付の同紙は、「柏崎原発用地の売却益 4億円 田中
元首相邸へ 総裁選前年 ヤミ献金流用か」との見出しで大きく報道している。
これは元首相の地元筆頭秘書で『国家老』といわれた実力者本間幸一(当時85
歳)が、同紙記者に明かしたものである。情報としては、第1級品の事実といえ
る。 同社の記事をもとに簡単にまとめると・・・。
かつて柏崎は、地元からスタートした日本石油(現新日本石油)や理研(理化
学研究所)関連企業などを軸に石油の街、機械工業の地を形成して繁栄していた
が、戦後は廃れる一方で、広い砂丘地帯でつながる隣接の刈羽村とともに、過疎
化・豪雪・財政難にあえいでいた。どん底状態から抜け出す発案が原発設置の誘
いであった。
1969年に両市村の議会が「地域開発促進に貢献する」原発誘致を決議する
とすぐ、東電は9月に砂丘地での建設計画を発表する。だが、その裏ではすでに
建設用地の売買が進行していた。
刈羽郡越山会会長で刈羽村長から県議になった木村博保が言うには、東電中津
川第1、2発電所の建設に尽力した先輩県議に誘われて、東電本店で筆頭常務に
会い「原発がないと日本経済は持たない」と理解と協力を求められた、と述べて
いる。
だが、その木村はすでに2年半前の66年8月、建設予定地の一部52ヘクタ
ールの砂丘地を北越製紙から買い取っていたのだ。そこにも、利権がらみのにお
いもするが、そこまでは追いかけていない。そして、その所有権は3週間後、角
栄の土地ころがしの際にいつも登場するユウレイ会社「室町産業」に移る。
それが、5ヵ月後にはまた登記錯誤として木村のもとに所有権が戻されていた。
当時村長だった木村は、砂丘地はモモの栽培など農業振興のための入手で、ほ
かから買われそうだったので、信用金庫から借りた私費を投じたが、金利が持ち
こたえられず、角栄に購入を頼みこんだ、ところがそのころ、幹事長だった田中
はやはり地元で問題化していた「室町産業」の信濃川河川敷の買い占め問題(後
述)を国会で追及され、これ以上角栄に迷惑をかけられないので、戻してもらっ
たのだ、そうである。
木村が約2000万円で買い取ったこの土地はその後、木村から東電に20倍
の約4億円で売却されている。
木村が砂丘地を買い取った66年ころには、東電進出の話はすでに流れており、
不動産業者、建設会社、地元有力者らが辺りの土地を買いあさっており、これは
登記簿が証明しているという。土地値上がりを見込んだ投機であり、東電はこの
高騰分を電力料金なり、政府からの助成金などでまかなえばよく、要はこのツケ
は国民の負担に回されたわけだ。
では、「室町産業」が登場する背景として、田中はどう関わったのか。地元選
挙区、ということ以上の関わりがある。新潟日報は婉曲ながら、「理研」がらみ
と見る。田中は戦前、田中土建工業を興して理研コンツェルンの理研工業などの
仕事で収益を上げるとともに、理研グループを率いた大河内正敏に引き立てられ
た経緯があるが、田中はその理研ピストリング工業(現リケン)会長で東電顧問、
電事連副会長だった松根宗一との接点があった。
また松根は、1963年という比較的に早い時期に柏崎市長小林治助に原発誘
致を勧めている。小林はもともと田中に近いうえ、原発の受け入れ推進に政治生
命をかけたといわれた人物だった。田中首相の時代になった1974年6月には、
電源3法が成立する。これは小林市長の発案とされるもので、原発立地を受け入
れた自治体には多額の交付金を配分しようという「アメの政策」だった。
角栄がどのような関心と関連を持ったかは、今となっては解明できそうにない。
ただ、結論として、角栄の地元代行者でもあった前述の本間幸一が1971年、
木村と一緒に東京・目白の田中角栄邸を訪ね、現金で4億円を渡した、という、
まさにその当事者の証言で理解できよう。さらに木村によると、田中邸に届けた
4億円のうち2-3割がのちに田中側から戻されたという。いわば、利息や手数
料などの必要経費が返却されたということだろう。田中角栄のこのような錬金術
は、各方面で行われている。
筆者がはじめてこの問題に接しえたのは、1964、5年の新潟県議会での社
会党県議小林寅次、志苫裕、木島喜兵衛らが追及した新潟市郊外にある鳥屋野
(とやの)潟の土地・水面買収工作の件である。
この鳥屋野潟付近は、今では公園、野球場、図書館、さらには団地や住宅街な
どができて、大きな憩いの場になっているのだが、その裏には犯罪になり得なか
った歴史的な大疑惑があった。だが、そうした事情は語り継がれることもなく、
地域の変貌と同じように、すっかり忘れられている。
この鳥屋野潟と隣接の蓮潟一帯は信濃川の葦の生える遊水池で、付近には人家
も少なくさびしい土地だった。170ヘクタールほどの土地・水面は農民たちの
共有のものだったが、地元不動産業者が坪5、60円で買いあさり、1961年
ころに、その4割が日本電建によって2億円で買い取られた。このころの日本電
建のオーナー社長は田中角栄自民党政調会長で、この会社はのちに角栄の刎頚の
友小佐野賢治に譲られている。
そしてまもなく、蓮潟地区などの一部が、2億数千万円で新潟県と市に買い取
られている。当時の新潟県知事は、田中の政界進出時に手を組んだ塚田十一郎
(元自民党政調会長、郵政相)。社会党県議らの県議会の追及ではシッポはつか
めなかったが、明らかに疑惑は残された。
一方、鳥屋野潟地区については、日本電建から「新星企業」「関新観光開発」
「浦浜開発」といった角栄ファミリー企業というかユーレイ会社の手を転々とし
たあげく、1981年新潟県は県立公園を建設することを決め、この地の所有者
たち、つまり大手の角栄がらみ企業などに巨額のカネを支払うことになった。
この類似例が、前述した信濃川河川敷問題である。
問題の「室町産業」は1964、5年ころ、長岡市の73ヘクタールもの信濃
川の河川敷、民有地と国有地占有権を5500万円で買収した。田中が池田、佐
藤両内閣の蔵相を経て念願の自民党幹事長になったころである。
洪水になれば水につかるような土地で、利用しにくい地区だったが、買収後に
流量を調整するための堤防(かすみ堤といわれ、堤防に枝状に切れ目を設けて洪
水時にはそこから遊水池に水を逃す仕組み)が造られることになり、さらにその
工事中に本格的な堤防(高さ3メートル、延長2キロ)に設計が変更されたのだ。
しかも国道8号線のバイパスが通ることになり、1971年に完成すると、この
広大な土地は高騰、さらに河川敷としての指定から外され、一部は長岡市の公共
用地として処分されるが、その一方で角栄ファミリー企業の長鉄工業、室町産業
に巨額のカネが流れ込んだ。
このほかにも、国会などで疑惑が追及されたケースは少なくない。
*新潟大学移転幼稚問題: 1961年、日本電建が買収した土地を、新潟市開
発公社に4倍強の価格で売却して、のちに問題化
*千葉・稲毛公務員住宅用地転売問題: この問題をめぐり、田中首相と小佐野
国際興業社主との関係が国会で追及
*辻和子邸用地の国有地化問題: ファミリー会社・新星企業取得の新宿区内の
土地が田中と親密な辻名義となり、さらに国有地に転売されて国会で追及
*大阪光明ヶ池用地高騰問題: 日本電建がらみの日本住宅公団用地(大阪・和
泉市)の湿地が、1年半で10倍に高騰したとして国会で追及
*虎の門国有地の安値払い下げ問題: 時価30億円という国有地が田中蔵相時
代に、小佐野国際興業社主系列の企業に11億円で払い下げられて国会で追
及
ここに挙げたのはおそらくごく一部であり、ほかにもまだまだあると思われる。
田中は国会に当選して間もない1949年、法務政務次官のとき、炭鉱国家管
理疑獄で逮捕されるが、獄中立候補で再選、51年6月に無罪となっている。こ
れが、法網に引っかからないための慎重さを身につけさせることになったに違い
ない。また、戦前の土建業経営の手腕、1級建築士としての知識は、緻密に戦略
を練ることに役立っていよう。もちろん、そこには政治家として、政権と与党の
幹部としての肩書きがモノを言っている。
田中角栄の「うまさ」を見ていくと、わかることがある。
1.早め早めに格好の「情報」をつかみ、物権自体の付加価値を読み込んで収益
を増し、さらに「節(脱)税」策を考える。
2.持ち込まれる多方面からの情報がいかがわしいものであっても、まずは排除
せずに親しく接し、事情を掌握し、かいくぐれる道があるかどうかを検討の
うえ、取捨選択する。
3.手をつけるにあたり、こうすればああなる、という多様なシミュレーション
を考える。
4.相手の弱み、本音、期待を調べ、妥協点を見出して、打診をする。
5.税制、法的手続きなど各面での専門家筋に当たり、法律に引っかからない
「第3の道」を編み出す。
6.時間がかかる問題でも、将来的に展開可能かどうかを読み、着実な手を打っ
ていく。
7.みずからが介在しないような、複雑な仕組みを考え、口の堅い代行者を置く
か、事情を知らずに動く人物を使う。
8.ユーレイ的会社による物権ころがし、カネとヒトによる複雑なころがしを組
み立て、周辺に気づかれない手法をとる。
9.収益の配分には気を配り、恨みを生まないよう独占することなく、相手側も
納得するだけの対応をする。
10.要所要所に信頼の置ける人物を確保し、情報のアンテナとして確度をつか
む。
11.狙いの物権は概して公共に関する大規模なものとし、関係官庁内の情報と
人脈をつかみ、法的な問題の有無、将来の計画や展望などをひそかに調べる。
12.問題が生じた場合、関係官庁などによって正当性が保証されるよう手を打
つ。
13.批判が出るような状況や党派、関係者などをある程度つかんでおき、その
弱みや妥協材料を考えておく。また、問題化しないよう、あるいは問題化し
てもいいように、司法関係も含めてニラミの効く幹部らを配置、ポストや処
遇などの彼らの希望などを先読みしておく ――といった点である。
したがって、「疑惑」を持たれて追及されても、「法廷」にまでは至らないで
すんできた。ただ、海外のカネであったロッキード事件については、そこまでの
事前の配慮や準備が届かなかったのだろう。そのぬかった点では、無念であった
に違いない。
角栄的手法は「カズ・カネ・情報」といわれる。数の力は、多数派を形成する
ことで権力と発言権を握らせ、支配体制を維持させる。カネは手元にとどめず、
右から左に流す。
もちろん、みずからも握るのだが、カネが広範に流れるほど影響力をますし、
擁護的共犯意識を持たせる。
この独り占めしない「気前のよさ」が、皮肉にも被害者でもある庶民を酔わせ
るのだ。情報はカネの道を開くだけではなく、組織の維持に役立ち、情報と配分
を求めてひとが集まり、また支配の方向やノウハウを教える。そこに、田中角栄
の独特の才覚が生かされてくるのだ。
ところで、田中角栄に対する見方は、礼賛型と非難型に二分しているように思
える。政治記者でも、礼賛型の本を書き、論評する人が少なくない。ただ、そう
した礼賛に傾いた「角栄伝説」が歴史的に語り継がれ、定着していくことには抵
抗がある。政治の根底には一定の倫理観が息づいていなければならない。
法網をかいくぐるかの金脈作りは、「犯罪」とはならなくても、またロッキー
ド事件で断罪済みであっても、国民にツケを回す土地ころがしなどの事実は切り
捨てるべきではない。おなじように、田中時代の政治自体についても、それがど
うであったか、どんな影響結果をもたらしたか、プラスとマイナスの両面から見
定めるべきだろう。
筆者も、田中元首相の才覚と実力が抜きん出たものであったし、魅力ある政治
家であるとは感じている。創造的な智恵、相互利益のための工夫、広範な思考力、
国民へのアピール手法などが劣化した昨今の政治家群には全く見られない力量が
あった。ある意味では、今日のような学歴と「枠」にはめ込まれなかったことに
よる独自の努力と自己開発が、田中を作り上げたのかもしれない。
小沢一郎の手法をもって、田中の後継者風に見るムキもあるが、錬金術的技法
は類似していても、決してそのレベルではない。メディアは小沢について、その
器(うつわ)の買い被りというか、枯れ尾花におびえるというか、冷静とはいえ
ない。
政治記者になりたてのころ、佐藤派の末端を担当し、また幹事長番の手伝いと
して、目白の田中邸に通って、ご本人の話をじかに聞くチャンスがあった。秘書
の報知出身の早坂茂三は、筆者が新潟支局経験だったことで、また共同通信出身
の麓邦明、そして佐藤首相秘書で産経出身の楠田實は筆者の担当していた保利茂
とも親しかったことで、それぞれに駆け出しの筆者に体験談を話すなど、良く接
してくれていた。その後は、田中と保利の政治的スタンスが対立したこともあっ
て、保利側の取材に集中したのだが、田中の魅力は記憶に良く残っている。
それでも、彼の所業については、礼賛に傾いてはならない、という印象が強い。
伊東先生の講演は、もういちど政治家の根幹のようなものを考えさせてくれた
ようだ。幸い、先生の手術は成功され、意識は回復し、おしゃべりも出来る状態
だという。原発の抱えた問題点について、残された部分のお話をまた伺いたいも
のである。
(筆者は帝京平成大学客員教授、元朝日新聞政治部長)
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