■【フィールドワークの旅】

2)バングラデシュの農村フィールドで学んだこと

生江 明

 私はインドの隣、かつてのイギリス領インド帝国の一部であったバングラデシュの農村で、NGOが行う「生計向上プログラム」の「家庭内職(刺繍や、裁縫や織物など)振興事業」に関わっていた。ある暑い日の午後、熱い部屋を出て冷房の効いた高級ホテルでコーヒーを飲み一休みをした後、熱い外へ出ると、5,6歳の女の子が歩道で立っていた。洗いざらしの黄色のワンピースをまとった裸足のその子は、足早に私の前に来て、お腹が空いていることを告げ、私の靴先に手を触れ、その手を自分のおでこに持って行き、こう言った。「ボクシーシ」(おめぐみを!)
 なんど断っても彼女は私の後についてきた。困った私は、ふと悪戯心で、彼女が私に見せた丁寧な作法をまねて、彼女の足の先に手を触れ、最後に「ボクシーシ」と言った。彼女は、困ったような顔を見せ、それでも自分のポケットを手で探り、取り出した硬貨を私の掌に置いてくれた。1ポイサ(1タカ=およそ5円の100分の1、およそ5銭)硬貨だった。

 それを見た瞬間、鳥肌が立った。その少額硬貨は、彼女が持っている唯一のお金だったろう。礼儀作法に適った行為を見せた時、人はそれに応えなければならない、と彼女は理解していて、自分のポケットに手を入れ、1ポイサ硬貨を私にくれたのだ。私はその時、ポケットには2万円ほどの現金を持っていた。ところが、彼女はこの礼儀作法を共有する社会の一員として私を認め、彼女の持っているものを私に恵んでくれたのだ。それに対して、彼女を自分の住む世界の外側にいる存在と捉え、こともなげに物乞いの礼儀作法を私は演じて見せた。彼女は見事に礼儀に応え、私は己の傲慢無礼さに気がついた。
 結局、私はティナというその彼女の暮らすスラムの家を時々尋ね、家族と食事やお菓子を一緒に食べることになった。それまで、現地の人びとにたかられまい、騙されまいと身構えていたものが溶け、人々の中になじみ始めるきっかけになった。でも、私の被っていたものはそれだけでなく、幾重もあったことに徐々に気がついていく。

 私の住まいがあったウエスト・ラジャ・バザールの交差点をベンガル人の友人と歩いている時、乞食がそばへ来て、ボクシーシと言った。友人はポケットを探したが、100タカ(およそ500円)の紙幣しかなかった。彼は乞食にそれを渡し、5タカ上げるからおつり頂戴!と言った。お札を持った乞食が戻って来るまでその場で立ち止まり、私たちはおしゃべりを続けた。やがて、あの乞食が足早にやってきて、はい95タカ、残りはありがとうございます!と笑顔を見せて彼は人ごみの中に消えた。
 私は友人に、100タカ渡した理由、つまり、おつりが返ってくると思ったのはなぜ?と尋ねた。彼の答えはシンプル。ここは彼が普段から立っている場所。だから持ち逃げしたら、彼は物乞いの場所を失うことになる。だから必ずおつりを持ってやってくるはず。なるほど名回答だった。私は感心し、笑顔になった。すると、それでよし!と彼は笑顔になった。私はこの国で社会勉強を始めたのだった!

 「フィールドワーク」では、初めから予想し、その通りのものが手に入ることは少ない。まるで人生そのもののようである。誰かに雇われたのでもなく、勝手に彼の地に出掛け、自分は役に立つ人物だから雇ってくれと、何度良い返事がもらえなくとも、懲りもせずに私は自分をあちこちのベンガルのNGOに売り込み続けていた。すると、あいつは乞食同然の男につき、出入りにはご注意をといううわさが日本人の中に流れた。それを聞いて、あなたはネクタイにスーツを着て歩きなさいと、私に忠告してくれた日本人の友人もいた。

 そんなことは気にもせず、その日もバスで2時間ほどの所にある農村授産センターのような民間組織(NPO)を訪ね、所長に自分の経歴書や開発した商品などを見せ、雇ってくれないかと話をした。初めはにこやかな対応をしていた彼は、だんだん表情をこわばらせ、外国人は我々に寄付をする存在だ、しかし、お前は仕事をくれ、雇えと言う、実態は乞食だよ!と叫び、「乞食は出て行け!」と大声で怒鳴った。私は、そのNPO事務所を後に、田んぼのあぜ道をバス停まテクテク歩いていた。突然、涙が溢れ道端にしゃがみこんだ。俺はここで何をしているんだろう? 繰り返しこみ上げるものが自分を襲った。
 ようやく嗚咽がおさまり、とぼとぼとバス停にたどり着いた。やってきたバスに乗る。するとその時だった、最後に乗ってきた3人の男たちが、朗々と響き合う声で歌を歌い始めた。最後に“みなさまに、神のご加護がありますように!”と。男たちの歌は終わった。その手に持つ缶に、次々とお恵みの小銭が入っていく。

 私は思い知った。乞食は立派な芸能者だ! 自分はその足元にも及ばない、乞食以下の人間だ! これからは本物の乞食にならねば!という思いが溢れ、愉快になった。町で乞食たちに会うと、どうだい今日の稼ぎは!と声を掛けるようになった。やっとこの社会の一員になったようだった。あちこちの組織から仕事の声が掛かるようになったのは、不思議なことに、その頃からだった。自分の中で何かが変わったような気がした。
 地面をてくてく歩くのが前よりずっと好きになっていた。好奇心を失わずに町や村を歩き続ける。それがバングラデシュという場所で学んだ大事なことだった。そこで暮らす人々の傍らを見つめながら歩くこと、それが習い性のようになった。今になって考えれば、幼稚園の頃にぼくは東京の町を、目を見開いて歩き続けていたのだったが、それはずっとその後もアジア、アフリカ、ヨーロッパの町を、目を見張って歩き続けたことに気がついた。
 そして、日本という先進国から来た私は先進人であると誤解していた、頑なな私を溶かしてくれたのがバングラデシュの人々、特に乞食・物乞いの人たちだったことを知る。先進国に生まれ育てば、自分は先進人!というのは全くの勘違いであることに気がつき、それが愉快なことに思え、私の肩の力が抜けていった。

 バングラデシュ(ベンガルの国という意味)はかつての英国の植民地インド帝国の東の端に位置していたベンガル地方に生まれた国だ。ここを特産地とするブルーの自然染料(藍染、木藍)を栽培すること、ベンガル特産の美しい綿布を生産することを禁じたのは宗主国英国だった。以後、この国では藍は腐らして肥料にするなどの使われ方しかして来なかった。インド産のキャリコ綿布は、英国内へは輸出されず、アフリカで奴隷貿易の代価として売られた(三角貿易)という。
 江戸時代、日本が東インド会社から輸入していたものの内で、最大のものはベンガルの綿布だったという。また日本の伝統になった藍染(草藍)は、熱帯生まれの藍を、雪も降る氷も張る日本で使うための特殊な技術として生まれたが、熱帯原産の藍はベンガルの地で甕に入れておけば自然に発酵し、いい染料となったようだ。
 ダッカ・モスリンというシルクのような繊細な綿の布地が有名だが、英国はそれを禁止する代わりに英国製の化学染料と大量生産の綿布の消費地となることをインド全域に強いたのだった。それが何を意味したのかを、私は村のデザイン・トレーニングの場で思い知ることになった。

 私はベンガル南部の村で、あるNGOに依頼されて、デザイン教室と刺繍の講習会を開くために、村の生活を始めた。雨季の最良の移動手段は船だった。家々は盛り土をした小高い丘の上に建てられており、台所の竈はさらに盛り土をして高い場所にあった。
 私にあてがわれた部屋のベッドは高い足のついた背の高いもので、まだ雨季の始まる前にやってきた時、その高さに首をひねったものだった。やがて雨季が来て、あたりの水嵩が増えてきて、部屋の床も水没し、さらに水面が上がってくる。夜、寝ていると水を漕ぐ音がするので懐中電灯を照らすと、蛙が泳いでいる。なーんだと笑いながら電気を消すと、再びそれまでとはいささか違う静かな水音がするので、灯りを照らすと、蛙の後を追う蛇が泳いでくる。水面はベッドから5センチほど下にあるばかり。まんじりともできず起きていたこともあった。周りの人たちにその話をすると、よくある話だと言うばかり。この洪水はいつ終わるのかと尋ねると、いや、まだ洪水ではないよ、雨季なんだ!という答えが返ってくる。どうなってるんだといぶかる私は、ある日、人々の洪水の定義を知ることになる。

 小舟で外出先から宿舎に帰ると、人びとが口々に“洪水だ!”と言う声が聞こえた。台所の竈が水没したのだ。それまでは水が多いね、だったが簡単に水没しない所にあつらえた竈が使えなくなると、人びとは“洪水だ!”と認識するのだと、私は理解した。私のベッドはブロックの上に置かれ直し水没は免れていた。そして天井からぶら下げたシーカというマクラメ編みの網の中にすべての荷物は収められてある。なるほどそうやって人々はこの地で生きてきたのだなと感心しながら、私は雨季の村の生活を続けていた。

 私のトレーニングは、生活の中にあるいろいろなモチーフ(小舟やリキシャ、家々、野菜や果物、食べ物、老若男女など)を草ペン(草の幹をペン先にしたもの)を使って描き、それを刺繍で表現するというものだった。元々は日本の雑誌『婦人之友』の読者の会である『友の会』グループの人たちが開発したトレーニング手法で、私はそれに学んだ。技法は女性たちが代々伝えてきたベンガル刺繍の技法である。素敵なものが次々できてくる。図画の時間が小学校にないバングラデシュでは、絵を描くことは初めての人ばかり。でも初々しいその描き方は多様で魅力的だった。不思議なことにその配色はまったくのワンパターン。赤、青、黄色、緑、白、黒の6色しかない。それぞれの色はどれも同じ。一色の赤、一色の青しかない。なぜ?と尋ねると、みな困った顔を見せるばかり。

 ある日の放課後、村のバザールにみんなと出掛けた。どこに行っても、バザールは楽しい。見て回っていると、糸屋があるのに気がついた。中に入るとびっくり。あの6色しかないのだ。彼女たちの刺繍糸の6色は、この村の最大値の6色だったのだ。店主に尋ねると、「ダンナ!この村の女たちは貧しい、そしてこの私も貧しいのです。これしかないのですよ!」という。私はまだその時、英国の植民地政策のことを知らなかった。つまり、この地で、自然染色業と綿布織物産業を禁じ、イギリスの化学染料と綿織物の消費地となること強制されていたことを。
 私は、首都のダッカに戻った時、染色工場を探し当てて工場主からその歴史を学んだ。私は日本の刺繍糸の見本帳を基に、32色の色糸を染めてもらった。色々な中間色を頼んだ。赤は一色というならば、赤の染缶を1つ使えば足りる。しかし、中間色は二缶以上の色を使う必要があり高くなると染屋さんは言う。自然染料であれば、千差万別の色が染まるのに、化学染料はいつも同じ色である。私はそのシンプルなことに驚愕した。
 村の女たちのワンパターンな配色は、彼女たちの才能やセンスのなさではなかった。そのことは、32色を手渡された彼女たちが目を輝かせて刺し始めた刺繍を見た時、一挙に明らかになる。地味で上品な配色、カーニバル・ピンクをあしらった鮮やかな配色、グリーンの濃淡を使い生き生きと森を描く配色など、それは多様な配色の世界が、そこに現れた。みるみる間に、私は自分の腕に鳥肌が立つのがわかった。ベンガルに来て二度目のことだった。私には、彼女たちの持てる力がそれまで見えていなかった。そして今、彼女たちの持てる力が私に見えている、という強い感動だった。

 選択の多様性が広がる時、人びとの個性は花開く。6色の世界に人々を閉じ込めたものは、植民地を強制装置とした産業化と近代化だったのだ。ガンジーが進めた糸巻き車による手紬の綿布運動、英国の塩専売に抵抗する海から塩を採ろうという塩の行進抵抗運動とは何であったのか、ベンガルの村の女たちを縛る色の世界が私に教えてくれたものは、途轍もなく大きかった。
 社会的弱者である女たちのエンパワメントとは、女たちの貧しい才能を豊かにする訓練提供と捉える場合が多いが、まったくそうではなく、女たちの選択の幅を広げる、彼女たちを取り巻く環境の豊饒化であった。それがベンガルの村の女たちから学んだジェンダー論への入り口だった。日本を離れて私は随分と遠いところに辿り着いていた。
 そして、途上国の人々に不足する知識を注入し、たくさん食べさせようと「与えたがる援助」から、人々に内在するものを発見し豊饒化する支援へと私を導いていった。

 (大学教員)

(編集事務局注 著者の了解をえて、短歌集※ より転載させていただきました)

(2024.3.20)
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