■ 『体験によって歴史をみる』
~1960年安保から1989年の東欧激動まで~

    スピーカー 河上民雄  (元社会党衆議院議員)
     ゲスト   篠原浩一郎 (元社学同委員長)
            小島  弘 (元全学連副委員長) 
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 50年前の6月19日というのは、1960年、日米安保条約への賛否が国論
を二分し、激しい与野党対決の末、国会で同条約が自然成立した日です。それか
ら50年『体験によって歴史をみる』~1960年安保から1989年の東欧激動まで~
  というテーマで公共哲学カフエとメールマガジン「オルタ」が共催し、河上民
雄氏とゲストの篠原浩一郎氏・小島弘氏に歴史体験を東京工業大学・田町キヤン
パスで語って頂きました。      (文責・オルタ編集部)

■【河上民雄】
  もう50年前のことで、ついこの間のことのように思われますがよく考えます
と、日清戦争が終わってから1945年8月15日の無条件降伏までが丁度50年です。
そのような感覚で当時を振り返ってみます。ただ、あとから研究したり資料を
見て考えたりしたりした部分は、出来るだけ避け、体験にしたがって歴史を見る
というスタンスにしたいと思います。

 1960年安保から1989年の東ヨーロッパ、東欧激動までということで、まず、19
60年安保のころ私はどういう立ち位置にあったかといいますと、私は昭和20年代、
結核を患い、せっかくの教師の口もあきらめて翻訳に取り組み、1952年には岩
波現代叢書でG.D.Hコールの『イギリス労働運動史』(林健太郎・河上民雄・嘉
治元郎共訳)を訳出しました。大学の職を得たいと思っておりましたが、父が政
界にカムバックし昭和27年の夏(1952年8月26日)には右派社会党の委員
長に推されました。そのとき父は「委員長は私にとって十字架であります。しか
しながら十字架を負って死に至るまで闘うべきことを私は決意したのであります」
という有名な受諾演説をして「十字架委員長」というニックネームをいただきま
した。

 その受諾演説は、日労系トリオ(河上、三輪寿壮、河野)のひとりの河野密さん
が原稿を書き、最初の出だしだけはその通り話していましたが、そのあとはもう
即興で話すのです。終わったあと原稿を書いた河野さんが河上先生はどうも即興
で演説したほうが良いと、やや興奮気味に語っていたのが今も印象に残っていま
す。それで私が父に「ああいう偉い人にいつまでも原稿を書いてもらうのは申し
訳ない」と言いましたら「じゃあお前書くか」というので、じゃあ私が書きまし
ょうということになって、それから、左右社会党が1955年の10月に統一されるま
での3年あまり、もう本当に24時間父のそばにいて一瞬のくつろぎもないような
緊迫した気持ちでやっていました。

 1955年(昭和30年)10月の党大会で統一が完成し父が顧問になり、いったん前線
から退きましたので、私は秘書を辞めさせて貰い、大学に職を得たいと父に話し
ましたら、「お前、そう義理堅く考えなくていい、ともかく秘書ということで大
事なときにいてくれれば良い」ということでしたので、引き続き夜遅く父が帰っ
てきますと、必ず一緒にお茶を飲みながら30分以上いろいろと意見を交換したり、
影の草稿書きの仕事を続けておりました。ところが政治というのは一寸先は闇
で、大学の講義の時間割りのようにはいきません。おそらく父が一番私を必要と
する大事なときに私はそのそばにいなかったのです。

 1960年安保を考えますと、なんと言っても1956年12月鳩山一郎首相の後
を継いで総理になった石橋湛山氏が病気で倒れ、副総理だった岸信介氏が自動的
に総理になった、あのときが一つの転機で、そのころ鈴木茂三郎氏も、私の父も
これで日本の世の中が暗くなるような気がすると言っていたのを鮮烈に覚えてい
ます。

 岸氏が総理になったのは昭和32(1957)年の2月25日です。そして一次、二次
の岸内閣があって、1960年7月19日に彼は退陣します。その岸政権に安倍晋三氏
の父親の安倍晋太郎氏が、総理秘書官になり、岸首相に経済政策は何を訴えるか
と相談したら叱られて、それは担当大臣がやることで、総理大臣は「治安と外交」
それだけやればいいんだと言ったと伝えられています。ご承知の通り岸内閣が
倒れたあと、まさにその経済を旗印にして池田内閣が登場します。

 その岸信介氏が、治安と外交が大事で、それをやるのが総理大臣の仕事だと言
ったその内容はなにかというと、一つは、彼が総理になった最初の年の1957年に
「警察官職務執行法」(警職法)を提出したことです。もう一つは日米安保条約
の改定です。1957(昭和32)年の警職法の時は、警察官が昔のように、歩いてい
るアベックをいつでも誰何できるんだっていうような話になり、全国民的に大変
だということで結局廃案に追い込まれました。それだけに今度は日米安保改定に
一層強い執念を燃やしたように思われます。

 そんな状況でこの1960年を我々は迎えたのです。大事なときに私は学校の講義
などで父のそばに居なかったりしたのですが、あの国会闘争の状況を振り返って
みますと、どうも日米安保では、なかなか国会論議が盛り上がらないという声が
多く、それに代わるものとしていわゆる国民運動に社会党は力を入れたんです。
いったい国民運動とはなにか、あまりはっきりしないのですが、東大名誉教授の
石田雄氏によれば国民運動とは、総評系労働組合プラス市民だといわれています。

 その国民運動が国会の審議と平行して段々盛り上がってくるのですが、あのと
きの状況を冷静に見ますとやはり国民運動を社会党が指導しているというよりも、
実態は学生運動が先行していて、むしろ、社会党が学生運動をバックアップす
るという感じだった。その辺のことは、学生運動の指導者で当時活躍された小島
さんや篠原さんに伺いたいです。国会審議があまり盛り上がらなかったのは、旧
安保のままで良いとは言えず、特に、旧安保では内乱鎮圧に米軍が出動できるよ
うになっていて、これはもう完全に植民地状態の核心的な部分なんです。これを
変えるのがけしからんとはなかなか言えないこともあって、必ずしもそういう議
論はあまり深まらなかった。

 むしろ新安保の第五条と第六条の関係が追及の焦点だったと思います。旧安保
では、敗戦国として占領軍に止むをえず協力させられたのを、今度はやや主体的
にアメリカに日本が協力する、その場合に、領土としての日本の防衛ではなく、
いわゆる極東の平和と安全のために米軍が行動し、それに日本が協力する。これ
が非常に危ないんだというのが論議の中心で、それは事実、安保が終わったあと
もある意味では、ごく最近まで国会論戦の一つの絶えず底流として論議された問
題になります。

 私はのちに国会議員になり外務委員会に属しました。まさにアメリカが出動す
るときに日本と相談する、いわゆる「極東の範囲と事前協議」では、核持込みは
許されないというのですが、事前協議の取り決め(事前協議交換公文)をよく読
むと、米軍の方から申し入れがあって初めて日米の協議が始まるので、日本から
どうも怪しいからといってこっちから申し入れが出来ない仕組みになっている。
外務省の役人は、向こうから申し出がない以上核兵器の持込みはないものと信じ
ますというような答弁を繰り返し、これでは「神学論争」だと言ったことがあり
ます。

 しかしそれは、安保の年にはまだ必ずしも中心的議題になっていなかったので
す。もう一つ社会党が国民運動の名において、あの「1960年安保」で澎湃と盛り
上がった国民の声をまとめることが出来たのは、今から考えると本当に「奇跡」
です。あの年の一月に民社党が成立し、そして旧西尾派から社会党河上派に対す
る取り込みが激しく行われました。この「五月雨脱党」がいつまでも続くのです
が、これをどっかで食い止める最後の手段として、鈴木委員長が辞任したあとの
委員長選に河上丈太郎が鈴木委員長が指名する浅沼稲次郎(書記長)氏に対抗し
て出ることになるのです。

 この状態を考えますと、社会党は党内がバラバラで安保闘争の前面に立つこと
はとても考えられなかった。それまであれは右派の中の揉め事ぐらいに見ていた
総評も、とくに自治労はわりと河上派の影響が強かったので、自治労からも脱党
者が出ることになって、総評幹部もなんとかこれを食い止めなくてはということ
になった。河上派の中の動揺、統一を守るか、それともオール右派で行くかの派
内の時々刻々の論議については矢尾喜三郎氏の秘書高橋勉氏が書いた『資料社会
党河上派の軌跡』(三一書房刊)という立派な本がありますが、これを読むとそ
の苦悩ぶりが非常によく分かります。最終的には河上丈太郎、浅沼稲次郎とも河
上派なのですが、鈴木派が浅沼氏を鈴木氏の後継者に選び、五月雨脱党がずっと
続いていてその流れを止めるには、嫌だけども浅沼・河上の決戦をしなければな
らなくなります。

 3月24日にその日がきて浅沼228票、河上209票でわずか19票の差でしたから
浅沼氏にとっては大変なショックだったと思います。当時の状況では浅沼氏が鈴
木氏の後継者として指名されていて圧勝すると思われていたからです。ただ、投
票結果が発表されたその瞬間、河上がパッと立ち上がってかなり離れたところに
いる浅沼氏のところへ近寄って握手をし、激励をし、大会場は万雷の拍手に包ま
れます。鈴木氏も驚いて河上、浅沼のところに握手を求め三人が握手となります。

 最近、当時の新聞を見たのですが、その日の午前中に私の父は最高裁で、ある
裁判の公判に出ています。相手側は小野清一郎という有名な法学者で、このきわ
めて淡々たる態度が19票差になったのではないかと書いてありました。あとで
父に「なぜあの瞬間浅沼さんのところに駆け寄ったのか」と聞いたら「いやあれ
は、あの朝家を出るときに心に決めていた」「もし一刻でも遅れたら、逆に大分
裂の引き金になりかねないから」と父は言っていました。

 父の日記を見ますと翌日は東大の赤門前に「原書店」という洋書専門の本屋が
ありましたがそこへ行くと必ずそのあと「ルオー」という喫茶店に寄るのです。
このルオーの主人の森田賢さんは戦前関西で社会運動に加わっていて、戦後は画
家を目指していました。その店に、亡くなった樺美智子さんやそのグループの活
動家たちがよく来てライスカレーなどを食べたらしいです。父はそこへ必ず行き、
そのあと丸善へ行くのです。翌日ですね、普通だったら敗れたあとこれはもう
政治生活の終わりと感じられるときに従来どおりのコースでまず洋書店に足を向
けて、そしてルオーでちょっとコーヒー飲んでいます。

 ひょっとしたらもうこれで五月雨脱党は終わるという確信があったのかも知れ
ません。苦悩の中から生まれた賭けだったのかも知れません。それが3月24日で
す。例の強行採決が5月19日。その頃からですね、どうも安保条約の内容ではな
く、岸首相はけしからん、「岸を倒せ」という話にすり替わった感じで、ようや
く運動が盛り上がってきた記憶があります。本当に不思議なことに中央、地方を
問わず、社会党を脱党し民社党に行く人がこの党大会を境にピタリと止まり、父
の賭けが勝ったようでした。

 そして6月15日に樺美智子さんがそのグループと一緒に国会内に鉄の扉を押し
破って中へなだれ込んだとき圧殺される事件が起きました。そして17日に河上丈
太郎は、請願運動の形をとって連日三十万の人が国会を取り巻いていて、その請
願を受ける社会党議員団の真ん中に立っていたのですがその請願者の列に紛れ込
んでいた若者に肩から刺されました。

 本当は大変な命の危険があった状況だったのですが、父はやっぱり江戸っ子な
もんですから、そういうとき慌てふためくのは江戸っ子の恥だっていう意識があ
ったのか平然としていたらしいのです。のちにその様子をジッと見ていた衆議院
警備課の「栗山正行」というかたががそれに非常に感動して、どうも河上さんの
あの行動の背後にはキリスト教があるのではないかというので、それから銀座教
会の正午礼拝にずっと通い、やがて洗礼を受けるに至っています。そのとき私は
どうしていたかというと、実はその日、青山学院で講義があったのですが、胸騒
ぎを覚え、講義を終えるとすぐ国会議事堂へ飛んで行ったのです。もうかなり夕
刻が近づいていました。
 
  地べたにぺタっと座り込んでる学生の間をちょっと失礼と言いながら分け入っ
て国会議事堂に近づきますと彼方此方で「河上がやられた、河上がやられた」と
いう声を聞きました。とても心配でしたが、もうそのとき父は病院に運ばれたあ
とでした。この間の経緯を考えますと、社会党は民社分裂の影響である意味で党
がガタガタになっていたのですが、この3月24日の党大会で浅沼委員長、江田書
記長の新体制が決定した以後やや立ち直るという状況にありました。そして、学
生運動が先ず先行し、それを包含する形で社会党の請願運動がそのあとを追っか
けていき、一般市民の共鳴も非常に大きかった。

 最近、古川貞二郎という元官房副長官が出身地の地元の新聞に連載した回想が
本になって『霞が関半生記』(佐賀新聞社刊)いますが、それによると古川氏は
厚生省の若手官僚として、あのとき昼休みに抜け出してデモに参加していたと書
いてあります。この人は、のちに日本の政権中枢を握る官房副長官として村山総
理、橋本総理、小渕総理、森総理、小泉総理まで5代の総理に仕え、日本の権力
の継続性を担保する役を担ったのです。この古川貞二郎氏ですら仕事を離れてで
も行きたくなるような一般市民の共鳴があったということを忘れてはならないと
思います。

 そして6月15日が樺さんの死、17日に河上丈太郎がやられ、19日に新日米安保
条約の自然成立。そして7月19日が岸退陣となるわけです。アイゼンハワー大統
領の側近のハガティー氏の車が羽田でデモ隊に取り囲まれるという事件も起き、
フィリッピンまで来ていたアイゼンハワー大統領の訪日が取り止めになります。
その中で、あとから知った話ですが、岸首相は自衛隊をデモ隊鎮圧のために投入
したいと言うのですが、赤城宗徳防衛庁長官が自衛隊を使うことに反対し、同時
に柏村信雄警察庁長官も自衛隊の投入に反対して警察だけでやりたいと言ったの
で、結局岸首相が折れます。

 この柏村氏は、私が戦争末期に過ごした旧制静岡高等学校の先輩――のちの首
相の中曽根康弘氏も旧制静岡高校の先輩ですが、さらにその先輩のかたで、静高
の同窓会会報に載った柏村氏の訃報欄に経歴の一つとして警察庁長官として自衛
隊投入に反対したと出ていました。

 なにかそこに旧制高校のリベラリズムが、官僚のトップになってもやっぱり引
き継がれていた気がします。こうして、自衛隊の投入は阻止されますが、もしこ
こで自衛隊が投入されていたら、まさに1989年の中国の天安門事件と同じような
状況になったかもしれません。

 池田内閣に変わって、岸首相が軽蔑した経済政策で成功を収めます。この見事
な転換は私の考えでは他党のことですが、宏池会の役割がかなり大きかったと思
います。宏池会はいわゆる他の派閥と違って、池田勇人氏が総理になる前に池田
を総理にしたいという人たちが集まって作ったグループで、議員以外の人もかな
り入っていました。
  とくに、下村治氏は経済学者で大蔵省出身ですが、ケインズの『一般理論』を
ボロボロになるまで絶えず読んでいた人なのです。当時我々もよく覚えておりま
すが、経済学者の間では経済成長論争というのがあり、高度成長か安定成長かと
いうことで日本の大半のエコノミストは安定成長であったなかで、下村治氏ただ
一人孤立して高度成長論を唱えていました。

 もう一つ宏池会の特徴としては日中戦争の体験者が多かった。とくに宏池会の
事務局長を務めた田村敏雄という人は池田勇人氏と大蔵省の同期で、皮膚病に苦
しむ池田氏に代わって満州国に赴任、満州国に勤めていて、昭和20年8月9日のソ
連軍の侵攻にあって捕虜となり、シベリアに送られ、そして中国にも移されて中
国流の教育をずいぶん受けた。彼は日本に帰って新聞を見て池田勇人という名前
がある。あいつは生きてたのか。ご承知の通り池田氏は皮膚病で数年間人々から
死んだと思われていたのです。田村氏は日本へ戻ってきたのだが、もう今やおい
池田君って言える立場ではない。それで宏池会の事務局長になった。大平正芳さ
んも伊東正義さんもみんな興亜院の関係で、徳王という人を指導者にした蒙彊自
治政府に経済顧問として送り込まれた。そういう経歴からなにか中国・アジアに
対する詫びというか、痛みというか、後ろめたさがある人が多かったように思い
ます。

 そういう意味で他の派閥とは違う性格をもっていた。勿論、その後は普通の派
閥と変わりませんが、当初はそうであったような気がします。今日、振り返って
みますと我々は60年安保に大変強い印象を持ちますが、それから十年後というか
実際には1968年頃に始まり、1969年から大学生だけでなく高校生にまで低年齢
化し、波及する第二の学生運動ともいうべき70年安保闘争と60年安保の学生運動
とは繋がりがあったのか。あるいはまったく別のものから出発したのか。あるい
はその違いはなんであったのかこれはのちに、教えて頂きたいと思います。

 ただ違いは、ベ平連は一方で非常に広がるベトナム反戦運動ですが、このベト
ナム戦争反対というのが学生運動を先鋭化させる一つの要因であったような気も
します。そして、60安保のときにあれほど共鳴を示した一般市民が学生運動から
離れていった。とくに市民という言葉を使うと、我々は石田雄さんのような自覚
的な市民を連想するのですが、どうも60年安保のときはいわゆる庶民というか、
俺はお上とは関係ねえやっていう感じの人々まで巻き込んだ印象が強かったので
すが、もう70年安保のときは庶民はむしろ反学生運動で、社会党はあの学生運動
をかばうのかという感じで社会党にも批判が及んだのです。

 しかし、その一方では、70年安保を経て、このベトナム戦争はいわゆる「極東
の範囲」の重要性を具体的に再認識させる要因になりました。そういうなかで、
社会党を含めて運動家が腰を抜かすような事件が起こります。それは米中接近で
す。実を言いますと、私は1969年だったのですが、下田で開かれた日米民間人会
議に出て、そこでラムズフェルド氏と偶然にコーヒーブレイクのとき一緒に話す
機会がありました。

 出席している人の多くは、当時日本でも知名度抜群のパーシー上院議員やライ
シャワー博士の周りに十重二十重と集まっていましたが、当時はラムズフェルド
氏は全く日本では無名でしたので、彼に近づく人は一人もいなかったのです。コ
ーヒーカップを手に二人だけで話す写真が残っています。

 そのとき、私が彼に質問したのは「ニクソン大統領はなぜルーマニアのような
共産国、しかも小国にわざわざ訪問したのか」ということでした。それに対して
ラムズフェルド氏は十分知っていたのでしょうが、生まれて初めて会う日本人に
そんな本音を言うわけがありません。ただ、ニクソン大統領が飛び立つ前の日ま
でアメリカの国務省はあの訪問には絶対反対だった。しかしキッシンジャー博士
の強いアドバイスで大統領は飛び立ったという禅問答みたいな答えがありました。
その晩ずっと考えて、国務省が反対したのは、米ソ共存はお互いに裏庭を荒ら
さないという了解のもとに成り立っているのに共産圏のルーマニアなんかにいか
れたら困るということだったのではないかと。じゃあ、あえてルーマニアを選ん
だのはなんだろうかとずっと考えましたが、当時、チャウシェスクという独裁者
だけが世界の指導者でソ連とも中国とも西欧とも良いという立ち位置にいたので
す。

 これはそのチャウシェスク氏のルーマニアが目的ではなく、北京へ自分は行き
たいというドアのノックではないかと思いました。それ以来、私は到るところで
米中接近近しと書いたり、演説したりしたのですが、そんなことはありえないと
皆から馬鹿にされました。外務省の役人からは、外交をご存知ないからとか、他
方社会党では浅沼委員長がアメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵とまで言っ
た浅沼精神を冒涜するものだなどと言われ笑われたり批判を受けたりしました。

 それが、わずか二年待たずに現実になったのです。そのとき思い起こしました
のは藤牧新平という非常に語学がよく出来る社会党の本部書記ですが、この人が
ハーバード(大学)サマ―セミナーに中曽根康弘さんなどと共に行ったとき(面
白いのは、浅沼書記長の諒承のもとに出かけています。その縁でかキッシンジャ
ー教授は浅沼氏が暗殺される前に藤牧氏が通訳して浅沼氏に東京で会っています
)、キッシンジャー教授が国際情勢の分析に当たっては「Never say never」(
絶対ありえないということは絶対に言うな)と教えたと聞いて、我々に報告して
くれました。私は、まさにこれをキッシンジャー博士は世界を舞台に実演したの
だなと直感しました。

 もう一つ同じような経験としては、私がこれこそまさに歴史の瞬間だと思った
ときがありました。それは1989年の8月に衆議院外務委員会の東欧政治経済事情
調査団に加わったときです。私が外務委員会理事をやっていて、現地視察を強く
主張し、相沢英之委員長を団長に自民・社会・共産の委員でポーランド、ハンガ
リー、スペインとほんの10日ぐらいの間に3ヶ国を回りました。

 そこでマゾビエツキーという連帯系で非共産の首相が選ばれる日に、私共はワ
ルシャワに泊まっておりました。また、われわれは有名な自主管理労組「連帯」
の委員長ワレサ氏がグダニスクというところに連帯労働組合事務所を構えている
ので、そこへも表敬訪問に行きました。その前に連帯系の人にいろいろ話を聞き
ますと「ワレサというのは経済もなにもわかってない」という調子で、社会民主
主義でもない保守系の人もずいぶんいるし、政権取ったらどうなるのかなという
感じでした。ただ私は情報に飢えていましたので、ホテルの売店でワレサ氏の写
真が表紙になっており「Poland hour」(ポーランドの時)という論説が巻頭を
飾る高級週刊誌「エコノミスト」を見つけました。

 この雑誌で見たのはこの論説の末尾に、「もしポーランドにその能力と幸運が
あればベルリンから北京まで共産圏に一個の妖怪が徘徊する」という予言でした。
そのとき私はベルリンからピョンヤンと書いていないなと気付いたのですが、
いまだに平壌までは「さすがの妖怪も立ち入り禁止」のようです。勿論この妖怪
云々は、マルクスの共産党宣言の冒頭の「一個の妖怪がヨーロッパを徘徊してい
る、その妖怪は共産主義である」という一句をもじったもので、こんどの妖怪は
共産主義をひっくり返すものです。

 この旅から帰って、これから大変なことが起こると、あっちこっち新聞なんか
にも書いたのです。ところが誰も耳を傾けてくれません。その翌年一月に私は国
会を去り、二月に総選挙の党首討論をテレビで見ていましたら社会党の土井たか
子委員長が「いま体制問題なんか問題じゃない」「必要なのは消費税反対だけだ」
とか言ってやんやの喝采を浴びていました。私は本当に背中がゾクッとするよ
うな感じで、これではもう社会党も駄目だなと思ったものです。
 
  もう一つは議員を辞める直前に中央公論でアーミテージ氏(のちに米国務副長
官)と対談し、辞めたあとの翌1990年三月号に「社会党の真意を質す」と題して
それが載りました。そこで私が社会党の河上訪米団(1957年)ののち江田訪米団
(1975年)までに18年のブランクがあったのは、日中国交、ベトナム戦争それか
ら日米安保条約と三つの問題で社会党とアメリカで対立していたからです。しか
し今になってみると、日中国交とベトナム戦争反対では、社会党が正しかったの
は明らかで、残された問題は日米安保条約だけだという話をアーミテージ氏にし
たのです。
 
  それに対して、一と二については河上先生の言われるとおりだと彼は言った。
あとから考えると大変面白い二人の対談です。やっぱり1989年というのはいろん
な意味で非常に大きな歴史的な転機でした。そしてそのなかで、60年安保でも70
年安保でも、その後の日中国交回復後も残された問題はやっぱり沖縄の基地問題
です。

 その原因がある意味では60年安保のときのいわゆる国民運動のなかの「国民」
という概念に、石田雄さんに言わせると沖縄も「在日」も外されているのですが、
そのツケがいま回ってきている。60年安保の反省として石田さんはそういうふ
うに言われている。

 突拍子もないことかも知れませんが、現在の日本国憲法の成立過程でGHQが提
示した案に「People」とあるのを日本語に訳すときに全部「国民」と訳し、国民
の定義については法律で定めるとなっていますが、その瞬間、沖縄は当時軍政下
にありましたし、「在日」やそれ以外の外国人定住者も享受すべき社会的権利、
市民的権利から全部除外されてしまった。このPeopleを国民と訳したのは、人民
では具合悪いというので国民と訳しただけではなく、もっと深い意味でそれがず
っと問題を引きずって来たのです。

 そういう問題をはらみつつ歴史はドンドン進行してきたと感じています。私も
政界を離れて二十年になりますので、いまの政治家がやってることをあれこれ言
いませんが、ただ北朝鮮については、ただけしからんというだけで北朝鮮の行動
様式が全然掴めていないのが問題だと思っています。

 私が1978年、1981年に金永南(キムヨンナム)氏などといろいろ議論した経験
でいいますと、あれはあれで一種の行動様式がちゃんとあるのではないか。抗日
パルチザン闘争のとき以来のものが尾てい骨のように今も残っていて、一つは異
常にプライドが高く、プライドを傷つけられたらもう合理的な発想が瞬時にして
消えてしまう。交渉する場合は、そこはやはり留意しながらやるべきです。第二
は正々堂々の布陣をしないで、常に相手の意表を突くことばかり考える。

 勿論、意表を突くというのは必ずしも危険なシナリオを展開するだけではなく
て、突然いままで言っていたことを変えてしまい急に柔軟に出ることもある。そ
の一番いい例は小泉首相が平壌を訪問したとき、金正日軍事委員会委員長は小泉
首相を前にして拉致を認め、しかも最高責任者として相手の最高責任者に謝罪を
はっきりしました。あのとき日本では金正日氏があのような態度に出ることは想
定しておらず、意表を突かれた形となりました。しかし私は、意表を突く、いか
にも北朝鮮らしいやり方だと思いました。

 三番目は彼らの行動の最高の目標は生き残ること、サーバイブsurviveするこ
とで、この三つの取り合わせで彼等の行動が決まるというのが私の考えです。

 ただはっきりしているのはやっぱり北朝鮮との間に日本は国交を持っていない
という事実です。日本では北朝鮮は世界から孤立していると思っていますが、ア
ジアの国で日本以外は北朝鮮と国交のない国はほとんどなく、たいていの国は国
交があるという事実。そんなことを頭に置きながらいまの情勢を見ています。今
日お話したようなことが現在のかたがたに多少でもお役に立てば大変幸いです。

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【小島弘】
  私は、1956年の大会で、全学連の執行委員になり、最初の仕事は森田実などと
一緒に砂川闘争です。それから安保闘争まで3年10ヶ月執行委員やりましたがた
ぶん記録だと思います。学校には八年おりました。砂川闘争では基地を拡張させ
ず、学生運動として始めてのチャンスでした。

 いろいろ裏話がありますが、実は当時僕らのリーダーはほとんど共産党員です。
ただ共産党が大嫌いになって、除名されたり、自然に辞めたりする人も多くい
ましたが全学連活動家イコール共産党員でした。だから闘争方針をめぐる戦いは
ある意味では裏で共産党との戦いになっていました。砂川事件も結局、共産党が
足を引っ張り、決して「学生よくやった」とは言われなかったのです。

 全学連の安保闘争は、皮肉なことに共産党との戦いを抜きにして考えられなか
ったとも言えます。象徴的なのは、樺美智子さんが亡くなったときに、社会党の
浅沼稲次郎さんが警視庁に抗議に行こうと言ったら「そんな跳ね上がりのトロキ
ストの女子学生が死んだからって抗議することはない」と言って、共産党の連中
は反対したのです。それに対して社会党の大柴滋夫さんが、仁王立ちになって「
君たちなにを言ってんだ。同じ安保に反対した女子学生が亡くなったんじゃない
か」って怒鳴った。

 58年6月、全学連の大会の時に「日本共産党中央委員会学生対策部」が召集、
  百何人か集まったグループ会議で、共産党の方針を呑めっていうことをめぐっ
て、逆に宮本顕治の罷免決議したのでそれが理由で私は共産党を除名されました。

 僕らはデモの中にいで、よくわからなかったのですが、最近、写真を見なおす
と安保闘争は本当によく盛り上がったと思います。当時の若者は、岸信介が東条
内閣の閣僚だったってことは誰もが知っていた。そこに勤評や警職法などが出さ
れてきて、こいつはまた昔のようになるんじゃないかという疑念が湧いた。だか
ら、学生も一生懸命やったけど、市民もものすごかった。例えばキャバレーに行
って我々が安保反対しろって演説ぶったわけではないのに、国会の周りには、銀
座のキャバレーのお姉ちゃんもずいぶん来ていた。

 これ悪いことですけど、面白いエピソードは、学生が機動隊のトラックを倒そ
うとて押してると、タクシーの運ちゃんが車止めて「学生さんそんなじゃトラッ
クはひっくり返らないよ、タイヤのエアー抜けって」いうのでエアー抜くとトラ
ックは傾くんです。「ほらそっちから押してみろすぐ倒れっから」といわれて押
すと倒れるんです。もちろんガソリンがこぼれるからそこへ「ほーら火を点けて
みろ」って言って。全部タクシーの運転手さんが指導した。それぐらいものすご
く幅広い人たちが、国会の周りにいたのです。

 ただ私ども、そういう盛り上がりの中で6月15日に樺さんが亡くなって「さあ、
あとどうするか」っていうときに確か次の日かな、社会党の江田三郎さんに小
島君来いって国会に呼ばれたのです。「君ねえ議員会館に火を点けるっていう噂
があるけどね本当に点けるのか」っていうから、いやそんな計画ありませんとい
ったら「見てみろ小島君、自民党の代議士はみんないなくなっちゃった」ってい
うからそれは向こうが居なくなっただけでこっちは関係ないって言った。実際に
そういう事件は起こりませんでした。

 ただ6月18日はすごく国会の周りが盛り上がった。しかし、それが結局最後で
した。この中で面白いエピソードを話します。私は自民党の宇都宮徳馬さんにず
いぶん面倒見てもらったんですが、「おい小島君、君の命の恩人紹介するぞ」と
言われ、誰を紹介するかと思ったら、赤城宗徳氏を紹介するんです。「おまえこ
の人が判を押してれば、あの辺で機関銃かピストルかどうか知らないけどお前達
の命は無かった」と。赤城さんは、判を押すのを拒否して、それで結局自衛隊の
出動はなかったわけです。

 これについて、もう一つのエピソードがあります。当時の自衛隊幹部に杉田一
次氏という山下奉文がシンガポールで「イエスかノーか」ってやったときにそば
にいた人です。この人は英米派で、吉田茂の軍事顧問もやっていた。この人と宇
都宮氏は幼年学校の同級生で、当時の自衛隊幹部を赤城さんに紹介したのです。
赤城さんと宇都宮さんは水戸高校の先輩後輩なのです。そういう関係で、当時の
自衛隊幹部は自国民に対して、我々は銃を向けるわけにはいかない。これは警察
の仕事ですと断ったから、天安門や、今度のバンコックの騒動みたいにならなか
った。

 本間中将など陸軍の英米派は東条英機によって硫黄島なんかの前線に送られて
死んだ人が多いのですがこの杉田一次みたいに生き残った連中はわりと自衛隊の
中では良識的だったのです。最近、ずいぶん生きのいい自衛隊OBというのがい
ますが、あんなおっちょこちょいではなかったのです。

 もう一つエピソード。今から50年前が60年安保でそれから50年前が日清戦争で
すが、私ども昔世話になった戦前共産党で戦後は右翼と言われた田中清玄という
人がいましたが、この人があるパーティーで、清水幾太郎さんと二人でものすご
く仲良くしゃべってるんです。当時私とその場にいた東大教養学部の友人は長州
の生まれなんですが「あの二人がなんで仲良いか知ってるか、あの二人は新政府
反対だったんだ。分かるか新政府反対って」というのです。

 田中清玄は会津藩でそこから追われて五稜郭に行き、函館中学から弘前高校に
行って東大の哲学へ入るのです。たぶん、弘前高校で難しい理屈じゃなく政府反
対は共産党だからと、共産党になったんだろうと思うのです。
  清水幾太郎さんは自分のおじいさんが山岡鉄舟とものすごく仲良かったけれど、
新政府になってみんな落ちぶれた。たまたま、一緒にいた友人が長州・山口県
出身でしたから、山口県の人が二人を見るとそういう風に見えたんです。僕らに
も明治維新の新政府に反対だっていうのは分からなかったです。

 だから清水幾太郎は最後には右になったけど、政府には一切協力しませんでし
た。そういうわけで田中清玄も、岸内閣は「新政府」の末裔みたいなものですか
ら結構批判していた。清水幾太郎は国会へ請願にいこうという論文書き、田中清
玄は全学連の連中を応援した。このエピソードは面白くて私が田中清玄と会った
おかげで赤旗では「歪められた青春の小島弘」になっちゃったんです。

 だけど、田中清玄から聞いた戦前の共産党の話は面白かったです。僕がいろい
ろ聞いた最後に今でも共産主義者として尊敬している人はいますかと聞いたら、
渡辺政之助と佐野学をあげた。そのときに、まだ野坂参三は中央委員会議長だっ
たが、野坂はスターリンの手先だ。自分の仲間を全部モスクワに売ったひどい野
郎だ。あんなのは風上に置けないと言っていた。それから後、野坂が百歳になっ
てから田中清玄が言った同じ理由で、共産党から除名された。だから共産党はず
いぶんいい加減なところで、僕も彼らから見れば歪められた青春ですが安保闘争
の中で割りとエネルギーが出たのはやっぱり共産党と対峙したからだと思ってい
ます。

 最後に、社会党の伊藤さん・大柴さん、総評の岩垂さん・岩井さんにも影にな
りひなたになり財政援助までして学生を応援して貰ったので割合と大船に乗った
つもりで運動が出来たと思っています。(終わり)
            (財団法人平和研究所参与)


【篠原浩一郎】
 
私は1938年5月生まれで、小島さんとは6歳違いですが、59年の6月に全学連の
中央執行委員になりました。そのとき小島さんは確か副委員長で、私は21歳小島
さんが27歳で初めて会ったときには、ずいぶんおじさんが学生にもいるんだなと
思いました。当時の全学連は大変な跳ね上がりぶりで、とくに私や唐牛健太郎な
どがその最たるものでした。小島さんは大体渉外関係で安保共闘会議などに行か
れては社会党や共産党等と交渉して、次の統一行動などの決定を持って帰ってく
るのですが、全学連はいつも国会突入だということばっかり言ってるものですか
ら、共闘会議からはかなり枠をはめられたのです。

 当時、こういう話を小島さんが持ってこられて、私はうっとうしいなと思って
いました。しかし、そう言いながらも、ほとんど毎日のように酒を飲む仲でした。
私は57年に九州大学の経済学部に入りました。大学で学生運動をやる人は高校
時代から民青そのほかに入ってる人が多かったのですが、私はまったくのノンポ
リでヨット部で、ヨットばっかり乗っていました。秋になって、大学へ戻りまし
たら、当時確かソ連が核実験をやったときで、アメリカの原爆に反対する学生大
会をやっていた。何故ソ連の核実験に反対しないのかと、大会で問題提起しまし
たらソ連の原爆は良い原爆だと、いうようなことを執行部が言うもんですからそ
れはおかしいといったのです。

 私の家は長崎で、爺さん婆さんがみんな原爆で死んだんですが、そういうこと
だけではなく、どうも論理的にソ連をなんか天国のように言うのが気に入らない
ということから学生大会の執行部をやめさせ、私も執行部になります。それが学
生運動に入るきっかけです。学生運動始めましたら、レッドパージで九大を除籍
になった人が数人、とくに守田典彦っていうのが来まして、「原水爆や戦争がこ
の世からなくならいのは資本主義であるからだ」と共産主義の手ほどきを教えら
れ同時に当時の反共産党いわゆる反ソ連的な共産主義の指導を受けたのです。

 学生運動に入るきっかけがソ連の原爆賛成か反対かということでしたから、直
ちに私はソ連型の共産主義というのは、気に入らないということになったわけで
す。そして、、安保改定反対国民運動なんとか統一行動をストライキでデモしよ
うというような全学連本部からきた提案を各教室に行って訴えました。

 大体は教授にお願いして、5分とか10分時間を貰って討議をして、クラス決
議をあげていき、クラス決議が全部揃ったところで学生大会を開いて、大会でス
トライキ決議をする。こういうことを繰り返していました。まあ幸いと言います
か、当時の九大の場合は、社会主義協会が非常に強いのですが、社会主義協会は
あまり学生運動そのものには力を入れず、とくに教養課程については発言力がな
かった。

 私どもは、こんなことで共産党を蹴っ飛ばして、ブントという新しい共産主義
者同盟を作った。だいたい一本化が早くから整っていましたので、いけいけどん
どんの学生運動を展開しました。当時、東大の場合は共産党から決別して、反共
産党で出てきても「革共同系」とか、いくつかに分かれてしまい、なかなか闘争
に集中できない環境でした。

 ところが、九州や北海道など辺境の地は非常に単純に学生運動をじゃんじゃん
やったものですから東京から目をつけられて、北海道の唐牛が全学連の委員長、
それから九州の私が社学同の委員長にさせられた。学生運動を一生懸命やろうと
いうことで、とうとう59年12月からは東京に駐在し、唐牛と私は同じ下宿にい
て、学生運動を指導することになったのです。

 59年11月27日の統一行動の中で、全学連は国会の中に入ってしまいました。こ
れで学生達は国会に入れるのだと自覚したのですが同時に学生運動は跳ね上がり
だと批判され、大宅壮一からは赤い雷族だとか言われ、共産党からも激しく攻撃
されました。こういうなかで、ブント全学連は国会へ行くというのがスローガン
になったのです。

 1月16日に岸が調印のために渡米するときも安保共闘会議は都内で抗議集会を
開くという方針でしたが、全学連は羽田に行って実力で渡米を阻止するのだと羽
田空港に突入しました。もちろん機動隊にほとんど全員が排除されて、七十数人
が検挙され、目的を達成することは出来ませでした。ここでもまた激しく安保共
闘会議からは跳ね上がりだと批判されました。そのあと、ちょっとやりすぎでは
ないかという意見が学生運動の中やブントからも出てきて、なかなかまとまらな
い状況が続きました。

 1960年の4月になると新しく学生も増えて、学生運動は盛んなになるのです
が、国会突入ということは、とくに東大教養学部あたりの反対があって決められ
ない状態が続きました。それで4月26日の闘争は最大規模の動員をしようとうこ
とで公称一万人、実数で約六千人から七千人ぐらいの学生が国会の前に集まった
のですが、東大などは学生大会で国会突入はしないという決議をしてきました。
しかし、ブントの中央というか、我々はどうしても装甲車を乗り越えて国会へ向
かうんだということで、激しくアジテーションをしました。

 もちろん警官隊の厚い壁に阻まれて国会に突入することは出来ませんでした
が、装甲車に背中を向けて帰った一部の東大の学生を尻目に、ほとんどの学生は
装甲車を乗り越えていったのです。実はこの4月26日の闘争で唐牛委員長と社学
同委員長の私が逮捕されました。それまではだいたい検事拘留が終わった二十二
三日で保釈になるというのが一つの筋書きでしたが、今回は、保釈にならずに公
判が始まるまでの六ヶ月出してくれなかった。したがって私と唐牛はそれ以後の
安保闘争の盛り上がりには現場にいないのです。浅沼さんが殺されたあとの11月
に出てきました。

 この闘争の最中はほとんど私たちは接見禁止で情報は入らず、どんなになって
いるのかヤキモキしていました。巣鴨拘置所の中では、収容されてる人がいる事
件についてはスイッチを切りますが、ラジオでニュースを流してくれるのです。
たまたま6月15日には女子学生が一人死んだという放送のニュースが流れた。そ
こで拘置所側も気がついてプツンとスイッチを切ってしまったんですが、唐牛と
私とは、女が一人死んだらしい女が一人死んだということは男は五、六人以上は
死んでるな。これは大闘争になり、必ず自衛隊が出てくるぞ。この闘争が血みど
ろの闘争になって目的が達成されるといって大喜びをしたというのが当時の二人
です。

 私どもはやっぱり共産主義者同盟の同盟員として、とにかくこの安保闘争を通
じてなんらかの革命の方向へいかせようというのが目的でしたからこの闘争がそ
のぐらいの血みどろの闘争になるんだというつもりでおりました。まあ樺さんに
対してこういうことを言うこと自体が非常に問題な発言ですけれども、現実には
そういうことを唐牛と二人で喋ってたのを覚えています。

 そのあと11月に出てきましたが、まだ社学同の委員長でしたのでデモの指揮を
するのですが、安保のときの勢いは引いてしまって、二百人とか三百人といった
小規模のデモでした。61年の秋までそういうことをしていましたので何度も逮捕
されました。合計十三回逮捕され、大体、三日ぐらいで出てくるということを繰
り返していました。

 そのうちにブントも分裂をして、各派が争い合い全学連大会を開いても反対派
がやってくる。こちらのほうは、いつの間にか清水丈夫というのが角材を用意し
て、昔の仲間を角材で殴る。こういうことをして自分たちの分派の大会を成立さ
せようということになったのです。

 そのとき私は、つい昨日まで生死を賭けて闘争をしてきた仲間を今度は角材で
殴るとはとんでもないことになってきた。どうもこれはおかしいと思ったのです。
スターリンが1917年の革命当時21人いた中央委員のすべてを殺し尽くして自分
の独裁政権を成立させた。あれはスターリンが悪い。自分たちがやればもっと人
間的な共産主義運動が出来るんだと豪語していたのに、現実には自分たちも同じ
ことを始めている。

 私は、こういうことの先にどういう展望があるのか。エリートというものが運
動を指導するのは間違いではないかと思いました。そして日本で最低といわれる
環境の沖仲仕の労働者の中に自分は飛び込んでいきたいと田中清玄に頼んだので
す。そして学生運動とは61年の10月あたりで完全に手を切りました。

 たった一人で沖仲仕のなかに入って、その生活の中になにか自分たちの生活を
良くしようというような動きか、あるいはそういうものを作り出すことが出来な
いかと思ったのですが、やはり若い私にはとても及びもつかないことでした。そ
のあと、今里広記という人から、うちに来ないかと話があり、こちらは夢にも憧
れた京浜工業地帯のベアリング工場ですのでこれは良いと飛び込んで、日本精工
の多摩川工場で組合の役員をやりながら労働者の中で一生懸命やりました。労働
者の生活は賃上げを繰り返して非常に改善され、有給休暇の消化とかいう問題は
未解決でありましたが大きな要求はなくなった。それで20年も組合活動をやっ
たのをやめて、今度は自分で会社をやり、現在は約二十年ぐらいNGOで途上国の
電話のないような病院に無線機をつけるとかの活動をしております。(終わり)

  (NGOテレコム支援協議会専務理事)

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