■『保守も知らない靖国神社』(小林よしのり)を論ず

『保守も知らない靖国神社』(小林よしのり)を論ず

(ベスト新書759円)

岡田 一郎


 本書の執筆者である小林よしのりはギャグ漫画家として一世を風靡した人物であり、代表作である『おぼっちゃまくん』(お金持ちの子どもの生活をわざと大げさに描くことによって上流階級を風刺した漫画)はアニメ化もされ、空前のヒット作となった。私も『おぼっちゃまくん』のアニメを2・3度見たことはあるが、作者の小林を意識したことはなかった。私が小林を意識するようになったのは、たまたま見た週刊誌に掲載されていた漫画『ゴーマニズム宣言』を読んだ後である。

 『ゴーマニズム宣言』は1992年より週刊誌に掲載された時事評論など小林が考えたことを漫画の形で表現した作品であるが、当初は当時、劣勢になりつつあった左派・リベラルの立場に敢えて立つというスタンスをとっていたように思う。その後、薬害エイズ事件の真相追及運動に参加した小林は市民運動への違和感から、次第に右傾化し、1995年に大東亜戦争肯定論である『戦争論』を発表する。漫画で読みやすいということもあって小林の思想は若者に浸透し、小林自身も保守論壇の寵児となった。しかし、大東亜戦争を肯定するゆえに反米のスタンスを崩さず、イラク戦争に反対するなど、反米色を強めて保守派の多数派ともあいいれなくなり、今日では小林は保守派の異端児として独自の立場を確立している。

 私自身は小林が薬害エイズ事件に関わるようになったころから、『ゴーマニズム宣言』を読まなくなり、今回、本書の書評の企画をいただいて、約20年ぶりに小林の思想に触れることとなった。一読した感想は、「小林の思想の根本は何も変わっていない」というものであった。私が『ゴーマニズム宣言』を愛読していた頃、当時、まだ連載が続いていた『おぼっちゃまくん』に出てくるギャグのアイディアをどのように得ているのかを取材しに来たマスコミに、自分がどのように対応しているのを描いた回があった。

 マスコミが求めるような絵を撮らせる小林だったが、最後に「実際に私はこんなことをしない。なぜならば、心が子どもである私は、子どもに取材しなくても子どもが何を考えているのかわかるからだ」という趣旨のことを書いていた。本書を読んで、私はこの回のことを鮮明に思い出した。小林は子どもなのだ。しかし、それは幼稚という意味ではなく、童話「裸の王様」に出てくる子どものように、自分が見たこと考えたことを素直に表現するという意味である。

 私たちはある物事に対して、実際にはよくわかっていないにもかかわらず、「昔からそう言われているから」「周囲がそう言っているから」という理由で他人の意見に同調し、わかった気になっていることがよくある。すなわち、「愚か者には見えない服です」と詐欺師に言われて服が見えたつもりになっている王様や大人たちと同じである。それに対して、小林は「王様は裸だ」と叫んだ子どものように、「あなたはそう思わされているだけだ」と人々に問いかけるのである。小林は「ゴーマニズム宣言」の中で皇太子御成婚を茶化した漫画や差別表現に目くじらをたてる風潮に疑問を呈する漫画を発表して物議を醸したことがあるが、小林自身には世を騒がそうという意識がなく、「なぜ皇太子御成婚を茶化してはいけないのか」「なぜ差別表現を使用してはいけないのか」を徹底的に考えたかったのだろう。

 そして、本書は小林が「なぜ、靖国神社は必要なのか」という問題について徹底的に考えた思考の帰結である。靖国神社は国家のために命を落とした軍人を顕彰する施設である。例え、戦場で命を落とし、遺骨が回収されなかったとしても、霊は靖国神社に祀られ、そこに多くの人々が参拝に訪れる。国家のために命を落とした軍人を別け隔てなく顕彰するという意味で靖国神社は世界的に稀有な存在であり、霊を祀るというのは日本古来の死者の送り方に則ったものである。A級戦犯は不可避であった太平洋戦争(小林が言うところの大東亜戦争)の責任を一身に負って、戦勝国によるリンチにすぎない東京裁判で死刑を宣告された功臣であり、当然靖国神社に祀られるべきものである、というのが小林の基本的な考え方である。

 当然、私には私なりの考え方があり、小林の考え方に疑問を抱かざるを得ない点は当然、存在する。例えば、小林は、太平洋戦争はアメリカがドイツと開戦するためにドイツの同盟国であった日本にアメリカを攻撃させるために禁輸で追い込んだために発生したとし、東条英機が首相になったときには太平洋戦争は不可避であったとして東条を弁護する。戦後、東条一人が戦争責任を負わされ、東条の遺族が塗炭の苦しみを味わったことは私も理不尽であると思う。

 しかし、太平洋戦争はそれまでの日本の外交政策の失敗が積み重なった帰結ではなかったのか。アメリカに日本を第二次世界大戦に引きずり込むという意図があったとしても、アメリカの術策にまんまとはまり、我が国を破滅寸前まで追いやった者の責任を追及しなくてよいのか。小林も東条を弁護する際、東条が首相に就任する以前の外交政策に問題があったことを認めているが、ならば東条を免罪するにしても、東条以前に日米開戦を不可避な状態にした者の責任が追及されなければならないのではないか。

 また、大東亜戦争をアジア解放のための聖戦と捉えているが、アジア解放を日本が真に願っていたならば、なぜ、真っ先に植民地である朝鮮半島や台湾を独立させなかったのだろうか(日本軍の兵士たちがアジア解放のための戦いと心から信じていたことを否定するものではない)。また、小林は、靖国神社が「ここに戦死した軍人の霊が祀られている」と主張しているだけなのだから、自分の親族などが靖国神社に祀られていることに反対する遺族は「『そんなところに故人の霊はいない』とひとこと言えば済む話である」(230ページ)と述べているが、そんな簡単に割り切れる問題だろうかという疑問がわく。

 自分の親族には第二次世界大戦で戦死した人物がいないので、自分自身は靖国神社に対して、あまり思い入れはない。だが、本書を読みながら、小林の意見に同調するにしても反発するにしても、「靖国神社はどうあるべきか」と自分自身の考えを整理するきっかけとなった。私のように本書をきっかけに読者一人一人が靖国神社に向き合うこと、これこそが本書の狙いではないかと私は思う。

 なぜならば、本書の中で小林が憤っているのは本来、靖国神社に対して真剣に向き合わなければならない保守派が思考停止状態に陥り、結果として靖国神社とそこに祀られている英霊を冒涜していることだからである。例えば、保守政治家が世論の批判をかわし、公式参拝の実をとるために靖国神社参拝の作法を無視する参拝を強行したり、アメリカの警告を無視して参拝し、アメリカから抗議されると「コアとなる支持者の期待を裏切らないため」などとうそぶき、外交交渉でアメリカの歓心を得るために屈辱的な譲歩をおこなったりしているにもかかわらず、「靖国神社に参拝した」というだけでその政治家を支持する保守派知識人と大衆に小林は激怒する。「そんなことを英霊が喜ぶと思っているのか」と。

 また、靖国神社で聞くに堪えないヘイトスピーチを繰り返し、中国との戦争を煽る自称・保守知識人にも小林は激怒する。「朝鮮半島出身の英霊やアジア解放の大義に殉じた英霊も祀っている靖国神社でヘイトスピーチを行うとは何事か。それに自分たちで中国と戦争する気概もなく、いざとなったら自衛隊とアメリカ軍に中国と戦争をさせようという人間たちが安易に戦争を煽るな」と。

 小林の指摘を読むと、一部の自称・保守派にとって、靖国神社が、支持者にアピールしたり、権力者に盲従する自分を正当化したり、他国を貶めて自分たちの自尊心を満足させる道具となっていることがうかがえる。だが、真の愛国者ならば、国家・民族の独立と国民の幸福を最優先すべきであって、権力者が国家・民族の独立や国民の幸福に反する政策をとるならば、靖国神社に参拝しようがしまいが批判するべきであるし、真に自分たちが生まれ育った国家・民族を心から愛しているならば、他国を貶めて自尊心にひたる必要もないはずである。

 すなわち、小林の主張のほうが保守派として筋が通っている。にもかかわらず、保守派の中で小林のような人物が少数派で、小林が憤らざるを得ないのは、昨今の保守的な風潮が、国民一人ひとりが真剣に考えぬいて保守派になった結果ではなく、「空気」に過ぎないからではないだろうか。

 山本七平が指摘したように日本人はとかく場の空気に流されやすい。そのため短時間で極端から極端へと日本人の思想は変転してしまう。数年前はマスコミが中国や韓国でのビジネスチャンスをさかんに喧伝し、人々は夢中で韓国のドラマを見、韓国のアーティストの歌やダンスを真似していたにもかかわらず、マスコミは今では嫌韓・嫌中本をさかんに出版し、人々がそれを熱心に読んでいるという一事で、日本人が空気に流されやすい民族だと再認識させられる。そしてこのような空気こそが、日本をかつて無謀な戦争へと導いたのではなかったか。新右翼の鈴木邦男は次のように指摘する。

 東条英機のお孫さんの由希子さんに何度か会ったことがある。戦争前、一般国民からもの凄い数の手紙が来たという。段ボール箱何箱にもなった。その内容は、ほとんどが攻撃・脅迫だったという。「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というものばかりだったという。

 国民が煽ったのだ。新聞・出版社も煽った。戦意高揚のスローガンも大量生産された。その中に、こんなものがあった。
 「米英を消して、明るい世界地図」
 「日の丸で埋める倫敦(ロンドン)、紐育(ニューヨーク)」

 馬鹿なことを考え、無責任なスローガンにしたのだ。しかし今、『中国が世界地図から消える日』などという本も出ている。70年前と変わらない。強硬で、排外主義的なことを言うと、それで「愛国者」だと思われる。それが、なさけない。嫌中本、嫌韓本を読んで「胸がスッとする」という人がいる。それが愛国心だと誤解する人がいる。それは間違っている。それは排外主義であって愛国心ではない。(鈴木邦男「言論の覚悟 真の愛国心とは何か」『月刊 創』488号(2014年9・10月)、80ページ)

 私たちは後先考えないまま空気に流されて戦争に突入し、我が国を破滅寸前まで追いやった歴史を知っている。だからこそ、同じ過ちを繰り返してはならない。そのためには自称・保守派も自称・リベラル派もまずは「なぜ自分はこのような政治的立ち位置に至ったのか」「自分は自分が生きた時代の空気に流されていなかったのか」と自分の思想を根本から問い直す必要があるのではないだろうか。

 根本から徹底的に論理的に自分の思想を積み上げていけば、自分が、そして我が国が今後、どのように生きていくべきかが自ずと見えてくるだろう。小林が本書を通して読者に期待するのは、自分の頭で考えることであって、小林(あるいは他の誰か)の考えを盲信する信者を増やすことではないと思う。そして、小林が真に望んでいるのは、誰もが小林のように常識を根底から疑い、「空気」ではなく「論理」によって世論を形成する人間へと日本人が生まれ変わることではないだろうか。

 (筆者は政治学専攻・小山高専・日本大学・東京成徳大学非常勤講師)


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