【コラム】
1960年に青春だった(15)

7月5日17時 全国で「とんがり帽子」を合唱しよう

鈴木 康之

画像の説明

 ほぼ同い年の友人Nが自身のfbにノリのいい投稿をしました。

 NHK朝ドラ「エール」で「鐘の鳴る丘」を聴いたという2行のコメントと、去年、穂高へ旅したさいに撮った、鐘の鳴る丘集会所と記念碑の写真2葉。と、そこまではシンプルな投稿でしたが、コメントに続けてノリのいい1行がありました。

 ♪^^♪緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台♪^^♪

 いい歳したNの指が若い世代が器用に使う顔文字を打っています。朝聞いた曲の余韻がずっと頭の中で弾んでいたからに違いありません。よくあることです。

 友人のfbを見てボクの頭でも弾むものがありました。この曲は名曲ですから。ボクの頭には前奏部から思い出せるようにしっかり覚えられています。
 前奏部が出てくるままに、ボクもいい年してカタカナで返信に打ち込みました。

 キンコンカンコン、キンコンカンコン、ジャージャーカ ジャンジャカジャージャン ジャカジャカジャージャージャン ジャカジャジャン(はいっ!)

 すると、友人も即座に返信してきました。

 ミッドリノオッカノ アッカイヤネー トンッガリボーシノ トッケイダイッ

 そうでした、この歌を川田正子ちゃんと音羽ゆりかご会の少女たちは、歌詞に促音(ッ)を入れて弾むように歌いました。いまのテレビの「サザエさん」よりずっと弾んでいましたね。なにごとにも「明るく、元気に」をテーマにする社会的時代的背景があったからであります。

 さて、ボクは「エール」をタイトルすら知りませんでした。テレビの連ドラ、新聞の連載ものは見ない、読まない、聴かない、で、世間を狭くしている横着者です。
 遅ればせながらネットで調べてみたら、昭和の時代を生き抜いた若き音楽家夫婦が主人公の連ドラだと知りました。

 ボクの故郷には緑の丘も赤い屋根もとんがり帽子の時計台もありませんでした。けれどもこの曲の1番の1行目はまるで1枚の画像として焼き付いています。

 1947年(昭和22年)7月5日から1950年の年末までの600回、古びた茶箪笥の上のアナログラジオに耳を向け、目を瞑って「ミッドリノオッカノ アッカイヤネー トンッガリボーシノ トッケイダイッ」の一語一語を見えているように聴いたからでしょう。

 あらためて調べてみました。この連続ドラマの動機は、1947年4月のエドワード・ジョゼフ・フラナガン <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%B3> の来日である、とありました。やっぱりこれもフラナガン神父でしたか。

 終戦、つまり敗戦の2年後、小学4年生時、学校からザラ紙の粗末な薄本が配られました。
 『フラナガン神父の「少年の町」』近藤良敏訳 毎日新聞社

 内外の偉人伝には興味のない子どもでしたが、この本はなぜかボクを捕まえました。訳者名まで覚えたほどです。中高大と自室の書棚に残していたと思います。
 中高の進学願書の「尊敬する人物」の欄に「フラナガン神父」と記していました。

 中国での戦火で日本軍が幾多の罪のない子どもたちを戦災孤児にしたように、連合国軍は日本の、ボクと同世代の子どもたちを戦災孤児にし、非行少年にしました。

 そうした敗戦国統治の一策としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、つまりあのパイプくわえたダグラス・マッカーサー元帥は、米国ネブラスカで「ボーイズタウン」の奉仕活動をしていたフラナガン神父を日本に招致、著書の日本語訳を全国の学童に配り、その一方、CIE(民間情報教育局)からNHKに孤児救済のためのキャンペーン・ドラマを制作・放送するよう指示しました。

 かくして日本全国、茶箪笥の上のラジオをとんがり帽子の時計台に見立て、毎日毎日あの歌を響きわたらせたのです。

 その社会統治の、事後の効果分析がどうであったかは知りませんが、作詞・菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子、音羽ゆりかご会の明朗快活な名曲は、ラジオの前にいた日本人の心に響き、人の記憶や日本の戦後史にしみこんだことは確かです。
 ラジオの前に居なかった少年少女たちや大人たちには届かなかったでしょうけれども。

 穂高山麓の鐘の鳴る丘集会所のとんがり帽子からは、いまでも毎日10時、12時、15時にこの主題歌が流れているそうです。

 そしていまはネットの時代、この歌をあらためて聴き、まつわる話を懐かしみ、あのラジオの時代から戦火なしに過ごせた三四半世紀を思い、胸なで下ろしあう“サロン”があります。

 ブログ『二木紘三のうた物語』です。二木さんは教育、言語、音楽など幅広い見識と知識をお持ちのフリー・ジャーナリスト。ファンが大勢います。
 ブログには大衆から愛された歌謡曲の、外来のポピュラーソングの、歌詞、旋律と解説が収められ、さらに投稿、投稿者と二木さんの交信が掲載されています。

 「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」についての投稿からほんの一部のメッセージをピックアップしますと…。

(A)いまは北海道ですが以前群馬県に住んでいました。赤城山麓にも「鐘の鳴る丘少年の家」がありました。初代園長が数人の孤児と生活を始めた頃、ラジオ・ドラマを聞いて菊田一夫さんに会いに行き、助力を得て施設名を付けたそうです。

(B)夏の夕方、ハモニカで吹いたものでした。

(C)最近8番まであることを知りました。
  緑の丘の 白樺の 学びの窓に 日が落ちて
  鐘が鳴ります キンコンカン とんがり帽子も 真っ暗で
  青い夜空に 銀の星 ポッカリ浮かんだ 僕らの星よ

(D)口ずさみながら胸が詰まって歌えなくなることがあります。

(E)携帯の着信音は「鐘の鳴る丘」です。

(F)軍隊を経験したことのある中学の先生が「君たちには考えられないだろうけれど、日本にも親を亡くした戦災孤児があちこちにいて、靴磨きや泥棒なんかをして必死に生きていたんだよ」と涙ぐまれていたことを今も忘れられません。

 ここまで綴ってきて、いま幻で鐘の音が聴こえてきまして、閃いたのですけれど、いっそみんなで「とんがり帽子」を合唱しませんか。

 2021年7月5日月曜日午後5時(放送開始月日の同時刻)全国いっせいに。
 歌のリモート企画としては、もう3周も4周もの周回遅れですけれど。

 詳細はオルタ誌次号の拙稿で。

 (元コピーライター)

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