映画批評;『アンブロークン 不屈の男』

【コラム】大原雄の『流儀』

映画批評;『アンブロークン 不屈の男』

〜アメリカ人捕虜が体験した東京捕虜収容所の映画化〜

大原 雄


 アメリカのカリフォルニアに住んでいたイタリア移民の子・ルイは、1936年8月、高校生の時、ベルリンオリンピックの5000メートル競走にアメリカ代表の一人として出場し、最後のグランド一周の追い込みで、56秒という記録を出し、8位入賞。若いことから4年後の東京オリンピックでの活躍を期待された。ベルリンオリンピックは、ナチス独裁政権の下で開かれたオリンピックであり、ルイもアドルフ・ヒトラーの接見を受けたという。1940年の東京オリンピックは、開催予定の翌年、1941年12月の太平洋戦争勃発へと世界は戦渦への坂道を転げて行くことになる時代とあって中止され、ルイ・ザンペリーニは出場できなくなった。

贅言;1936年、オリンピックの旗と鍵十字(ハーケンクロイツ)のナチスの旗が一緒にベルリン市内の各所を飾る中、オリンピック大会は開催された。この期間、アドルフ・ヒトラーのナチス独裁政権は人種差別主義、軍国主義を巧に隠蔽し、オリンピックを利用して、平和的で寛容的なドイツというイメージを振りまいた。1936年、ベルリンオリンピックのボイコット運動がアメリカ、イギリス、フランス、スウェーデン、チェコスロバキア、オランダで起きたが、アメリカのアマチュア体育連盟が1935年12月、大会への参加賛成に投票すると、他の国も同調し、広範なボイコット運動は衰退してしまった。ドイツは選手348人という最大のチームを出場させた。2番手は、アメリカで18人のアフリカ系アメリカ人を含む312人が参加した。カリフォルニアの高校生のルイも、その一人であった。高校生選手の目にナチス・オリンピックは、どのように映ったのだろうか。

 1938年にはナチス支持の女性レニ・リーフェンシュタールが監督したベルリンオリンピックを記録するドキュメンタリー映画『オリンピア』が封切られた。レニ監督がナチス独裁政権下で製作した映画作品、ドキュメンタリー映画『オリンピア』と1934年のナチス党大会のドキュメンタリー映画『意志の勝利』は、ナチス独裁政権を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画になったという理由で、彼女はナチスの協力者として長く批判された。

 一方、1940年、史上初めてアジアで開かれる予定だった東京オリンピックは、皇国史観に基づく紀元二千六百年記念行事として準備が進められたものの、1931年の「満州事変」(当時)から始まった日中戦争に続いて、1941年に勃発することになる太平洋戦争へと突き進む日本の状況から、1938年、日本政府が開催権を返上し、中止となった。代替え会場となっていたヘルシンキでの大会開催も世界の戦時化が進み、中止となり、オリンピックそのものが幻となり、この年のオリンピックは、開催されないままとなった。

 ルイのその後は、どうだったか。1941年9月、ルイ・ザンペリーニは、陸軍航空隊に入った。B24機の搭乗員として訓練を受けた。2年後の1943年5月27日、ルイ・ザンペリーニはニューギニアの東、南太平洋・カントン島での僚機の救助活動に向かうB24機に乗っていた。11人が乗ったB24グリーン・ホーネット号にルイは爆撃手として搭乗していたが、エンジントラブルに見舞われ、南太平洋上に不時着をしてしまった。ハワイから8000マイルも離れた絶海であった。生き残ったのは、ルイを含む僅か3人であった。

 簡素な救命ボートに乗ったまま、食料も尽きた状況で容赦なく照りつける太陽の下や嵐の中を漂流する。時には、日本軍の爆撃機による機銃掃射も受ける。飢えと脱水症状、疲弊によって、33日目に一人が死亡する。ルイともう一人は、当初の目的地カントン島から2000マイルも離れたマーシャル諸島に流されたものの、なんとか47日間生き延びた。

 ウオッジェ環礁を漂う救命ボートの中で疲弊していた二人を救助してくれたのは、日本海軍であった。二人は捕虜になり、マーシャル諸島のクェゼリン島に移送された。別名「処刑島」と呼ばれる島であった。ここで二人は日本軍の独房に別々に入れられた。クェゼリン島には、1941年1月以来、日本海軍の第六根拠地隊司令部が置かれていた。当時、日本軍はここに海軍約4000人、陸軍約1000人の守備隊を駐屯させていた。ルイは暗闇の中での孤独な監禁状態に耐えねばならなかった。野外で全裸にさせられ辱めを受け、アメリカ軍の情報を漏洩するよう日本軍の兵士らから尋問され、さらに暴行もされた。

 ルイは、その後、マキン島の独房に移された。ここは、イギリス領だったが、日本海軍によるハワイのパールハーバー(真珠湾)攻撃直後、同時に各地で侵攻を始めた日本軍が1941年12月に占領した島だ。ルイが入れられていた独房の壁には、「9人の海兵隊員がマキン島には、囚われている 1942年8月18日」と書き残されていた、という。

 さらに、ルイは日本に移送され、横須賀海軍警備隊植木分遣隊、通称・大船捕虜収容所に収容された後、1943年9月30日、東京捕虜収容所本所、通称・大森捕虜収容所に送り込まれた。オリンピックの選手として来る筈だった東京へ、ルイは捕虜としてやって来たのだ。大森収容所は1943年7月20日に開設されたばかりであった。ルイが移送された当時、ここには連合国軍将兵数百人がおり、6棟のバラックに分かれて収容されていた。

 映画『アンブロークン』(邦題『不屈の男』)では、東京・大森捕虜収容所や通称・直江津(新潟県)捕虜収容所の様子が、丹念に描かれる。映画では、捕虜仲間が密かに「バード(鳥)」と渾名を付けた渡辺伍長(MIYAVI)という大森収容所の所長が登場し、サディスティックなまでに捕虜たちを虐待する。渡辺伍長は英語を喋ることができる。ルイ・ザンペリーニ(「オルタ」で連載中の「大原雄の『流儀』」でも紹介した映画『ベルファスト71』でも主演したジャック・オコンネルが演じる)は、特に目をつけられて、なにかと渡辺に虐め抜かれる。捕虜仲間の一人からは「生き延びることが日本への復讐だ」と諭される。反抗的な生活を送っていた少年の頃、走ることの楽しさを教えてくれた兄が言っていた言葉「耐え抜ければやれる。自分から挫けるな」を思い出し、ルイは2年5ヶ月間に及ぶ捕虜生活に体力的にも、精神的にも耐え抜く。

 収容所で捕虜が受けるのは、肉体的な虐待だけではない。精神的な虐待もある。渡辺伍長は、ルイと自分の類似性を敏感に感じ、特に、ルイの反抗心を目付きから感じ取り、近づいて来ては耳元でねちねちと虐めの言葉を吹き込んで行く。

 ある日、ルイは、「アメリカではオリンピックの選手だったザンペリーニは戦死した」と言われている、と教えられる。不時着、漂流などの結果、安否情報が途絶えていたからだろう。アメリカ向けの短波放送番組「ラジオトウキョー」に出演をして、自分が生きていることを伝えないかと言われる。軍略のプロパガンダ番組への出演ということではないか。ルイは、高級な黒塗りの車に乗せられ日本軍や放送局の関係者と見られる数人に連れられてラジオ局に行く。ラジオ局には、放送会館という看板が掲げられていた。日本放送協会、つまり戦前のNHKであろう。エレベーターで若い女性とすれ違う。久々に見た若い女性の後ろ姿をいつ迄も追うルイ。スタジオでは、男性アナウンサーが、英語でルイを紹介する。母親への呼びかけ、というスタイルで、自由に呼びかけて良い、ということだった。生放送だった。ルイは、自分は生きている。東京の捕虜収容所にいるが、食事を含め待遇は悪くないなどと母親を安心させるようなことを言う。放送は無事に終わる。軍(収容所?)の関係者か放送局の関係者と思われる男たちは、ルイに食堂で収容所とは天地ほど違う食事を食べさせる。

 今後も、番組に協力してくれるなら、捕虜収容所に戻らなくても良い、美味しい食事も摂ることができる。こういう原稿を読んで欲しい、と原稿を渡される。アメリカの悪口を言い、日本軍を褒めるよう内容だった。軍略(謀略)のためのプロパガンダ放送。ルイは、協力できないと、きっぱりと拒否したため、大森収容所に戻され、以前以上に収容所長の渡辺伍長に虐められることになる。所長は、収容所に戻ってきたルイに向かって「意志が強く、私と同じだ」と、嬉しそうに話しかける。「私の友達になれると思ったが、お前は日本の敵だ」と、怒り、収容所にいるほかの捕虜たち全員にルイの頬を殴らせる。虚偽のプロパガンダを強要されるのは、精神的な虐待である。それを拒否すると、次に肉体的な虐待が待っている、ということだった。

 クリスマス、渡辺が伍長から軍曹に昇進し別の収容所長として赴任することになった。渡辺は自分がいなくなって、嬉しいだろうとルイに告げに来る。

 1944年末の夜、東京は激しい空襲に見舞われるようになった。捕虜たちも収容所の消火活動に狩り出される。東京の夜空を焦がす火災が大森からも見える。戦争が終わるのが近いのではないかと捕虜たちは喜ぶが、捕虜仲間からは、連合国軍が勝てば、捕虜は見せしめに日本軍に殺されるのではないか、という噂も流れてくる。

 1945年3月1日、突然、ルイを含む捕虜の一部が別の収容所に移送されることになった。空襲の被害を受けた街を数珠繋ぎで歩かされる捕虜たち。途次、多数の遺体が道端に安置されているのも見える。汽車に乗せられて到着したのは東京捕虜収容所第四分所、通称・直江津収容所(今の新潟県上越市)であった。まだ、雪が降っていた。ここは1942年12月7日に開設され、主にオーストラリア将兵の捕虜が収容されていたが、1945年以降、アメリカ 、イギリス、オランダの将兵の捕虜も送り込まれるようになっていた。そこに居たのは昇進、転属したバードこと、渡辺軍曹であった。

 直江津収容所の捕虜たちは炭鉱から掘り出された石炭を船に積み込む作業をやらされた。石炭を背中に背負った大きなバケツに入れて、船に積み込むのである。飢えで体力がなくなってきている上、鼻腔から肺に石炭の埃が詰まる。皮膚にも黒い石炭の埃が食い込む。

 こうした中で、足を怪我したルイにバード(渡辺軍曹)は重い大きな材木を頭上に持ち上げ続けろと命じる。衛兵にはルイが材木を落としたら、直ちに銃殺しろとも命じる。ルイは超人的な体力、精神力を発揮して、この難局を乗り切る。映画ではこの場面を地面に落ちたルイの影で表現する。十字になったルイの影は、磔台のキリストを連想させた。憤懣やる方ないバードは、己の負けを悟って、去って行く。

 8月15日。突然の停戦の知らせが捕虜たちにも伝えられる。収容所近くの川で水浴が許可される。いよいよ、殺される時が来たのか、という思いがルイの胸中に湧き上がる。そこへ連合国軍機が飛来して、救援物資を投下して行った。当時直江津捕虜収容所に収容されていた捕虜は698人、このうちアメリカの将兵は、ルイを含めて338人であった。

 捕虜たちは本当に戦争が終わったのだ、連合国側が勝ったのだ、と知る。捕虜たちは、大騒ぎとなる。それを横目で見ながら、ルイはバードこと、渡辺所長が居たであろう部屋を一人で訪れる。誰もいない部屋。荷物が整理されてガランとした部屋。部屋には、なぜか一枚の写真が残されていた。その写真には、少年の頃の渡辺と父親らしき人物が写っていた。

 アメリカに帰還した軍服姿のルイ。大地にキスをする。その様子を見守るルイの家族たち。母と熱い抱擁を交わす。父親、ルイの心を支え続けてくれた兄とも。ルイは苦難の果てに家族全員と無事に再会できた。映画は、晩年のルイの軍帽姿の実写映像を黒いバックに浮かび上がらせて終わる。ルイ・ザンペリーニは長生きをし、2014年7月2日没。享年97歳であった。

 バードこと渡辺所長は、捕虜虐待の罪で戦犯指定されるが、逃亡し、後に恩赦になったという。復讐ではなく、許すことが生きる道であるとルイは、思う。その後、1998年、ルイは81歳で長野冬季オリンピックの聖火ランナーとして来日する。直江津捕虜収容所のあった現在の上越市の区間を聖火を持って走る姿も映画では、紹介された。この時、ルイは戦時中捕虜収容所にいた日本兵とも再会するが、渡辺は姿を見せなかった、という。既に死亡していたのかもしれないが、消息は判らない。

 映画の撮影は、オーストラリア北部のクィーンズランド州の海岸から開始された。B24グリーン・ホーネット号が不時着し、生き残った3人が衰弱疲弊して漂流している場面からだ。(いかにも)絶海という南太平洋の海上。容赦無く照りつける太陽。救命ボートの周辺をうろつく鮫の群、格闘の末、鮫を捕まえて、食べる場面、日本軍機の機銃掃射で空いたボートの穴を修理する場面など。

 ボート上の場面は、クイーンズランドのゴールド・コースト近くのワーナースタジオのプールで撮影された。クェゼリン島の日本軍捕虜収容所の場面は、クィーンズランド州のタンバリン山で撮影された。

 大森捕虜収容所はブリスベン市郊外のフォート・リットン国立公園にオープンセットを作って再現した。直江津捕虜収容所は、シドニー湾のコッカトゥー島に残っていた船舶建造用のドック跡を活用して再現した。捕虜たちが収容されたバラックにはベッドが無く木製の棚で寝起きさせられた。直江津収容所は、日本国内にあった捕虜収容所の中でも、生活環境は最悪の部類に入る収容所だった、という。気温が低く、風も多い。ここで、ルイらは、3月から8月まで過ごした。

 高校生のルイがアメリカのトーランス高校のグランドを走る場面は、シドニーの西にあるカムデンで撮影された。ザンペリーニの家の場面は、シドニー北西の ニュー・サウス・ウェールズにあるタムワース近郊の人口1500人の街・ウェリスクリークの「クラフツマン・スタイル」(カリフォルニアの伝統的な建築スタイル)のバンガローで撮影され、室内の部分は、シドニーのフォックス・スタジオのセットで撮影された。

 映画冒頭シーンのアメリカ陸軍航空隊のB24スーパーマン号と日本軍の零戦との激しい空中戦の場面やグリーン・ホーネット号が、トラブルで不時着する場面は、飛行機のセットを使い、いかにも戦争映画という乗りの表現だ。これらの場面は、ゴールド・コースト近くのワーナースタジオのサウンドステージでの撮影。

 ナチス独裁政権が開催したベルリンオリンピックの場面は、どこで撮影されたのだろうか。競技場を走る場面だけだったので、物足りなかった。ナチス独裁政権下の街の場面も挿入して欲しかった。

 映画『アンブロークン 不屈の男』は、アメリカでベストセラーズになったローラ・ヒレンブランド原作『アンブロークン』(2010年刊)を元にしたアンジェリーナ・ジョリー監督作品。2014年製作のアメリカ映画。2時間17分。

 撮影監督は、ロジャー・ディーキンス。この撮影監督によるシーンでは、光と影の表現が卓越していて印象的だった。例えば、47日間の漂流の果てに救命ボートに乗った二人が日本海軍に拿捕されるが、疲弊した二人が救命ボートに横たわっているシーンで、銃を構えた多数の兵士の影が海面に映り、救命ボートは、その影の下に覆われてしまう。

 直江津捕虜収容所の場面では、既に指摘したように大きく重い材木の柱を持ち上げさせられたルイの影を地面に落とさせている。十字の形になったルイの影は、磔台のキリストを連想させた。このシーンは、この映画のテーマの一つでもあるルイの宗教心を表現している、と思った。

 私には2つの側面から、この映画は興味深い。まず、それを整理しておこう。

1)元オリンピック長距離走の選手の半生。
 彼は、陸軍航空隊に入り、B24機の爆撃手となる。軍用機の不時着に拠る漂流の果て、日本海軍の捕虜となり、日本での長い捕虜生活などの数奇な体験をした。その聞書の記録が映画化された。様々な逆境に対して体力、精神力ともに挫けなかったヒューマンなヒーローの物語。この映画は極めて普遍的なテーマを扱っている。特に、戦争という過酷な極限状況の下でも、正気を保ち続けた男。苦痛に満ちた世界。「闇の中でも光を求めてやり抜く男の旅。私たちを助け、鼓舞し、目覚ましい何かを示してくれ、人生を肯定的に見ることが出来るようにしてくれる物語」だと、アンジェリーナ・ジョリー監督は言う。原作となった本がアメリカでベストセラーズになったのは、こういう部分が琴線に触れた人々が多かった、ということだろう。ヒーローは、国境を越える。

 アンジェリーナ・ジョリー監督は、本来は女優で、近年、監督もするようになった。今回のルイの物語は、彼女の第2作。主演のルイを演じたのはイギリス出身のジャック・オコンネル。彼が主演した映画『ベルファスト71』についての私の映評は、「オルタ」139号(15年7月20日刊)の「大原雄の『流儀』」に掲載されている。今回、オコンネルは、抑制的な演技で忍耐力のあるタフな主人公を表現した。バードこと、収容所長の渡辺を演じた MIYAVI は、日本のロックのギタリスト・作曲家、今回が映画初出演。自意識過剰ゆえに虐めに走る権力末端の男を好演した。時空を超えて、虐めは人類の悪に関わる永遠のテーマだろう。

2)外国人が見た日本の捕虜収容所。捕虜とメディア。特に、捕虜が利用された軍略(謀略)放送。

この映画が完成後、日本ではなかなか封切られなかった。それは、日本の捕虜収容所を赤裸々に描いたからだと言われるが、この映画は、表向きは、超人的な体力、精神力の持ち主が様々な逆境を克服して人生を全うする、いわば人生の応援歌的な映画である。そのテーマは、先に触れたように、極めて普遍的で、まっとうである。

 日本での封切りが遅れたのは、数年前から世間に蔓延り始めた極右ファッショ的な思潮が、上映妨害の動きをしたためだ。この映画を日本の捕虜収容所告発の映画と捉え、反日的な映画だと決め付け、近代日本史の歴史修正主義的な事実隠蔽のためにその公開を阻もうとしたからだろう。どうして、映画であれ、演劇であれ、文学であれ、音楽であれ、美術であれ、表現の自由が保障されてこそ、情報が豊かになる、ということを悟らないのであろう。この映画『アンブロークン』が事実を歪めたアメリカのプロパガンダ映画だというのなら、公開させて、映画を見た上で、こういう事実が間違っていると批判すれば良いのではないのか。文化は、寛容性を大事にしなければならない。

 私が興味深く見たシーンは、軍か日本放送協会の関係者だか(あるいは、両者か)が、ルイを東京・内幸町の放送会館に連れてきて、短波放送のラジオ番組(「ポストマン・コール」、字幕では「郵便アワー」)に生で出演させられて、アメリカ向けに自分は生きているというメッセージを伝える場面と、出演後の食堂での懐柔場面だった。軍略放送への協力を要請されるが、拒否をしたために収容所に再び戻される。捕虜とメディアの問題が浮き彫りにされる。メディアは、権力との距離感を誤つと、このように大政翼賛報道をするようになる。

 ここで描かれているのは戦前のNHK、社団法人日本放送協会(1926年創立、今のNHKは、特殊法人として1950年設立)の姿だが、現在、NHKでは籾井勝人という男が、安倍政権になって報道機関であるNHKのトップに送り込まれて以来(14年1月就任)、「軍略」放送ならぬ「政略」放送の機関にNHKを貶めては、いないか。NHKであれ、民放テレビであれ、新聞であれ、雑誌であれ、マスメディアは、権力を監視することが、その存立基盤を支える大義である。権力を監視し、その結果を報道する。憲法に保障された国民の知る権利に応えるための情報提供。そのためにこそ表現の自由、報道の自由は担保されている。国民の知る権利に応えられないマスメディアは、マス「コミ」ではなく、マス「ゴミ」だと、最近では、揶揄されるようになった、という。実に残念。マスメディアが、権力を監視するという大義をまっとうするためには、権力との距離感をキチンと保たなければならない。マスコミにジャーナリズム精神が生きているなら、権力との距離感をとることをまず優先するだろう。

 今のNHKは、籾井という商社(三井物産)出身の男の、いわば「政商」(政治と癒着し、政治から利得を受けて商売を広げる)的な感覚で運営され始めているのではないだろうか。後1ヶ月で就任以来2年になる。権力を取引先に例えると良く判る。取引先が「右」が欲しいというのだから、「右」を納入するのが、正しい商道だとでも思っているのだろう。そういうセンスが長年の商社マンとして染み付いている人なのだと思う。これは権力との距離感を保つことを大義としているジャーナリズムから最も遠いセンスの持ち主ということだ。NHKは、日本を代表する報道機関の一つだ。形式的にせよ、報道機関の最高責任者となる人物は、報道のなんたるかを承知するか、承知する能力がないならば、口出しをしないか、という程度の覚悟か節度を持ってポストを引き受けて欲しい。当人も当人なら、この2年間に籾井の覚えめでたく、内部昇格してきた取り巻き連中にも注文したい。会長の言動を批判せずに、記者出身の、苟もジャーナリストとして現場で仕事をしてきた筈の連中が、報道局の幹部になり、役員になり、中でも放送総局長になったら、報道の原理に無知な男に報道の原理を教えるべきなのに、会長側近として率先して報道の原理をないがしろにしている、というような状況が、既にNHK内部に造成されているのではないのか。映画で描かれた放送会館の食堂のようなシーンが、NHKの会長室辺りで繰り広げられているのではないか。政商感覚と決別し、ジャーナリスト精神溢れる会長に首を挿げ替え、ジャーナリストの風上にも置けないゴマスリ役員を一掃し、報道現場に「国民の知る権利」の負託に応えるような原理を復活させない限り、NHKは、戦前の社団法人日本放送協会へ逆戻りしかねない、という危機的な状況に近づいているのではあるまいか。

贅言;NHKを巡っては、個別のことだが、過剰な演出や視聴者に誤解を与える映像編集があった(非は非とすべし)と指摘された「クローズアップ現代」は、来年3月末で廃止・改編(報道以外の番組枠へ)、国谷キャスターも降板、さらにNHKニュースの看板番組だった「ニュース7」の時間枠縮小などという情報がマスメディアなどで伝えられている。権力監視ニュースを緩め、国民の知る権利を狭め、NHKのアベチャンネル化を強める、ということなのだろうか。

 映画『アンブロークン 不屈の男』。この映画は、2016年2月、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほかで、全国順次ロードショー公開される。

 (筆者は、ジャーナリスト、日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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