【オルタのこだま】

122号を読んで〜ハンナ・アーレントと「悪の凡庸さ」

                      武田 尚子

 オルタ122号が届いたとき、福岡愛子さんの、映画[『ハンナ・アーレント』から何を受け取るか]をまず開いた。彼女の、2012年10月の初回の公開で静かな注目を浴びた同じ映画と、大きな人気をあつめた2013年10月の2回目の公開の間に、2012年12月の第二次安倍政権の発足があるという冒頭に近い言葉を読んで、アメリカに住む筆者は、日米両国の現在の政治的な空気の似ている事に驚ろかされた。いったいこの日本の現象は、君も行くなら我も行く、といった一時の気まぐれなのだろうか。それとも安倍政権の政策を時代錯誤の国家主義と警戒するアメリカ、リベラルの不安に匹敵するこの時代への不信が、あの映画を通して日本では、ナチス時代の過ちを日本の若者たちを中心に教え、心ある人々の反省を促しているのだろうか。

 1960年にアイヒマンが逃亡していたアルゼンチンでとらえられ、ホロコースト裁判にかけられた後、ハンナ・アーレントが書いた『エルサレムのアイヒマン、悪の凡庸さに関するレポート』は1963年にニューヨーカーから出版された。第二次大戦の終結から20年近くを経ているが、20世紀の出版書の中で最大の論争を呼び起こした1冊といわれている。

 その出版から50年を経て、この本はまたもや大きな論争を呼び起こすことになった。その一つの理由は、アメリカで新しく封切られた映画『ハンナ・アーレント』の登場が、そのよみがえりの一翼を担っているらしい。『この本は決して忘れ去られる事なく、繰り返してよみがえるだろう』と出版直後のアーレント攻撃のさなかに予言したカール・ヤスパースの言葉のように。

 アイヒマンは、ユダヤ人殺りくに直接手を下したのではなく、600万人といわれるヨーロッパユダヤ人の強制収容所への集団移送を可能にするための兵站部門を受持っていた。まずナチスの初期の移住指令にしたがわないユダヤ人をまとめていくつかのゲットーに押し込み、そこから鉄道でヨーロッパの枢軸国内に設けられた強制収容所に配分して送り込むためのすべての手はずを整えるのである。強制収容所はヨーロッパの枢軸国の多くにあったのだから、アイヒマンは重大な役目を担っていた。ホロコースト全体の構図を練った大物の戦争犯罪者とみられていた。戦後、ドイツ人に対する寛大な政策に誘われてアルゼンチンに家族と移住して家を建てて暮らしていたが、イスラエルの秘密警察モサドが嗅ぎ付けて彼を生け捕り、エルサレムの法廷に連れ込んだ。この逮捕劇のくだりは探偵映画の場面ように活写されている。

 アーレント自身はナチスが政権をとってからフランスに亡命して捕まり、フランスの強制収容所を逃げ出してアメリカへのビザを手に入れ、アメリカで暮らしていた。彼女はニューヨーカー紙と掛け合って、終戦後エルサレムで行われたアイヒマンの裁判について書く契約を取り、『エルサレムのアイヒマン』を書いた。

 アーレントはアイヒマンおよび他のナチスたちを、ユダヤ人への憎悪に燃える怪物としてではなく、政府に仕える小役人のようなありふれた(凡庸な)人間と想定していた。おまけに彼女は強制収容所へのあれだけ大量のユダヤ人の移送を可能にしたのは、ゲットーで組織されたユダヤ人評議会のりーダーたちが存在し協力したためであることも大きく公表した。さらに、それなしには600万ものユダヤ人殲滅は不可能だったろう。もし彼等が協力しなければ、600万の半分は生きながらえていたのではないかと、問いかけたのである。

 本が出版されるや、アーレントはおそろしいほどの人身攻撃にさらされる事になった。ナチスと協力するユダヤ人作業者の存在は今こそ広く知られていても、ユダヤ人社会の恥部なのである。

 5回に分けて出版されたこのアイヒマン裁判記が出始めると、彼女の若い時代の友人で、イスラエル政府の役人になったジーグフリード・モーゼは、ドイツのユダヤ人評議会が、ハンナ・アーレントと彼女のアイヒマンの本に向けて戦争を仕掛けるぞと警告したうえ、スイスへ飛んでアーレントに会い、本の出版を直ちに取りやめるようにと迫った。が、彼女は応じない。彼女は批判が強烈になるほど、この本は有名になり、自分がいった事からも、自分ができる事からも全く手の届かないところにいってしまうだろうと告げた。まさにその通り、文芸批評家のアーヴィング・ハウはそれに続く民衆の論争の辛辣さを述べているし、小説家のメアリ・マッカーシーは、論争の激烈さを帝政ロシアのユダヤ人虐殺、ポグロムに例えているほどである。

 全てを列挙できないが『エルサレムのアイヒマン』への反動は其の量と質でアーレンとを圧倒した。
 『ナチスのホロコーストにユダヤ人が参加しているというアーレントの誹謗』と題して警告を与えたのは(ユダヤ人の)名誉毀損保護連盟であり、彼女の著作『エルサレムのアイヒマン』を“悪意にみちた、口達者な駄作である”と決めつけた。アーレント攻撃はその他に書き尽くせないほどあった。
 アーレントが、これほどの攻勢において 部分的な情報しかもたない人々が自分についての根も葉もないナンセンスを信じてしまう事を心配したとき、ヤスパースはアーレントに、『何の汚点もなく君は抜け出せる。公平な心をもった人達は君が真面目な意図と正義への情熱をもった、正直で、基本的な善意の人である事を悟るに違いない。君がこの世に居なくなってから、ユダヤ人は君のための記念碑をイスラエルに作るときがくるだろう。ちょうど今スピノーザのためにたてているようなやつをね。君は彼等の仲間だと彼等は誇ることだろう』と請け合った。そして論争が静まりかけた今、ヤスパースは書いた。アーレントは大きな苦痛をなめたが、かしましかった批判の声は彼女の名声をいや増しにしている。

 アーレントが、間違いだらけの事実で彼女を攻撃したロビンソンの話をしてまわった講演旅行から帰って来ると、出かけるまでヘイトレターで一杯だった彼女のアパートは再び、ユダヤ人の諸組織から話しをしてくれ、議会に姿を見せてくれと、彼女が名指しで攻撃した人達をふくむ招待者からの手紙の山になっていた。つづく2−3年の間、彼女はアメリカの大学から名誉学位をさずけられ、国立芸術文学院とアメリカ芸術科学院の双方に席を与えられ、其の両者から文学における卓越した業績を認めると、エマーソン・ソーロー賞をも受けた。さらにナチスの占領下にあって、ユダヤ人が目ざましい保護を与えられたデンマークで、アーレントは、今日ではほぼ20万ドルに相当するソニング賞をヨーロッパのユダヤ人に貢献するすぐれた業績に対して1975年に授与された。

 1975年の彼女の死後25年間に、アーレントは非難者たちを退けてしまい、その名に何らの傷も残さなかった。ニューヨーカーの編集者ウイリアム・ショーンは彼女の道徳性と知力を讃えて述べた。彼女の死が、人々の無理解や堕落に平衡を取り戻させた。世界中の知識人、芸術家、政治家に彼女の与えた影響ははかりしれない、と。

 ところがその後、アーレントの評判と著作、中でも『エルサレムのアイヒマン』に対する騒ぎがまた始まった。アーレントの伝記で彼女の恋愛事件が明るみにでたためである。彼女は学生時代、ドイツ人哲学者マーチン・ハイデガーと恋愛関係にあった。彼女が情人でもあった事は伝記作者エリザベス・ヤング・ブルエールの爆弾記事でわかった。1924年の初期に始った情事は、アーレント18歳、ハイデガー35歳のときであり、6ヶ月つづいた。ハイデガーは『Being and time』で、実存主義哲学者としての地位を固めたところであり、彼が家庭と仕事にもどった夏、情事は終わった。アーレントは報われない愛に苦しんだ。

 ナチスが政権を握った1933年には最後の別れがきたと見えた。
 アーレントはドイツを逃れ、ハイデガーはナチ党に加わり、ナチスびいきをあらわにしてハイデルベルグ大学の学長に格上げされた。1年後には其の職を去ったが、それまでにはユダヤ人教職員を解雇し、大学理事会を総統による統治システムにかえ、学生には軍隊に行く事を奨励した。しばしば彼はそのスピーチのおり、右腕をあげ、ハイル・ヒトラーを三度繰り返すのだった。戦後、彼はこれらの事すべてが、大学をまもるためだったといい、過去の行動を偽った。
 それにも関わらずアーレントは戦後5年を経てハイデガーと和解した。彼女は所有者の居ない、ナチスの略奪した文化遺産をシナゴーグやユダヤ博物館、図書館、大学に配分する仕事をしていた。ハイデルベルグを通ったとき、メモをハイデガーに送り、生涯の友情と情のこもった手紙の交換が続いた。情事が暴露されたとき、ナチスとしてのハイデガーの評判がアイヒマン論争にも入り込み、彼女は病理学的な自己嫌悪型のユダヤ人であり、彼女のイスラエルやユダヤ人への意見は本気で受け取れないということになった。

 アーレントの後日の批判家によると、彼女はハイデガーが悪人だと悟れない、あるいはそんなことはかまわない、彼女は彼と、彼の代表するドイツの知的伝統を愛するあまり、彼を許すほかなかった。彼女のハイデガーとドイツのすべてへの愛こそ、アイヒマンを凡庸な存在とゆがめさせたのだとみていた。
 まるで、アーレントの非難者たちはハイデガーを、アーレントが死刑を支持したアイヒマンという大量殺人者と混同したかに見える。彼の罪がなんであれハイデガーは第三ドイツ共和国のリーダーの一人ではなかったし、戦争犯罪や人類に対する罪を計画したり実行したりはしなかった。
 1934年以後、彼は次第に哲学教授としては影が薄くなっていた。初期のナチズムへの熱狂にも関わらず、ハイデガーが反ユダヤ主義者だった証しもない。それにしても、彼は自らの過去を率直に語ろうとはしなかった。それでも彼はアイヒマンではない。アーレントはこのちがいをわきまえていた。ハイデガーを評して、状況を切り抜けるためにその場限りの嘘をつくといったことがある。ハイデガーの80歳の誕生日パーテイでアーレントは、彼のナチ時代のことを、ゲシュタポの秘密部屋や強制収容所の小部屋での拷問から目をそらせた「誤った逃避」だったといった。

 これはハイデガーのもっともきびしい批評家にとっても、アーレントの批評家にとっても十分ではなかった。学者のエマニュエル・フェイは、ヒトラー時代だけでなくそれ以前にもそれ以後にも、ハイデガーは深くナチズムに賛同していたという。ヒトラーが権力を握る10年も以前からハイデガーの『Being and Time』には、初期のナチズムのメセージが濃密なので、この本はヒトラーの『わが闘争』の隣に据えられるべきだといっている。

 デボラ・リップシュタットの『アイヒマンの裁判』はアーレントが単にアイヒマンについては間違っていたのだという。アイヒマンがいばりやのほら吹きの嘘つきだったという新しい証拠にかんがみて、アーレントの抱く彼の『凡庸な悪』のイメージを、憎らしいユダヤ人嫌いの狂犬、アンチユダヤの怪物のイメージと置き換える事を提案している。

 それにしても、リップシュタットはなぜ、アーレントがアイヒマンの本当の性格を見抜けなかったと思うのだろう? なぜならと彼女はいう。アーレントはただ一人のため、その人の承認だけが彼女にとって重要な人であるハイデガーのためだけに書いていたからだと。
 1950年、彼女の戦後初めての恩師との遭遇で、アイヒマンの本の歴史の中でよりよく納得できるハイデガーの意味が理解される。アーレントは恩師に再会したとき、本能的に、悪の凡庸を認めたのである。マーチンは昔変わらぬマーチンだ。彼は卑劣な振る舞いをした。しかし彼女は彼の人間性を認め、彼の天才を賛美した。10年後に彼女がアイヒマンをみたとき直感的に明示されたのは、あれほど深い罪を犯してさえ、(ハイデガーとは比べ物にならないが)大量殺人に直接参加する動機はやはり凡庸であることだ。血への渇きからではなく、自己のキャリアを推進し、地位と機会を享受し、忠節の誓いを全うし、有能で、リーダーで、よいやつで、願わくば歴史にも名をのこしたいという月並みな望みをもつ悪の凡庸へのアーレントの洞察は少しも損なわれていない。

 人間の性格は柔軟性があり、変わりうる。
 適当な環境に置かれれば、普通の礼儀正しい遵法型の人々でも、人類に対する非難すべき犯罪の協力者にも、実行者にも変わりうるのだ。アーレントの見方によれば、真の正義は全体像の暴露を要求する。自らをすべて暴露すると同時に、全体像を見なくてはならない。ナチスの人類に対する罪の懲罰だけでなく、政治制度が、いかにして犯罪者や傍観者や、犠牲者さえも共謀者にしてしまうかを知る事だ。もしも悪が凡庸であるなら、それはどこにでも現れるだろう。ナチスだけでなく、犠牲者の間にさえ、ユダヤ人にさえ、そしてイスラエルにさえみつけられるだろう。

 (筆者は米国ニュージャージー州在住・翻訳家)


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