【戦争というもの】(10)

――なぜヒロシマ・ナガサキの悲劇は世界を動かせなかったか

羽原 清雅

 ヒロシマ、ナガサキを襲った原子爆弾は、かつて類を見ないほどの驚異の殺りく兵器だった。両都市の死者や行方不明者は投下時点で20万を超え、しかもその殺害ぶりは単に悲惨とか暴虐とかの言葉では言い表せないものだった。生き残った人々もまた、身体と心に痛みと苦しみを負い、長い歳月を病苦にさいなまれながら、やがて消されていった。
 それだけの被害を負いながら、70余年を経た今も、原爆どころか、水爆までもが登場して、これらの殺人兵器が大量に蓄えられ、廃絶どころか、削減の協議すら行えないでいる。あるいは、新たに開発することで、国際的な発言権を握ろうとする国すら出ている。

 なぜ、このような「悪魔の兵器」が持ち続けられ、持たない方向への外交交渉が成り立たないのか。傲慢な権力者たちは、この兵器のうえにあぐらをかき、多数の犠牲者への思いなどみじんも感じようとはしない。爆弾あっての和平、に固執する。
 国家権力を振り回す指導者たちは、ヒトラー、ムッソリーニら歴史上の独裁者を批判するが、果たしてその資格があるのか。一人ひとりの生命をないがしろにし、ひとたび間違えれば、ヒロシマ、ナガサキを再現しかねないボタンを握っていることに自覚がない。
 また、原水爆廃絶をうたうグループが、内部抗争に陥り、掲げた旗を穢しているのも、核廃絶の大義を見落としているだけだろう。
 このような指摘自体が、青臭い非論理的感慨にすぎないと一笑に付されることを承知でいうのだが、「戦争というもの」を考えるとき、最終的にはこの「イロハ」の原点に戻らざるを得ないのだ。どの国家指導者も「平和」を唱え、「いのち」の大切さをいう。だが、その行動は伴わず、大量死を招く殺りく兵器を手放そうとはしない。廃絶への交渉も持とうとしない。また、その傘に依存することが国家の使命といった、ゆがんだ施策を国民に押し付ける。

 あれだけの原爆被害を体験しながら、なぜ世界にアピールできなかったのか。終戦後の米軍による日本での報道規制(検閲)、米国の原爆正当化の論理、国際政治のゆがみ、「王道」であるはずの原爆廃絶という主張の虚しさ・・・・・・この稿では、当時を振り返りつつ、今日の核の扱いを見ていきたい。

<原水爆の登場から終戦まで>

*歴史的背景 まずは、原爆の登場から、活用までの周辺を見ていこう。
       (主に『破滅の決定―世界を変えた“マンハッタン” 計画』
          マイケル・アムライン著・野間寛二郎訳/三一新書による)

     原爆関係          国際動向 
  ――――――――――――  ―――――――――――――――――――――
<1937年>           ・ 7. 7 盧溝橋事件で、日中戦争勃発 
 
<1939年>           ・ 9. 1 第2次世界大戦始まる
 ・ 8 アインシュタインがルーズベルト大統領に「ウランから超強力な爆弾可能」と書簡
   (ナチスの核兵器開発について、ユダヤ系物理学者らがアインシュタインを動かす)

<1941年>           ・12. 8 真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる 
   
<1942年>
 ・10 原爆開発の「マンハッタン計画」を承認(レスリー・R・グローブス陸軍准将主管)

<1943年>           ・前年ミッドウエー海戦、この年アッツ島全滅                 ・11.27 カイロ宣言(対日無条件降伏まで戦う)
                 ・ 9. 8 イタリア降伏 
 ・ 5. 5 ルーズベルト大統領が軍事政策委員会を設置、原爆の対日使用を決める
 ・ 9.18 ルーズベルト、チャーチル会談で、日本降伏まで爆撃継続を警告すべき、とする
 ・この年「超空の要塞」長距離戦略爆撃機B29の生産始まる

<1944年>           ・マリアナ沖、サイパン島、レイテ沖等日本敗退 

<1945年>           ・ 2 ヤルタ会談(ソ連の対日参戦、米英が了承)
                 ・ 3 東京大空襲(6大都市中心に空爆相次ぐ)
                 ・ 3~6 硫黄島全滅、沖縄に米軍上陸 
                 ・ 4.12 ルーズベルト死去→後継トルーマンに
                 ・ 5.7 ナチス・ドイツ無条件降伏
・ 6. 1 米「スチムソン委員会=陸軍長官」原爆問題の秘密委員会設置
  (このころまでにオークリッジ、ロスアラモス、ハンフォードは原発開発都市として整備)
 ・ 6初旬 亡命したユダヤ系ドイツ人物理学者ジェームス・フランク(1925年ノーベル物理学賞)らがスチムソン長官に報告書を出す。日本に降伏か、ある地域を無人化させるか、の最後通告を出すこと、無警告攻撃は望ましくない、と提案。フランクらは、この無差別、破壊的な新兵器の使用は米国世論も認めがたく、また人類は歴史上最も危険な軍備競争に突入するとの懸念を持っていた。しかし、オッペンハイマーらの科学顧問団は、戦争終結策としては公開実験で脅威を示すことではなく、直接的な軍事使用以外にはない、との態度を示した
 ・ 6 スチムソン委員会が無警告投下を勧告。トルーマン大統領の判断待ちに
 ・このころ、シカゴ冶金研究所長ファリントン・ダニエルスは150人の科学者に投票を求めた
  ① 原爆使用の前に日本に軍事的示唆をし、続いて降伏の機会を与える=46% 
  ② 米国内で、日本立ち合いの示威実験をし、原爆使用の前に降伏の機会を与える=26%
  ③ 米側に人的損失を最小限にし、日本降伏をもたらすため、軍事的見地から効果的な方法で原爆を使用=15%
  ④ 原爆の軍事的使用をやめ、公開の示威実験でその威力を示す=11%
 ・ 7.16 米、ニューメキシコ州ロスアラモスで、人類史上初の核実験成功
 ・ 7.17 米英ソ首脳のドイツ・ポツダム会議。米国はスターリンにどう伝えるかに苦慮(24日)
 ・ 7.24 トルーマンがポツダムの帰途、機中で日本2都市への投下を命令。テニアン島の第509部隊はすでに20日から日本本土への訓練攻撃を開始。投下候補地は広島、小倉、新潟、長崎で、当初の京都案はスチムソン、トルーマンの意向で除外。ポツダムから帰国直後に、選挙敗退のチャーチル辞任
 ・ 7.26 ポツダム宣言発表。日本の無条件降伏を迫る
 ・ 7.28 鈴木貫太郎内閣は「宣言黙殺・戦争邁進」を表明する
 ・ 8. 6 ヒロシマに投下
 ・ 8. 8 ソ連、日ソ中立条約を破棄し、参戦
 ・ 8. 9 ナガサキに投下
 ・ 8.10 御前会議で「終戦」の聖断
 ・ 8.14 ポツダム宣言受諾を決定
 ・ 8.15 天皇、戦争終結の詔書を放送
 ・ 9. 2 ミズーリ号艦上で降伏文書に調印

<1946年>           ・ 3. 3 「鉄のカーテン」とチャーチル、東西冷戦 
・ 7. 1と25 ビキニ環礁で原爆実験2回
                 ・ 5. 3 極東国際軍事裁判開廷
                 ・11. 3 日本国憲法公布/施行は47年5月

<1948年>           ・11.17 戦犯の25被告に有罪判決
                 ・12.23 東条ら7被告の絞首刑執行

<1949年>           ・ 7~8 下山、三鷹、松川事件頻発
                 ・ 8.29 ソ連が原子爆弾の実験に成功

<1950年>           ・ 6.25 朝鮮戦争/東西冷戦激化
                 ・8.10 警察予備隊令公布/52.10保安隊/54. 7自衛隊に発展
 ・2月以降、原爆資料の対ソ連スパイ事件が摘発され、45年に情報をソ連に流したとしてユダヤ人ローゼンバーグ夫妻が逮捕(51. 4に死刑判決、53. 6に死刑執行)
 ・ 3.15 ストックホルム・アピールで「原爆絶対禁止」。全世界5億の署名実る
 ・11.30 トルーマン大統領、朝鮮戦争での「原爆使用もありうる」

<1951年>           ・ 9. 8 対日平和条約、日米安保条約調印 
 ・ 3.24 マッカーサー最高司令官「中国本土への原爆使用を含む攻撃辞さず」表明
 ・ 4.11 トルーマン大統領、マ元帥を罷免

<1952年>           ・ 4.28 日本独立、平和条約など発効

<1953年>           ・ 7.27 朝鮮戦争休戦協定
 ・ 8.12 ソ連、水爆実験に成功

<1954年>
 ・ 3. 1 第2福竜丸、米国のビキニでの水爆実験で被災。久保山愛吉犠牲となる

*当時の状況 日本国内に原爆を投下するかどうか、については、いくつもの見方があった。
 ① 原爆使用によって、25万の米国人の生命、おそらく数百万の日本人を救える
 ② 警告なく投下し、かたくなな日本に早急な無条件降伏を迫る
 ③ ドイツ、ソ連なども原爆開発に取り組んでおり、米国の力を一日も早く示すべきだ
 ④ 日本への投下でなく、投下実験により、原爆被災の驚異を知らせて、日本の降伏を図る
 ⑤ 大規模の被害は、米国民や国際的な非難を招き、国際的に米国が非難を受ける
 ――このような意見が出されていたが、結局は無警告で甚大な被害を生み出す結果になった。
 さらに終戦を前に、⑥核の開発競争で一歩先んじたい軍部の意向、また ⑦ソ連よりも早く実績を示すことにより、米国の力を示そうとの軍拡競争的な発想、さらに ⑧新兵器だからこそ終戦前にその威力を実戦的に試しておきたい意図、などが判断の陰に隠されていた。
 従来の爆弾よりも格段の殺傷力を持つ新兵器、ということは理解しながらも、放射能の後遺症、その治療方法などへの研究などはなく、極めて非人道的な威力のみに関心が集中していた。

 筆者(羽原)は、米国が原爆実験(7月16日)を急いだのは、戦況からすれば日本の降伏が近い、と知りつつ、米軍が原子爆弾の効能、つまり殺傷能力を確かめたかったからだ、と思っている。そのひとつの理由は、トルーマンの投下命令が7月24日にポツダム会議終了後の帰途の機中、というあわただしさのなかで、最終協議もなく発せられていること、降伏を求めるポツダム宣言はその2日後の26日、さらに鈴木貫太郎首相がこの宣言の黙殺表明は28日で、とにかく「降伏前」の時期を急いだこと、またテニアン島の原爆投下部隊が20日には、日本への空襲として訓練攻撃をし、先を急いでいたこと、やがて対立が予想されるソ連への対抗上、新兵器の実力を確認し、優位を示そうとしたこと、などからである。
 米側は、原爆を使ったのは日本の降伏を早めるためだった、と正当化し続けるが、じつは「殺傷実験を急ぎ、実績を確認しようと急いだ」ことだったに違いない。また、かつてない死傷者を生む殺傷兵器を使用する以上、米国内の世論を「非人道的な兵器使用はおかしい」といった方向に向かわせないことが為政者にとっては重要だった。また、仲間である多くの犠牲兵を出し、多数の敵兵を殺傷した米兵たちには、「犠牲を最小限にとどめた」「疑問のない正当な攻撃」といった信念を与えるためだったのだろう。

 疑問として残るのは、新型爆弾の放射能問題について、科学者たちはどう考えていたか、である。放射能の被害が想定される以上、その治療方法はどうか、といった研究はなされていなかったのか。戦争というものは、本来むごい結果を生み出すものだが、医科学者らの道義的責任はやはり問われなければならないのではないか。
 そして、科学者の権力に対する弱さ、つまり科学は善にも悪にも使われる、という自覚の乏しさが、彼らの研究の成果がもたらす是非の判断を鈍らせ、流れに乗せられてしまう傾向があるのではないか。科学は、一般人に理解し難く、また科学者には敬意と信頼を寄せがちであることからすると、研究の持つ社会的意味、研究の使途、資金の出どころなどを判断する身構えが必要だろう。その意味で、「戦争というもの」を考えるとき、これに参画する科学、科学者の姿勢を問わざるを得ない。
 また、政治、軍事の国家権力を握る指導層の、最終判断に至った際の混乱や虚偽、無能力は、戦前日本の末期のうろたえや、日中戦争途上の「転進」の判断、真珠湾攻撃前の短慮などに見られたばかりではなく、米国権力の原爆をめぐる行動のなかにも共通していたように思われてならない。
 これが「戦争というもの」の実相の一端、なのだろう。

         <もろかった終戦時の和平工作>

 ヒロシマ、ナガサキに触れたついでに、降伏前の終戦時に進められた和平工作について、簡単に見ておこう。1944年7月、強硬策一辺倒だった東条内閣の倒壊後に、こうした動きが出て来ている。だが、時すでに遅し、の状況だった。東条の責任以外で言うならば、<情報の過疎と乏しい判断力><軍事優先で非力の外交能力>だった。
 軍事重視、日常的な外交力の低下、そして民間交流の沈滞化、という状況が、戦争に結びつく。そのことは、終戦時の権力の動きのなかに明確に読み取れよう。
 いずれも、敗色濃くなっての工作のため、受け入れられず、また日本は無条件降伏以外の和平的な終戦策を求めており、しかもその策がきわめてあいまいで、あっせんを求めようとした各方面とも乗ってくることはなかった。とくに、対ソ連工作などは、外交不在のような恥ずかしいほどの事態だった。

*小磯国昭首相 1944年7月に東条後の首相に就任。本土決戦を打ち出す一方、宇垣一成元陸相を中国に派遣、蒋介石政権との和平交渉を打診しようと、45年3月に同政権国防部長何応欽にも近い繆斌を東京に招いた。だが、重光葵外相が彼を信用せず、木戸内大臣、陸海相も反対して小磯と対立、小磯の望んだ陸相兼務もままならず総辞職に追い込まれた。

*近衛文麿 1945年2月14日、対中軍事行動を進めたあと、首相の座を去った近衛文麿を取り巻くグループが、近衛による上奏文を昭和天皇に送り進言した。その内容は簡単に言えば、戦争の長期化がさらに続くと、ソ連軍の日本占領の事態にもなり、赤化を招く、というもので、和平に動くよう求めたもの。だが、これは徹底抗戦の軍部が反対して、天皇が却下する。
 この動きはすぐに憲兵隊に漏れて、4月には、のちに首相となる吉田茂、政治評論家岩淵辰雄、近衛側近の大蔵官僚殖田俊吉らが憲兵隊に検挙される。吉田の「ヨ」と戦争阻止グループとして「ヨハンセン」グループと言われた。

*軍人、記者も ベルリンの特派員田口某は5月末、旧知の東郷重徳外相に、5月7日に降伏したドイツの二の舞にならないよう、和平の提案をすべきだ、との書簡を送った。また、スイス駐在の米国大使リーランド・ハリマンに会い、中立国の調停をあっせんするよう要請した。
 スイスでは、ドイツの海軍駐在武官藤村義朗が、アメリカ情報機関OSSのアレン・ダレスに接触を図った。これには、朝日特派員笠信太郎も動いたとされる。

*鈴木貫太郎首相 1945年4月、鈴木首相、東郷外相は中立条約を結ぶソ連仲介の和平工作に動き、5月に最高戦争指導会議構成員会合で、ソ連の参戦防止、中立確保の交渉を持つことで合意。
 6月の御前会議で、「国体護持と皇土保衛」のため戦争完遂という「今後トルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が決定され、ソ連を通じた和平斡旋に動き出して、天皇も早期戦争終結に同意、広田弘毅元首相が、マリク駐日大使と箱根で会談を持つが不調に。
 6月末の国会演説では、降伏を考える可能性を示すかの含みを見せた。だが、国体の破壊や民族の滅亡は受け入れられない、として無条件降伏については拒否した。米側の受け止め方は「あいまい」というものだった。2月のヤルタ会談の決定通り、8月6日にソ連は中立条約廃棄を通告しており、日本の対ソ認識の甘さを見せた。

*駐ソ大使 6月21日、佐藤尚武大使がクレムリンに対して、公式に和平仲介を嘆願した。9月、天皇は近衛文麿を和平のため派遣しようとしたが、4月に日ソ中立条約廃止通告の期限を迎えたソ連は、近衛派遣の理由は不明確、として拒否。「無条件降伏でない和平」策は崩れる。

*昭和天皇とバチカン 1941年10月13日の『昭和天皇実録・第8巻』(宮内庁)に、天皇は内大臣木戸幸一に対して、日米交渉は次第に望み薄になっているので、「戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王庁との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある」と述べている。翌年2月14日、東条首相に会った際、「ローマ法王庁への外交使節派遣等につきご下問」とある。天皇の和平策への関心とともに、バチカンへのこだわりが見える。
 天皇は皇太子として、1921(大正10)年1月から英国製の御召艦「香取」で渡欧した際に、ローマ法王庁を訪ね、ベネディクト15世と会見している。法王は第1次世界大戦中を見続け、世俗国家の仲介者の立場で平和貢献に努めようとした人物。法王は「カトリックの教理は確立した国体・政体の変更を許さない」「将来日本帝国とカトリック教会と提携して進むこともたびたびあるべし」と発言した(『昭和天皇実録・第3巻』同)。
 この時の印象が20年後に蘇ったのか。国体の変更を認めない、との発言は、天皇制を中心とする政体を存続させることが終戦時最大の課題であったことから、その期待を込めたものだったのか。
 昭和天皇の言動は、国家けん引の主体である以上、戦争当事者としての責任を問われ、許されざる道のリーダーとして歴史的に追及を受けることは当然、と論理的には思う。その一方で、情状酌量の余地というべきか、戦時下の行動は無謀な政府や軍部の「傀儡」的な側面も強く、また個人としての発言には和平願望も強く読み取れて、そうした面をどの程度に割り引いて考えたものか、難しく、筆者にはいまだ結論に至っていない。

 ここで、あえてわき道に入りたい。
 皇太子としての訪欧から間もなく100年。外遊のころはまだ独身だった。すでに訪欧の3年前に、父は皇族・久邇宮邦彦(のち陸軍大将)、母は島津忠義〈最後の薩摩藩主〉の娘との間に生まれた良子(ながこ・のち香淳皇后)との結婚が内定し、19年6月に婚約した。だが、そこへ難題が起きた。いわゆる宮中某重大事件である。良子には色弱の可能性があり、これが天皇の血筋に入ってはならない、として、婚約廃棄の動きが始まった。その張本人は、枢密院議長で維新以来要職に在り続けた山縣有朋で、彼は西園寺公望、松方正義、首相の原敬らを賛同させていった。ところが、当時隠然とした発言力を蓄えた杉浦重剛、頭山満ら右翼などから、鹿児島の血筋に、長州の山縣がクレームをつけた陰謀説なども流れ、政治がらみに取りざたされた。久邇宮は態度を硬化させ、ついには宮内省が「婚約の変更なし」と発表、結婚式は24(大正13)年1月にやっと行われた。
 この件で、中村雄次郎宮内相は辞任した。山縣は枢密院議長はじめ政府要職などを辞任しようとするが、これは却下された。だが、式に至る前の22(同11)年2月に失意のうちに病死している。
 昭和天皇は、スタートからあらぬ話題に翻弄され、内心に反する動きに巻き込まれがちだったのかもしれない。

         <原爆投下後の新聞報道>

 日本は、ヒロシマの原爆投下を事前に察知できず、8月6日午前9時15分にエノラ・ゲイ号から新型爆弾を投下された。8日には、ソ連は日ソ中立条約を破棄して、2月のヤルタ会談どおりに日本に宣戦布告する。そして9日、ナガサキに2発目の原爆が投下された。
 当時の報道を、朝日新聞紙面から見ておこう。

*朝日に見る原爆報道 各紙同様の報道内容である。
・8月7日付 1段のベタ記事として「広島を焼爆」の見出しのあとに、「焼夷弾爆弾をもって攻撃/同市付近に若干の損害を蒙った模様」といった5行の記事があるだけ。それも、「B29四百機、中小都市へ/前橋、西宮を焼爆」という4段分の記事のあとにつけたされたにすぎない。
 この扱いについては、後述したい。
 ちなみに、この日のニューヨーク・タイムズ紙は、「原爆第一号 日本に投下/破壊威力はTNT火薬二万トン級」と、大きく扱った。先進的に開発された国としては当然の扱いだろうが、日本の情報の過疎、情報の統制のひどさが改めて浮き彫りにされている。
 トップ記事を見ると、「燦たり・海上特別攻撃隊 聯合艦隊司令長官 殊勲を布告」「沖縄周辺の敵艦隊に 壮烈なる突入作戦」「伊藤大将ら以下 大義に殉ず」――終戦間際になって、3月から6月までに、日米20万ともいわれる戦没者を出して壊滅した沖縄の戦闘を報道させた大本営の狙いは何だったのか。「本土決戦」の覚悟を求めるためなのか、文中には「敵もしわが本土に来らんとするも本土を繞って空と海と海底に全軍特攻の帝国海軍あり、断じて敵を洋上に撃滅せんとするものである」とある。

・8月8日付 1面トップの見出しは「広島へ敵新型爆弾/B29少数機で来襲攻撃/相当の被害、詳細は目下調査中」「落下傘つき 人道を無視する惨虐な新爆弾」。
 その脇に、大きく「けふ大詔奉戴日」として、天皇の「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」との詔書全文が載る。毎月8日は当時、戦時体制への国民動員強化の日とされていた。
 前文は「大本営発表=7日15時30分 一.昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 二.敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」。本文には、敵の非人道なる行為を敢てする裏には戦争への焦燥を見逃せない、として「かくのごとき非人道なる残忍性を敢てした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈」とある。
 負け惜しみにも聞こえるし、中国大陸などでの日本軍の犯した非人道的行為はどうなのか、と聞きたくなる文言がある。改めて指導者の手前勝手で狭量な判断が「戦争というもの」を作り出しているのではないか。

・8月9日付 トップ記事の見出しは「敵の非人道、断乎報復―新型爆弾に対策を確立」、隣にはボックスに囲んだ「火傷の惧れあり/必ず壕内退避/新型爆弾この一手」。とはいえ、その内容は防空壕に退避、毛布や布団をかぶる、手足を露出させない、火の用心、と言った程度で、何の足しにもならなかっただろう。また、チューリッヒの同盟電で、スイス紙が、米国の無差別爆撃の停止を勧告すべきだ、との社説を出した、との記事がある。海外には、この非人道的な兵器が許されていいのか、といった問題提起がなされていた。

・8月10日付 この日の紙面トップは、「ソ聯 対日宣戦布告」が大きなスペースをとり、「極東戦争に対する調停に関するソヴェート連邦に宛てられた日本政府の提案は一切の基礎を失った」というソ連の宣戦布告文が掲載された。
 新型爆弾については、「屋外防空壕に入れ/新型爆弾に勝つ途」「地下生活に徹せよ」などの3段記事があり、そこには現地を見た軍参謀の談として「新型爆弾恐るゝに足らず」とある。軍部は、新型爆弾の性能などについてはほとんど知らなかったようで、熱線、風圧には触れているが、放射能についての記述はない。

・8月11日付 初めて「原子爆弾」の名称が登場。「原子爆弾の威力誇示/トルーマン・対日戦放送演説」として、チューリッヒ電が掲載された。ポツダム会談から帰国したトルーマン大統領の9日のラジオ放送で、日本が降伏しなければ、今後も引き続き投下する、と警告している。
 B29が約100機、帝都に近い千葉、茨城の軍事施設、工場などを爆撃するなど、九州、関西、東北なども数百機による攻撃が続いた、とある。

・8月12日付 小さい2段見出しで「長崎にも新型爆弾」と9日の投下を伝えた。7行の記事には「被害は比較的僅少なる見込」とある。
 また、ヒロシマに入った3記者は「一瞬に広島変貌」の記事で現地ルポ、「鉄筋建を除く市民住家はほとんど例外なく消え 通行中の市民は異様な熱さを皮膚に感じて負傷した 負傷者の露出部分とくに顔面は火傷から出血した者が多い」などと書いた。末尾には、一番大切なものは「戦う意志」を持つことで、「恐怖を越えて、また死してなほ敵に屈服せざる『意志』である」とある。これが記者の本音なのか、どのような気持ちで書いたのだろうか。
 日本政府の訓令により、スイス公使館は、スイス政府を通じて米国に原爆使用について厳重な抗議をした、という。

・8月13日付 3段の囲み記事で、「原子爆弾 “なぜ都市を狙ふ”/欧州紙、牧師 囂囂の非難」として、スウェーデン紙の「原爆の威力を示すためにはもっと他の目標を選ぶべき」「もっと以前に住民の立ち退きに十分な時間を与えるべき」「米国今回の挙はまことに非人道的な驚くべきもの」との記事を紹介している。

・8月14日付 「文明・人道への『逆手』/日欧でも/近く糾弾の言明」の3段記事で、「原子爆弾に対する世界の非難と攻撃は日毎に激しさを加へようとしてゐる」との書き出しで、「エコノミスト」による「無政府状態にさらされた文明」を引用、また“敵国”たる英国労働党による使用禁止とその保障についての主張を紹介している。国内では、清瀬一郎が、対ドイツに使わなかった原爆を対日本に使ったのは人種的偏見によるもの、と非難の論を掲載。ベタ記事ながら、スイス紙から、米国の原爆の独占は一時的なことで、いつまでもこの特権を享受しうるものではない、などの見解を示した。
 さらに、同じ3段記事「熱線には初期防火/頑丈な壕ならば真下で平気」では、爆発前、爆発時、爆発後、被曝程度、熱線など、はじめて分析に迫ろうとしている。

・8月15日付 この日は終戦を迎えて、「戦争終結の大詔渙発」がメイン。タテの見出しは「新爆弾の惨害に大御心/帝国、4国宣言を受諾/畏し、万世の為泰平を開く」。詔書では「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルベカラザルニ至ル」と原爆にも言及した。

・8月16日付 理化学研究所の仁科芳雄博士が広島を視察後に、原子爆弾のメカニズムなどの談話を示した。仁科は、科学技術の発展した米国との太平洋戦争に反対したが、結局、1941年春ころから原爆開発に取り組むことになった人物だ。この記事のわきには、阪大教授浅田常三郎博士による新型爆弾の解説が載る。さらに、チューリッヒ特電で、トルーマン大統領の説明として、これまで2年半の秘密のもとに、20億ドルを投じ、12万5,000人の労働者、と補助工場の6万5,000人、二つの大工場と多数の小工場で生産が進められた、という。このように、日を追って原子爆弾の概要が判ってきた。また、秘密裏の準備は1941年末の真珠湾事件以前から取り組まれていたとしている。

*原爆報道の裏側 終戦前後に朝日新聞の編集局長だった細川隆元は、その著『朝日新聞外史』(秋田書店)で、原爆報道をめぐる各紙、大本営との協議のプロセスを説明している。
 1945年8月6日午前10時ころ、原爆投下の知らせが細川の自宅に入った。その日の午後、各社編集局長の会議があり、毎日・吉岡文六、読売・中滿美親、現東京新聞の国民・中根真治郎、現日本経済新聞の中外・小田島定吉、現共同と時事通信社になった同盟・大平安孝の6人が出席、陸軍の担当官から、情報が集まらないので「集まった上で大本営から発表しよう。それまでごく小さく普通の都市爆撃と同じように」と言われた。それが7日のベタ記事だった。広島の被害については、これまでのように政府の「記事掲載禁止」が出ていた。
 7日午後の各社編集局長会議では、情報局が大本営発表をするが、これには「新型爆弾と表記する」との説明があった。しかし、すでにチャーチルから政権を継いだアトリ―首相が議会で「原子爆弾」と述べ、米トルーマンも同じような声明を出すとの短波ラジオによる情報があったので、細川らは「原爆」の表記を認めるよう求めたが、「学者による現地調査の結果を見てから」と蹴られている。

 このように、被爆国が「原爆による」と知らされるのは、投下から5日も経った11日以降からだった。目の前にある惨状については、まだ現地以外の国民には知らされていない。9日の長崎投下の報道でも、「原子爆弾」との表記は使われていない。
 この時点での報道管制は、まだ軍部の握る情報局と大本営によるものだった。
 そして、米側の司令部が機能を発揮し始めると、新たに報道などに対する「検閲」が強化される。原爆の被害状況などの報道も次第に抑圧され、国内はもちろん、海外に対してもあの悲惨な現実は広くは知らされず、狭い範囲に閉じ込められることになる。
 その結果、ヒロシマ、ナガサキの悲劇と、この非人道的兵器の実相は、世界に喧伝されることなく、結果的に原爆、あるいは水爆などのもたらす人間に敵対する兵器の拡散を許すような展開になっていった。もしこの残虐な実態が早く、広く世界に伝えられていたなら、世界の良心的な人々によって、この兵器は規制され、廃絶の方向に向かっていたのではないか。
 そのような思いを込めつつ、次の現実に踏み込んでいこう。

         <現地入り第一報記事の明暗>

▼ 1945年8月30日、連合国軍総司令官マッカーサー元帥が厚木に到着
▼ 9月2日、ミズーリ艦上で重光葵、梅津美治郎全権が降伏文書に調印
▼ 同9日、間接統治、自由主義助長などの日本管理方式の声明発表
同10日、GHQが「新聞報道取締方針」「言論及び新聞の自由に関する覚書」(報道範囲・進駐軍と連合国に関する報道制限など)を発した。これを機に検閲開始
▼ 同11日、GHQが東条元首相ら39人の逮捕命令
同19日、GHQ、プレスコード(報道遵則)を発令、21日発布(1952年4月28日サンフランシスコ条約発効まで、部分的な緩和はあったが、約6年半ほど続けられた)
▼ 同20日、ポツダム宣言に伴う命令交付
▼ 同22日、GHQが「降伏後における米国の初期の対日方針」発表
同24日、新聞、通信社に対する政府による直接間接のすべての統制の撤廃をGHQ指示
同27日、新聞および言論の自由への追加措置覚書
10月9日、東京5紙に新聞事前検閲開始(すでに9月24日同盟通信社、25日NIPPON TIMESに実施)

 このように、GHQの日本統治が進む中で、報道に対する規制措置が整っていく。それでも、外国人記者はヒロシマ、ナガサキを目指す。その最初の現地入りの記者たちの動向は明暗に分かれていた。ただ、現地の悲惨な状況、原子爆弾の非人道的な威力を暴く記事は、事実であればあるほど、検閲の門を狭くした。
 世界の人々が、鉄の熱いうちに知っておくべきこの現実は、結果的に世界の世論を動かすほどの広がりを持ち得なかった。原爆の恐怖が他人事のようになり、情報過疎による原爆論議も冷え込んでいった。その後70余年間、世界の要人たちが時折、ヒロシマ、ナガサキを訪れ、その被害に触れて予想以上の罪悪を感じることになる。
 だが、そのときは遅く、すでに核兵器保有国はどんどん増え、地球数十個をも壊滅させるような保有数になり、手のつけようもない現実を作り出している。しかも、そのような惨劇を招く兵器と知りつつ、国連においても核保有を容認するかの態度が横行、軍縮の協議も進められようとしない。

 もし、ヒロシマ、ナガサキの空に閃光が走った直後から、被爆地の惨禍が隠されることなく、世界中に伝えられ、語り合われる空気が作り出されていたなら、そしてその後も原子爆弾を握る国々が増える前に、危険兵器の保有や生産の可否が議論されていたなら、水爆をも含めてこの大量殺りく兵器を生み出すような状況は避けられていたかもしれない。
 それほどに被曝の実態は、何のかかわりのない数多くの人々を最も残虐な方法で殺害し、無数の生ける屍を長期にわたって苦しめた。だが、あの犠牲者たちへの思いは形式的な祈念にとどまり、多くの人々はあきらめのもとに過ごし、為政者はなお核兵器に頼ろうとしている。

 当時の一線の報道記者たちは、それでも抑圧された中で取材を続け、その記事はいまも慰霊と核廃絶の思いを呼び起こしている。

*レスリー・ナカシマ 広島出身の両親がハワイに移民した2世。8月27日広島入りし、米通信社UPを通じて打電。その第1報は31日付ニューヨーク・タイムズ紙に掲載。のちに広島入り第1号の記者と分かる。彼は放射線の被害についても報道した。すでにナカシマが現地の状況の中で証明しており、米軍の隠ぺい的な発表を覆したことになる。いいがたい具体的な惨状の報道は、米国人には想像できなかったのではないか。

*ウィフレッド・G・バーチェット オーストラリア人で、デーリーエクスプレス、ロンドンタイムスなどの特派員をやり、のちに中国、ベトナム報道でも活躍した。当初は広島一番乗りとされたが、ナカシマが先行していた。また、「ノー・モア・ヒロシマ」と原稿末尾に書いたように伝えられたが、この表現は記事になかった。
 「忘れられぬ無言の抗議―私はヒロシマで何をみたか」(『世界』1954年8月号)という彼の小論がある。それによると、彼が書いた放射能被害の記事が米側によって否定された事実があり、「広島では何びとも原子放射能の余燼のために苦しんでいるものはない、という全面的な否定が世界中の新聞に発表された。この否定を発表した科学者たちは、そのときまだ罹災地を視察していないのだった」と書いている。ただ、名著『原水爆時代』を書いた今堀誠二は「この粗雑な発表を論破出来なかったのは、バ氏が原爆症に対する医学的知識を十分に持たなかったため、原爆科学者達が、被爆時に受けた放射能障害を、現在この地上に残存する放射能の問題とすりかえ、後者が今ではたいして重要でないという事実から前者の障害はあり得ないといっている、そのトリックを看破できなかった点は惜しまれる」と述べている。
 「看護に当たっている家族たちの鋭い、ぎらぎら光る目。患者たちのどんよりした、生気のない、落ち着きのない目。・・・・それは爆弾を作り、これを投下した西欧に対する、また、西欧人としての私に対する、深い、忘れがたい非難であった」。しかも、新聞記者が現地入りしても、「立ち入り禁止」の地域ができ、記者たちも住民の誰とも話を交わさず、患者たちは別の病院に移されていた、という。このように、「虚偽の公表」「作られた真実」を取材、報道する罪は重い。

*ジョン・ハーシー ピュリツァ―賞を受けた米国の新進作家。ライフ、ニューヨーカー誌特派員として来日。1946年5月に広島入りして、滞米経験もある谷本清牧師の協力で取材し、8月末にニューヨーカー誌に特集的に掲載、100紙余の各紙にも転載され、12月刊行の単行本は30万部のヒット作になった。それは、原爆の実態が広く知られるひとつの契機になった。
 日本で訳本『ヒロシマ』(石川欣一、谷本清訳、法政大学出版部)が出版されたのは、2年半以上経った49年4月。GHQの民間検閲隊が「不当に残酷」として出版を認めないままになっていたが、日本で検閲上の紛争に巻き込まれている5冊の本があるとの報道から、責任者としてマッカーサーの名が出たため、彼は禁止の事実を否定、米国の文献は検閲しない、と述べた。その本が『ヒロシマ』で、エドガー・スノーの『中国の赤い星』もそのうちの1冊だった(モニカ・ブラウ著・立花誠逸訳『検閲―禁じられた原爆報道』時事通信社)。
 検閲が、かなり恣意的、主観的だったことがわかる。被害の大きさ、批判の厳しさが、米側の良心の疼きを誘うものか、率直な現場の報道を冷静、客観的に受け止められない空気がとくに軍部内には強かったのだろう。原爆投下の肯定的な評価が、甚大な犠牲の実態が紹介されることによって覆されるのを恐れたのだ。
 なお、牧師の谷本清は一貫して平和運動に取り組み、ノーモアヒロシマズ運動を進めて、被爆孤児の資金活動、原爆乙女の治療などを進め、米国各地で反原爆と平和を訴えた。

 戦後日本の紹介に力のあった『ニッポン日記』(井本威夫訳・筑摩書房)の筆者マーク・ゲイン記者は、1945年12月から1年余日本に滞在、各地を巡り、当時の日本人の様子を活写した。彼が被爆1周忌の続き物を書くためにヒロシマ入りしたのは46年7月18日。ただ、物的な被害状況はスケッチされるが、そこにはあえぐ被爆者の存在、実態の記事は乏しい。筆致の軽い彼らしいルポではあるが、広島の研究者たちの評価はあまり高くない。発信した被爆1年の企画記事を見てみたい。
  
*ジョージ・ウェラー ナガサキ一番乗り、とされる。シカゴ・デイリー・ニュース紙の記者で、第2次世界大戦の戦場取材を続けていた。ピュリツァ―賞を受けた国際記者。
 ミズーリ号上での降伏調印式のあった9月2日に来日、米軍の監視を逃れつつ、6日に長崎へ。
当初は被爆の激しさに目を見張ったが、次第に放射線を浴びた人々の惨状に関心が高まる。また、米英豪蘭などの兵士の収容された大牟田、飯塚などの捕虜収容所を訪ね、その実情を見た。連合国の軍人捕虜は大戦を通じて14万に上り、その死亡率はナチスに比べて7倍も多かった、と記している。
 ウェラ―は軍部ににらまれていたこともあって、その発信した原稿のほとんどは検閲にひっかかり、なかなか日の目をみなかったという。
 彼の子息が、父親の死後の2002年、遺品の中にタイプを打った際のカーボン紙の控え、つまり彼のボツになった原稿の控えを大量に見つけた。それを機に、大変な作業の末に読み取って出版に至った。『ナガサキ昭和20年夏 GHQが封印した幻の潜入ルポ』(小西記嗣訳、毎日新聞社)で、日本での刊行は2007年7月だった。

         <米国統治下、日本での『検閲』の姿>

 これまで原爆投下、終戦前後の状況に触れてきた。国内での原爆報道は当初は日本の軍部、政府の強い統制があって、国民に詳しくは伝えられず、戦後になると、GHQの統治のもとで原爆のもたらした非人道的な被害状況の報道は規制された。この経過を見ると、「戦争というもの」は、すさまじい形で多彩な被害を国民にもたらしながら、その事実は知らされず、国家の権力はさまざまな規制を加えて隠ぺいに努めることがわかる。
 恣意的な理屈にもとづいて方針を決める権力者、理由もなく死の犠牲を強いられる当事者、その両者の間にあって、その事実関係を知らされず、権力者の説明だけについていかざるを得ない大多数の人々・・・・この3者の関係を狭め、いずれが正義かを問いかける機能を持つのが言論の自由、報道の自覚ある自由なのだが、それを、分厚い壁で遮り、より正しい道に向かわせるべき世論を生み出すことを妨げるのが、権力者による「検閲」という障害だった。

 GHQによる厳しい報道規制が終戦早々に提示され、新聞報道がそれに従わざるを得なかった具体例は先に示した通りだ。戦争をしかけた日本が戦勝国の管理下に置かれることはある程度堪えざるを得ないにしても、その言論の自由への圧迫は、多くの弊害や屈辱を後世に残すことになる。
 その最大のひとつが、原爆報道の規制だろう。ヒロシマ、ナガサキへの立ち入り規制、国内ばかりか世界への発信の抑圧、さらには権力サイドによる虚偽の記者会見でのミスリードなど、具体例は少なくない。戦争を引き起こした敗戦国とはいえ、その戦争のもたらした国際的なマイナスについては、次の時代のためにはきちんと伝え、新たな前進を求めなくてはならない。
 そうした原水爆規制、削減、全廃への方向を立ち遅れさせたひとつは、ヒロシマ、ナガサキの数十万という人間を、あってはならない残忍な犠牲に追い込んだ事実を隠ぺいするかのように知らせない。そのような現実を実感を持って見つめ、的確な判断を下すだけのデータを与えない。そうした結果、時間が経ち、記憶が遠のき、世代が変わり、他の課題に追われ、いつしか「原爆離れ」「記憶の薄れ」といった空気が定着する。そこに、権力者らの軍備増強の論理、そして原水爆容認の土壌を許したのではなかったか。

 日本の敗戦から1年も経たない1946年7月、早々と米国はビキニ環礁(戦前の日本委任統治領、現マーシャル諸島共和国)で、ナガサキに続いて原爆を投下し実験を重ねている。さらに、この国のエニウェトク環礁で1952年11月、初の水素爆弾を実験している。この地域の住民は一時移住のあと帰島したが、放射能汚染でまたも移住を強制された。エニウェトクでも、半減期2万4,000年のプルトニウムが残り、住民の苦労はいまも続いている。災禍の教訓は生かされず、地球へのダメージは残り続ける。貧しい国は、強大国に郷土と住民のいのちを売り渡している。

 また、1952年10月にはイタリアでの国際医師会議で、3人の日本人医師が原爆症の学術報告をする段取りだったが、イタリアはなぜか突然中止とした。理由は不明ながら、出席予定の医師は「原爆の被害を正しく伝えることを恐れる勢力がイタリア政府に圧力を加えて結果」と見ている。
 このように、ヒロシマ、ナガサキの教訓は生かされず、あるいは事実を隠そうとするかの動きを生み出している。このマイナスの蓄積が、原水爆廃絶の動きを制圧しているのではないか。
 ここで、国内での報道規制の具体例を見ていきたい。

*米側の早い統治体制 検閲の動きについて、さすが米国、と感じたのは、早い時点で日本の敗戦を見越して、敗戦国の統治行政についての研究、準備を多角的に進めていたことである。これは、朝鮮の植民地化、旧満州の建国に当たって、日本は軍部に支配をゆだねるばかりで、武力に任せてものを言わせない強制統治を図ることに専念していた姿勢とは大違いだった。米国が、日本のありようを民主主義国家に仕立て上げようとし、また天皇全権のもとに官僚、軍部の権力的支配を排除しようとの原点に立って、対日戦略を描いていたことに、ひとつの納得を感じた。
 もっとも、民主主義の旗を掲げつつ、検閲制度には強引な手口を使い、また原子爆弾被害のあまりのむごさを知らせまいとする身勝手な手法を行使した事実は黙視できないのだが。

 日米の対外支配の違いを目の当たりにさせられたのは、モニカ・ブロウの『検閲』を読んだことによる。彼女の書から、対日工作の段取りをごくかいつまんで紹介したい。
 1942年2月には、米国務省は戦後の対外政策の諮問委員会を設置、省内の日本専門家たちが広範囲に対日政策を研究する一方、各省でもそれぞれの立場からの占領計画を検討していた。43年夏には、陸海両省で、検閲のありようについて検討、44年5月には陸軍省が南西太平洋区域総司令官マッカーサーに対して、民間検閲に関しての命令書を出した。占領現地の民間検閲はその地域の最高軍事司令官の責任であること、検閲を通して価値ある情報の入手、破壊分子の発掘と秩序規制違反の企ての発見、占領下での情報伝達の自由制限、あるいは検閲組織の機能などに触れている。
 12月には、国務、陸海3省により、「日本のための軍政」計画ができて、3省調整委員会で政策立案、し、これを統合参謀本部に伝え、最終的に最高司令官、つまりマッカーサーに通知することになる。米国検閲局長官プライスの提起もあって、11月には検閲に関する命令書草案を準備、45年4~9月には民間検閲の基本計画が各方面の意見とも調整のうえ、承認された。
 7月のポツダム宣言の前に、対日統治の一環として、かなり詳しい検閲のルールを作り上げていたことがわかる。

*プレスコードの威力 戦後の報道を規制したのが、このプレスコードだった。まず9月10日に新聞報道取締方針などが示され、次いで出されたのが「プレスコード」だった。大方針は決まっていたが、日本統治が始まると、具体的な対応が必要になり、急きょ、示されたといえよう。
 まず同盟通信社が9月14日、モールス信号による放送を含む全海外放送、国内のニュース配信を24時間停止させられた。国内向けは規制したものの、海外には各種の情報発受信が続いており、これを締め切るための措置だった。次いですでに触れてきたように、朝日新聞が9月18日に2日間の発行停止の処分を受けた。その内容は、鳩山一郎のインタビュ-で原爆被害、病院船攻撃、毒ガス使用などの批判をした、というもので、この掲載を許した反省であろうか、発行停止を発したその日に「プレスコード」を提示したのだった。

 プレスコードは、「日本に言論の自由を確立するために」発布するもので、言論を拘束するものではなく、言論の自由に関する責任と意義を育成するため、と説明をつけている。
 10の項目では、「報道は真実に即すこと」「公安を害するようなものは不掲載」「報道記事は事実に即し、筆者の意見は加えない」「報道記事は宣伝目的の色を付けない」といった原則をうたう。戦前の特高の手法同様に、解釈次第ではいかようにも運用できるが、敗戦国としては原則として、まずは受け入れざるをえない。
 だが、「連合国に関して虚偽的、破壊的批評は加えてはならない」「連合国進駐軍に関して、破壊的批評、軍への不信、憤激を招く記事は不掲載」「連合国軍隊の動向に関して、公式の発表解禁まで掲載、論議は禁ず」といった手前勝手なルールが盛り込まれている。敗戦国には厳しいが、旧帝国下の日本同様の米政府、軍部の姿勢だ、と思わざるを得ない。

 さらに、検閲の際の削除、発行禁止の対象として、30項目が示されている。「GHQ批判」「極東国際軍事裁判批判」「検閲制度への言及」「米ソ英中、朝鮮人、連合国批判」「満州での日本人取り扱いの批判」「第3次世界大戦、冷戦の言及」「戦争擁護、神国日本、軍国主義、ナショナリズム、大東亜共栄圏などの宣伝」「戦争犯罪人の正当化や擁護」「占領軍兵士と女性の交渉」「闇市の状況」「占領軍批判」「飢餓の誇張」「暴力、不穏な行動の扇動」「非解禁報道内容の公表」などである。米国などに対する批判、過去の日本への回帰的言動を禁じようというものだが、GHQがとくに警戒し、禁じたのは原爆被害の報道だった。
 戦争中止のために原爆を投下した軍事的意義は、米国内では肯定的に受け取られ、多数世論になりつつあって、それはまた太平洋戦争に参戦した軍人らが誇りとするところでもあった。少なくとも、血みどろのなかで生き残った軍人たちは、そう思いたかった。
 だが、表面上はそうであっても、予想を超える陰惨さで人命を奪った事実が、米国内はもとより世界中に知らされ、原爆否定の風潮が高まることは、米国政府、軍部として、何としても避けなければならなかった。
 戦争を起こした側、対抗して戦った側、いずれも陰惨な事態を引き起こしたその結果責任を、なんとか覆い隠し、批判の刃に突き刺されないよう、正当化のためのウソや隠ぺい、否定や矮小化に弁舌を振るう。このことは、「戦争というもの」には付きものなのだ、と言って過言ではない。

 このような背景を受けて、9月以降に東京発行の朝日、毎日、読売報知、日本産業経済、東京の5紙の事前検閲が始まり、10月末には大阪地域の7新聞、2通信社、2放送局が検閲対象になった。

*国内での検閲事例 報道だけではなく、書籍、雑誌、映画などのメディアの検閲も始まった。ここでは、原爆被害に関して話題になった出版物のうち、いくつかの事例を取り上げたい。とくに文芸作品は情緒性に富み、原爆の悲惨さに心を揺さぶられる表現が多く、残虐な行為に及んだ米側としては、その種のアピールは何としても抑えたかったに違いない。逆にいうなら、その出版物の規制措置が成功したということは、原爆の脅威、罪悪性を世界の人々が気付く機会を狭められ、原子爆弾を生き永らえさせることになった、ということだろう。言論の抑圧が、世の中を悪い方向に向かわせた具体例、と言っていいだろう。

 ・栗原唯一・貞子夫妻『中国文化・原子爆弾特輯号』 検閲の強まるなか粘りに粘り、削除に遭い、表現を緩めたうえで、1946年3月に月刊で出版された。貞子の詩「生ましめん哉」が掲載される。被災後の地下室で新しい生命が生まれ、翌朝には取り上げた産婆が血まみれで死ぬ。その8月、検閲による削除や、自己規制をしながら原爆詩歌集『黒い卵』を刊行。終生、反戦、反核、反原発、反差別、反天皇制を貫く。  

 ・正田篠枝『さんげ』 ヒロシマの爆心地から1キロほどの地で被曝し、長く苦しんだ正田の歌集で、1947年末に広島刑務所でひそかに150部が作られた。46年春には編集できたものの、日の目を見なかった。非合法である。扉の見返しに、廃墟となった原爆ドームのカットと、「死ぬ時を強要されし同胞の、魂にたむけん、悲嘆の日記」とある。「殉死の母」として「帰りて食べよと見送りし子は帰らず、仏壇にそなふ、そのトマト紅く」などがある。「散華」ではなく、「一億総懺悔」の意味で、戦争から原爆に至ったことを思い、2度と繰り返すまい、との趣旨だろうか。篠枝は原爆症による乳がんで悶死する。

 ・大田洋子『屍の街』 疎開先のヒロシマで火傷と放射能を浴びたなか、この朝日新聞懸賞小説1位の作家は、被爆者の無残な命運を「障子紙や便箋など雑多な原稿用紙」350枚に丹念に書き、中央公論社に送るが、検閲でストップ。それでも、3年も経った48年11月に日の目を見た。ただ、言いたいことはかなり削られ、その思いを薄められた。阿鼻叫喚の巷ヒロシマではなく、そこは死を待つ静寂の街だった。

 ・原民樹『夏の花』 疎開先での、この被爆記は45年秋に書かれ、検閲通過は無理とされていたが、47年6月の『三田文学』に掲載され、水上滝太郎賞を得た。事後検閲だったが、原文はかなり削られた、という。次いで11月の同誌に「廃墟にて」を発表。だが、51年3月、東京で鉄道自殺する。朝鮮戦争2年目で旧軍人の追放解除、翌年の社会党の鈴木茂三郎の「教え子の再び戦場に送るな」演説、そしてマッカーサーの原爆使用発言などの混迷期だった。

 ・永井隆『長崎の鐘』 ナガサキで被曝し、死の床に就くこの牧師は46年8月に、精神科医で文芸、芸術に関心を寄せる式場隆三郎の支援もあって書き上げ、また吉田健一(茂首相長男)による英訳も用意されたが、検閲が通らない。GHQ作成による、日本兵らのフィリピンでの悪行を記した『マニラの悲劇』との抱き合わせの1冊なら、ということで49年に刊行された。原爆の悲劇を伝え平和を求める趣旨は十分に生かされなかった。だが、名著として、長期のベストセラーになった。『原水爆時代』を書いた今堀誠二は、郷土ヒロシマにいたプロレタリア作家で細田民樹の『広島悲歌』などを含め、このころから情緒的な原爆エレジー調のものが出だした、という。『ああ長崎の鐘が鳴る』の映画、歌謡曲もその代表的なものだとしている。

 ・記録映画、記録フィルムなど ヒロシマ、ナガサキの記録映像もまた、検閲をかいくぐりながら奮闘していた。フィルムの没収、立ち入り禁止などの妨害のなか、それでも「原子爆弾の効果」など米側への提出以外にプリントを残すなど、努力が払われた。その後も、断片的に米軍などが入手した貴重な被曝写真類が発掘されている。ここでは、それ以上深入りしないが、活字の世界同様の苦労が語られている。
 また、医学界でも早々と現地入りし、治療に当たるとともに、研究、調査も進められた。米軍は、医治療よりも原爆の威力を確認する作業を重視していた、との指摘があるなか、日本の医学者たちは今もなお不治の闘病患者の治療に向き合っている。しかし、この点もここでは触れない。

 *ビキニ環礁での核実験 マーシャル諸島のビキニ環礁は、米国の核実験場だった。1946年7月~58年7月の12年間に23回の核実験が行われた。ヒロシマ、ナガサキの患者たちが苦しむなかで、また原爆を語る出版物が検閲によって発信不能になるなかで、第2次世界大戦後初の原爆がさく裂したわけで、最初となった46年7月の2回の実験は米ニューメキシコ、ヒロシマ、ナガサキに次ぐ第4、第5の事態だった。
 さらに、54年からは4回の水爆実験が行われた。この時、日本のマグロ漁船第5福竜丸はじめ、約1,000隻の漁船等が被爆、久保山愛吉さんが死んでいる。原水爆の被害の大きさを知る米国が、島民たちを強制移住させて、実験を強行したのだ。
 このように、実験が無神経に強行され続けたことは、人命より戦争重視の表れであり、民主主義や人間尊重といった理念が単なる飾りものであることを示すものだった。兵器は、国民の平和的な生活は守らない。
 ただ、こうした事実は当初、原爆禍に泣いた日本で辛うじて反核運動に火が付いた程度で、世界に十分には広がらず、核兵器の横行を暗黙のうちに許容する結果をもたらした。

         <核世界の実情>

 核保有国は世界で9ヵ国。一発の原爆、水爆で小国なら壊滅するほどの核兵器だが、その保有量は馬鹿げたほどの数量である。ロシア6,850基、米6,450、仏300、中280、英215、パキスタン140~150、インド130~140、イスラエル80、北朝鮮は60とも30~10基ともいわれる。
 その実験は数千回とされる。実験だけでも、地上、地下、空中と地球を汚染させ、犠牲者も少なくない。核保有量は、ピーク時よりは削減されたとは言え、1万数千に及び、地球をいくつも破滅させるほどで、核を保有することが国際紛争の抑止力になるとの論理を仮に認めるとしても、なぜそれほどの数量を保有するのか、わからない。

*核兵器廃絶と存続保有の対決 国家として核兵器の保有を容認しているいくつかの国に対して、大半の国家は核を持たない方向を求めている。一部の権力者は核が自国を守る、と考えるが、普通の人々の多くは核兵器を排し、その脅威を回避したい、と願っている。
 一部の国家は核を持たないながら、「力」が国民を守るとし、近隣の保有大国を警戒して、その大国に対抗しうる別の核保有国の下に組み込まれて、核兵器を容認する。現在の日本もその一例で、米国の同盟国として、核の保護下に身を置く。だが、ヒロシマ、ナガサキの、悲惨で長期にわたる原爆の脅威を知る人々は、その状態を繰り返すまい、と核絶滅を叫ぶ。
 ただ、核支配が長引くにつれて、あの悲惨な経験は記憶から去り、核保有の実態を容認する風潮が強まる。核廃絶は単なる理想でしかないか、の扱いを受ける。
 それが、現代の国際的な状況だろう。だが、それでいいのか。核の保有は、それだけにとどまるのか。「自国ファースト」の考え方のもとで、他国の立場、状況への配慮を欠く政治姿勢が、紛糾の末に、核使用の方向に進まないという保証はあるのか。

*オバマとトランプ オバマ米大統領は「核廃絶に向けて、核なき社会を」と発言し、ノーベル平和賞を受けて、ヒロシマにも訪れた。だが、次のトランプ大統領は、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄するとの方針を表明した。冷戦末期の1987年、レーガン・ゴルバチョフ両首脳の決断による条約締結だったが、この動きを逆行させようとするのだ。この条約自体、ごく一部の核抑制の動きに過ぎなかったのだが、それをも止めるのだという。
 
*核兵器禁止条約の存在 国際NPOのICAN(核兵器廃絶国際キャンペ-ン)の運動による貢献もあって、2017年7月の国連では、核兵器禁止条約の賛成の国・地域は122になった。50ヵ国が批准した90日後に発効する。9月の時点では、批准は19、その一歩手前の署名は69ヵ国にのぼるが、核保有国はすべて採決不参加、また核の傘のもとにあるドイツなどのNATO諸国、日本、韓国、豪州なども不参加だ。大国は核禁止に反対ないし消極的、小国は禁止に同調的だが、大国の論理がまだまだ強い。

*微妙な核廃絶決議 2017年、ICANがノーベル平和賞を受けた。この年、国連での日本が提出した核廃絶決議案は、賛成144ヵ国ながら、前年より23ヵ国も減っており、棄権した国は前年よりも10ヵ国増えて、過去最高の27だった。
 これは、日本が核禁条約への言及を避け、「日本が、核兵器の非人道性の表現を弱めた」から、と解説された。この決議案は、「勧告」する程度で、拘束力を持たないものだが、1994年から継続して提出されている。被曝のすさまじさを知る日本提出の決議案だからこそ、その姿勢が妥協し軟弱化することに納得しない国が、賛成から棄権に回ったものだろう。
 またそれだけ、核禁条約への賛同が増えている現状に対して、核保有国やその傘の下にある各国が警戒的になったのかもしれない。
 核禁条約主導のオーストリアは、この条約への早期批准を呼び掛ける決議案を出したが、非核保有国118ヵ国の賛成で採択、核保有国、核の傘に頼る日本など39ヵ国が反対、11ヵ国が棄権した。
 核保有国並びにその傘の下にある各国と、非核保有国との立場の違いが次第にはっきりしてきているが、これも核依存の安全保障政策と軍事優先の外交姿勢を第一に考えるか、核を捨てて和平構築の外交政策に取り組むか、という考え方の相違だろう。だが、国際関係に疑心暗鬼を抱き、核にしがみつくか、和平協議のなかで相互理解を生み出す苦労を重ねるか、その姿勢のいずれが、長期的な共存の道を進めるかという点では、すでに結論は出ているというべきだろう。
 要は、国家権力者の、とくに大国と言われる国家の姿勢がいずれに向くか、にかかっているといえるだろう。

*日本はこれでいいのか 日本政府は核廃絶決議案を提出し続けている。これは正しいだろう。だが、核兵器禁止条約には反対の立場をとる。核兵器はやめるべきだ、と提唱しつつ、核の傘は必要だ、という矛盾がある。せめて、長期的に廃絶を目指そうというなら、そのような国際的な活動が必要であり、短期的には必要悪だが当面は必要、ということなら、その姿勢をはっきりさせ、その方向で実のある努力をすべきだろう。ICANの動きにも、距離を置く。この姿勢もおかしい。
米国の核の傘の下で守られたい一心で、米国に追随し、とくにトランプ政治に密着する。アジアに身を置く日本ながら、アジア地域での和平のあり方にはあまり言及しない。中国との関係は遠く、浅く、信念の語り合いや交流がない。中国や北朝鮮の核への警戒を、トランプ流の対決型ないし言葉のみの信頼関係だけに追随していて打開できるのか。

 日本の軍事予算は、安倍政権下6年連続で増え続けている。2017年11月の安倍・トランプ会談では「日本が大量の防衛装備を買うことが好ましい」と言われたという。そのためか、2019年度の防衛費、じつは軍事費の概算要求は、前年度1,000億円超の、過去最大となる約5兆3,000億円が計上される。
 北朝鮮の弾道ミサイルに対応する陸上配備型迎撃ミサイルシステム、いわゆるイージス・アショア2基の輸入による配備を進める。1基1,340億円を2基用意するという。これは見積もりだが、実際にはこれを上回る。F4戦闘機の後継機としてF35Aステルス戦闘機を、18年度の6機に続き、さらに増備して、いずれ67機体制にする。1機100億円を大きく超える。
 北朝鮮の核ミサイルに対抗して、2年前から弾道ミサイル防衛(BMD)整備を進める。弾道ミサイル対応のイージス艦8隻も必要とされる。この艦には、ミサイルSM3が搭載、大気圏外で迎撃するという。1発16億円、改良型は40億円とか。それ以外にも、自衛隊の装備はどんどん強化されており、「鳴りを潜める外交・派手な軍事増強」の様相を強めている。

 中国、北朝鮮との緊張関係を持続させ、両国の軍備増強を理由に日本の防衛体制を強化しなければならない、という。一見、もっともらしいが、軍事強化のための理由づけのようにも思える。日本の外交に、継続的な緊張緩和の外交努力が見えないからだ。
 容易ではないにしても、トランプ的な変幻自在の対応ではなく、また緊張を招く包囲網外交や、拉致問題を盾に対話を拒絶するかの姿勢ではなく、緊張緩和の努力を優先させる指針を持たない限り、軍事優先の政策は変わらない。

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 原水爆の投下を決断する国家権力者は、被害者となる諸国民を想定していない。いや、想定する意識がない。片や、被害に遭う一般の人々は、何も知らされず、ただ巻き込まれて死にさらされる。一瞬の死に遭遇する人々、またむしろ一瞬の死の安楽に恵まれずに、その後の生涯を苦痛、苦悩に苛まされる人々、その心をも伝えることさえ妨げられた人々・・・・戦争とは、そういう一個の人間を無残に切り捨てる。
 戦争を進め、憎しみをテコにあおり、和解の場をつぶし、その結果国民のいのちをごく簡単に押しつぶし、人生を奪う。それが、ゆがんだ国家権力の姿だろう。

 (元朝日新聞政治部長)

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