人間が馬と同じ道を辿るのか

【コラム】海外論潮短評(98)

人間が馬と同じ道を辿るのか
—第二次機械化時代における労働—

初岡 昌一郎


 アメリカの代表的国際問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』7/8月号は、「ハイ! ロボット — オートメーション時代における労働と生活」という、同誌としては珍しいテーマで特集を組んでいる。特集の柱の一つである表題論文の要旨を紹介したい。

 共著者の一人、エリック・ブラインヨルフソンはマネージメント・サイエンスの専門家。マサチューセッツ工科大学(MIT)教授で、『MIT経営管理レビュー』誌責任者。もう一人は、MIT経営大学院主任研究員のアンドリュー・マカーフィー。 彼らは『第二次機械化時代 — 卓越した技術の時代における労働、進歩および繁栄』という新刊書の共著者である。

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ロボットはどこまで人間労働を代替するのか
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 技術が労働、雇用、賃金にどのような影響を与えるかという問題は、産業化初期に“ラッダイト”と言われたイギリス繊維労働者の一団が仕事を奪われる脅威を感じ、自動織機の導入に抗議した頃から注目されだした。それ以後、技術革新のニューウエーブは常に労働者の大量解雇という懸念を伴ってきた。

 論争の一方には、新技術による労働者の追放を批判する立場がある。蒸気機関の時代に論文を書いたマルクスは、オートメーションを資本主義に必然的な特質とみた。電化と内燃エンジンがテイクオフした1930年代に、このような技術革新は物質的繁栄の拡大には資するものの、“技術的失業”が広がるとケインズは考えた。コンピュータ時代の夜明けにあたる1964年、自然科学と社会科学の学者集団がジョンソン大統領に書簡を送り、「サイバネティック化が生産能力をほぼ無限にするシステムを招来するので、次第に人間労働が必要とされなくなる」と警告した。最近我々は、デジタル技術競争が進むにつれ、多くの労働者が取り残される可能性があると論じている。

 他方、労働者にとっても技術革新は好都合だと論ずる人たちがいる。彼らは歴史の経験に依拠している。技術は進歩を続けているが、19世紀半ば以後、実質賃金と雇用は着実に伸びている。この見解は主流派経済学によって牽引されている。

 1983年、ノーベル経済学賞受賞者レオンチェフが、人間と馬の例えによって巧妙な説明を行った。それまで、馬にたいする需要は技術変化の否定的影響を受けないと考えられていた。電信が早馬にとって代わり、鉄道が馬車を代替したが、アメリカの飼育馬数は1940年から1900年の間に2100万頭以上へ6倍増となり、まだ増えると思われていた。馬とロバは農場だけではなく、都市においても人や物を運搬するために欠くべからざるものであった。

 ところが、その後の内燃機関動力の導入と普及によって、傾向が急速に逆転した。都市における自動車と農村におけるトラクターが馬を無用の長物にしてしまった。1960年までの半世紀間に飼馬数は約88%減少し、わずか300万頭になった。新技術が登場したことによって、馬の仕事は消滅を運命づけられた。この経験は人間の雇用にも当て嵌まるだろうか。

 レオンチェフは“イエス”と述べ「生産の最も重要な要素としての人間の役割は馬のようにまず減少し、そして消滅する」と述べた。ところが、幸いにして人間は馬と違う。レオンチェフは両者の重要な相違を見落としていた。人間労働の全般的な需要が低下するにしても、人間は馬と異なり、経済的無力化を阻止する道を自からの判断で選択できる。

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人間は何を望んでいるのか
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 労働の無人化が生じないとみる理由として最も共通しているのが、人間の欲望は無限だという点である。近代の歴史を見れば、一人当たりの消費は着実に増大している。マーシャルがその主著『経済学原論』で述べているように「人間の欲望は無数で、かつ多様である」。マーシャル以後の理論は、無数の欲望の実現を完全雇用に連結させてきた。つまるところ、欲望と願望を実現できるのは労働者の力に他ならない。

 しかし、この議論には安住できない。技術は無限の欲望と完全雇用の結び目を切断しうる。最近の技術進歩が示唆しているように、人間が必要とする食料と製品を供給する、完全に自動化された鉱山、農場、工場、ロジスティックのネットワークが、もはや単なるサイエンス・フィクションの世界ではなくなっている。注文から支払いの処理に至るすべてのプロセスや、多くのサービス業務と知識労働も、コンピュータシステムによって自動化できる。技術進歩は、かつてそれが馬を無用化したように、人間の必要性を減小させ、雇用と消費の拡大を圧縮しうる。

 ロボットと人工頭脳だけによって支配される社会を我々は望まない。これこそ
 が、完全自動化経済の実現に対する最大の障壁であり、人間労働がすぐには消滅しない最強の理由である。我々は極めて社会的な動物であり、人間的な繋がりが経済生活を維持している。我々の金銭支出の多くが対人関係を含む諸活動に向けられている。マーシャルのように人間の量的ニーズを強調するのではなく、人間ニーズの質的な側面を重視すべきである。他者との関係によってのみニーズを充足させうる欲求を捨てない限り、人間が馬の運命をたどることはない。

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どっこい、人間はまだ健在
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 人間相互間活動の能力を維持するだけで、われわれが経済生活から締め出されるのを回避できるだろうか。少なくとも、向こう数十年を見る限り、経済生活に人間の関与がなくなることはない。最近の技術進歩は急速ではあるが、ロボットと人工頭脳が人間よりもうまく仕事をこなすような軌道に経済活動は入っていない。人間が馬の運命を辿らないもう一つの理由は、技術の手の届かない、多くの価値ある仕事を人間がしているからである。

 人間はコンピュータに算数ではかなわないし、パターン認識のペースでも後れを取る。しかし、依然として、目標を設定し、それを達成する方法を編み出すのは人間である。コンピュータによる作曲や科学的仮説の創出を含め、デジタル創造力とイノベーションは目覚ましいが、ほとんどの領域で有意義な新アイデアを生み出すうえでは、人間が依然として優れている。1965年のNASA(全米宇宙航空局)報告は「人間は最も低コストの全目的型コンピュータシステムであり、未熟練労働者によってそれは大量に生産できる」と述べている。だがデジタル化時代においては、それだけで増大する人口にたいして完全雇用と継続的な実質賃金増加を産業化時代のように保障できない。

 人間と馬の決定的な相違は、人間は資本を所有するが、馬は所有できない点にある。資本主義社会においては、公的以外の富は私的個人がすべて所有している。企業の株式も直接的間接的(年金ファンドなどを通じ)個人が所有している。このことは、ロボットによって奪われた所得を人間が再配分できる可能性を示している。

 この面で解決を迫られている挑戦は、資本所有が常に極めて不平等であり、最近ますます格差が急拡大していることである。「あらゆる社会において所得分布の下位半分層が所有する資本は5%以下である」(ピケッティ)。ここ数年の株式、不動産、その他の資産の高騰は、極少数の富裕層の利益を急増させた。クレディスイス銀行によると、2014年には最富裕層1%が世界全体の富の48%を所有している。このような不平等は、賃金その他所得の格差増大に反映している。

 オートメーションとデジタル化が、あらゆる形態の労働を代替する危険よりも、技能、タレント、幸運に恵まれた人に対する報酬が極大化する危険のほうが大きい。それが富の、そしてそれに伴う権力の集中をもたらすことは理解に難くない。

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ロボットと闘う方法 — 政治行動の力
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 ロボットと関連技術の普及が生み出す利益を還元する“ロボットの配当”を想定できる。その参考例は、アラスカ州の「アラスカ・パーマネント・ファンド」だ。1976年に設立されたこの基金は、州の石油収入を有権者住民に分配するもので、2014年の配当金は一人当たり1,884ドルであった。この基金は住民投票による3分の2の賛成を得て制定された法律に基づいている。分配の公平化は経済の論理ではなく、投票権の行使による政治の論理によって可能となる。

 将来、馬の経済的運命を回避する政策を求める投票行動を人々に期待することは、決して無理なことではない。例えば、立法府は雇用喪失を招く一定の技術の利用制限を採択できる。これまで例はまだ少ないが、すでに自動車の自動運転など、労働に直接的なインパクトを与える技術を制約する法案を作る作業が萌芽的に開始されている。あらゆる社会において、労働者を支援する意欲を持つ議員候補者がいる。

 大きな集団がその経済的な見通しに不満を抱き、政府が彼らに無関心ないし敵対的と考えるならば、人間と馬との決定定な相違が明白となる。それは人間的な反抗だ。近年、こうした経済的な反乱が世界的に目撃されるようになった。その一例はアメリカにおける平和的な「ウオールストリート占拠運動」であり、他の例はギリシャにおける散発的に暴力的傾向を帯びた反緊縮抗議デモである。

 歴史を振り返れば、労働者の不満によって惹起された争乱の例に不足しない。民主主義はこのような反乱に対する保障ではないし、ほとんどの国において大多数の人々の物質的諸条件を改善する保障でもない。馬は抗議の呟きもなしに経済的運命を受容したが、労働者に同じことが降りかかれば、彼らが唯々諾々とそれに甘んずることは決してないだろう。

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軽労働化経済の社会的展望 — 自ら創出すべきもの
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 現在のアメリカにおける経済政策論議の焦点は、今日の労働者の雇用と賃金を改善することに向けられている。同時に、軽量化労働による経済の展望に立って、どのような社会を将来に向けて構想するかを議論すべき時である。

 経済がもたらす繁栄をどのように分配するか。ハイレベルの不平等を生む現代資本主義の傾向をいかに抑制しながら、資源を効率的に配分し、またイニシアティブと努力にいかにどの程度報いるか。産業化時代の労働観を中心にして考えられない時代における、生きがいのある生活と健康なコミュニティとはどのようなものか。教育、ソーシャルセーフティネット、税制、その他市民社会にとって重要な諸要件はどのようにあるべきか。

 馬の労働史からはこれらの諸問題に回答をみつけられない。どのように技術が進化しようとも、機械から回答は出てこない。我々が目指す技術的に高度な経済と社会にたいし、そしてそれに価値を見出すためには、われわれ自身が意義ある目的を設定することによってのみ、納得のゆく回答はもたらされる。

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■ コメント ■
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 1960年代の初めにフランスの社会学者ジャン・フーラスティエが、『4万時間 — 未来の労働を予測する』という著書を出した。1965年には朝日新聞社から翻訳が出版され、日本でも当時話題になった。技術革新の成果を配分することによって、労働時間を大幅に短縮できる可能性を論じたものであった。このような主張がフランスにおいては週35時間労働制の採択を後押しした。

 生涯労働が4万時間で十分とすると、年間1000時間の労働で40年働けばよいことになる。これだと、1日5時間、年間200日の労働日で済む。こうなれば、生活の質は飛躍的に改善されるだろう。エコノミストは、可処分所得を重視するが、可処分時間も生活の質にとって劣らず重要だ。こうした可処分時間の飛躍的な拡大は、子育て、家事、趣味に十分な時間が取れるだけでなく、ボランティア活動や社会的諸活動にも振り向けられる。

 ワーク・ライフ・バランスという言葉を、近年よく耳にする。これはILOが提唱し、耳当たりがよいのでこの考え方は広く受容されているようだ。しかし、労働時間短縮が実現されなければこのバランス論は机上の空論に過ぎない。また、所得格差が拡大し、ほとんど働かなくても人生を享受する階層と、働くことのできない低所得ないし無所得層が拡大する社会において、ワーク・ライフ・バランスを説くことは空々しい。

 所得のより均等な分配・再分配は、労働時間のより公正な配分と密接に関連している。法律によって、所得をより均等化するには、累進的な公平税制が一方に、他方で社会保障と公共サービスの充実が他方に必要だ。公正な労働時間の配分には、労働時間短縮の立法化と超過労働に対する法的な規制が不可欠である。市場経済における公正な自由競争のためには、労働、環境、安全の分野において適切かつ公正な規制がなければならない。規制緩和の必要な分野があるのは否定できないが、労働と環境、保健衛生と生命の安全の分野では規制緩和ではなく、適切な規制こそが必要だ。

 (筆者はソシアルアジア研究会代表・オルタ編集委員)


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