【コラム】
神社の源流を訪ねて(8)宇佐神宮

宇佐神宮(宇佐八幡宮、宇佐宮)

栗原 毅


◆朝廷から崇敬された渡来の神

 宇佐神宮(大分県宇佐市)は、広大な原生林の中にいくつも池が広がり、目に染みるような5月の緑の中に朱塗りの本殿が浮かぶ。
 早くから神仏習合が進み、八幡大菩薩とも呼ばれる武家の守護神だ。弓削道鏡や東大寺大仏殿の建立、隼人征伐のご託宣などで、朝廷から崇敬を受け、全国9万社の神社のうち4万社が八幡神社とされる。石清水八幡宮(京都)、鶴岡八幡宮(鎌倉)にも勧請されている。

 道路地図を広げるとどのページにも八幡神社があり、全国的に広がっていることがうかがえる。ただ古事記(712年)、日本書紀(720年)には登場しないことから、この時はまだ一地方神だったようだ。
 社伝などによると、571(欽明天皇32)年、宇佐に八幡神が顕れ、社殿をつくったという。祭神は八幡大神、比売大神(宗像三女神・多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)、神功皇后だ。

 ただ成立の過程となると複雑で謎も多い。まず八幡の名前の由来だが、地名、仏教説話、幡に由来する説などがあり難しい。
 手掛かりを求めて研究書を見ると、神話学の三品彰英氏は、「対馬の天童伝説」で「八幡は多くの旗を立てた祭祀様式に名づけられた」とする。また田村円澄氏は、「宇佐八幡」で、1313年に選修された「宇佐八幡託宣集」に「辛国ノ城ニ始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、吾ハ日本ノ神トナレリ」と宣言があることから「日本の神となる以前の八幡は、日本の神でなかったことになる。ではどこの国の神であったか」となると、「辛国は韓国であり、宇佐八幡は元来韓国の神であった」とする。

 『豊前国風土記』の「逸文」にも、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住めり」とあり、渡来をうかがわせる。この時代はまだ国の意識も薄く、パスポートなども必要ないから、人々は自由に半島と列島を行き来していたのだろう。
 成立は、往古、宇佐地方に住んだ渡来系の辛嶋氏に八幡信仰があり、そこに大神氏が大和から応神天皇と神功皇后の伝承を持ち込み、宇佐に土着の豪族の宇佐氏の本拠地の御許山の信仰の三つが重なって、宇佐八幡宮が形作られたようだ。

 宇佐八幡の放生会も有名だ。720年、鹿児島、宮崎の隼人が大反乱を起こす。この時、萬葉集の歌人でもある大伴旅人が征隼人持節大将軍となり、反乱鎮圧の指揮を執る。八幡神も「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と宣言して、征討に赴き、多くの隼人を殺したという。放生会は殺された隼人の霊を慰めるために始まった。
 政治の節目の託宣で崇敬を高めて行くが、神宮の成立にかかわった辛嶋、大神、宇佐の3氏の主導権争いや朝廷内の勢力争いに巻き込まれることもあったようだ。

 (元共同通信編集委員)

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