■フィールドワークの旅

1)旅のはじまり

生江 明

 生まれ育った新宿のまちが私の故郷、そこはまだ戦争の名残のような焼け跡や防空壕があちこちに残るまちだった。昭和20年代半ば、私は駅の向こう側にある3年保育の幼稚園に通っていた。チョコレート色の木造車両が走る省線(現在のJR山手線)の目白駅前には、いつも客待ちの人力車や輪タク(自転車タクシー)が数台並び、時には肥桶を載せた馬車が、駅の公衆便所のおわいを回収しに来ていた。目を見張るほど馬のガタイは大きく逞しかった。改札口にはお気に入りの駅員さんが、小気味良い音を立て切符切りの鋏を鳴らして、手際よく乗客を駅の中へと入れていた。その様をうっとり見るのが私の日課だった。その憧れの駅員さんの顔を今でも鮮明に覚えている。

 駅の西隣には田中屋洋菓子店があり、道に面した大きなガラス張りの調理場で、白い帽子を被ったコックさんが綺麗なバラの花を手際よく次々作るのを、口を開けて見つめていたものだった。その隣にはドーナツの自動製造機があり、ポトンと熱い油の上に丸いドーナツの素が落されるとふっくら膨らみながら移動し、やがて網の上に揚がる頃には、美味しいドーナツになっている。飽きもせず毎日のように大きなガラス窓の前で見ていた。 
 その先の安田銀行(後の富士銀行、さらにみずほ銀行)の鉄の格子戸がガラガラと降り、閉店の音がすると、私はその入り口にある階段に腰掛け、道行く人や、向かい側の闇市を行き交う人たちを見ることにしていた。この席は通行の邪魔にもならず、駅前の風景を見るにはお気に入りの特等席であった。

 幼稚園のなかよし同級生の家は、銀行裏にあった「白鳥座」という洋画専門の映画館だった。二日か三日に一回は帰りがけにその友達の家に行き、茶の間でお菓子を食べる。でも騒いではいけない茶の間だった。時々、お母さんがお菓子の入った平らな木箱を首に掛けて、ふすま戸を開ける。と、そこは映画館の客席だった。「えー。おせんにキャラメル!」と言いながら客席を回り始める。友達と二人で空いている客席に座り、映画を見るのが楽しみだった。同じ映画を何度も見ていると、あーもうすぐあのおじさんは撃たれて死ぬんだとか、次の筋も、その時のセリフが耳に残るようになる。アメリカ映画やフランス映画は日本語字幕が出るが、私には読めず、ひたすら目を見張って画面を見、そして音楽のような言葉に耳を傾けるしかなかったのだ。ニュースとディズニーの短編アニメ漫画も併映で、それは楽しい午後のひと時だった。中学生になり英語の授業が始まったが、それは映画の中で聴き親しんだものとは違う日本英語だった。どこか気障な進駐軍英語の匂いがした。

 私の町のあちこちに進駐軍に接収された家々があり、ジミーやパミーというなかよしの住む家があった。父親は進駐軍の将校で、時折り日本人が来ていた。その多くは、その家に遊びに来ていた私たち日本人の子どもたちをひどく邪険に扱い、汚いゴミのようにあしらわれた。そしてその家の子どもたちには王子や王女様のように話しかける。その様を見て、なんて卑屈なのかと思ったものだ。そうした日本人がしゃべる英語のことを進駐軍英語とここでは使っている。
 この進駐軍の家族は日本語が上手だった。いたずら小僧のジミーが土足で我が家に上がり駆け抜けようとして私の母に捕まった。母はジミーのお尻をひん剥き、パンパンパンと叩いた。アメリカ生まれの父を持ち、アメリカ育ちの祖父に育てられた母にはそれが当たり前の行動だった。するとその後で、将校姿のジミーの父親が、まことに申し訳ありませんでしたと日本語で丁重に謝りに来た。母は豪快に笑いながらにこやかに応対していた。

 わからない言葉をしゃべる映画の画面を、それでも目を見張って、見続け聴き続ける、というこのわからない言葉に臆することなく興味を抱き続ける「白鳥座」体験は、もしかすると、その後のアジアやアフリカなど海外でのフィールドワークの大事な原体験であったように今は思える。ヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、シンハラ語、ビルマ語、タイ語、インドネシア語、タガログ語、ラオ語、カンボジア語、中国語、パシュトゥン語、スワヒリ語などの、私が出会った地域の標準語そしてそれぞれの地域訛りの英語。その他にもそれぞれの民族や種族の言葉しか話せない多くの人々がいた。多くの通訳に助けられたが、通訳を見ることなく、話をしてくれる現地の人に視線を向け続けた。白鳥座の時と同じであった・・・。

 さあ、話をもう一度70年前の駅前に戻そう。銀行の隣には、進駐軍払い下げの家具などを扱う大きな古道具屋があった。その向こう隣に、お茶の葉を焙じるいい香りがするお茶屋があり、その並びに、まん丸のマシュマロやヌガー、そしてハーシーのチョコレート、色鮮やかなジェリービーンズなどアメリカの香りがするお菓子を売る小さな店があり、その隣は、母が時々そこで注文をしていたロバータという洋装店があった。その隣は、生きた鶏を店先でさばく稲毛屋があった。買い物する訳でもないのに、私は店先を覗き、じっと商品を見るのが好きだったが、稲毛屋の前だけは足早に通り過ぎた。その二軒先には計り菓子を売るお店、その隣には玩具屋。目をきらきらさせて見つめていたものだった。家への路地の角までにはまだいくつものお店の前を過ぎねばならない。家へ帰りつくまでにはまだ大分時間が必要だ。なにせ、家に帰っても誰もいないので、時間をつぶす必要があったのだ。

 やがて表通りの角を曲がるころには夕暮れが近づいていて、家々からは夕餉の支度の音が聞こえ、調理の匂いがして、人々の暮らしの横を通り抜けて家にたどり着く。誰もいない家は寂しい。ラジオのスイッチを入れる。夕方6時半からNHK「尋ね人の時間」が始まる。見知らぬ街に住んでいた人が、誰かを探している。誰かが誰かを毎日のように探している、不思議な思いでアナウンサーの語りを聴いていた。「奉天市〇〇街に住んでいた△△さんを同じ市の××街に住んでいた〇△さんが探しています。」延々と続く尋ね人。人に逸れた人たちがどんなにたくさんいるのだろうか。奉天という町がどこにある町なのかも判らぬまま、小さな私には、ただ世の中にはたくさんの迷子がいるような、哀しい不安な思いで聴いていた。戦後生まれの私には見えていなかったけれど、時代はまだ戦争を重く深く引きずっていたのだ。それに較べ、その後の7時半から始まる「お父さんはお人好し」のなんと明るく賑やかなこと。その奇妙な対比が、世の中の自分に近いリアルは、「尋ね人の時間」の方にあることを漠然と感じていた。上野駅の地下通路の闇の中で光る、浮浪児がこちらを見つめる眼が忘れられず、時々思い出す私は、尋ね人の時間で呼びかけられている迷子とその子たちが重なって見えた。戦争は確実にまだ続いていた。
 夜、布団の中でうとうとしていると、目白の貨物駅で鳴る蒸気機関車の汽笛が決まって聞こえてきた。母の足音が夜の静寂の中に聞こえるまでもう少しだ。

大学教員

(編集事務局注」著者の了解をえて、短歌集※ より 転載させていただきました)

(2024.2.20)
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