【ポスト・コロナの時代を考える】

21世紀システムの再構築を視点において

井上 定彦

 世界が同時に、つまり先進国と新興市場国、発展途上国が共に大恐慌(the Great Depression)以来の景気後退に陥っている。これはわずか3か月前には考えらないほどの劇的な変化であるという(4月14日公表のIMF「世界経済見通し」)。それから次ぎつぎと公表される統計指標も、今回の新型コロナ・ウイルス感染症(以下COVIT-19と表記)の大流行(パンデミック)がますます深く重い影響を世界にもたらしつつあることを示している。
 このパンデミックの広がりのスピードは、いかに世界が本当にグローバル化し、つながってきていたのかを、改めて思いしらされる。約100年前の「スペイン風邪」の流行では、世界中で2,000~4,000万人の死者(6億人の患者)をだしたが、その広がりは3年におよんだ。そしてこの死者数は第一次世界大戦の戦死者数1,000万人を軽く超えたわけだ。(日本でも、1918~20年の3年の間に約38万人の死者(患者2,300万人)をだした。)

 今日までのところ(5月10日現在)、今回の世界の感染者数は402万人、死者は28万人と公表されている(ジョンズ・ホプキンス大CSSE)。今回はわずかこの3か月あまりのことで、中国武漢に発し、まず日本、西欧、ついで米国に広がった。これらは医療や公衆衛生状態も良い地域での感染なので、これからのより不利な発展途上国での犠牲は想像を絶する規模の悲劇になるのではないか。日本政府も4月16日、全土に緊急事態宣言をだして必死に対応しようとしている(その後この「宣言」は5月末までの2ヵ月に及ぶとされた)。

◆ 事態の深刻さ・世界への衝撃

 今回の大景気後退については、すでに2008年の米発金融危機(the Great Recess-ion)以上の深刻さ、The Great Lockdown すなわち「大封鎖」危機とよべるようなものととらえられよう。景気変動がすぐに雇用統計に表れる特徴をもつアメリカでは、4月の失業率は前月の4%台から14.7%へ、失業者数は714万人から2,308万人にはねあがった。戦後最悪の水準である。この短期間の変化は、すでに恐慌状態にあるということなのだ。
 また、アメリカと並ぶ経済大国でもある中国は、1月下旬から徹底した「都市封鎖」と生産停止で、感染の広がりは3月には収まりつつあるとの政府の見解。国有企業をはじめ徐々に封鎖が解かれ、生産が再開されつつあるとのことだ。しかし、2020年1~3月期の実質GDP成長率は前年比マイナス6.8%と、統計をとりはじめた1992年以来の急落となった。
 また、欧州の打撃は大きく、5月6日公表の欧州委員会見通しでは、ユーロ圏の本年の実質成長率は7.7%減とされ、未曽有のことである。ちなみに、日本についてはIMF見通しではマイナス5.2%程度だとすることについてあまり異論はみられない。

 COVIT-19によって、世界の需要と供給は同時に凍結、削減された。このように、平時に需要と供給が一挙削減となる経験を知らない。世界大戦以来のこと(戦禍による)かもしれない。
 さきのIMF「経済見通し」は、いくつかの前提がある。この大流行が2020年後半に収束し、米・欧州・中国・日本でのそれぞれの大規模な政策行動(主要国で名目的には対GDP比で10%を超える規模という空前の財政・金融措置)が用意されつつあると伝えられるが、それが質・量共に足りて、全世界の経済システムへの抑圧力を防ぎうるかも、という限定付きのことである。そのうえでも、このIMFの見通しは2020年の世界の実質経済成長率はマイナス3.0%(先進国地域ではマイナス6.1%)というおそろしい数字になるという。
 つまり、そこでは、これまでの大危機では必ず経験したような企業倒産、金融危機は抑止される、懸念されている失業の長期化も抑制される、との前提がついてのことなのである。また、グローバル・サプライ・チェーンによって成り立ってきた国際関係も、いったん切れても早めに回復されるという想定にたっているようだ。すなわち、景気の「V字型回復」のシナリオであることも明示し、それ以外のより深刻なシナリオもありうるとしている。

 実体経済の急激な縮小は、これからが本番である。企業の窮迫・破綻、家計収入の急減、遅れてくる失業増大は、市場の収縮、投資の急減なスパイラルをまねき、縮小再生産となる。それが銀行の破綻、金融市場の悪化とあいまってさらに事態を悪化させる。そしてまた、世界規模で広がることの相乗効果で増幅されるわけだ。
 そこにはCOVIT-19への医学的対応、新薬としての治療薬やワクチンがいつ開発・供給されうるのか、まったく不確実だということもある。だから、アメリカ経済がもとの水準にもどるまでは3-4年はかかるという悲観説がでてくるのにも根拠がある。

◆ これまでの21世紀・これからの21世紀 節目の「コロナ禍」

 私たちが注目すべきことは、今回の「コロナ禍」は、すでに20年を経過した21世紀のこれまでの世界システムの変調(構造変化を背景)や、資本主義の現代的展開の仕方の「無理」と矛盾(実体経済に対して民間と公的な負債上昇によってはじめて現状維持が可能)、格差社会の現実、を露呈させた。そして、現下のCOVIT-19の急激な拡散が、その不合理・不条理を大きく増幅させているわけだ。
 加えて、いまや地球環境問題の深刻化、ますます懸念を深める核戦力の拡散(北朝鮮等)などの人類の新課題が焦眉のものとなってきていた。しかし、この新事態についてまったく対応できていない。
 さらに、深刻なのは、日本と東アジアについては、家族・コミュニティの変容を背景に持つ、人口減少ということに対応がまったく追いつかず、「社会の持続可能性」そのものが文字どおり問われている、ということがある。社会課題が根本問題となってきていたということである。

 この21世紀に入っての世界システムの変調、これまで先送りしてきたこと、更に新たに登場してきた重大課題、すなわち国際政治、経済システムの行き詰まり、加えて内側からの文化変容、生活スタイルの変化にも関わる地域社会の盛衰、これらが二重、三重となってあぶりだされ、私たちに問題をつきつけているわけだ。

◆ 「成長主義」・成長が常態という常識への基本的問い返し

 今回のコロナ禍とその後の動きは、2008年の金融危機を経て、破断局面は回避しえたとしても長期経済停滞傾向は避けられない(ローレンス・サマーズ)という見解をあらためて浮き彫りにするだろう。それは、民間と国のレベルの双方において肥大化する「債務」の拡大によって、経済はかろうじて「停滞」という程度ですまされてきたということなのかもしれない。そのような議論の前提となるのは、そもそも、第二次大戦後のかなり早い経済成長が常態であると考えられ、それ以降、21世紀になっても成長鈍化や停滞は異常事態だ、あるいは「失政」に原因がある、と思われてきたこと自体に問題があったとみるべきなのかもしれない。

 19世紀後半から、先進諸国では、まずは列車や船舶による移動、機械制大工業による衣服・雑貨の大量生産、鉄鋼などの生産財生産が広がった。ついで、内燃機関・自動車の発達、電力・電機産業の発達、ラジオからテレビにいたる家電製品が普及し、産業民主主義もすすむことで、大衆消費社会も一般化した。都市も、農村も、生活様式も大きく変容し、産業構造は高度化、市場の国際的広がりは先進国と途上国の格差・亀裂を広げつつも、世界のライフ・スタイルについては(服装、容姿を含めて)「フラット化」したように映る。
 いま、中国・インド等の新興工業国はそのあとを追ってきただけだともいえる。

 このような大きな構造変容をもたらしたものは「技術革新」の波とよばれるが、そのような大変化(高い生産性上昇率の持続)は、もはや20世紀という例外的な時期にのみあらわれたことで、むしろ、成長率でいえば0~1%程度という人類史的にみれば正常な軌道にもどりつつあるという見方をとるほうがわかりやすいのかもしれない。この数十年のME革命やIT化、さらには未知数も残るAI化が、そのような変化に匹敵するものかどうか断言しにくい。むしろそうではないだろう、という有力な見解もある(ロバート・ゴードン『アメリカ経済 成長の終焉』)。
 その停滞の底には、世界に広がる「格差社会」の定着、ごく一部分の富裕層への富の集中と、他方での実質賃金の推移にもみられるように、この数十年にわたり停滞しあるいは低下してきた大多数の人々という問題が、直にむすびついている。日本では非正規雇用とシングルマザーをふくむ貧困の問題、あるいはウーバーのような「ギク・エコノミー」のように、自己増殖する資本、社会の疎外を広げる現代資本主義の問題性がある。

 それなのに、主要国政府は、21世紀に入ってもかなり高い経済成長はずっと続くものと仮定して、繰り返し訪れる経済危機の波を政府介入の臨時緊急の金融・財政発動による救済措置、具体的には公的債務拡大により、債務を将来に「先送り」する手法で対処してきた(W.シュトレーク『時間かせぎの資本主義』)。二回の石油危機や、ほとんど10年毎に現れる金融危機(1987年の「ブラック・マンデー」、1997年のアジア経済危機、2001年のエンロン危機、2008年の深刻な「金融危機」)に正面から対処せず、危機を先送りしてきた。多くの大銀行やGMのような大企業を含めて連鎖する大倒産に直面すると、新自由主義の「市場的正義」の論理はかなぐり捨てられて、殆ど無節操な(モラル・ハザード)大銀行・大企業救済策を発動してきた(いまや日銀は最大の株主である)。
 中央銀行による証券・債券の買い支えによって資産価格を維持高騰させ、政治的人気を博するという「無理」、ゼロ金利政策が「マイナス金利」で支えることについても人々は驚かなくなっている。民間企業の失敗による大規模な累積負債は、いまや公的負債に置き換えられ、この10年で対GDP比でみた主要国の負債は数割方は膨れ上がっていた(日本の公的債務累積額は対GDP比で196%、1,101兆円となっている。2018年年度データ)。これが今回の非常事態でさらに大幅にはね上がることになるわけだ。

 このような非常手段の連続技を、主要国がそれぞれに行ってきていたところに、今回のコロナ禍が加わったわけだから、選挙民向けに民主主義国は企業の存続のための給付金や無担保融資、国民の生活の存続のための「一時金」として、「赤字国債」のさらなる積み増しを躊躇なく行うことができる。非常時のなかでの非常事態措置なので誰も反対できない。この「つけ」はどこに回るのか、思考すら及ばないままというような、困難な局面に移行したわけだ。(現代貨幣理論MMTを絵にかいたような行動)。
 このようにみれば、「資本主義の停滞と腐朽」はまさに極まりつつあるということだ。

◆ 亀裂広がる世界をどうするのか

 このような一斉にあらわれた世界危機に対しては、かつて二回の石油危機ではG7首脳会議の定例化(1975年以降毎年)、先の2008年の世界金融危機では新たにG20首脳脳会議が緊急に招集され、国際協調行動が組織された。それが、1929年の大恐慌のような大惨事となるところを、多少は緩和しえたわけだ。しかしながら、今回私たちが目にしているのは、これまで国際協調による行動をよびかけてきた国・政府がそこに見当たらなくなっているということだ。それどころか、20世紀を主導し、また2001年からの「テロとの戦い」の先頭に立ってきたアメリカが、今度はあろうことか、いまこそ世界が一致団結してCOVIT-19に対して情報と技術を集め連携して立ち向かうべきときに、反対の動きをとろうとしている。
 トランプ米大統領は、そのような役割を果たすべき国際機関として、いよいよ活用する時が来たはずの国際保健機関(WHO)に対して、資金拠出停止をいち早く表明してしまった。しかもこのような動きは、苦しくなってきたこの秋の大統領選挙対策として、アメリカが最悪規模での感染者・死亡者をだしていることへの責任について、発生源の中国政府に転嫁しようという意図も「みえみえ」である(中国政府も事態の公表が遅れたことは否定しえないと思われるが)。

 ライバルとされる中国は、感染症のひろがりが1月後半から都市の大封鎖「ロック・ダウン」によって、3月には小康状態がみられることからの、早速にWHOの調査団受け入れを表明。加えて、医薬品をはじめこれから深刻化すると予想される途上国への援助をすでに開始している。もしも、21世紀世界のこれからが、「米・中対決」の時代だとみるとすれば、この局面のモラル・ヘゲモニーは、中国に軍配をあげざるをえないわけだ(同時に行われた香港の民主派リーダーの捕縛は見過ごせないが)。

 トランプ大統領になってからの「アメリカ第一」への国際戦略の「転換」。それは、徐々に進んできたアメリカの位置の相対的低下、世界の多極化・分極化・対立を一層早めることになっている。欧州連合の独自の存在感、世界第二の大国となった中国、それにつづく新興諸国の独自の動きをふまえて、アメリカはそれまで蓄積してきた「国際公共財」を生かした対応をなすべきチャンスを、逆に使ってしまっている。いまや、いつでも「イエス・マン」で同調を期待できるのは、日本の安倍政権くらいなのではないのか(ドテルテ比大統領のように米との地位協定破棄通告すらでるなかで)。そうではなくて、いまこそ、世界は一致して「人類最大の敵」COVIT-19に立ち向かうべき時なのである。

 昨年の世界のヒロインは、迫りくる地球環境の悪化、異常気象の頻発、温暖化対策について、ひとりで行動に立ちあがったグレタ・トゥンベリさんとなった。国連本部で9月にひらかれた「国連気候行動会議」は、温暖化対策に向けてようやく動き出した。また、2016年12月の国連総会は、北朝鮮、イスラエル、イラン等を念頭におきながら世界の核戦力の拡大を阻止し、地球上から核兵器をなくす核兵器禁止条約を加盟国の3分2に迫る112か国で採択した。「ヒバクシャ」、サーロー・節子さんのスピーチに心をうたれなかったものはいなかったはずだ。
 その後の動きはどうなったのか。オバマ大統領の核兵器全廃を目指したいというベルリン演説にも拘わらず、超大国アメリカは動かず、それどころか流れに抗した。おどろくべきことに唯一の被爆国・日本の政府の行動も、これにしたがったものと世界ではみられている。

 世界は多極化し、利害対立がそれぞれに日常化しても、政治・経済・産業・観光などの人的交流を含めて20世紀とは違ったレベルで深くつながってしまっている。
 新たなナショナリズムの台頭も懸念されるが、「国民国家」の役割があらためて見直されるとしても、それでも、この切断しようもない世界の深いつながりという現実を直視しなければならない。新たな国際協力・協調の仕組み、国際秩序を共に再構築しなければならないのではないか。それがCOVIT-19に対抗する唯一の道なのではないか。

◆ 「持続可能な社会」への道

 国連はSDGs(持続可能な開発目標)を掲げるようになった。東アジアには独自の社会の「持続可能性」の問題が浮上している。これも21世紀に入ってからのことである。
 日本の2019年の出生者数は86万4,000人、対して死亡数は137万6,000人である。すなわち1年で51万人の自然減である。合計特殊出生率(おおよそ女性が生涯に産む子どもの数)は1.42人程度と思われる。他方、韓国の合計特殊出生率はなんと1を割り込み、わずか0.92人、OECD諸国平均の1.6人を大きく下回っている。台湾も1.13人(2017年)。そして中国は、2016年にいわゆる「一人っ子政策」を転換したが、出生者総数はいまだ減り続けている。2029年にはこれら諸国・地域と同様に人口減少社会に移行するのでは、との推計もある(MUFG China)。
 もともと人口の置換水準(人口維持)は2.1人なのだから、東アジアは恐るべきスピードで高齢社会へそして超高齢社会(65歳人口の全人口比が21%以上となる)に一斉に移ってゆこうとしている(ゆるやかな人口減少ならば、高齢期までの人生のまっとう、社会制度や地域をおびやかす懸念は少ないが、日本を含め東アジア諸国の現象は危険水域にある)。

 韓国、中国などは、北欧水準どころか日本の高齢者比率を超えることもありえよう。こうした東アジアでの人口構造の変容は、急激な都市化あるいは農村部の縮小、なによりも家族の変容(大家族から核家族へそして単身者比率の急増した社会)のもとでの近代的(都市型の)ライフ・スタイルの定着がある。そこに西欧・北欧が100年近くかけて発達させてきた社会保障制度、公教育制度、介護や保育制度の拡充にとても追いけないことが最大の問題であることは明白だ。
 加えて、限られた高所得者層への富の集中、一般勤労者の所得改善が伴わず、社会格差が拡大しているという、この30年の間での欧米社会で広がった傾向が重なったことによって、いっそう深刻さを増しているのだ。近代社会に不可欠な産業民主主義をこの地域にも根付かせることも欠かせないのだ。

 アジア・モンスーン地帯では、気候変動、異常気象は近年途切れなく、また激しさを増して続いてきた。それに今度は「コロナ禍」が追い打ちをかけたのだ。
 大きな試練は続く。

 社会変容に対応して、少しずつ構築されはじめている社会保障制度、高等教育をふくむ公教育制度、家族に頼りがちだった高齢者介護・保育を制度として拡充させること、全国レベルからコミュニティ・レベルにいたる社会公共サービスは、各級で飛躍的に拡充されねば「東アジアの奇跡」はおわる。それどころか、21世紀の半ばには下降の転換点にいたることは予想に難くない。

◆ 「人間の安全保障」―人権と民主主主義を基盤に
 「緑の福祉社会」をめざして、地域コミュニティから、一国レベルから、また地球的視点から、「分節化」された、すなわち、新たな公共システム・国際システムを、多元的に系統的に構築してゆく「ねばり強さ(Resilience)」、賢明さが求められる。そして、「持続可能な社会」へ転換してゆくには、それぞれの地域での、市民のエンパワーメント、市民力の高まり、その自発性を持ったさまざまな集団的行動を欠いてはありえない。
 21世紀世界の困難を直視しつつ、基本的人権と自由の擁護に立ち、そこに依拠した民主主義の力を生かしてゆく、そのような王道以外の近道はない。

 (島根県立大学名誉教授)

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