≪連載≫

■ 海外論潮短評(48) 食糧問題の地政学 ― 21世紀食糧戦争入門

                             初岡 昌一郎
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アメリカの国際問題専門誌『フォーリン・ポリシー』5/6月号が、食糧問題
大特集を組んでいる。その特集の柱となっているのが、以下に紹介するレス
ター・ブラウンの論文。彼は、有名な「ワールド・ウオッチ」研究所の創始者で
あり持続的発展という考え方のパイオニアである。また、環境問題に関して多数
の啓蒙的論文を書いており、国連環境賞など多数のアワードを受賞してきた。

『エコ・エコノミー』など多数の著書が邦訳されている。『誰が中国人を養うの
か』で一石を投じて以来、食糧危機について警鐘を乱打続けている。


◇食糧価格暴騰の影響は平等ではない


世界の食糧価格は75%も上がった。普通のアメリカ人にとって大問題ではな
いかもしれないが、多くのインド人にとっては致命的である。価格上昇のインパ
クトは決して平等ではない。所得の50-70%を食費に当てている20億人の
貧困層にとっては、この食糧価格高騰は死活問題だ。最近の革命、暴動、政治不
安を生み出す直接かつ最大の原因となっている。

2011年3月現在、国連食糧価格指数は8ヶ月連続で上昇し、過去の史上最
高値を更新し続けている。今年は収穫高減少が予測されており、食糧が世界政治
の駆動力となりつつある。中東とアフリカのかなりの国の政府が食糧高騰を引き
金に崩壊し、多数の政府が揺らぎ始めている。不足が常態となると、食糧地政学
が一変する。

最近まで食糧価格の暴騰は一時的なものとみなされて、あまり問題視されなか
った。価格はたいてい短期間に食糧安に逆戻りし、20世紀後半における各国の
政治的安定を支えてきた。21世紀になっても世界不況が需要を抑え、好天候が
豊作をもたらしている間は価格が安定していた。歴史的にみると、食糧価格の高
騰は天候不順による不作に基因している。インドにおけるモンスーン不到来によ
る水不足、アメリカ中西部への熱波襲来、旧ソ連の旱魃などがその好例である。

今日の騰貴は需要の拡大と生産の制約という、異なる二つの動向によって惹起
されている。まず、人口増、収穫に悪影響を与える気候変動、灌漑用水不足が構
造的な要因となっている。他方、食卓に着く人口が毎晩219,000人増加し
ている。

より懸念すべきは、食糧不足を緩和する能力を世界が失いつつあることだ。過
去の高騰時には、最大の穀物生産国アメリカが潜在的な破滅を回避するために世
界を誘導する力を持っていた。20世紀中頃から1995年までのアメリカは余
剰農産物を抱えており、増産を可能にする休耕地も持っていた。インドが不作に
見舞われた1965年、ジョンソン政権はアメリカの小麦生産量の5分の1をイ
ンドに送り、飢饉を回避した。この安全弁は最早失われており、再発動は不可能
である。


◇需要の拡大に反して供給能力の低下が顕著


需要サイドでも圧力が高まっている。まず人口の増大。人口は毎年約8億人増
えているが、そのほとんどは開発途上国。世界人口は1970年以後2倍となっ
ており、今世紀半ばには90億に達する。さらに、所得の増加に伴い食品連鎖の
階段を上り、肉類、乳製品、卵の消費が加速化している。中国や新興諸国で中産
階級が増えるにつれ、穀物集約型の肉類に対する需要が爆発する。現在、アメリ
カ人はインド人の4倍の穀物を消費しているが、その差は肉の消費量による。

アメリカの穀物余剰消滅に拍車をかけているのが、自動車燃料用エタノール生
産へ穀物転用を奨励する多額の補助金だ。アメリカにおいては、穀物増産よりも
早い速度でエタノール燃料に転化される穀物量が増大している。2010年にお
けるアメリカの穀物収穫高は4000万トンであったが、そのうち1260万ト
ンがエタノール燃料精製所に回された。石油がバレル50ドルを超えると燃料用
への転化が進むので、穀物価格が跳ね上がる。

原料に砂糖キビを利用しているブラジルはアメリカに次ぐエタノール生産国に
なっているし、EUは輸送用燃料の10%を再生可能バイオ燃料に頼る計画で、
いずれも食料用耕地の転用を進めている。

世界的な水不足と地下水位の低下、表土流出、気候変動の悪影響などの諸要因
からみて、世界的な食糧供給量は増大する食欲を十分に充たせるとは思われない。

灼熱の国サウジアラビアはこれまで地下水に頼って20年来小麦の自給自足を
続けてきたが、灌漑用地下水は枯渇してきた。まもなく輸入に100%依存する
ようになるだろう。全体的にみて、地下水位が低下している国に世界人口の半分
以上が住んでいる。

中東アラブ諸国では人口増加が続いているのに、穀物生産が頭打ちとなり、水
不足により生産が低下し始めた最初の地域である。シリアとイラクでも既に穀物
生産の減退が始っており、イエーメンもまもなくそれに続く。

インドでは農民が既に2000万基以上の井戸を掘っており、地下水位低下が
著しい。世界銀行報告によると、1億7500万人のインド人が地下水過剰汲み
上げに頼よった穀物生産で養われている。中国の小麦の半分とトウモロコシの三
分の一が生産される北部平原穀倉地帯でも、過剰な汲み上げがおこなわれている。
地下水が利用不可能になった時、これらの国の食糧対策は行き詰まる。

治山治水の不備が砂漠を広げ、過剰耕作と誤った土地管理が表土を流出させ、
穀物生産地の三分の一において生産性を低下させている。その結果、モンゴリア
やレソトでは、過去数十年間に穀物生産量が半分以下となった。北朝鮮とハイチ
では、大量な表土流出の結果、国際食糧援助がなければ大規模な飢餓が発生しか
ねない。文明は石油がなくとも生き延びるが、食糧備蓄がなくなれば存続できな
い。


◇食糧の国外調達が政治的な火種に


世界の食糧供給が逼迫する時代となり、各国は自国の狭い利益を確保するのに
躍起となっている。トラブルの最初の兆候は、穀物供給が需要に追いつかなくな
った2007年に現れた。穀物と大豆の価格は、2008年中頃までに3倍に跳
ね上がった。多くの輸出国は国内価格上昇を抑制するために、輸出を制限した。
小麦の主要輸出国の中では、ロシアとアルゼンチンがその方向に走った。第二の
米輸出国のベトナムは、2008年の初め数ヶ月間全面禁輸とした。

輸入国はパニックに陥った。フィリピンなどの輸入国は長期の穀物購入協定を
交渉したが、輸出国が将来の需給関係予測から強気に出て纏まらなかった。必要
な穀物を市場で購入できなくなるのを恐れ、サウジアラビア、韓国、中国などの
外貨に余裕のある国は他国に農地を求めるという異常な行動によって、供給を確
保しようとしている。ほとんどの農地取得はアフリカで行なわれ、数カ国政府は
穀物用農地を1エーカー1ドル以下で長期にリースした。その中には、国連世界
食糧計画からの援助で何百万人が支えられてきたエチオピアやスーダンが含まれ
ている。

2009年末までに、数百件の外国農地取引が行なわれた。2010年の世界
銀行報告によると、合計1.4億エーカーの“土地略奪”が行なわれた。これは、
アメリカにおける小麦とトウモロコシの農地を合算した面積を上回る。この土地
取得は水利権を含んでいるので、下流諸国の水問題に影響を及ぼす。例えば、エ
チオピアやスーダンでの灌漑のためにナイル河上流で取水すると、エジプトの水
量が減少する。こうして、ナイルの水政治学はさらに複雑化する。

紛争の潜在化は水だけではない。多くの土地取引は秘密裏に行なわれている。
ほとんどのケースで、売却された、あるいはリースされた土地は農民によって利
用中のものである。しかも、土地耕作者が相談を受けておらず、知らされていな
いことさえある。多くの開発途上国の農地は公的な土地所有権制度がないので、
土地を失った農民に法的救済の道がない。

外国による土地略奪に対する地方住民の敵意は普遍的に見られる。2007年
に中国が250万エーカーの土地リースをフィリピン政府と調印した時、農民を
先頭とする国民の怒りに直面した政府は協定の棚上げを余儀なくさせられた。同
様な憤激が、韓国商社がマダガスカルで300万エーカー以上の土地を取得する
権利の実行を阻止している。


◇外国農地取得の政治的経済的危険


現地での反対が国内的国際的な政治紛争に転化する危険が大きいだけでなく、
経済的な利益も期待通りには実現しないだろう。これらの土地取得は、500億
ドルの潜在的農業投資を開発途上国にもたらすと計算されている。しかし、農産
物を市場に届けるのに要する近代的下部構造は、ほとんどのアフリカ諸国に存在
しない。

海外向け農業生産のためには、インプットを海外より持ち込み、アウトプット
を持ち出さなければならない。近代的農業は、各種の農機具を必要とするが、こ
れらを国外より持ち込む後に運搬手段だけではなく、教育や訓練が必要だ。器具
や肥料を農地に届け、農産品を輸出するのに必要な港湾や道路の建設には巨額な
費用と長い年月を要する。世界銀行は、取得された用地の37%のみが穀物生産
に利用されると予測している。大部分はバイオ燃料や産業用生産物に振り向けら
れるだろう。

仮に取得された農地の利用プロジェクトが成功したとしても、誰が利益を得る
のであろうか。農機、肥料、農薬などのインプットがほとんど国外より運び込ま
れ、全ての産品が海外に持ちだされるとすれば、地元経済に寄与するところは少
ない。地元民に若干の雇用をもたらすかもしれないが、近代農業は機械化が進ん
でいるので、雇用効果は少ない。スーダンやモザンビークのような貧困国は既に
餓えている国民のために用いる土地と水をさらに失い、食料がさらに不足し、政
治的不安定が深化するだろう。富裕国と貧困国の格差はさらに開き、その姿がま
すます明白になる。

世界最大のシカゴ市場を経由せず独自の調達を生産国から行なうために、韓国
が国策公社を設立した。中国、日本、サウジアラビア、などの主要輸入国がこれ
に続くと予想され、農産物世界市場における競争は激化の様相を呈している。中
国は既にアメリカ農産物の主要輸入国であるが、豊かになった中国の消費者は農
産物をアメリカの消費者と激しく奪い合う事になるだろう。食糧ナショナリズム
は富裕国にとって食糧を確保するのに役立つかもしれないが、世界の食糧安全保
障には逆行する。


◇危機の深化を回避するために緊急の行動を


国連機構の一翼として創設された世界農業機構(FAO)は、グローバルなデ
ータを収集、分析し、技術援助を提供している。しかし、適切な食糧供給を確保
する機能がない。国際的な農業交渉は市場アクセスをめぐるもので、アメリカ、
カナダ、オーストラリア、アルゼンチンなどが、西欧や日本に保護された市場を
開放するように要求してきた。

しかし、今世紀に入ってからは、市場へのアクセスよりも、市場への供給力が
問題となっている。食糧の過剰ではなく、不足が世界政治の新たな焦点となった。
食糧援助の中心は新設の国連食糧計画(WFP)が担っており、年間40億ドル
の予算で約70ヶ国において活動している。だが、国際的な調整連携はほとんど
ない。

ストックが乏しくなり、気候変動が激しくなるにつれ、リスクが増大している。
より少ない水でもっと多量の穀物を生産しなければならない。いま肥沃な土壌を
保存する手をうたなければ、多くの農地が失われてしまう。これは農民だけの力
ではできない。戦時的なスピードで気候安定化をさせ、また世界人口をこれまで
以上に抑制しなければ、食糧価格の暴走を食い止められなくなる。2011年の
食糧危機を今後常態化させないために、今や行動すべき時だ。


◇コメント


食糧問題は、これまでも本欄で再三取り上げてきているが、本稿は国際政治的
な側面に重点が置かれているので、他の側面への言及はかなり省かれている。ま
た、筆者は必ずしも農業問題に精通しているのではないので、農業自体の抱える
諸問題への指摘は掘り下げられてはいない。また、結論の行動を呼びかけがやや
粗雑で説得力に欠ける印象を受ける。

食糧問題を国際政治的にみると、主として三つの側面があると思う。
第一は、飽食と飢餓が同時的に存在している事。前者は主として先進国で医療
費の急増につながる成人病の原因である。後者は、貧困と所得格差増大という経
済的な不公正に原因がある。これまでの国際援助はあまり効果がないだけでなく、
逆作用を伴ってきたので、抜本的な再検討が必要。政府支出の削減と公共部門の
縮小というワシントン・コンセンサスに基づく国内・国際政治が貧困と格差の増
大を招いた。その転換が求められる。

第二に、政治家・財界・官僚・学者などのエリート層が、農業の犠牲において
工業的利益を優先する、バランスに欠ける主張や理論を展開してきた事。彼らと
そのロビーが主要国政府と国際機関を牛耳ってきた。工業開発やそのための研究
に惜しみなく巨額な資金が注ぎ込まれた反面、農業は無視・軽視され、バイオ関
連を除くと、農業向け研究教育機関は廃止、縮小が相次いだ。環境や安全、有機
農業に焦点を置いた新たな農業開研究と開発振興策が不可欠になっている。

第三に、これまでの農業と食糧をめぐる国際政治の重点が、市場開放にのみ向
けられてきた。3年前のG8洞爺湖サミットやその後のローマ世界食糧サミット
やG20サミットの声明が、危機は「市場統合が不十分である」よると繰り返し
ている。

真相は、市場統合と貿易の無限定な自由化から飢餓と貧困が拡大しているのに。
日本で今問題化しているFPPなどの市場開放策は、食糧安全保障にどのような
危険を孕んでいるのかを視野に入れているとは思えない。開発途上国の政治が食
糧危機で不安定化しており、国際政治の根幹を揺るがし始めているので、やがて
先進国政治にも波及せざるをえない。

          (筆者はソシアルアジア研究会代表)

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