【マスコミ昨日今日】

(2013年12月~14年1月)

                       大和田 三郎


 
◆猪瀬都知事退陣と都知事選
 猪瀬直樹都知事が途中退陣し、2月23日投票の都知事選が固まった。最大の争点は「原発をどうするか?」となる見通しだ。元首相・細川護煕が、同じく元首相・小泉純一郎と連動する形で「原発ゼロ」を主張して立候補を決意、「主役」となることになった。「原発推進かゼロか」の単一イッシュー投票と予言するメディアも出ている。
 
▼脱原発の元首相連合
 細川の支持母体は「細川・小泉元首相連合」だ。政党の枠組み内に位置づけられる存在ではない。2人だけが構成員ともいえるが、ともに首相就任時点の支持率が極めて高かった。支持率の数値は調査するメディアによって異なるが、1993年8月に成立した細川内閣は、それまで最高だった田中角栄内閣を上回り、史上最高となった。そして2001年4月成立した小泉内閣は、その記録をさらに上回った。現在に至っても、両内閣が史上1、2位なのだ。
 
2人は、あっさり政界を去った点でも共通している。細川の場合、スキャンダルによる首相退陣だったが、人気が傷ついてはいない。厳密に言えば「元人気者」なのだが、その人気が死んだわけではない点も共通している。
 75歳の細川に立候補を決意させたのは「原発ゼロ」論である。「元保守」の立場でそれを唱えたのが小泉(71歳)だから、元首相連合となった。政界=永田町の構図は「安倍晋三政権一強」。その安倍政権は、原発を必要不可欠なエネルギー源と位置づけ、稼働ゼロとなっている現状からの「復活」を課題としている。また日本の原発技術を「世界最高水準」だとし、首脳会談のたびに首相自ら「原発のセールスマン」役を演じている。有権者1千万人を超える、日本最大の選挙で、最大の争点が「原発をどうする?」となることは、大きな意義を持つ。
 こうした事態の展開をつくったのは、「マスコミの力」だと言っても良いように思えるのだ。
 
▼報道先行だった小泉「原発ゼロ」論
 小泉の「原発ゼロ」論を初めて「報道」したのは、昨2013年8月26日付毎日新聞朝刊。毎週月曜3ページに掲載される山田孝男専門編集委員のコラム「風知草」だった。タイトルは<小泉純一郎の「原発ゼロ」>だったが、小泉が講演などで脱原発論を語ったことをうけた文章ではない。その直前の同月中旬、小泉は脱原発のドイツと原発推進のフィンランドを視察した。山田はその感想を取材しただけなのだ。
 小泉の視察には三菱重工業、東芝、日立製作所の原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行した。小泉はそれ以前も、原発について懐疑的な発言を行っていた。この視察で本格的な反原発論者となることを防ぐ「お目付役」というわけだろう。山田は、以下の場面を紹介している。
   ×  ×  ×
 道中、ある社の幹部が小泉にささやいた。「あなたは影響力がある。考えを変えて我々の味方になってくれませんか」
 小泉が答えた。
 「オレの今までの人生経験から言うとね、重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ」
 「いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、『原発は必要』という線でまとめる自信はない。今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。ますますその自信が深まったよ」
 3・11以来、折に触れて脱原発を発信してきた自民党の元首相と、原発護持を求める産業界主流の、さりげなく見えて真剣な探り合いの一幕だった。
  ×  ×  ×
 末尾は小泉の発言を紹介するところから始まる。
  ×  ×  ×
 「昭和の戦争だって、満州(中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」
 「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」
 もとより脱原発の私は小気味よく聞いた。原発護持派は、小泉節といえども受け入れまい。5割の態度未定者にこそ知っていただきたいと思う。
  ×  ×  ×
 この小泉発言に(「山田コラムに」という方が正確か?)最初に反応した政界人はみんなの党代表・渡辺喜美だった。9月3日の党役員会のあいさつで、
<自民党の総理経験者で、日米同盟重視を実践してこられた小泉純一郎元首相がフィンランドの核廃棄物最終処分場を視察され、「脱原発への意思が強まった」と発言した。「いまゼロと方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しい。総理が決断すればできる」とも小泉氏は発言している。小泉氏による原発ゼロ宣言を高く評価したい>
 と語ったと報じられた。
 小泉が講演で「原発ゼロ」を語ったのは、その後1カ月余経過した10月1日が最初だったようだ。大阪読売が政治面(4ページ)のベタ記事にしているが「名古屋市内の講演」とあるだけ。派手な舞台ではなかったのだろう。
 ▼読売の強い批判
 これがきっかけだったのか、読売は10月7日付の一面コラム「編集手帳」と翌8日付社説であい次いで、小泉原発ゼロ論を批判した。
 編集手帳の書き出しと末尾を紹介しよう。
<書き出し=小泉進次郎衆院議員が中学生のころの思い出を語ったことがある。担任の先生が言った。「お父さん、進次郎君にもっとリーダーシップを発揮してもらいたいんです。そうすればクラスはもっとまとまるんですが…」◆父は答えた。「いや先生、私も父親が政治家だったから、進次郎の気持ちはよく分かります。何をやっても目立つ。出来る限り目立たないように、進次郎はそう思うんでしょう。それでいいと思います」>。
<末尾=政界を引退した父は最近、原発ゼロを唱え始めた。原発の代替案は「知恵ある人が出してくれる」と。政府内から無責任との声が上がっており、進次郎氏の立場もまずくなりかねない。はて、息子の気持ちが分かる父だったのかどうか>。
 社説のタイトルは<小泉元首相発言 「原発ゼロ」掲げる見識を疑う>だった。
 それぞれキツイ批判で、「非難」のニュアンスも込めている。
 小泉はこの批判に反論の投書をした。宛先は読売解説面のオピニオンスペース「論点」欄。いかにも小泉らしい行動だ。19日付で掲載されたが、「論説委員・遠藤弦」署名入りの反論(タイトルは<小泉氏は楽観的過ぎないか>付きという異例の扱いだった。
 小泉の主張のポイントの一つ、
<日本は、「鎖国」から「開国」へ、「鬼畜米英」から「親米英」へ、「石油パニック」から「環境先進国」へと方針の大転換を行って、危機を乗り越えて発展してきた>
 という部分について、遠藤の反論には何の言及もない。比較して読んだ人にとって「勝敗は明らか」であったはずだ。読売が正面切って、小泉の「原発ゼロ」論を否定したことは、逆効果であったように思える。安倍政権と一体化しているかのように原発肯定論に立つ読売が、真正面から批判したことは、小泉「原発ゼロ」論が強敵であることを示したといえる。
 そのころになると、小泉の原発ゼロ論は「政界常識」的に扱われるようになった。中日は10月14日付朝刊に<小泉父子ら 政権も無視できず 自民に脱原発の旗 まだ少数派ですが…>という記事を掲載した(東京新聞も同時掲載)。
 具体的な動きとして紹介しているのは、以下の文章だ。
<元首相の主張とは一線を画していた次男の進次郎復興政務官も7日、名古屋市での講演で「なし崩し的に(原発再稼働に)いって本当にいいのか」と、父に足並みをそろえた。進次郎氏の発信力は党の若手の中でも際立つだけに、安倍政権も軽視できない。
 将来的な再稼働は否定しないものの、現状では時期尚早だと主張する考えも表面化してきた。党資源・エネルギー戦略調査会「福島原発事故究明に関する小委員会」の村上誠一郎委員長は4日、原発の新増設に慎重な対応を求める提言書を安倍首相に提出。「党は政府の言う通りであるべきではない」と主張する。
 「元祖・脱原発派」で知られる河野太郎衆院議員は超党派の「原発ゼロの会」のメンバーとして、使用済み核燃料を再利用する核燃料サイクルの中止や原発輸出禁止を主張。河野氏は、政府が原発輸出を可能にするためにトルコと結んだ原子力協定に核兵器開発に道を開きかねない文言が盛り込まれていたため、党内の了承手続きに一時待ったをかけた。>
 小泉本人は16日、千葉県木更津市で講演した。このときテレビの取材が入り、「テレビカメラを前にした初めての「原発ゼロ論」という報道もあった。
 ▼論議の焦点に浮上
 11月に入ると、12日には日本記者クラブで小泉講演が行われた。同クラブからの要請によって実現したのであり、テーマは「原発ゼロ論」そのものだった。その直前、10日発売の「文藝春秋」12月号は、巻頭に
<総力大特集 安倍総理「長期政権」への直言「原発なくして成長なし、そんなことないね」 小泉純一郎 私に語った「脱原発宣言」>
 という記事が掲載された。この記事の筆者は、コラム「風知草」で最初に火を点けた毎日専門編集委員の山田だった。
 8月末、たった一本のコラムにすぎなかった「小泉原発ゼロ論」が、11月中旬には、大きな政策選択の問題として、マスコミと論壇の焦点に浮上したのだ。
 山田が小泉のドイツ・フィンランド歴訪を知ったのは、小泉の言動に注目していたから(山田の著書「小泉純一郎の『原発ゼロ』」=13年12月、毎日新聞社刊=による)。
 ▼原発にこだわり続けた!
 山田のコラム「風知草」は、2007年12月17日スタートで、すでに丸6年を超えたことになる。東日本大震災=福島第一原発事故の11年3・11以後は、テーマを原発にこだわり続けた。
 震災直後は新聞輸送も混乱したため、「風知草」は休載。復活第1号は4月7日で、タイトルは<津波が剥ぎ取ったもの>だった。冒頭に
<津波が剥ぎ取ったものは三陸の街や港だけではない。無力なのに盤石を装ってきた原子力行政の虚妄。その砂上に築かれた繁栄の危うさ、事態の深刻さに対する国民の認識ギャップもあらわになった>
 と書いた。復活第2号(4月18日)は<浜岡原発を止めよ>で、その後<「原発への警鐘」再び><再び「浜岡原発」を問う><暴走しているのは誰か>と続く。5月9日付の<暴走……>の冒頭は、
<なるほど、浜岡原発の全面停止は中部圏の生産や雇用にマイナスの影響を与えるだろう。脱原発の世論に弾みをつけ、他の原発に波及するに違いない。だが、それはとんでもない暴走だろうか。「何がなんでも電力消費」の本末転倒こそ暴走というべきではないか。>
 という文章。つまり内容は<三度(みたび)「浜岡」を問う>だったのだ。かなりしつこい「原発論議」を展開したのだ。この年12月5日付は<プルトニウムの反乱>だったが、以下の文章から書き始めている。
<なんで原発のことばかり書くのかと心配してくださる向きもあるが、これからの日本と世界を左右する決定的なテーマだと思うからである>
 毎日新聞の紙面で山田の略歴が紹介されている。1952年東京生まれというから現在61歳のはず。75年毎日新聞社入社で長崎支局、西部本社報道部を経て政治部。93年福島支局次長を経て政治部長、東京本社編集局次長、同編集局総務。毎日の編集局総務は、局長に次ぐ編集局ナンバー2だが、07年から政治部専門編集委員となって月曜朝刊のコラム「風知草」を執筆している。編集局長から社長を目指すコースもあり得たが、あえて降格してコラム筆者となったのは、本人の希望だったという。初任地が長崎だから原爆取材は当然の課題だった。福島支局次長の経験もプラスに作用して、原発にこだわることになったのだろう。
 ▼空気を読むだけのオピニオン記事
 山田のこだわりは、いまのマスコミ人とは逆の生き方であるかのように思われる。「空気が読めない(KY)」を、「非難語」に仕立て上げたのは、21世紀に入ってからのマスコミであるように思える。「世間の大勢=空気」を読み、それに沿った言動を展開することこそ、マスコミ界で生きていくための近道、という考え方が一般化した。だからこそKYはダメ人間となってしまったのである。
 空気が読めないのはダメという評価が一般化すると、人は「空気を読むだけ」の存在になってしまう。その空気を読むだけの人間、文章等を私は逆KYと名付けている。空気を読むことに熱心のあまり、自分の考えを失い、空気とは異なる自分の主張もできなくなる。こう考えて読むと新聞の社説、コラムなどの文章はたいていが逆KYの産物で、ユニークな独自の主張はない、と感じてしまう。
 政治コラムの場合、登場する政治家について読者に一定の知識があることを前提にして良い。その政治家に気の利いた言葉を語らせたら、それで一本出来上がり、という手法がある。それでは「高級感があるだけの床屋政談」にすぎないが、政治部上がりの有名ライターは、こうした現代版床屋政談を垂れ流し続けている。
 原発にこだわった山田の「風知草」は、逆KYでも、床屋政談でもなかった。浜岡原発については当時の菅直人首相が中部電力に運転停止を要請、中部電力が臨時取締役会で受け入れを決定という経過を経て11年5月14日、運転の全面休止が実現した。山田コラムに影響されたと言うのは間違いだろうが、経産省に根を張る原子力ムラと戦った菅にとって有力な援軍だったのではないか。
 浜岡原発運転休止の実現は、山田の原発へのこだわりの第1の戦果と位置づけることができる。小泉「原発ゼロ論」が成立し、都知事選の争点となることは、第2の戦果といえる。山田の「業績」として高く評価されるべきであることは当然だ。それ以上に、マスコミ発のオピニオンの力量は強いということを示す展開だったと言いたい。
 ▼政治の堕落を救うための言論
 政治コラムは各紙ともそろってを掲載している。他方で日本政治の現状については、低迷、混迷、堕落、腐敗などの言葉で特徴づけられている。プラス評価の言葉で政治が語られるのは、決まって過去の時代と人物がテーマなのだ。
 政治コラムの執筆者は、山田のようなこだわりを持つことにしたらどうだろう? こだわるテーマは枚挙に暇(いとま)がないといえるほどだ。国会議員に二世・三世が多く、閣僚や議会・政党役員など有力議員の中では比率がいっそう高まる「世襲政治」。票ばかり稼ぐが、政治についての識見が疑問とされるタレント議員。依然として実権を手放さない官僚たちの支配……。政治コラムの執筆者がこだわろうと考えれば、そのネタは多数にのぼる。それなのに、空気を読んで、あるいは高級床屋政談を目指して、「気が利いているでしょう」と誇るだけのコラムばかりだ。
 各紙の「社説」も、一本一本を読む限りではもっともらしいが、さて毎日書き続けて、政治は良くなっているかと考えてほしい。政治はダメになるばかりなのだ。マスコミのオピニオンこそが、政治をダメにする元凶だとする考えも成り立つはずだ。
 今回は毎日の山田専門編集委員の「原発へのこだわり」を賞賛する文章になった。この「読者日記」は、マスコミに対して忌憚(きたん)のない批判をすることを目的にしている。賞賛ではおかしいという批判も受けそうだが、真意は「こだわり」など持たない、フツーのコラムや社説に対する厳しい批判であることをご理解いただきたい。
 ▼猪瀬退陣報道の無意味さ
 この都知事選が行われることになったのは、前都知事。猪瀬直樹が徳洲会から現金5千万円の提供を受けただけだからだ。その事実を朝日が特ダネで報じたのが11月22日朝刊。12月19日に知事辞職を表明するまで、約1カ月、「カラスの啼かない日はあっても……」といえるほど、連日の猪瀬報道だった。
 しかし、石原慎太郎、猪瀬直樹と続いた「作家都政」の本質に迫った報道には接しなかった。なぜ猪瀬は5千万円をもらったのか。徳田虎雄にあいさつに行くよう、石原に指示されたのがことの発端であるらしい。もちろんその時点で、猪瀬は石原により「後継者」に指名されていた。
 徳田サイドの指示は、次男で衆院議員の毅に会うこと。毅に会うと5千万円を提供された。事実として明らかになったのは、これだけだ。この事実から、石原もまた徳田虎雄サイドから資金提供を受けていたことが分かる。推察にすぎないが、確度が高いものであることは明らかだろう。こういう場合、5千万円の受け取りを拒否することは、「石原後継」のポジションを自ら棄てることになる。これが政界ルールであることを猪瀬はよく知っていた。
 田中角栄からカネを渡され、それを拒否した場合と同じことなのだ。田中はもちろん「仲間だ」という認識でカネを渡した。そのカネの受け取りを拒否した政治家は、少なくともカネの部分については「貴方の仲間じゃない」と宣言することになる。それだけではない。受け取りを拒否したり、カネを返したりすることによって、「田中からカネを手渡されたが、受け取らなかった(あるいは返却した)」という経験談をマスコミに流す、あるいは自ら書くことができるという「権利」を確保したことになる。だからこそ田中は、受取拒否ないし返金した国会議員については「敵」として扱った。
 石原も猪瀬も、この政界ルールをよく知っており、だからこそ猪瀬は5千万円をスンナリ受け取った。こうした2人の「作家知事」の裏面について、きちんと書いた報道には接しなかった。石原も猪瀬も「作家」というのは集票のための表紙=看板にすぎなかった。中身はホンモノの政界人よりダーティーに、「政界のルール」を行動原理とする、最低レベルの政治家だった。この事実だけでもきちんと報じた記事には接することができなかった。つまりいちばん肝腎な真実の抜け落ちた報道だったのだ。
 猪瀬5千万円事件は、検察が市民団体の告発を受理した。刑訴法によれば、捜査機関は告訴・告発の受理を拒否することはできない。「受理した」ことがニュースになる現状はおかしいのだが、ともかく検察は「捜査する」と宣言したのだろう。都知事選に影響がないよう、本格捜査は2月9日以降となるのだろう。「検察の論理」に沿うだけの集中豪雨的報道と予測すると、ウンザリという気分にもなるが、ともかくどんな展開かを注視したい。

◆年頭社説
 最低限新聞各紙の年頭社説に触れなければならない。全国紙についていえば、読売は「われこそ主流」の自負をあからさまにし、朝日・毎日は、安倍政権のもと「改憲」をゴールにした流れに抗しようという覇気を失ったという感想を持った。
 読売の元旦社説は<日本浮上へ総力を結集せよ 「経済」と「中国」に万全の備えを>。冒頭の文章は<デフレの海で溺れている日本を救い出し、上昇気流に乗せなければならない>で、その直後に<中国が東シナ海とその上空で、強圧的な行動をエスカレートさせている。日本との間に偶発的衝突がいつあってもおかしくない、厳しい情勢が続く>と指摘している。経済でも、対中韓両国関係でも、情勢は厳しいと、国民のシリを叩いている。読売は自らを「国家のための言論機関」と位置づけ、「国民のための存在」と位置づける朝日や毎日との対立軸としているはずだ。その自負が良く示された文章だった。
 朝日は<政治と市民 にぎやかな民主主義に>、毎日は<民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう>だった。「にぎやかな民主主義」と、「枝葉が豊かに茂った、民主主義の木」というのは、同じようなものという印象を受けた。両紙が情報交換して、似通ったものにしたのではないか? 」という疑が脳裏をかすめたことを、記録に残したい。
 そんな中で、ブロック紙の健闘に拍手を送りたくなった。
 北海道新聞)は元旦から5日まで4回が「憲法から考える」シリーズだった。第1回(元日付)は冒頭、
<日本は今、勢いをつけて曲がり角を進んでいる。戦後守り続けてきた平和国家から決別する路線である。
 日本版NSCの設立、特定秘密保護法の制定…。安倍晋三首相は「積極的平和主義」と呼ぶが、軍事偏重路線に他ならない。国民の権利制限をも含む危険な道だ。
 すでに曲がり角をかなり進んでいると見るべきだろう。今までの政治情勢から言えば、歯止めをかけるのは容易ではないかもしれない。
 しかし私たちは流されるわけにはいかない。道しるべは憲法である(中略)
 憲法を前面に、この国のあり方をあらためて問い直していきたい>
 と書き、護憲の立場を鮮明にし、「安倍改憲政権」との対決姿勢をうち出している。
 4回の内容は①針路照らす最高法規 百年の構想力が問われる②揺らぐ国民主権 「普遍の原理」を守りたい③真の平和主義 9条の精神生かしてこそ④基本的人権・生存権 弱者の「居場所」を確実に、だった。
 中日(東京)新聞も、くっきりしたシリーズとした。「年のはじめに考える」を共通のタイトルとし、以下のラインアップだった。①人間中心の国づくりへ②障害を共に乗り越える③福島への想い新たに④憲法を守る道を行く⑤「幸せの循環」創りたい⑥「強い国」って何だろう⑦財政再建はなぜできぬ⑧こっそり改憲は許さない⑨子どもたちを泣かせない。昨年の大晦日・12月31日付社説が「大晦日に考える 日本人らしさよ」だから、「考える」シリーズは10回に及んだ。
 西日本新聞の場合、シリーズにはしていない。しかし元旦付け社説を<九州で生きるということ 吹き渡る変化の風の中で>とした。主張のポイントは、
<拡張を続ける中国の影響力の先端と接するのが、九州・沖縄を中心とした日本の南西地域、私たちの暮らしの現場でもある。
 九州に生きる人間にとって、領土の保全と併せ重要なのは、何より日中間の衝突回避だ。(中略)
 中国の防空識別圏設定に対し、自民党内では「中国機が入ってきたら撃ち落とせ」などの強硬論が飛び出したというが、政治家として無責任な発言というほかない。
 東京から見れば、領海や国境は単なる地図上の線かもしれない。しかし九州に住む者は、生活の中で頻繁に国境の存在を感じる。安定、安全を優先するのは当然だ。(中略)
 海を挟んで吹く『ナショナリズムの風』の中で、特に身を縮める必要もなければ、むやみに居丈高になることもない。アジアとの長い交流史をベースに、日々の生活を通じ積み上げたバランスの取れた発想こそが必要ではないか>
 であろう。
 中韓両国と接する地域の「地方紙」として、安倍政権の対中韓強硬姿勢に賛同するわけには行かないという鮮明な主張をしっかりうち出している。
 ブロック3紙の主張と比較すると、全国紙は「低迷」と酷評したくなるほどだった。


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