日常から見る国際化に必要なもの

【コラム】中国単信(29)

日常から見る国際化に必要なもの

趙 慶春


 「グローバル化」や「国際化」という言葉は、もはやごく当たり前に使われるようになっている。留学生として来日して20年余、その筆者が今では国外からの留学生に関わる仕事についている。「国際交流」の最前線にいるだけに、日本人の中には「国際化実現の高い壁や、解決が簡単ではない点ばかりを強調して動き出そうとしない人」や「お手軽に「国際化」を口にしながら、実際の行動に結びつかない人」がかなりの数に上ることが気になっている。
 そこで、筆者の実体験や日常の小さな出来事を通して、日本で異文化交流や国際化を進めるに当たっていちばん欠けている「こと」は何か、を考えてみたい。

● 一、国際化の原点は異文化に対する「認知」

 つい先頃、日本の「婚活」番組に僧侶が出たというニュースを見た中国のネットユーザーが大いに驚いて、「日本の仏教界はこんなに乱れているのか」とあきれる人も出たほどだった。最近の「5→9、私に恋したお坊さん」というテレビドラマを見て、さらに「仰天、絶句」した人が続出したとも聞く。それというのも、中国では僧侶の妻帯は勿論のこと、性行為も厳しく禁じられているからである。

 自分と異なる文化を持つ人間の存在については、理屈ではわかっているつもりでも、具体的な事象に直面すると、理解できない人は決して少なくない。それは同じ国の中ですら起きる。
 百年ほど前、北京に住む人たちの「北京以外の地域はすべて田舎」という「認知」に基づいた“誇り”が、北京人の視野をいかに狭くし、思考をいかに束縛させてしまったことか。
 「認知」がなければ、理解や交流など始まるはずもないわけで、国際化の実践とは異文化交流の実践であり、その原点はやはり異文化に対する「認知」にあると考えている。

● 二、異文化理解は難しい

 来日20年余の筆者が中国人の習慣に従って、家に日本の「友人」を招待した数は、百人を超えるだろう。一方、日本人の家まで招かれた経験は数えるほどしかない。日中の生活習慣、交際のあり方などの違いからで、理解しがたいことではないし、別に不愉快でもない。しかし、筆者は二つの小さな「事件」で、「家での接待」をいっさいやめてしまった。

 1:ある夫婦を招待した時、我が家としては「豪華」な料理十数品を作った。先方の奥さんからお世辞か、心底驚いたのかわからないが、「中国の方はいつもこんなにたくさん料理を作られるなんて、料理作りがお好きなんですね。日本人ならできないですね」と言われたことがあった。
 この奥さんの感想は、中国人からすると非常に見当違いな捉え方だと言える。中国人は決して料理作りが好きなわけでもないし、ましてやお金を出して、たくさん料理を作るなど好きであるはずがない。ただ家に限らず外食でも、友人を招待するときに中国人は、情熱も能力もお金もすべて「全力投球」するのが一般的である。それがお客を招待したときのマナーだと考えているからで、招待した人をいかに大切に思っているのかを示すことにほかならない。いわば中国式「一期一会」の現れと言っていいだろう。

 2:我が家に複数回、招待したことの友人がある日、ふと「中華料理って作るのが簡単で、数十分ですばやく数種類できるからいいよね」と言ったことがあった。
 これも大きな認識不足と言える。料理を作るとなると、時には前々日から下準備を始めなければならない場合も出てくる。そして何よりも招待客には素早く料理を出して、少しでも早く食べてもらうのが、中国人の「おもてなし」にほかならない。
 この友人が結果的には、我が家での経験を表層的にしか見ていなかったことに筆者は少なからずショックを受けた。相手の立場を考え、心を通い合わそうとする努力がないかぎり、真の異文化交流は難しいことを思い知らされたのだった。

● 三、異文化交流には寛容さが求められる

 留学生時代、学部間のソフトボール試合に参加したことがあった。練習の時だったが、一塁の守備には筆者の指導教官がついていて、野球経験が浅い筆者を気遣ったものと思われるが、一塁への送球は「ワンバンウド」でとの指示があった。しかし筆者はノーバウンドで、しかも緊張のせいか投球は大きく逸れて、とんでもないところに投げてしまった。そのときは指示を無視したのでもなく、いいところを見せようとしたわけでもなく、実は「ワンバウンド」の意味がわからなかったのである。
 軽快とは言えない格好でボールを拾いに走って行った先生の姿は今でも鮮明に焼き付いている。もし先生が心の狭い人間だったならば、この一件だけで、もう「言うことを無視する中国人」の烙印を押されてしまっていたかもしれないのだ。
 この一件で異文化交流における「寛容」の大切さを教えられたのだった。

● 四、外国人も日本に溶け込む学習が必要

 1:東京の北部某市のいくつかの団地には、中国人が集中的に居住している。それだけに、まるで中華街のレベルどころか、中国人専住街になりつつあるようだ。少なからずの中国人が敢えてそちらへ引っ越していくとのこと。
 ところが中国人を多く雇用している知り合いの社長は、こうした中国人が多くすむ地域への「引越禁止令」を出したというのである。理由は、外国人集中地域で暮らすと、隣人同士が「外国人だから」という言葉に甘えて、日本社会への順応性に支障をきたす恐れがあるとの判断からだった。
 社長の禁止令の効果と思われるのだが、その会社の外国人社員はほぼ全員が日本で家を購入し、日本人社会に溶け込んで安定した生活を送っている。一方、例の団地に長く生活している者は、年数を積み重ねても日本語がままならず、生活上のマナーさえ身につかない人も多いようである。

 2:日本人がしばしば眉をひそめる外国人の2つの行為がある。一つは「ゴミ分別問題」、もう一つは「深夜に集まって騒ぐ問題」である。
 実は筆者も留学生時代に何回も深夜の集まりに参加したことがある。深夜に集まる理由はたった一つ。当時は中国の経済がまだ豊かではなく、多くの留学生は生活費や学費をほとんど自分で稼がなければならなかった。そのため誰もがアルバイトに時間が取られ、仲間たちが一緒に顔を会わせるとなると深夜しかなかったからである。
 当時、留学生たちの生活ぶりを知っていた教師からは、日本で生活する際の最低限、守るべきいくつかのルールを繰り返し言われていた。「深夜に大声を出してはいけない」というのもその一つだった。今では先生からの注意のおかげで、周囲の住民に迷惑をかけずに「集まり」を続けられたと自負している。

 その筆者が、今度は留学生たちに日本での守るべきルールに「ゴミ分別問題」も加えて、注意する立場になっている。留学生たちは日本から良いものは貪欲に吸収しようという意欲があるからだろう、筆者の指導をきちんと守ってくれている。
 外国人は日本人が眉をひそめるような行為を控え、生活上の守るべき事柄をしっかり学ばなければならない。また筆者の立場からは彼らに生活上のルールやエチケットをしっかり教えていかなければならないと考えている。なぜなら「外国人だから」理解できないのではなく、知らないだけなのだから。

 思うに「外国人だから」という物言いには、無自覚の「差別意識」が含まれていないだろうか。短期間の日本滞在なら「外国人だから」でも済まされるが、日々、共に暮らすとなれば、まさに異文化交流の最前線に立つことになる。
 小難しい国際化の理論も、綿密、周到な準備なども必要ないのだ。日常生活の、やや誇張して言えば、日本人も外国人も含めた私たちの一挙手、一投足に対する異なる価値観のぶつかり合いと、そうした事象への認識、寛容、理解こそ、もっとも求められているのである。

 (筆者は女子大学教員)


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