取材した「新潟地震」から50年

落穂拾記(35)

取材した「新潟地震」から50年

羽原 清雅


 1964(昭和39)年6月16日午後1時02分、新潟を中心に山形、秋田などを襲った「新潟地震」。あれから50年。3年目に入った駆け出しの新聞記者として、新潟市に勤務、その取材を体験した。大変さや懐かしさもあるが、東日本大震災・原発事故のセット災害などに出くわしてみると、改めて海に囲まれ、山地の多い地震国でありながら、けっこう安直に生きていることに驚く。

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 新潟県は村上市沖合の粟島沖を震源として、マグニチュード7.5、震度5の地震だった。新潟県庁のまとめた記録を見ると、被害は9県に及び、死者26、負傷447人を出した。マグニチュード7.9の関東大震災(1923年)に次ぐ規模は、久しぶりの大地震として注目された。新潟県内だけで県民の14%に当たる33万2000人、6万8500世帯が被災、13人が亡くなり、315人が負傷した、という。
 その後も、新潟では中越大震災(2004年)があり、近年は地震常習地帯を思わせることが多くなった。
 鉄道、道路、堤防などの公共施設、電気、水道、ガス、電話などのライフラインの途絶による苦労や波紋も大きかったことを、改めて思い出す。
 当時、困ったことを思い起こして、「いざ」の時のご参考になれば、と思いつつ筆を進めたい。

1> トイレのこと

 地震の際、なにに困ったかといえば、それはトイレだった。傾いた新聞社の支局屋上に逃げ込んだ近隣の数人の住民がトイレを使用した。しかし、3階建ての建物は傾いて、水洗便所の水が出ない。バケツに水をためて、3階に運び、流す作業をせざるを得なかった。
 われわれは、近くの公園のトイレに行ったが、すぐに満杯。トイレを求めて、あっちにウロウロ、こっちにウロウロ。
 数日たって、支局に近い新潟県庁前の広場に、自衛隊が深さ2、3メートルはある穴を掘り、上の方にベニヤ板のトイレ20室ほどができて、ホッとした。
 いざというとき、水や食料も大切だが、排泄も緊急事態であり、我慢できない。とくに水洗化したビルなどのトイレは厄介だ。とくに都市部ではビルが傾いただけでも想定外の苦痛を味わいそうなのだが、この対策は備蓄などの面に比べると、ちょっと目配り不足のような気がする。

2> 傾いたビルのつらさ

 この地震は、新潟国体開催の5日後に発生した。新聞社の支局は、この国体に向けて5月に完成したばかりの新築。ところが、机の上の鉛筆(当時の執筆は鉛筆が主流)などがコロコロと転がる。
 支局のなかに長くいると、頭痛のような気分の悪さが襲ってくる。時折外に出て、深呼吸する必要がある。それでも、朝刊夕刊と日に二回の締め切りがある以上、ここで仕事をするしかない。
 秋になって、ビルの取り壊しが始まり、工事場の裏手に 昨今不評の仮設住宅よりも貧弱なプレハブ小屋ができて、そこで仕事をした。長い冬に入り、この小屋にはひっきりなしにすきま風が吹き込み、雪やあられが入り込み、宿直明けの者はみな風邪気味になる。我慢、がまん、ガマン、である。
 驚いたのは、地震のあった夕方、パン屋の菓子パンがいつもは一個10円程度なのが30〜50円位に値上がりしていたこと。また、市民たちが逃げ込んだ市内有数のレストラン「イタリア軒」では、銀のスプーン、ナイフなどがなくなっていた、とあとから聞いた。

3> 愛しの風呂

 地震は6月。新潟とはいえ、暑さは日増しに強まった。取材で外出する生活だから、汗まみれだ。しかも、地震で出水したところに、原油が流れ込んだので、手足やすねにまで黒い重油がべったりで、爪でこそぎ取るしかない。
 支局の庭に、井戸を掘ってくれたのだが、硬水のためか、そこらの石鹸では落ちない。
 地震の直後、風呂がないので、共同通信の取材本部が置かれた宿屋へ、記者仲間が案内してくれた。だが、何十人もの取材陣が入る湯ぶねには数センチもの垢がたまる。水不足で、上がり湯などはないに等しい。それでも、少しほっとしたことが思い出される。

4> 取材時のビックリ

 地震発生時、支局の所属記者は支局長、デスクを除くと5人。新潟国体直後なので、支局では支局長、古参の記者が出張や休暇などで県内には不在。交通の途絶で、帰るに帰れない。写真でよく見られた、前のめりに倒れた県営住宅に住み、そこから通う事務の女性はすぐに送り返した。
 県庁、県警への距離は近いのだが、情報が入ってこない。生命線である支局の電話もこと切れたままだ。それでも、デスクが勧進帳で原稿を作り、ポータブルの無線機で東京本社から飛んできた飛行機に向けて読み込み、速記者がこれを書きとめつつ、本社に無線送稿する。
 もう一つの送信手段は、支局に近い建設省北陸地方建設局と東北電力支店の無線をしばし借用することができ、ここから建設本省、東北電力本社(仙台)待機の速記者や記者に送稿した。突然の地震で、地建も電力会社も当初は使いきれず、許してくれたようだ。

 筆者は地震の時、県庁脇の県立図書館二階にいた。「国体のあとなので、原稿がない・頭(トップ)に置く記事を書け」とデスクにいわれて、貸した図書の書き込み、切り刻みなどの事例を取材しようとしていた。そこへ、グラリ・・・。本棚がいくつも倒れかかる。人は少ないが、下敷きになる可能性もある。
 二階の窓から見える新潟国体メイン会場にあてられた陸上競技場の砂地のグラウンドでは、1メートルほどに高く吹きあげた水柱がスーッと走っていくのが見えた。すぐにカメラを向け、あとで現像したが、下手なカメラには映っていなかった。信濃川のほとりにある、この競技場はかつて河川敷だったようで、これが「液状化現象」なのだ、とあとで知ることになった。
 外に出ると、愛用の50CCのバイクは水没していた。膝までの水につかり、支局にたどり着いて。若干の町の様子を勧進帳で原稿を吹き込むデスクに告げて、県庁へ。電話不通に着き、断片的な情報が出るたびに、それを持って支局や基地にした地建に走った。何度か繰り返すうちに、足が萎えてしまい、県庁玄関の低い階段を四つん這いで這い上がることになった。
 原稿を「漢電」(漢字電送か)で打ち込む若いパンチャーは、国体用に建設した昭和大橋の橋げたがパタパタと落ちている、との情報に、橋のたもとへ走り、橋の取り付け部分の大きくひび割れした様子や、橋げたの落ちた信濃川の写真を撮ってくるなど、記者それぞれに さまざまな動きが展開されていた。

5> 第二次火災・石油タンク炎上

 信濃川に二分された新潟市内を結ぶ4本の橋。その一つは落橋した昭和大橋、通行不能の八千代橋。生きていたのは萬代橋だけだった。当初は橋のたもとの石組みがずれて通行禁止とされたが、比較的早く復旧されて、この橋は生き残った。古い石橋で、橋脚を支える土台には多数の松材が埋め込まれていたのだが、近代工法の昭和大橋よりも頑強だった。この松材は今も、橋の近くに展示されている。
 この橋の内陸側右手の信濃川河口方面に、高く高く黒煙が上がる。「昭和石油の石油タンクが炎上した」との情報が流れた。地震からすでに30分が過ぎていた。ガソリンのパイプが壊れ、貯蔵タンクがあふれて引火、流れ込んだ水に乗った原油が燃え広がった。消火するまでに半月もかかり、焼失したタンクは97基、延焼した民家300戸余におよんだ。

 一方では、2.4メートルの津波が押し寄せ、信濃川や近くの河川を遡上、すでに地盤沈下や液状化の被害を受けていた堤防、埠頭を越えて住宅密集地などに浸水被害をもたらした。
 東日本大震災より以前に、このような地震・津波・火災の三点セットの恐怖が展開されていたのだ。とすれば、先の原発のもたらす怖さは連想されているべきだった。新潟県が、柏崎刈羽原発の再稼働にひるむ一因になっているのかもしれない。
 この石油タンクの火災は、地震によるものか、あるいは無関係ではないにしても第二次火災ではないか……その議論が起こった。第二次なら天災ではなくなり、賠償が必要、といった訴訟が起こされた。この視点から運動を進めたのは、火災地そばに住んでいた新潟同盟の大橋淳吉さんで、労働界の取材で親しくしていたことから、筆者は相談を受けることになった。
 この動きは、民社党の竹谷源太郎代議士によって国会で取り上げられ、のちに地震保険の導入となって、定着した。筆者の記者時代の、少ない特ダネのひとつでもあった。

6> 自衛隊の評価

 この地震・津波の復旧では、自衛隊の活躍が目についた。とくに、津波にあった信濃川河口の一帯は、浸水に悩まされていた。もともと低い土地に、堤防を壊して越えてきた水は引かず、締め切りと排水の作業は大変だった。投入された多数の自衛隊員は、被災から1週間程度で14万俵の土のうを担ぎ、積み上げた。排水も6月末にはなんとか片付いた。自衛隊は、この作業を信濃川作戦などと呼んで日夜頑張っていた。

 じつは地震の前年1月、この新潟は「(昭和)38豪雪」に苦しめられていた。道路は不通になり、磐越西線以外の鉄道は一か月近く全面的にストップ。生活物資もままならない事態が続いていた。
 新聞社も、送稿用の原稿用紙がなくなり、空輸してもらい、雪に埋もれた近くの校庭に投下してもらったほど。
 その時、国鉄(現JR)を担当していた筆者は、雪害救援に派遣されてきた第12師団長藤原岩市を取材したことがある。陸士卒、陸軍中野学校教官、インド国民軍を組織した特務機関長(F機関)という職業軍人で、生まれて初めて会う職業軍人に緊張した。だが、穏やかで、じっくりと雪との戦いを語り、自衛隊の任務を話した。魅力のような、もっと話してみたい、そんなことを感じた。もっとも、どのような人物か、その人となりは今もわからない。
 ただ、60年安保世代として反軍隊、反自衛隊だけでも通用しない、いちどは防衛庁も取材してみないと、などと思ったものだ。だが、政治記者として、そのチャンスは一度もなかった。

7> 当時の新潟取材

 地震当時の新潟県知事は、自民党結党から二人目の政調会長を務めた塚田十一郎。
 新産業都市建設、信濃川河口より上流から日本海に水流を変える関屋分水計画など、かなり強いリーダーシップを発揮しており、大物知事といわれてもいた。地震直後から防災服に身を固めて被災地を精力的に歩き回っていた。
 だがその後、金権政治や土地疑惑、現金中元配布事件などで急落下して、消えていく。
 そのころ、豪雪や地震、国体、誘拐殺人事件などを競い合いながら取材にあたったほぼ同世代の全国紙の記者には、のちに文科大臣になった毎日の鈴木恒夫記者、テレビで売れっ子の毎日・鳥越俊太郎記者、読売の編集手帳執筆の秋岡伸彦記者たちがいた。
 地元紙の新潟日報はさすが人脈、閨脈をつかみ、土地勘に恵まれ、優れた記者も多かった。地震の報道も総合戦力で、多くの記録を保有している。少人数で地縁血縁もない全国紙の対抗はなかなか大変だったことを思い出す。もっとも、地元の行政とのかかわりなどほとんどない東京勢は、塚田知事追及などとなると独壇場で、厳しく攻め立てたものである。

 新潟地震のあと、かなり経ってから水戸に勤務した。ここも地震の多発地で、週に一回くらいの頻度で揺れる。そうした経験から、地震があっても逃げ惑わず、同じところで待機するようになった。家族には、連絡の取れるまでは待つ。備品類については日常のその都度、思いを新たに検討する。ジタバタしない。そんなふうに考えてはいるが、集団的自衛権の行使と同様に、いくら手足を縛って「限定」と言ってみても、起こりうる多様な事態は想定通りに行くわけではなく、思いもしない戦闘が突然身に降りかかるかもしれない。災害や戦闘は「想定外」になるものだ、と思う。

 地震から50年。余計なことと思いつつも、つい昔語りをしてしまった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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