追想の松下圭一先生

【追悼】松下圭一氏を悼む

追想の松下圭一先生

初岡 昌一郎


 西荻窪のしもた屋風の下宿先を訪れた加藤宣幸さんと私を招じ入れた松下圭一さんは、敷きっぱなしの布団を二つに折って、われわれの座る場所を作ってくれた。松下先生の訃報に接して、まず脳裏に浮かんだのはこの光景であった。半世紀以上も前の1958年秋。若々しく才気煥発、そして初めてあった人にもまったく開放的で、諧謔と毒舌を織り込んで話す姿が今も忘れられない。松下さんと佐藤昇さんを政治思想における生涯の師と仰いできたが、世間的な意味での弟子ではなかった。

 1956−7年に「中央公論」や「思想」に掲載された松下さんの大衆社会論に魅了され、関東学生社会科学研究会連合(社研連)の公開講座に登場してもらうために松下さんと初めて会い、その後出入りを許されていた。

 松下さんの大衆社会論は、民主主義を受容した現代社会における個人が社会的に絆を喪失、砂のようにバラバラな受動的な存在となる危険を警告していた。松下さんの初期の論文は、当時圧倒的に論壇で影響力を持っていたマルクス主義との正面衝突を回避することに非常に気を使っていた。それにもかかわらず、マルクス主義者から集中砲火を浴びた。

 松下さんから読むことを勧められた本の多くは、その頃の社研にいた左翼的な学生が見向きもしていないものであった。中でも、ロックやヒュームなどの啓蒙主義的な民主主義論、オルテガ・イ・ガセットやリプセットなどの社会分析が記憶にのこっている。さらにはベルンシュタインの著作を初めて古い改造社版で読んだのも松下さんのおかげであった。一たん獲得された民主的な成果も、市民の積極的な参加と能動的な擁護発展のための努力なしには、失われやすい事を教えられた。

 若き気鋭の学者として論壇に登場した松下さんは、現実の社会の動向とこれらの古典的社会分析の「対話」を象牙の塔にこもって試みるのではなく、自ら政治的活動にコミットしていった。その手引き役が、加藤宣幸さんや貴島正道さんという、社会党本部書記局の中枢にいた、江田三郎を取り巻く人達であった。60年安保闘争前後から始まった社会党改革と構造改革論による新しい路線の展開に松下さんは深く関わった。

 社会党再生の努力が挫折し、江田さんが離党した頃からは、松下さんの主たる関心は、市民社会と市民運動、地方自治と住民運動に向かって行った。他方、私は労働組合運動とその国際組織の活動に埋没して行ったので、松下さんとの直接接触の機会は、先生の晩年に至るまで失われていた。

 松下さんに久しぶりに再会したのは、貴島さんの傘寿を祝う会が数年前に三鷹駅のちかくでもたれた時だった。この会は、貴島さんの戦時中の体験からライフワークとなっていたチモールを支援する運動の青年たちが組織したもので、菅直人夫妻や江田五月さんの他は私も知った人があまりなかった。遅れてきた松下さんが知り合いを探して会場を見回していたので、手を振るとすぐにきて隣り合わせに着席。これを契機に、松下さんを囲んでビールを飲むあつまりが実現した。加藤さん、生活クラブ生協創始者で松下さんと懇意にしていた岩根さん、その後間も無く急逝した工藤邦彦さんと一緒に、新宿で歓談したこの機会が最後のお別れとなってしまった。

 人は一生の間に多くの人と遭遇する。その中の何人からは、接触した時間の長さと関わりなく、生涯にわたって影響を受け続ける。若き日にこうした人々と出会えたことは誠に幸運であった。  (旅先の伊勢松坂にて)

 (ソシアル・アジア研究会代表)


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