【戦争というもの】(11)

――70余年後に尾を引く「戦争」の残滓

羽原 清雅

 日中戦争、太平洋戦争の終結から70余年。
 この1年間、つまり2018年、平成30年のほぼ一年間の新聞(朝日・毎日・読売)をなんとなく見ていたら、「戦争その後」の記事がやたらに目につき、スクラップしてみた。
 記事の一つひとつに、戦争のもたらしたさまざまな絵図が描かれていた。一人ひとりの人生を変え、それぞれの生涯に涙、怨念、非戦の誓いを残し、社会に波紋を投じ続ける一方で、再度の戦争に向かいかねない状況を秘めた現実にも直面する。また、遺骨さえ戻らない、しかも収集の手も伸びていない悲しさがある。
 何らかの大義名分をもって起こされた戦争・戦闘の期間自体はそう長くはないにしても、戦争に至る準備期間の状況は長いうえに見えにくく、また戦争完了後の余韻は幅広く、重く、しかも長きにわたる。その当たり前のことを、新聞記事の一つひとつが裏付けている。
 また、戦争は国家の名で始め、国民の好悪を問わず、強制したにもかかわらず、戦後の処理、事後の対応は対外的にも、国内的にもまだまだ不十分であることに気付く。お題目としての「平和」でいいのか。将来の世界を、より望ましいものにするために、「今」という時代は正しい歩みなのか、改めて感じさせられる一つひとつの記事だった。

 そのような事実を、あらためて示したい。その感慨はさまざまであるだろう。それは当然のことである。ただ、そうした現実をもたらしたものは何か、という一点で、「戦争というもの」の非が示されているのだ、と思う。
 8月15日の特集などは、とくに取り上げず、つい見過ごすような記事にとどめた。筆者もひと言、印象を述べた。

          <戦禍を温存する硫黄島>

*小笠原諸島返還50年 1968年6月26日、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が、米国から日本に返還された。返還一年前の1967年は、ベトナムの北爆開始から2年経ち、米国各地でベトナム反戦の動きが強まり、日本では沖縄返還要求の高まりのなかで沖縄発着のベトナム攻撃機反対の声が上がった。また、大学民主化要求などの学生運動(いわゆる70年安保闘争)が連動しようとしていた。日本は高度経済成長期に入り、四日市ぜんそく、水俣病などの公害問題が表面化、問題化していた。そのような、反米などさまざまな世論が渦巻くなかで、米側は反米世論の鎮静策として、「小笠原返還」を決めたのだった。
 父島、母島などは実質的に返還されたが、硫黄島は即自衛隊の駐屯地となり、1,000人余の島民は強制疎開のまま帰島できなくなった。この島では終戦の半年足らずまでの戦闘で、日本兵や徴用の船員ら2万2,000、米兵7,000近くが命を落とした。日本兵の遺骨収集は今も続くが、まだ半分にも達していない。「戦後」は残されたままである(6月26日付各紙)。

*上陸できない洋上の慰霊 旧島民は年1回、1泊だけ、故郷に帰れる。年2回の自衛隊機による都の事業もあるが、希望者全員とはいかない。自衛隊のいない北硫黄島も、硫黄島と同じ処理を受ける。一例として、八丈島(両親の移住)➡硫黄島(強制疎開)➡葛飾区(空襲で家族2人が不明)➡栃木県那須町(火山灰地の開拓地)と転々とさせられた87歳の女性の話が載る(8月15日付毎日)。
 小笠原本島などに住む旧島民約30人が8月16日、硫黄島沖の洋上で慰霊祭。大型船は着岸できず、前日に船で向かい、沖合の船上から献花した。(8月17日付朝日)
 一方、防衛省は太平洋側の島しょ部の防空体制強化のため、18年度から3年計画で、硫黄島に固定式警戒管制レーダーを整備する。最近の中国のこの方面への進出を警戒してのこと(4月5日付毎日)。
 "70余年、遺骨のまま埋もれる死者たちの霊は、どう感じるだろうか。"

          <シベリア抑留者・死者は57万人>

*今も抑留死者の情報 厚生労働省は今も、抑留死者などの情報を扱っている。その努力はともあれ、判明するのはごくわずかずつで、遅々として進まない。当然、高齢化する遺家族の不満は強い。
 11人の氏名、出身地などの身元が特定された(3月3日付毎日、読売)。さらに11人(5月12日付読売)。また9人(6月2日付同紙)。10人(8月4日付同紙)。22人(10月6日付読売)。シベリアと千島列島の20人特定(11月3日付同紙)。26人(12月8日付読売)。
 サミダレ式の発表だが、この元になったのは、厚労省がロシアから入手した557人の名簿からだった。ロシアからの名簿の提供はまだ十分ではないうえ、カタカナ表記の名前などは判読が難しく、身元捜しも難航しがちで、死者の特定を遅々とさせている。

*モンゴルでも モンゴルに残された記録が見つかり、モンゴルに移送の抑留者43人の死亡診断書などを特定した。うち4人は特定作業中(同日付朝日)。旧ソ連からモンゴルに移送されたのは約1万4,000人で、1,700人が死亡したという。日本人捕虜は開発などの労働力として扱われ、モンゴルにも対日戦参加の見返りとしての配分、と指摘している(8月3日付読売)。一部を除き47年に帰還したという(同18日付同紙)。

 旧ソ連が、旧満州、千島列島、樺太などからソ連領やモンゴルの収容所に連行した日本兵らは約57万5,000人。その収容所は約2,000ヵ所。収容の最長は11年にも及び、約5万5,000人が死亡したとされる。総称としてシベリア抑留者と言われる。厚労省によると、過去に個人の身元を特定した4万111人の名簿を公開している。ロシア政府はこれまでに収容所での死者5万1,455人、モンゴル政府は1,597人の名簿などを提供したが、移送中や行軍中などの死者の名簿はほとんど提供されていない(4月7日、8月3日・同18日付読売、8月4日付朝日)。

<村山常雄のことなど>戦犯としての処刑とは別に、抑留者の長期にわたる衰弱、長距離移送の過労、過酷な寒冷地の環境、伐採や開拓などの重労働の強制、食事や休養などの処遇の悪さ、食糧不足と伝染病、体力のない高年齢や弱年兵の存在・・・・そして、食料や薬剤、輸送手段などの欠乏状態ばかりではなく、戦争特有の敵対的憎しみや差別による非人間的な扱いが多くの死者を出す一因にもなった。
 なお、ソ連からの帰還は1947年から日ソ国交回復の56年にかけて、47万3,000人が帰国した。
 ポツダム宣言では、武装解除された日本人兵士は家庭への復帰を保証されており、強制労働や厳寒下での不十分な食事の提供などの処遇は認めていなかった。
 ただ、ソ連のエリツィン大統領は1993年の来日時に、非人間的な行為は謝罪したが、移送した将兵は戦闘中に合法的に拘束されたもので、戦闘終結後の不当な抑留ではない、と主張した。
 国際法上、捕虜の抑留された国での労働賃金、捕虜の給養費は捕虜の所属する国の負担、とされるが、日本はこれに反対した、という(この法規的な点は、ウィキペディアによる)。

 ちなみに、忘れがたい人物に触れておきたい。村山常雄―2014年死去、88歳。新潟県糸魚川市出身で、旧満州ハルビンの水産試験場勤務時の1945年応召。4年間の強制労働を経て、49年帰国。中学校教師を終えた70歳になって、シベリア抑留中の死亡者のデータベース化に着手、05年公開した。4万3,000人のリストで、自費出版もした。吉川英治文化賞受賞。
 このような隠れた偉材の存在は、あらためて「戦争というもの」の虚しさを感じさせる。

*114人に銃殺刑判決 シベリア抑留中の日本軍の将兵ら114人が軍事法廷で、スパイ罪などで銃殺刑の判決を受けたことがわかった。シベリア抑留問題研究者の富田武氏が調べたもので、このうち33人の執行を確認した、という。対ソ情報工作担当の特務機関の憲兵や幹部が多く、ほかにソ連侵攻時に降伏しなかった者、脱走や強盗殺人などの刑事犯もいた。銃殺刑に処しながら、その通告もなされていない、人命軽視の事実に驚く(4月10日付各紙)。
 「戦争というもの」はそういうものだとしても、常識的に納得できるものではない。

*消えていく慰霊祭 高齢化という現実には逆らえない。8月23日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑でのシベリア抑留者追悼の集いに参加した抑留当事者は4人のみ。ロシア、モンゴル、カザフスタンの大使館員とともに約200人が参列。2003年から16回目。昨年まで主催者挨拶をした97歳翁が2月に亡くなり、戦後4年間シベリアの炭鉱で働かされた92歳翁が「何を教訓として残し、伝えていくか、日本社会全体として取り組んで」と述べた(8月24日付朝日)。
 また、遺族や元抑留者が慰霊などをしてきたモンゴル会は高齢化により、2017年が最後の慰霊祭になった(8月18日付読売)。

*消えない抑留の思い ①19歳で召集、満州でのソ連軍との戦闘のあと、ソ連軍に拘束され、旧満州に近いシベリア各地の収容所を転々。3年以上の抑留生活。氷点下40度の山から木材を伐採、搬出する作業。凍傷で足の指をなくす。悲しかったのは、仲間の遺体の埋葬で、枯れ木を燃やして凍土を緩め、4時間ほどかけて埋める。多い時には凍った20体もの遺体が。「ダモイ(帰る)」の一語にだまされ、北朝鮮北部へ。傷病者は手当てもなく、地面に転がされ、息があっても鼻や目から蛆が湧く。「帰れたことは奇跡」という福島県の93歳翁(8月11日付読売)。

 ②兵庫県の農林技師から43年に陸軍の招集で満州へ。国境警備中にソ連軍の侵入で捕虜、ウランバートルへ。土砂降りの行軍、ぎゅう詰めの貨車で移送されるが、血便1日30数回、下痢、全身浮腫の急性大腸炎、栄養失調症で10月18日死亡。苦しみの3週間だった。徴兵前に腸の一部を切除していた。徴兵にそのいたわりはない。兵庫出身の同級生に託された遺髪が戻った。家族らは8月、思いがけず死亡現認書を受け取り、「区切りがついた」という。その胸中はあきらめか、深い憤りなのか(8月3日付読売)。

 ③79歳を迎えた広島市の女性の父親は、南満州鉄道の関連会社に勤め、44年に陸軍に召集、戦後シベリアへ。70年を経た2016年に「病院で死亡」との通知があり、死因は肺炎、カルテには腰椎骨折、睡眠不良、食欲不振、不整脈などとあった。女性は、父の死を「34日間、手厚く看護された」ことに気持ちが少し楽になった、という。その一方で、厚労省に問い合わせたあとの通知に、「肉親の最期を丁寧に掘り起こして」という。遅すぎる「少し楽」なのだ(8月15日付朝日)。

 ④釜山に住む93歳の韓国人は、「日本人」の扱いで44年に陸軍に召集。旧満州で爆弾を抱えてソ連軍の戦車に潜りこむ訓練を受ける。終戦後、ソ連に抑留、零下50度のなか、厚底の靴を履いて建設現場へ。食事は黒パンと漬物のみ。抑留3年4ヵ月後の48年に帰国した祖国は南北に分断、その2年後に朝鮮戦争。旧満州動員の朝鮮半島出身者は約1万5,000人で、シベリア抑留は少なくても3,000人、70人前後は死んだ。この記録は韓国側が積み上げたが、日本厚労省は「把握してない」。彼は「日本は、日本人として送り出したのに、謝罪はおろか紙一枚送られてこない」という(同上)。
 このような仕打ちが、慰安婦問題や慰安婦少女像建立など、怨念の事態につながる。

 ⑤2人の元日本兵が、早大での「不戦兵士・市民の会」で、不戦の願いを語る。98歳の元慶大生は人間魚雷の訓練を受け、弟もまた爆薬ボートで体当りする「震洋」の乗務員だったが、ともに存命。2人で特攻の学徒兵の本を書いた。96歳の元通信兵は、千島列島の占守島で敗戦、「最後の一兵まで徹底抗戦せよ」との命令を聞く。結局、カムチャッカで3年間の抑留に(12月5日付朝日)。

*絵画に託した反戦 ①広島出身で反戦・反核運動に取り組んだ画家の四国五郎。絵本「おこりじぞう」の挿画で知られる。旧満州侵入のソ連軍戦車に飛び込む「肉攻」要員だったが、決行直前に敗戦。ソ連に連行され、伐採と丸太積みの重労働・飢え・厳寒の三重苦。生死の境をさまよう病気、ソ連の赤化教育への傾斜などを経て3年間の抑留生活から帰国。94年、70歳の五郎は現地に行き、一枚の絵を贈る。没後4年の3月、61歳の子息が現地を訪れ、父の絵に会う。その絵には、穏やかで、群を抜いた明るさがあった。子息は「憎しみ、つらさだけではなく、大事な体験をした」と思う(4月29日付毎日)。

 ②その四国五郎がナホトカの収容所で描いたスケッチ画を追う。「1947・10・11 ナホトカにて 中村、須藤嬢」とある。五郎がひそかに持ち帰ったA4大の8枚のうちの1枚。どうかいくぐることができたのか。
 モスクワの公文書館に「スド・キオコ 看護婦」とロシア語で書かれた写真が見つかる。抑留者の手記本に須藤の書いたものがあった。22歳、出身地群馬、前看護婦、現主婦、とある。旧満州北部のジャムス(佳木斯)におり、看護要員の菊水隊にいた、と岡山市の95歳の女性が確認。ハバロフスク郊外の病院勤務、と本人は書いている。また帰国後にはナホトカで一緒だった元軍曹の津村謙二と結婚。絵を描いた四国は49年5月、上京時に2人の住む引揚者住宅で晩飯を食べた、と書いた。だが、足取りはそこまで(8月25日付読売)。
 願わくば、取り壊した後の住宅居住者名簿は、出身の群馬や看護婦歴は、など、もうひとつ追跡を。気がかりが残り、どこかすっきりしない。

 ③10月末、東京・九段でシベリア抑留時のペン画400点の企画展。ソ連イルクーツクで4年間の抑留生活を終えて帰国した神戸出身・山下静夫の遺作展。悲惨だった抑留の日々の実態が伝えられていないとして、74年から描き始めた。「彫り込むような力強い線を無数に走らせたその作品群は、鎮魂を願う写経を思わせる」と、抑留問題を追い続ける栗原俊雄記者は書く。山下は2007年に「画文集 シベリア抑留1450日」を刊行、その絵の原画が並んだ(10月25日付毎日夕刊)。

 ④東京都福生市がドキュメンタリーの映像記録を制作した。自治体としては珍しい事業だ。タイトルは「行き先も、分からずに―20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶」。この記録のもとになった証言者は92歳の近田明良さん。終戦から3年間、シベリア、モンゴル、ウクライナなどに移送、極寒の地で食糧難のなか、強制労働を強いられた。市の平和祈念事業として戦争体験を語ってもらったのがきっかけで、4時間余のインタビューを37分にまとめた(3月20付朝日)。

 ⑤生まれた大連から引き揚げ、47歳で亡くなった画家・川崎忠昭が戦争体験を子息に伝えようと描いた25の原画展を新宿区で開催。中国人の略奪、旧ソ連兵による日本兵の連行など。子息の「中国で生まれたのに、どうして中国人じゃないの」との問いを機に、描き始めた、という(12月5日付読売)。

          <満蒙開拓団の悲劇と怒り>

*開拓団の人身御供 岐阜県旧黒川村(現白川町)は国策に協力して1941年以降、600余人の開拓団が旧満州の吉林省に入植した。終戦直後、旧ソ連兵が現地を襲撃、武器も食料もないままに隣の開拓団は全員自決。黒川の開拓団は、ソ連の駐屯部隊に助けを求めたところ、代償を求められ、17~21歳の未婚女性15人を「接待」に出した。ソ連の兵舎に出したり、開拓団の部屋を提供したりの2ヵ月を経て、46年に451人が帰国した。
 黒川分村遺族会長(自民党町議)が、この事実が表面化した意味合いを淡々と語った。記事の見出しは「性接待 伏せられた記憶」「満蒙開拓団の悲劇 犠牲の上の次世代寄り添い伝えねば」だった。遺族会は1982年、碑文のない「乙女の碑」を建立。15人の女性のうち4人は死んだという。(10月20日付朝日)。
 そして、碑文を記したステンレス製の説明版には4,000字もの生々しい言葉が記されることになり、11月18日に除幕式が(11月19日付朝日)。
 ''性接待を認めるか、堪えざるを得ないか、全員自決か・・・判断は難しく、その場にいた者でなければ分かるまい。ただ言えるのは、戦争が招いた悲劇、ということだろう。
 隠したい現実。だが、事実を後世に語り残したい現実。反省とは、将来をつくる土台だ。''

*慰霊の献花 在学生を満蒙開拓に送り出した東京農大。最後と思われる第14次開拓団約25人を率いた同大助教授の14歳だった遺児が、88歳の今、慰霊の献花を。父母と子ども4人の家族は、団一行とともに、ソ連軍侵入の6日前に福井県敦賀港から出発。旧満州牡丹江到着は何とソ連侵入のその日未明。まもなく末弟が収容所で病死、43歳の父親も翌年2月に死去。異国の凍土に埋められた。家族4人は中国人の世話を受け、46年9月に帰国した。
 東京農大には、旧満州でなくなった学生56人、教師2人の慰霊碑がある。大学は43年に「報国農場」を現地に開設、延べ200人以上の学生が渡った(11月13日付毎日)。

*開拓団の戦後調査資料が行方不明 国策として送り込まれた満蒙開拓団は1932~45年の間に約27万人。戦後に都道府県が実施した、開拓団の第1次資料である全国実態調査の結果は今、13道府県で確認できず、資料の残る33都府県も保存期間はまちまちで、今後に廃棄の可能性がある、という。
 外務省が1950年に「満蒙開拓団実態」、15~19歳「満蒙開拓青少年義勇軍」の調査を指示。入植時、所在地、入植地ごとの人数、旧ソ連参戦時の状況、8・15の移動状況、引揚人数と残留人数など。長崎はすでに廃棄、不明と答えた13道府県のうち富山、岐阜は廃棄済みのよう。永久保存は岩手など9都県、保存は24県だが、いずれ廃棄の可能性がある。
 軍国主義下の傀儡「満州国」が32年にできて、開拓団は人口問題解消と食糧増産のための国策だった。最多の長野は開拓団3万1,264、青少年義勇軍6,595、計3万7,859人。8月9日の旧ソ連軍の参戦で、集団自決、餓死、凍死などで約8万人が犠牲に。多くの残留孤児、残留婦人の問題も残した(8月26日付毎日)。
 満蒙開拓団の調査書を追った地方記者は、山形県で約90の調査死傷原本を見つけた。情報公開を求めたら、出された資料コピーには団員氏名、本籍、団名、入植地名、生存者の収容病院名、帰還船名が隠され、つまりマスキングされていた。これでは、追跡取材だけではなく、遺家族が身内の過去の消息を知ろうにも、何の手がかりもつかめない(9月28日付毎日)。

<手を貸す公務員> 「戦争」という国策のもとに生まれた悲惨な結末を、後世に語り継ぐ責任は国家と自治体にある。その公文書を非公開に近い「公開」にすることによって、「戦争」の色合いを薄め、忘却に手を貸すのか。過剰な個人情報の保護、という以上に、非情・悲惨な国策についての隠蔽、と感じざるを得ない。
 山形県の事例のような70余年後の対応が、官庁の適当な判断にゆだねられるだけでいいのか。「個人情報」の名を借りた隠蔽は、この1年間追及された公文書類の扱い、そして官僚答弁などに見られた隠蔽、偽造、ごまかしなどに通じる問題ではないか。
 「時」は痛みを次第に軽減させていくものだが、国策だった「戦争」を忘れさせることを、人為的に、しかも国策を担う公務員が手を貸していいはずがない。

          <南方諸島からのあがき>

*ガダルカナル島から ソロモン諸島(国)最大の島で、米軍に制圧された飛行場の奪還を目指す日本軍は1942年8月、制空権、補給線を失い、43年2月には撤退した。多数の餓死者を出して「餓島」と言われ、約2万2,000人が亡くなった。遺骨7,000柱が未帰還。
 陸士を出て歩兵連隊旗手だった三鷹市・故小尾靖夫は、制圧直後から撤退までの5ヵ月間、最前線で戦い、その後インパール作戦にも参加して生還、85歳で07年死去。妻が約20点の日記や遺品を同市に贈り、展示された(5月5日付読売、6日付朝日)。

*ペリリュー島から パラオ(共和国)諸島のひとつで、44年9-11月の米側の攻撃で壊滅。日本兵の死者は1万余、米側は2,300余と、8,500近い負傷兵。
 平塚柾緒の著『玉砕の島 ペリリュー 生還兵34人の証言』について、横尾忠則が書評を書いた。激戦の島で生き残った34人の日本兵が洞窟内で、投降か、抗戦か、で対立し死者も出たという。米兵の残留品から食料をくすね、米軍の野外映画会をのぞき・・・・上野駅で米兵の腕にすがる日本女性を見て敗戦を実感する(8月25日付朝日)。

*ニューギニア島から インドネシアのニューギニア島西部のマノクワリ。多くの餓死者を出した地で、日本政府の派遣団が1956年に遺骨送還と追悼に訪れ、「戦没日本人之碑」を建てた。2008年に新しい台座に据えたが、翌年の地震で倒れた。8年半ほど倒れたまま放置された状態を、2月に設置し直した。
 ちなみに、映画『南の島に雪が降る』は、このマノクワリに駐屯した俳優加東大介が演劇分隊を作り、兵士たちに娯楽を提供しようとしたことがテーマで、彼の原稿をもとに、島での生活を映画化した。
 厚労省によると、53-56年、太平洋諸島21ヵ所に同様の石碑が建てられたが、管理不十分のものは今後、政府が整備している大規模慰霊碑の敷地内に移す、という(4月3日付朝日)。
  
          <進まない遺骨収集>

*沖縄 沖縄県内には440ヵ所の戦没者慰霊塔がある。遺骨のほとんどは墓苑に移されたが、まだ慰霊塔に残されており、厚労省はこの遺骨の身元をDNA鑑定で調べるための調査に入る、という。
 DNA鑑定は2003年から導入されたが、焼骨前に限られるので、沖縄では再開発地で見つかった5体しか身元が判明していない。ただ、糸満市の「南北之塔」の数百体について、地元の高齢化で管理が難しくなり、県側に引き渡している。ほかにも、遺骨が残されており、対象になりそうだ(3月25日付毎日)。

*フィリピン 激戦地だったフィリピン。ここで収容された遺骨をDNA鑑定した専門家が「日本人の遺骨は一つもなし」との結果を厚労省に伝えたが、公表しなかった。同省委託のNPO法人がずさんにも、現地の人たちに遺骨収集を依頼したところ、日本兵以外の骨を持参したのだ、という。
 2010年に収容は中断。別の専門家が鑑定した130検体〈311検体のうち〉について、厚労省は11年に「日本人以外の骨が多数」と報告したが、12年に別途鑑定した、残りの181検体についての「一つもなし」という前述の鑑定結果は公表しなかった。
 海外の日本人戦没者約240万人(うち未収容約113万人分)のうち、フィリピンで亡くなったのは最多の約51万8,000人で、今も約36万9,000人分の遺骨が残る。
 そこで5月、日比政府は収容作業再開の覚書を締結、収容作業などを厳密にして18年中に再開したいという(5月9日付毎日、8月17日付朝日)。
 10月、人類学者ら3人がルソン島に入り、調査を始めた(9月29日付朝日)。

*小笠原 硫黄島生まれで、14歳の時に本土へ強制疎開した88歳の山下賢二。当時120人いた島から持ち出した物はなにもない。1万柱以上が眠る硫黄島の遺骨収容に何度も参加し、灼熱の地下壕跡で遺骨を拾い集めた。6、7月の父島、母島での返還50年の記念式典には出ない。硫黄島への帰還が許されないことに納得がいかないのだ(6月26日付毎日)。

<まずは遺骨か、靖国か> 遺骨の多くは、遺族のもとに戻れず、いまだに野外等に眠っている。国は亡くなった将兵が判明すると、靖国神社に伝え、祀るのだが、遺骨の収集については作業がきわめて遅く、不十分のまま。遺族たちには、祀るよりも、せめて遺骨を、の思いが強い。
 国家の徴兵による戦死にもかかわらず、国の取り組みへの不満は強い。遺骨は海外諸国にあり、難しさもあるが、政府が施策の優先順位を低いままにしていることは許されまい。天皇夫妻が各国の戦没の地を訪ねることで、やっと遺骨収集の動きが刺激されるほどだ。国会での立法作業も戦後かなりの歳月を経て、なんとか具体化される。国家は十分に率先して責任を果たす義務がある。「靖国」がベストではなく、せめてもの遺族の夢は遺骨との対面なのだ。この点の取り組みがいかにも甘いままに、70余年を経過させてしまった。

          <遺骨収集の旅>

*僧職のありようを変える 松本市の臨済宗僧侶の高橋卓志(69)。1978年、恩師の山田無門師に誘われて、ニューギニア島北西のビアク島に遺骨収集の旅に行く。小高い山の洞窟内で泥水に足首までつかりながら、水中に手を入れると日本兵の骨が累々と沈んでいた。追い込まれた洞窟に、米兵からガソリン入りのドラム缶を投げ込まれ、1,000人を超す日本兵が焼死した。「阿鼻叫喚の最期を想像して震えが止まらなくな」るなか、読経を始めた。「『お前はそれでも宗教者のはしくれか!』と天の声に一喝されたような衝撃」を受ける。僧侶には、いかに生き、死者をいかに弔うか、この二つの問いかけが今も続く。
 寺を去り、「24時間営業のコンビニ寺」「オーダーメイドの葬儀」を始め、災害、事故現場に行き、またチェルノブイリ原発でも6年間の医療支援を続ける。戒名、お布施に頼る寺の世襲化を批判し、命の学び場をとしての学校を設けた(5月27日付毎日)。

<肉親にとっての遺骨> 遺骨にこだわる気持ちは、肉親たちにとって家族の結びつきを確認する最後の手段なのだ。ほとんどの家族や近親の人々が、故人の別れを火葬場で果たすのも、遺骨との別れが「最期」を告げるからだろう。心の締めくくり、でもある。
 だが、かつての戦場などに放置された遺骨の数十年は、肉親たちの思いを絶縁させ続ける仕打ちでもある。徴兵という国策に素朴に従い、あるいは強制を感じつつ戦地に赴いた者たちが、野ざらしの遺骨として放置されること自体、理不尽だろう。
 国家として、戦後に最優先で取り組むべき始末を怠り、あるいは努力を傾注しない状態はむしろ異常だ。多数の遺族たちのその怒りは、結集されないにくいがために目立たないが、その状況を読み取る努力の乏しい国家・政府はいつか信頼を損なうだろう。

*北朝鮮の「棄民」 日本の敗戦後に帰国を急ぐ、旧満州からの南下の日本人は約7万、北朝鮮在住約25万。やむない滞留時の死者は3万4,600人という。飢餓と寒さ、伝染病と低体力、それにソ連兵の暴行。
 これまで日本政府の主導による収集の遺骨は「ゼロ」。約1,000人と思われるこの地の残留孤児の情報もない。民間ルートで数度の墓参が実施されたが、国の支援はなく、「北朝鮮を利する」との批判も。被害の中に育った記者は率直に書く(10月10日付毎日)。

<圧力は打開策なのか> 拉致問題に強い意欲を示しながら、安倍政権下での朗報は聞こえない。「対話と圧力」の後者に走り、硬直のまま、一筋の細い対話の道もたどれない。核とミサイルの固守、人道的配慮のなさは、北側の国際的にも非難される問題だ。
 ただ彼等には、日本について、朝鮮半島への侵略と国家分断の怒りが根強く、今なお許しがたい、一世紀を超える歴史的な怨念が消えない。彼らは、日本の姿勢について、根底に驕りを感じ、植民地化と戦争時の反省、謝罪意識の薄さにも興奮を禁じ得ない。したがって、その接点を探る胎動が出ない限り、拉致者、遺骨の帰還、さらに望ましい緊張緩和の方向は生まれにくいのではないか。
 
*遺骨への想い 北海道大学がかつて収集したアイヌ民族の遺骨をめぐり、返還を求める声があがったことがある。そして、沖縄でも、琉球王朝の子孫ら5人が、京都大学(旧京都帝大)に遺骨の返還を求めて提訴した。14、15世紀の首長らの墓から、同大の人類学者が研究のため持ち帰り、大学も保管を認めている(12月5日付毎日)。

<遺骨の持つ意味> 他意があろうと、研究目的だろうが、遺骨というものが親族にとってはかけがいのない思いを含んでいることの証しだろう。まして、戦争という国のための死なら、一層離れがたい唯一の結びつきだろう。遺骨がわりに小石や紙切れの入った小箱のみが親族に返される、という実態に遺族は違和感があって当然。国策を遂行した国家・政府の責任は問われるべきだし、これまでのような冷たい仕打ちを続けることは許されまい。今からでも、反省のもと、遺骨収集と返還に全力を投じるべきだろう。

*こだわる米国 ここで、ちょっと話題を変えよう。朝鮮戦争時(1950~53年)に捕虜、行方不明になった米兵の遺骨返還問題が6月のトランプ・金正恩会談で取り上げられ、8月に55柱が返還された。返還可能とされる約200柱のうちの一部らしい。トランプは退役軍人団体や遺族の働きかけに動かされたという。
 朝鮮戦争で約3万7,000人の米兵が戦死、今も7,700人が不明で、うち約5,300人の遺骨が北側に残されている、という。すでに1990~94年の収集で208ひつぎが返され、混在した遺骨は400人ほどのものと推計、96~2005年には両国共同で33回の収集作業で220柱以上が収集されたという。
 「米政府は、朝鮮戦争に限らず、戦時捕虜・行方不明者の調査に国家レベルで取り組んでいる。国防総省の『戦時捕虜・行方不明者調査局』が包括的に対応を担い、粘り強く行方不明者の調査、身元特定を続けている」と記事にはある(7月28日付読売、8月2日付 NewSphere)。

<米朝関係に学ぶ> 米国の遺骨との取り組みが本来、日本でもあるべき姿だろう。日本政府は敗戦、財政難などの混乱期はともあれ、高度成長期になっても、こうした戦後の対応策に素早く取り組まずに、生ぬるい姿勢でいた。その結果が、いまだに多くの遺家族に悲しみを沈澱させている。
 戦友会などの民間有志などの慰霊の作業はさまざまに行われたが、その規模では追いつかなかった。国は、御霊の靖国神社奉納・靖国依存で事足れり、と思わせかねない姿勢ではなかったか。
 戦闘に関わった旧将兵たちが次第に減り、政府や国会議員らには実感が薄らぎ、真剣さに欠けるのではないか。あくまでも率先すべきは、国策としての戦争を進めた国家、政府であり、民間から上がる声に忠実でなければなるまい。

          <「戦争」に捧げた生涯>

*池田幸一 2月10日死去、97歳。終戦2週間前に旧満州で召集。戦後3年間、収容先のウズベキスタンで土木作業を強制。帰国後、補償運動に取り組み、90年代に仲間5人と「カマキリ(蟷螂)の会」として国を提訴。最高裁で敗訴するも、2010年シベリア特別措置法を成立させ、政府に特別給付金を支給させた。その後も、日本兵・軍属ながら支給対象から外された旧植民地出身者の救済、公式の追悼行事などを日ロ政府に求め続けた。シベリア抑留者支援・記録センター世話人(4月23日付毎日)。

*秋草鶴次 3月30日死去、90歳。群馬県太田市の農家出身。15歳で海軍に志願。17歳で海軍通信兵として硫黄島へ出征。米軍猛攻のなかで、太もも貫通、手の指3本を失い、瀕死時に米軍捕虜となり帰国。2007年「十七歳の硫黄島」を出版、各地で戦争体験を語る。「戦争に『聖戦』などない」という(4月1日付、5月20日付読売)。

*江橋慎四郎 4月8日死去、97歳。東京帝大の学生として学徒動員され、43年10月の明治神宮外苑で、東条首相の前で答辞を述べた。「生等(自分ら学生)、もとより生還を期せず」とのことばが残り、戦後は沈黙を守っていたが、後年、「自分が語ることが何も言えずに亡くなった人の供養になる」と話した。
 東大教授になり、日本ウォーキング協会会長をはじめレクリエーション協会などで、スポーツ振興に努めた。鹿児島、中京各大学教授、また鹿屋体育大学を創立、初代学長になる(4月9日付各紙)。

*宮崎進 5月16日死去、96歳。山口県生まれ、日本美術学校油絵科に学び、42年応召。旧満州からシベリア抑留4年。49年帰国後、旅芸人の哀歓を描いた「見世物芸人」で安井賞(66年)。
 抑留時代の過酷な状況の作品にも取り組んでいたが、90年代にライフワーク「シベリアシリーズ」などを本格的に公表した(5月21日付朝日、22日付毎日)。

*星野弘 6月17日死去、87歳。東京生まれで、14歳時に東京大空襲に遭う。自宅を焼かれ、焼野原や川から遺体を公園に運んだ。川面に浮かぶ死児がなお母にしがみつく姿が頭から消えなかった。97年、定年退職後に仲間たちと死者の名簿つくりをはじめ、01年に遺族800人の「東京空襲犠牲者遺族会」を設立し会長に。戦傷病者戦没者遺族等援護法で戦地死傷の軍人、遺族への年金支給はあるが、民間人に補償はない。07年、21都道府県の遺族ら131人の原告団長として、国に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こす。110人の弁護団を組むも、13年に上告棄却。10年、「全国空襲被害者連絡協議会」を設立、遺族への見舞金、追悼碑設置などを求める運動を推進(6月19日付・8月14日付毎日、8月5日付読売)。

*中川義照 2017年8月21日死去、90歳。山形県生まれで、戦前に開拓団として樺太・敷香に家族と移住。戦後、ソ連の捕虜としてシベリアなどで53年まで強制労働に従事。01年、ロシアの日本大使館に一時帰国を要請、身元確認が難航したが、05年にロシア残留の日本人として初めて確認され、06年7月に67年ぶりに一時帰国。北海道美唄市の妹宅に滞在。カスピ海北西部のカルムイキア共和国ユージヌイ村でロシア人女性と結婚していた(9月11日付毎日)。

*土田喜代一 10月15日死去、98歳。福岡県出身。激戦地パラオ・ペリリュー島に44年6月海軍上等兵として出征、陸戦隊として終戦後2年近く戦い続けた生き残り34人の一人。47年5月帰還。戦後も同島で遺骨収集に取り組んだ。15年4月、両陛下が同島に慰霊に行った際に同行した(10月17~19日付各紙)。

*大沼保昭 10月16日死去、72歳。山形市生まれ、東大卒後、国際法学者として同大学教授。70年代から日本の戦争責任・戦後責任を研究。樺太残留朝鮮人の韓国帰還運動、慰安婦問題解決のためのアジア女性基金設立・推進をはじめ市民運動に積極的に参加。リベラルな立場の言論活動に取り組んだ(10月19日付毎日など各紙)。

          <さまざまな戦争後遺症>

*731部隊の実名開示 旧満州ハルビンで、中国人捕虜らの人体実験を重ね、細菌兵器、毒ガス開発などをした旧日本軍秘密機関の731部隊。その隊員ら3,607人の名簿が国立公文書館で1月末から開示された。西山勝夫滋賀医科大名誉教授によると、軍医52、技師49、看護婦38、衛生兵1,117人など。西山は、軍医の学位論文は人体実験にもとづいた可能性があるとして、学位授与の京都大学に検証を求める署名運動を進めている(4月16日付毎日)。

*不発弾処理は戦争責任 戦時投下された不発弾処理の費用は国と市が支払うよう求めた裁判で、大阪地裁の判決が国や市が負担する法的義務はない、とした。これに対して、投書した77歳の大阪人は、これは法令規定を論じる問題ではなく、戦争責任の問題だ、と反論する。国民がこぞって戦争をしたかったのではなく、国民は政府の巨大な失政によって戦争に駆り立てられ、多くの犠牲を出したのだ。判決は「一億総懺悔」と同じ論理だ。原告は自分で不発弾を埋めたのではない。国には国民を守る義務がある。なぜ個人が処理費用を負担しなければならないのか、と問うた(3月3日付朝日投書欄)。

*戦場体験者の映像 東京大空襲の犠牲者は約10万。3月10日で73年。「戦場体験放映保存の会」(東京都北区滝野川)は2004年12月の設立以来、約1,700人の証言を収録した。「戦場体験者と出会える茶話会」を各地で開き、若い人たちに戦争を語り継ぐ(3月9日付朝日)。

*原爆写真をカラー化 ヒロシマの原爆投下3日後、毎日新聞のカメラマンが撮った40枚の白黒写真のうち、4枚のカラー化に成功した。被曝当時の記憶を持つ4人に、当時の街の風景や色などを聞いて、色の調整をした。赤茶けた一面の焼け跡にいくつかの焼け残ったビルがある広角の写真が掲載された(11月15日付毎日)。

*「ヒバクシャ」を連載 ヒロシマ、ナガサキと言えば8月恒例の記事のような印象だが、毎日は11月から12月にかけて5回、「2018年秋」と銘打って連載した。日赤の元看護婦、被爆体験者、胎内被爆者たちの思いを伝えた。

*サーローさん母校へ 生涯を核兵器廃絶にかけているカナダ在住のサーロー節子さん(86歳)。広島の母校広島女学院大学で11月23日、講演した。前年ノーベル平和賞を受けた国際NGOのICANとともに活動してきた人物。13歳の学徒動員先で被曝、大卒後に渡米し、結婚後カナダへ。核禁条約に賛同しない日本政府について「被曝者と国民を裏切っている。無数の人間を大量虐殺する用意がある(核抑止論の)戦略に頼るが、誤った幻想だ」などと語った(11月24日付朝日)。

*国策紙芝居 国民の戦意高揚のひとつとして、1930年代後半から各種業界で作製、配布されたのがこの紙芝居。この241点を集め、研究してきたのが神奈川大学日本常民文化研究所の非文字資料研究センターで、『国策紙芝居からみる日本の戦争』を刊行した。戦時下で表現の自由が厳しく統制されるなかで、皇軍の活躍、連戦連勝、勇猛なる兵士ら、銃後で支える子どものICANたち、などなど。戦時や戦後に廃棄、GHQ没収などもあり、総数では約1,000点ともされるうちの約4分の1を集めた(7月9日付毎日夕刊)。

*沖縄戦の遺族は 沖縄守備隊司令官の牛島満は、米軍の「鉄の暴風」と言われた猛攻に遭い、1945年6月、自決する。この時の日本人の死者は約18万8,000人、米軍も相当の犠牲を出した。牛島の孫、65歳の貞満は、命日には家族で靖国神社参拝する一方、高校生のころから次第に旧日本軍の侵略行為、沖縄戦での住民への対応などに疑問を抱き始めた。
 小学校の先生になり、94年家族と一緒に初めて沖縄に行く。糸満市の旧平和祈念資料館で、祖父の「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」との命令が掲げられ、その解説に「この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」とあった。衝撃を受けた。
 彼はその後、毎年のように沖縄に行き、祖父の足跡を追った。「優しい人だった」と多くの人は話したが、彼は「旧日本軍は国民を守らなかったというのが、沖縄戦の教訓」という。
 教職を離れて、月に4、5回、中高生に沖縄戦、基地問題などを話す。「有事の際、自衛隊は国民を守ってくれるのか」と思いながら(10月9日付毎日夕刊)。

*沖縄に散った学友偲ぶ 一橋大(旧東京商科大)で戦没した先輩たちの追悼行事を続ける「一橋いしぶみの会」が11月23-25日、同大で先輩の足跡を追う展示をした。沖縄で戦没した10人の先輩を追った。この会は戦没OBを826人の情報を把握しているという(11月24日付朝日)。

*日台を結ぶ海峡の寺 1981年、台湾の高台に日本寺の潮音寺ができた。3年前から毎年、戦没者の慰霊祭が行われる。台湾とフィリピン間のビシー海峡を見渡す。この海峡は戦時、「輸送船の墓場」と呼ばれたほど、日本軍の輸送船が米軍の魚雷に沈み、犠牲者は10万ともいわれる。
 建立は、この海峡で九死に一生を得た故中島秀次さんが、慰霊塔建設の地を探す間に、高雄で土産物店を経営する台湾人夫妻と出会い、一緒に建立の適地を探すうちに心が通い、寺の建立となった。昨17年には夫妻が寺を全面改修してくれた。日台の戦争を超えた交流が続く(11月29日付毎日)。

*天皇、皇后慰霊の旅 皇太子時代1993年の初訪問を含めて、天皇の沖縄行きは11回目。3月28日、退位前の最後の慰霊として、18万柱の眠る国立沖縄戦没者墓苑に詣でた(3月28日付毎日)。
 天皇の戦乱の地の慰霊訪問、8月15日の全国戦没者慰霊式、災害地へのお見舞い激励の旅など、国民の苦難への思いの強いことは、その活動から読み取れる。また、それは戦争の愚かさを伝える儀式でもあったのではないか。

*空襲被害者の怒り 米軍による空襲は東京、大阪のみならず、全国各地の主要都市を狙い、銃後の人命を奪い、家を焼き尽くし、生活基盤の農地や工場などを破壊した。被害者は1972年、全国戦災傷害者連絡会を結成、当時の社会党と連携して国に補償を求めた。73年から89年まで、社会党など野党は、戦時災害援護法案を14回提出したが、自民党などの反対ですべて廃案に。2003年、自衛隊がイラクに派遣されると、運動が再開する。「戦争をしたら、国は被害者に補償しなければならない」ということをわからせたい、そんな気持ちから08年、23人が国に謝罪と補償を求めて訴訟を起こす。だが、大阪地裁、高裁で敗訴、14年に最高裁で確定する。名古屋、東京でも敗訴。その論理は「戦争被害受忍論」、つまり戦争で被害を受けたのは国民全体、だからみんな我慢、というもの。でも、元軍人、軍属、引揚者、被爆者たちは補償を受けた。国民全体の我慢論は説得力を欠く、として納得がいかない。戦争に奪われたための義足すら、個人のやりくりで買わざるを得ないが、生計が立たない。そうした実態への思いが消えない。
 10年、全国空襲被害者連絡協議会が結成され、超党派の国会議員連盟ができる。空襲被害者救済法の制定を求めて、活発な動きが進められる。安倍首相に近い元官房長官の河村建夫が議連会長となった。だが、議連内にも救済対象者の範囲などで異論もあり、相変わらず進展が見られない(5月20日付毎日)。

          <苦しむ残留孤児>

*中国残留孤児の日本 日中国交正常化から46年、日中平和友好条約40年の年である。
 40歳になる残留孤児2世の女性が、所沢市に7月、デイサービス施設を開いた。17歳で両親と帰国、定時制高校に通ったが日本語がわからず、給食も独りぼっち。両親も日本語が話せない。でも、彼女はヘルパーの資格を取る。所沢には、帰国者が日本に適応するために4ヵ月間学ぶ「中国帰国者定着促進センター」があり、そのまま周辺に住み着く人々が多かった。その孤児たちも老いてきている。
 やはり中国から3歳の時に引き揚げてきて、孤児たちとの交流ボランティアに取り組む74歳の元銀行員が、かつての孤児たちが高齢化し介護の必要に置かれていることを知って、彼女とともに動いた。彼女はマンションを借り、自宅を施設として提供した。せめて老後は穏やかに、と記者は書いた(8月23日付毎日夕刊)。

<孤児だって歳をとる> 終戦で、中国から100万以上の人たちが引き揚げた。子どもや女性が取り残され、暴力の犠牲になり、傷つけられ、子を捨てて、といった苦難・苦悩があった。
 1958年、集団引き揚げが終わる。59年、未帰還者特措法ができて、残留孤児らの戸籍は「戦時死亡宣告」の末に抹消される。肉親たちの消息を求める動きが出るが、日中の政治的対立、文化大革命、周恩来の死などが阻んで、遅々として進まない。
 1972年の国交正常化、78年の条約締結を経て、81年に初めての残留孤児訪日調査団によって47人の血縁関係が判明、99年までに30回の訪日で2,116人の血縁関係が認められた。
 厚労省による18年10月の記録では、孤児総数2,818人(うち身元判明1,284人)、永住帰国は家族を含め2万907人、一時帰国は延べ6,034人、家族を含めると1万140人にのぼる。
 いま、孤児の高齢化や孤老化が進む。不自由な日本語、不慣れな社会への適応が続く。神戸市では共同墓地が計画される。生活保護の不正受給や犯罪などが報道される…課題は尽きない。
 国家や政治に翻弄された結果、その一人ひとりに苦難、迷い、悲しみ、感謝などの喜怒哀楽を残している。こうした人為的な結果の対応に、国家や政治は鈍感すぎはしないか。

<山本慈昭のこと> 山本は残留孤児問題では、忘れてはならない存在。長野と岐阜県境にはさまれた、天竜峡に近い長野県阿智村の長岳寺住職山本慈昭は終戦の年、この村から満蒙移民の「阿智郷開拓団」派遣に伴い、教え子の国民学校の児童たちと、妻子3人を連れて旧満州にわたる。だが、3ヵ月でソ連軍が侵入し、山本はシベリアに抑留される。
 47年、やっとの帰国が叶うが、妻子3人は死に、開拓団215人のうち帰還できたのはわずか2割ほど、教え子で生き残ったのは51人中6人、と聞かされる。1964年、せめて遺骨収集を、と思い立って訪中、運よく首相周恩来に会えて歓迎はされたが、遺骨の件は認められず、翌65年には残留孤児の存在を知って、厚生、外務省、国会議員などに働きかけたが、これも不調。
 69年、帰国した一人が死の直前、意外な事実をもらす。じつは団員のうち、山本の妻と次女は死んだが、長女と15人の教え子はその命を救うため、中国人に預けた、という。これが、山本の孤児探しの気持ちに火をつけた。70年、NHKなどにより中国にも連絡を求める放送が流れた。
 72年の国交正常化を機に、引揚者たちの「日中友好手をつなぐ会」が発足、また孤児と肉親の再会第1号が実る。報道も活発化、国内ばかりでなく中国各地の情報もあって、80年までに177人が見つかる。
 この年、訪中時に、吉林省で30人ほどの孤児に会い、ほかに300人もの孤児たちが集まった。82年の2度目の訪中調査で、ついに黒竜江省で長女に会えた。彼女には家族もいて、即帰国とはいかず、のちに永住帰国を果たした。山本は86年までに9回の現地調査をしている。
 厚生省の調査は75年に開始されたが、芳しい成果は出ず、山本は80年に厚相園田直に会い、山本の進める調査に予算をつけさせた。国は翌81年、集団訪日調査が始めた。
 山本は、帰国した孤児が家庭の事情で近親者のもとに戻れない子らを自宅に預かったり、帰国前に日本語を学ぶ学校をジャムス(佳木斯)市に開いたりした。87年、北朝鮮に渡り残留孤児問題に取り組むが、不調のうえ、持病のぜんそくに倒れ、帰国。90年、88歳で他界。

          <関東大震災での悪行>

*95年前に学ぶ 9月1日、関東大震災から95年経った。南関東の東京、横浜を中心に10万5,000人の犠牲者が出た。だが、災害の痛みをさらに痛めつける事態があった。

 それは、天災による第1次被害のあとの、悪質、かつ人為的な第2次の加害事件だった。朝鮮人が「井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」などの流言飛語が広く流れ、戒厳令が出され、軍隊も出動した。組織的な軍部、警察の過剰警備、抑圧に加えて、流言に惑わされて各地に自警団が組まれ、在留の朝鮮人、中国人らに対する暴行、殺害が相次いだ。裁判に出された犠牲者数は233人、朝鮮総督府の見込み数は813人、朝鮮人留学生によると数千、中国人も数百人いた、という。今なお続く事件の掘り起こしに、朝鮮人遺族が来日した。「現在と地続きの出来事」と見る作家の記事が取り上げられた。植民地支配の強化に拍車をかけた、とも見る。
 一方、東京都知事小池百合子が、この慰霊祭の行事に恒例だった追悼文を昨年来送らないことを決めた。震災犠牲者全体の慰霊行事に挨拶を送っているので、それに一本化しただけ、という。記者は「在日コリアンに対するヘイトスピーチの拡大か」と見る(8月30日付毎日夕刊、9月1日付、3日付同紙、12日付同紙夕刊)。

<樹を見て、森も見よ> よく知られた事例では、甘粕事件(アナーキストの大杉栄、伊藤野枝ら3人を軍が虐殺)、亀戸事件(労働運動家10人が亀戸署に不当検挙され、軍、自警団により刺殺)、朴烈事件(在日の無政府主義者朴烈=無期懲役=、妻金子文子=獄中自殺=を天皇暗殺の大逆事件がらみで検挙、震災時の混迷隠しに、話題の抱擁写真を撮り流出)、さらに17人が犠牲になった群馬の藤岡事件などがある。
 震災に名を借りた当時の反社会分子の制圧行為、その制圧に同調する国民の支持喚起が狙いで、1923(大正12)年のこの事件は軍部台頭の契機にもなった。根底には、当時の朝鮮、中国を見下す差別的雰囲気が強くあり、彼らを犠牲にすることで被災についての政府などへの不満などをかわそうとした、と見られる。この他民族に対する行為は、日本と朝鮮、中国の交流を断つもので、また憎しみによる戦争の大義名分をつくりだすことにもなっていた。
 小池知事の行為は、<95年も前の出来事はもう忘れたい、なぜ当事者でもない私が対応するの、わたしらの時代にはもう関係なく、批判を浴びてまで挨拶を送ることもない>といったところだろう。それにしても、権力者にとって、戦争にまつわる、忘れてしまいたい事柄は数限りなくあり、また鬱陶しいことなのだろう。

          <回顧される戦争>

*第一次世界大戦100年 2018年11月11日が100年目のこの日、パリに80以上の国々の首脳や、国際機関代表が招かれた。大戦は1914年、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件がきっかけに英仏ロなどの連合国と、ドイツ、オーストリアなどの同盟国が世界規模で戦いはじめた。アルザス・ロレーヌ地方の仏への割譲、ドイツへの過大な賠償金などのベルサイユ体制は、敗戦国側の不満を醸成、ついにはヒットラー、ムッソリーニを生み、戦争が戦争を呼び、第2次大戦の火種をまいた。
 マクロン大統領は「自国の利益第一で、他国は構わないというナショナリズムは背信行為。いま一度、平和を最優先に」と発言。台頭するポピュリズムにくぎを刺した。一方、ドイツのメルケル首相は「独仏の友好関係は、互いにたくさん顔を合わせること、一緒に様々な事業を手掛けていくことで強化される」。両者はEU加盟国の連携を深めることで一致しているが、見通しは明るいものではない(11月13日付朝日)。

*東京裁判判決70年 11月12日の70年を迎えて、東大で国際シンポジウムが開催。ドイツのニュルンベルク裁判と東京裁判について、「勝者の裁き」との見方以外からの視点が論議される(11月13日付朝日)。関東学院大学での講演会など、各方面でイベントがもたれた。

*処刑の人、反省の人 文官で一人A級戦犯として絞首刑になった元首相広田弘毅。その孫の弘太郎は80歳。小学4年のとき、判決後の祖父に会う。戦争に積極的に関わった軍人たちと祖父が、同じ靖国神社に祀られていることに「違和感をぬぐえない」と漏らす。
 BC級戦犯として重労働20年の判決を受け、56年の減刑まで巣鴨プリズンに捕まった人物が、16年に93歳で死亡。直前に捕虜虐待、住民虐殺など自分の戦争犯罪を告白した。生前、首相の靖国参拝について「戦争を反省せず、逆に正当化しかねない」と批判していた。
 その人物が取り組んだのは障害児の医療支援などの福祉財団で、そのもとで働いた77歳の部下が彼をたたえる。エネルギッシュな社会運動家だった、という。その人の著書をアピールし、撮影された映画の上映を支えている(11月13日付朝日)。

          <73年後の今は>

*進む学会の軍事研究 日本学術会議が、軍事研究の規制について新しい声明を出したのは2017年1月。戦後軍事研究否定の立場を堅持、各学会に研究指針の作成を求めてきたが、各学会の動きは鈍い。一方、政府は「軍事と民生の統合」を進める。要は軍民連携、である。
 学会とすれば、政府の研究費削減の傾向のなかで、防衛省など政府機関との協調は研究予算確保のうえで、極めて魅力的だ。政府の「総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)」の議長は安倍首相で、首相肝いりの新組織。官邸主導で、防衛相も参加して産学官連携の強化を目指す、という。
 防衛省が100億円以上もの資金を出す安全保障技術研究推進制度の説明会には、今年約160人が集まった。公募に応じた大学などの研究者で採択されたのは33件、論文や学会発表は101件、特許出願17件。日本機械学会など96学会の入る日本工学会は、学術会議の声明に対応しないと決めた。人工知能(AI)学会は沈黙という(3月30日付毎日)。

*軍事研究規定なしが7割 日本学術会議によると、軍事研究に関するルールを決めている大学は3分の2がすでにあるか、検討中だったのに対して、国立研究開発法人では7割がルールなし、だった(9月23日付毎日)。

*軍事研究に「指針」4割 日本学術会議が135の軍事研究の大学・研究機関を調査したところ、うち、59ヵ所が軍事研究に対する指針があると答え、25ヵ所が検討中、だった。回答を寄せたのは183大学と研究機関の4分の3だった。
 また防衛装備庁の制度に応募したことがあるのが30ヵ所あった。審査手続きやガイドラインのあるところが46で、半分は学術会議の声明が出てから作った。このほか30ヵ所は「検討中」、41ヵ所は「検討もしていない」だった(4月3日付朝日、4日付毎日)。
 日本学術会議の山極寿一会長(京大学長)は、先輩の湯川秀樹、朝永振一郎博士らが「新たな発見や発明が軍事につながることに強い警戒心を抱いていた」と言い、京大では軍事につながる研究はすべきでない、との合意に達した、という。また、防衛省関係の研究のゴールが軍備につながる危険性があることに懸念する。人を育てる場で軍事目的の研究はすべきでなく、留学生が関われないような研究は学内では避けたい、と言い、したがって企業や他の研究機関とは一線を画したい、と述べる。また、「国民の知らないうちに、科学技術に関する国の仕組みがどんどん変わっている現実に議論もせずに黙認することを懸念する(6月4日付毎日)。

 北海道大学は、防衛装備品に転用可能な基礎研究を助成する防衛省の公募制度から辞退することにした。「船などが受ける水の抵抗を小さくする研究」で、すでに2,330万円の助成を受けてきたが、継続を辞退した。15年度以来9大学が助成を受けていたが、辞退は初めて。「日本学術会議の検討結果を参考に」した、という(6月9日付毎日)。

*原爆投下を容認? 時代が変わり、ヒロシマ、ナガサキの重い認識が薄れたのか。韓国の大人気の7人組による「BTS(防弾少年団)」が原爆を象徴するキノコ雲をTシャツに印刷、テレビ朝日は出演を見送った。ナチス連想の旗をコンサートで使った。また、米人気ミュージシャン「DJスネーク」の歌詞に「尻がナガサキのように爆発」とあり、日本法人の変更要請に応じた。日米野球の広島大会に訪れたレッドソックスの投手が原爆ドームの動画に「原爆!」という文字と爆弾のスタンプを張り付けて、謝罪に(11月16日付朝日)。
 小さいことのようだが、被爆者はまだまだあえいだ生活の中にある。知らずに、相手国の感情を逆なでするのは、世界的に大きな問題であり、無智とはいえ軽視できないことだろう。時代を経ても、配慮は必要だ。他国、他民族への配慮が求められよう。勝者の米国でも、原爆投下の責任を問う声がくすぶっており、時は流れても慎重な姿勢を維持したい。

          <将来へのマイナス展望>

*「だまれ!」再現か 防衛省勤務の30代の3等空佐が国会周辺で、民進党の参院議員に「お前は国民の敵だ!」と暴言を吐いた。のちに謝罪し、統合幕僚長が「いかなる理由があっても許されない」と発言。文民統制下での威嚇の言動は、戦前の38年の帝国議会で国家総動員法案の審議中、答弁に立った陸軍中佐佐藤賢了が「黙れ!」と怒鳴った事件を思い起こさせ、話題になった(4月20日付朝日、5月16日付毎日夕刊など)。

*イラク日報の隠ぺい 自衛隊のイラク派遣時に、政府は自衛隊の活動範囲を「非戦闘地域」内としてきたが、現地の日報(活動報告)には「戦闘」「銃撃戦」などのことばが使われていて、現地の宿営地周辺で攻撃があったことがわかった(4月17日付朝日など各紙)。
 モリカケ問題に絡む首相秘書官のウソ答弁、「首相案件」文書の発見までの官僚の虚偽答弁、責任の下僚への押し付けなどの相次ぐ事態に、評論家の保坂正康は「東条内閣と同様の時代が来ている」と見る。官僚機構の内閣への屈服、官僚機構の腐敗と道徳的退廃、さらに終戦直前の高級官僚らによる記録文書焼却命令などを挙げてもいる(4月21日付毎日)。

*防衛予算、つまり軍事費の増大 「安倍政権になって、防衛予算の特別扱いが目立つ。」(9月1日付、12月9日付朝日)。以下、同紙のポイントを記そう。
 19年度の概算要求は今年度当初予算比で2.1%増、総額は過去最大の5兆2,986億円。膨大な借金財政のなか、防衛費の要求額は7年連続で増え続ける。
 12月にまとまる防衛計画の大綱、中期防衛力整備計画(中期防)の改定では、さらに拡大した軍備増強が盛り込まれる。5兆円前後の規模、GDP(国内総生産)1%弱などの現状は破られ、さらに歯止めがなくなっていく。
 そして、これからの安全保障上の新課題として、従来の陸海空の区分けにとどめず、宇宙・サイバー・電磁波といった新領域の活用を考える、という。
 たとえば、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」(予算計上2,352億円)を導入する。また、レーダーに映りにくいステルス戦闘機F35A、42機(約6,000億円)を米国から買うが、30年間の運用維持費込みだと約1兆3,000億円を要するという。しかも追加分として70-100機を買う方針もある。
 この軍事費の増大傾向は、敵基地攻撃能力に進み、海自護衛艦「いずも」の空母改造化や垂直着艦用戦闘機F35B取得に着手し、北大西洋条約機構(NATO)の対GDP比2%目標に向かいそうだ。自民党内では、中期防への提言として、これらの推進の声が高まっている。
 憲法上も国際法上も認めない先制攻撃とは一線を画した「巡航ミサイルをはじめ『敵基地反撃能力』の保有の検討を促進」するという(5月26日付朝日)。

 安倍政権下では、トランプの「バイアメリカン」政策に乗って、米国から兵器を買う有償軍事援助(FMS)が急増、来年度だけでもミサイル迎撃用の陸上イージス、F35戦闘機購入などで6,917億円、12年度の5倍にもなる。しかもこの関係の予算は後年度に膨らみがち。トランプは、対日赤字削減策として米国製兵器を買わせて対応させようとするが、これは歯止めなく防衛費を拡大させるばかり。これでいいのか、と社説は言う。何しろ、米国製兵器の購入額は、10年前の10倍以上に膨張している。

<手は打てるか、この現実> これは、敵のミサイル基地をたたく敵基地攻撃能力であり、相手国の緊張と対抗措置を刺激、ひとつ間違えば戦争を招く。つまり、近年の軍事増強計画は、反憲法的逆コースの方向へ実態として変えていこう、というものだろう。
 兵器は次々に性能を向上させ、新型を持ちたくなって、開発が強まる。すると、他国も「国を守るため」として、対抗して増強する。いたちごっこの競争であり、その状況下でたがいに相手側を疑惑と敵対、さらには嫌悪、憎しみの眼で見るようになり、批判非難の応酬がさらに対立を刺激する。そして、戦争の下準備を本格的に始めることにもなりかねない。
 「一強政治・弱小野党」のもと、政府・与党は数の力で国会の論議を抑え、一方の野党は心もとない、核心を突かない追及ぶり、という状況下で、兵器増強競争が具体化して行きかねない。政治の流れは、氾濫した川のように、流れ出したら勢いのままに突進する。目前に怖さが見えかけている。打つ手はなにか、打つ手はだれが動かすか。そして、国民各層は立ち上がるのか、あるいは気付かず、追随するのか。

         <核政策の懸念>

<核廃絶か、温存・依存か> 核保有国グループ、核の傘依存グループ、核禁止グループの3群がある。日本の多数意見はヒロシマ、ナガサキの経験から禁止グループに入るだろう。だが、日本政府は核の傘の下にあることから、依存しつつ禁止を求めて動く、という。
 理想を追い続けるか、現実に妥協するかの岐路で、日本政府はあるべき大きな未来よりも、短視的に現実の道を選んだ。どうせ核兵器は使われないさ、との思いもあったのか。ただ、口先では、保有国と禁止主張国との橋渡し役をする、という。原爆犠牲国として、禁止の方向に動かない論理が見えてこない。
 いつの間にか、「日米同盟」が定着し、「同盟」とは言いがたいほどに追随し、アジアにある日本の姿勢は見えにくくなった。軍備調達だけではない。沖縄について、不平等条約である地位協定の見直しを言い出さず、宜野湾の基地退去に代えて、辺野古に嘉手納基地同様の永久的な基地を造成、提供する。
 核問題以外でも、日本の姿勢は狭くはないか。たとえば、韓国最高裁の判決に抗議するとしても、植民地以来の歴史的な、沈潜した怒りが歴史の根っこにあること、あるいはかつてないほどの教育レベルの上昇に伴って、若い世代に生まれている多様な感情に対する無配慮も望ましくない。おのれと相手との関わりを長期的に見、もっと目を広げてみるべきだろう。

*核なき世界へ 11月の国連総会の軍縮協議の委員会で、「核兵器禁止条約の署名・批准を求める決議案」(条約は前年7月に120ヵ国超で採択)に、日本は米国やロシアなどの保有国とともに反対した。
 また、日本が主導した「核兵器廃絶決議案」は、25年連続、160ヵ国の賛成で採決された。昨年同様に核禁条約に触れず、禁止主張の条約推進国の一部と、昨年賛成した保有国の米仏が棄権した。が大勢がなく、二股をかけたような日本の姿勢に落胆と批判が出た。
 被曝者に思いを馳せ、人道的に「核なき世界」の理想の旗を揚げ続ける。それが、日本ではないか、との趣旨を社説は説く(11月19日付朝日社説)。

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 つい先ごろまでの日本の歴史は自国の繁栄、あるいは、未開発のアジア諸国の支援のためという名目で、「皇国の弥栄」「八紘一宇」「五族共和」などとうたった。
 戦前の日本は、その名目のもとに戦争の道を選び、国民を束ね、統括した。いま、政権党を中心に「平和・安定」を言いながら、他国との外交や交流による理解や和解の道よりも、まずは「防衛」の名による軍備増強政策にウェイトを置く。
 軍備増強は国際緊張のもと、いつか憎悪による敵対的な相手を作り出し、軍事産業の繁栄が低迷すれば、軍備を活用➡消耗➡再生産の道をたどり、破たん寸前にまで進みかねない。
 権力者から流れ出す言葉に乗せられてはなるまい。「平和・安定」を真に望むのなら、長期的に具体的な外交・交流の方途を生み出して進まなければなるまい。
 「戦争というもの」は、徐々に間違った道に誘い込む。しかも、国家権力は時間をかけて、時に弁舌のうまさによって惑いの論理を提供し、さらに法制度を腕づくで組み立てる。その手口は、熟視していかないと、見落としたり、見抜けなかったりすることで定着してしまう。

 それでも日本の戦前は、われわれに大きな反省材料を残してくれた。もういちど、十分に疑問を持ちつつ、国の方向と流れを見定めていきたい。

 (元朝日新聞政治部長)

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