【コラム】大原雄の『流儀』

★★ 「国家安全保障戦略」と「帝国国防方針」の類似

大原 雄

★★ 「国家安全保障戦略」と「帝国国防方針」の類似

 与野党の激論も希薄なまま、いつの間にか、日本の安全保障政策が、大変換されようとしている。衆・参補選や統一地方選挙の投票率を見ると、どこも低めだった。有権者は、選挙への関心が低い。つまり、政治への関心が低い。与党がギリギリの得票数であっても、野党がなかなか統一候補を立てることができず、バラバラの得票数になってしまえば、与党の方は議席に近づくことができるが、野党は議席から遠ざかってしまう。衆・参補選(5議席)では、与党(自公:4議席獲得)と維新(1議席獲得)にしか議席は回らなかった。立憲は、議席全滅(議席獲得無し)であった。
 こうしたことも踏まえて、与党の岸田政権は、防衛力の大幅増強策を一気に進めようとしているが、このまま、岸田首相らの意向に任せておいて良いのか。なにやら、戦前の二の舞への懸念が私にはあるのだが、皆さんはどうなのだろうか。

 「国家安全保障戦略」は、選挙前も国会では十分な熟議がされないまま、また、マスメディアもそれを放置したまま、素通りさせようとしているように思える。国会についていえば、選挙結果から見ても、与党よりも野党がダメなような気がして仕方がないし、マスメディアは、焦点のボケた方向を見ているし、国民もウクライナ戦争の報道ぶりに刺激されて防衛力の増強は必要だと思い込まされてしまった人たちが増えたように思える。戦後の日本列島を「貫く棒の如(ごと)きもの」(平和主義)が、いつの間にか抜け落ちてしまったような気がする。

 そこで、私は考えてみた。戦前の歴史を思い巡らすしかないのか……?
 「国家安全保障戦略」ほかは、通称、「安保関連3文書」と言われる。この3文書と似たものが戦前に作られていた。それは、「帝国国防方針」ほかの3文書である。ここでは、「国防関連3文書」と名付けて、今回は、それを比較して考えをまとめてみようかと思う。

A)「国家安全保障戦略」ほかのセットとは、次の3文書のことである。
 ①「国家安全保障戦略」
 ②「国家防衛戦略」
 ③「防衛力整備計画」

一方、
B)「帝国国防方針」ほかのセットとは、以下の3文書のことである。
 ① 「帝国国防方針」
 ② 「用兵綱領」
 ③ 「所要兵力」
である。

 「国家安全保障戦略」(NSS)ほかを岸田政権が閣議決定したのは、2022年12月17日であった。この時のマスコミ各社のニュースの見出しは、基本的に「戦後日本の安保転換」であった。新聞記事のリード部分を改めて読み直すと、概要次のような内容であった。「憲法に基づいて専守防衛に徹し、軍事大国とはならないとした戦後日本の防衛政策は、大きく転換することになった」(朝日新聞23年12月17日朝刊記事引用、ほかのメディアの記事・ニュース原稿も参照)。

 これはどういうことかというと、戦前の日本(大日本帝国)の軍事力は、1907年に作成された「帝国国防方針」「用兵綱領」「所要兵力」の3文書で方向付けられてきた。1907年といえば、日露戦争(1904年2月から1905年9月)終結直後の時期である。つまり、3文書では、仮想敵国を定め、そのために必要な兵力を決めているのである。3文書は、その後も日本を取り巻く時代状況に応じて「改定」されながら、第2次世界大戦で日本が敗戦するまで日本の国防政策の基幹を支えてきた。「帝国国防方針」とは、戦前日本の軍事・国防に関する基本方針を定めたもの。それが、日本の敗戦で否定され、戦後日本は、GHQ(占領軍)の意向に沿う形で非武装中立の非戦国家、戦争放棄・専守防衛の憲法を持つ平和主義国家たることを国是として国家再建の途を歩んできたのである。
 贅言;「帝国国防方針」:戦前日本の軍事・国防に関する基本方針を定めた最高国策。日露戦争後の1907(明治40)年、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長の協議で内容を定めて上奏し、天皇がこれを内閣総理大臣に下付したうえで決定した。
 戦前の国防3文書と比較しながら、安保3文書の問題点を摘出しておきたい。このテーマについては、朝日新聞4月7日付朝刊記事「オピニオン&フォーラム(インタビュー)」を参照した。紙面にて問題を提起しているのは、歴史学者で、東京大学の加藤陽子教授である。テーマは、「戦前3文書から考える」であった。加藤教授の問題意識は、安保3文書が、「国民的議論がない中での大転換」「文書は、国会ではないどこかで議論され、国会ではない場で決定された」という危惧の念なのだろうと思う。私も、国会で十分に激論する野党の姿を見ていない、野党の存在感が弱いなどという印象が強い原因は、ここにあるのではと思っている。「戦前3文書」をこの連載では、今回は、「安保3文書」との関連から、「国防3文書」という形で区別した標記にしている。

★天から降ってきた文書

 さて、加藤教授の声に耳を傾けよう。
 ①3文書は「天から降ってきて歩き出す」というが、世間を騒がせているAI(人工知能)と同じように、いつの間にか、どこかで、誰かが作り出し、日本国民を超えて「歩き出」しているのでは無いのか。国会では、「方針が決められた後に予算の議論をさせられている現実」がある、と加藤教授は指摘している。私の目にも、野党もそこを突破しきれていないまま、引きずられているように見えている。

 ②3文書では、「中国を名指しして(略)最大の戦略的な挑戦」などと、以前の外交文書なら配慮をして慎重に書いていたような形容句を「敵を特定しようとする」ものに色濃く変えていると鋭く指摘する。
 加藤教授に言わせれば、「現状は、中国が日本を主たる敵だと言っている状況ではなく、(略)北朝鮮の『脅威』を強調したり、ロシアを『安全保障上の強い懸念』と書いていたりするなど、事実上、(あの国もこの国もと、)複数の国を仮想敵国とみなす文書になっています」と警鐘を鳴らす。

 では、なぜ、安保3文書で複数の仮想敵国を設定することが問題なのか。国防3文書では、その部分は、どういう扱いになっているのか。戦前も、日清、日露の戦争に「勝利した」日本は、すでに軍備拡張論が支配していたという。軍拡路線は、例えば「仮想敵国の多さ」が証左の一つになりうるという。

★仮想敵国が多過ぎないか?

 ③「仮想敵国」の多さ:明治期の「国防方針」では、陸軍が「主な仮想敵はロシア」とし、海軍は「米国(アメリカ)と規定する形で作成され」(た)。
 しかし、と加藤教授は呟く。「当時ロシアが日本の主要な敵であったかは疑問」だと問題提起する。「国防方針」は、「具体的な安全保障環境に基づいて積み上げられた」ものというより、「組織としての陸・海軍がともに食べていけるようにという思惑の産物だった」と指摘する。「食べていける」とは、判りやすい表現だが、なんとも直裁的な意味合いが伝わってくる。つまり、国民のための戦をする「戦費」というより、平時も戦時も軍隊が組織として成り立って行く(兵隊を維持できる)ように予算を組んだという意味合いだろう。

 「世界最大級の陸軍国家・ロシアと世界最大級の海軍国家・米国。その両方と同時に競う方針なのですから『必要な軍備』には終わりがありません。身の丈を超えた軍事力を持とうとする国防方針だったのです」と明言する。

 出来上がった「文書」自体が軍拡を「誘発した面も」あったという。目標実現のために、軍拡を求め、軍拡のために仮想敵国を増やそうとする発想が「誘発」されていったと加藤教授は分析する。「相手に勝つことばかり意識していると、欠点や問題点を隠そうとしてしまいがち」だという。

 この記事を読み直していると、国防3文書は、安保3文書と重なる上、岸田内閣の手法(誰がどこで決めたかを国民の目から隠し、とにかく「結論に黙って従え」とばかりに、丁寧に(慇懃に)、強引に(押し付け)、力でねじ伏せ、結論をそのまま押し通そうとする岸田政治の原理がくっきりと浮き彫りされてくるようではないか。

 日本近代史が専門の加藤教授は、
 「防衛力の大幅拡充」方針は、「中国に対する威嚇や脅しとして機能することには注意すべき」であるというが、私も、本当にその通りだと思う。中国の戦闘機が日本の領空を侵犯したというのが、中国の脅しであることには間違いないが、日本が日常の行政の中で示される国策の文章や言葉で中国を脅している。中国は、それを感じるから、反発する。日本がアメリカとの軍事同盟強化で中国や北朝鮮、ロシア(特に、「北方領土」)を事実上、脅していることも忘れてはならない。北朝鮮は、日米の軍事同盟を警戒して、自国のミサイル整備の進捗状況を相次ぐミサイル発射実験できめ細かく、一歩一歩威嚇しながら、宣伝しているということだろうと思う。一段と右傾化してきている日本国政府・日本国民が忘れているというならジャーナリズムは果敢にその点の問題提起をすべきだろう、と思う。

 戦前も「日本は、自らの軍拡が相手の目に威嚇や脅しとして映ることや、相手が国力の点で無限に戦争を継続できる国であることを軽視していた」のだと指摘するが、その通りであり、戦後復興80年近くになろうとしているのに、日本は戦前の病理を摘出できずに、またぞろ、戦前への回帰へという坂道を転げ落ちようとしているのではないか。

 戦前の「国防方針は事実上、政府や議会には知らせずに軍が作成したもの」(加藤教授)だったように、岸田政権は、政府(官邸のごく限られた人物を除く)や「議会」(国会)には知らせずに、「幻の軍?」か、それ同等のものが専制主義的に作成した安保3文書で、日米路線をゴリ押ししようとしているように見えるのは、私一人ではないであろう。政策大変換なら、なおさら、その道筋が記録に残され、きちんと後世の識者にも熟慮、熟議のトレースが検証できるようにしてこそ、民主主義の政治の優れたところだろうと私は思う。

★ 「文書」は誰が作成したのか

 加藤教授は言う。「安保3文書を読んでいて不安を感じるのは、誰がどう作成したのかが分からないところ」だと、私と同じような不安感を感じておられることだ。

 ここは、やはり、右傾化が進んだ保守派よりも、記録をきちんと残す手続きを重視する民主派が、正式な手続きを経て権限を握り、国民の安全と生活を守るような仕組みの中で、見える形で国家・国民の安全を守り、保障するような政治を推し進めてほしいものである。政権が交代しようがしまいが、政治の記録は、きちんと残されるというのが普通の国の形ではないのか。

 アメリカと中国は、万が一、戦争状態に突っ込んだとしても、アメリカも中国もそれぞれの領土内では、戦争をしないであろう。その場合、戦場となるのは、台湾、韓国、北朝鮮、日本、特に沖縄(米軍基地のあるところ)ではないのか。「両国が衝突したら、火の海になるのは日本列島でしょう。(略)急迫不正の侵害や存立が脅かされる事態が起きない限り武力行使をしない国として日本は歩んできました。そんな国家が、対立する中国と米国の間に3000キロの長さにわたって位置していることは、両国の平和にとって大きな意味があるはずです」(前掲同紙。加藤陽子教授)。

 贅言;この連載でもすでに触れているが、そういえば、日本学術会議から提案されたメンバーで当時の菅政権(首相に任命権がある)が6人を任命しなかったことがあった。任命されなかったメンバー6人のうちの1人が、加藤陽子教授だった。加藤さんのような学者を排除するような日本学術会議であってはならない、と改めて強く思った。まだ、対応は未決である。

★(まとめ)2つの文書に懸念される類似点

 こうして見てくると日清・日露後(1907年)の日本の国防3文書、2022年の安保3文書の類似点は、次のようにまとめることができるのでは無いかと思う。

① 仮想敵国が多すぎる。
② 相手の実像を知らない(国民性、経済力など)。
③ 軍備大幅拡充の「効果」(戦費を使い続ける継続力があるのか)。
④ 秘密主義の弊害は、少数のイエスマンを侍らせた専制主義を生み出す。

 仮想敵国が多い、ということは、敵国=目標が、正しく実像を掴まえていない。攻撃が効率的、効果的になっていない。その結果、戦費がかさむ。軍備を大幅拡充しても、効果が望めない。継続して攻撃し続けられないなどの曖昧さを残す。

 例えば、今のロシアのように。
 ロシアは、アメリカ、NATO、日本を含む東アジアなどを想定しているようだ。しかし、どういう状況認識で、どの時期に、どういう戦力配分をするかなどきめ細かく想定しているのか。これまでの戦い方では、プーチン一派は、緻密ではないように見受けられる。

 極東の日本にとって、身の丈を超えた軍事力だと思っても、アメリカやロシアにとっては、ハードルが違うので、大国にとっては、刺されても痛くも痒くも無いかもしれない。あるいは、大国にとっても、打撃となり、戦意を萎縮させる効果があるかもしれないが、これはあまり、想定しにくいように思われる。
 20世紀初頭同様に21世紀も四半世紀近い現代も、限られた、権力は握ったが、有能とは言えない人物たちが仕切っているのでは無いのか、という私の印象は変わらない。

★★ 襲われた岸田首相 演説直前に「爆弾」爆発

 「4月15日午前11時25分ごろ、和歌山市雑賀崎の雑賀崎漁港で、衆院補選の応援演説で訪れていた岸田文雄首相の近くに筒状のものが投げ込まれ、間も無く爆発した。首相にけがはなかった(略)和歌山県警は、演説を妨害したとして、現場で取り押さえた容疑者(記事では、住所、氏名などを公表)を威力業務妨害の疑いで現行犯逮捕し、発表した(略)」
 「首相は漁港での演説こそ取りやめたが、その後の和歌山市や千葉県で、予定通り、遊説を行」(った)。
 「首相は、和歌山を離れた後、予定通り、衆院補選が行われている千葉5区に向かい、JR新浦安駅前での街頭演説に立った」。(以上、朝日新聞4月16日付朝刊記事より、それぞれ引用)。

 ここには、警護・警備と街頭演説(選挙活動)の担保という問題があると思われる。
 中でも、政治家の警護は難しいようだ。選挙での遊説は、平時であれば、有力な政治家、候補者は、有権者と可能な限り接近したがるだろう。有権者の近くで演説し、身近に感じてもらうことが一票につながると考える政治家は多いだろう。握手するために自ら進んで有権者の輪の中に入ろうとする政治家もいるだろう。特に、このところ流行りの「グータッチ」は、何か、見えない一票を手渡ししているような印象があるから、応援の政治家も、候補者も、有権者もやりたがる。初対面であっても、有権者は「偉い人と直接接触した」という親近感を持つようになる。握手ほど堅苦しくは無いし、それでいてスキンシップには違いないのだから、皆さん、やりたがる。規制線があっても、その付近にいる有権者は、簡単に近付ける。スキンシップらしい「接触の存在感」を残した上に、それでいて両者の間に「安全な空間」ができる。和歌山の場合は、地元の顔見知りの有権者の塊が「人間の壁」の役割になっている。岸田首相の身近に投げ込まれた「筒状のもの」(パイプ爆弾?)が、50秒遅れて、爆発した。首相も有権者も、偶然助かっているが、直ちに爆発していたら、首相も有権者も安全を確保する、ということはかなり難しかったのではないかと思える。テロの場合なら、行為者は、確信的に行動するだろうし、想定通りの結果を生んでいたかもしれないと思われるからだ。

★★ 憲法9条は「死んだ」のか?

 小泉内閣の時代に内閣法制局長官を務めた阪田雅裕さんが、朝日新聞4月14日付朝刊記事の「オピニオン&フォーラム」の「インタビュー」欄で、憲法9条問題について、答えている。1943年生まれ、66年大蔵省(現在の財務省)に入り、2004年から06年まで、2年間内閣法制局長官を務めたという。官僚らしい理詰めの回答で聞き手の朝日新聞・駒野剛さんからの質問に答えている。興味深いので、紙面(前掲同紙)を参照、場合により引用しながら、この問題に対する理解を深めるために、私なりに整理しながら、熟読した。記事のタイトルは、「憲法9条は死んだ」というエキサイティングな見出しがつけられている。ならば、憲法9条への縁切り状かと思って読めば、「違いがわかる」というものだ。「タイトル」の違和感を聞き手の駒野剛さんが私たち読者の代表として第一番に聞いている。2022年12月、岸田内閣が「国家安全保障戦略」を改定した際、阪田元長官は「憲法9条は死んだ」と話しているという。ならば、どうすべきなのか。

 方向性は、以下の2つの道を示しているように私には思える。

 ① 現状に合うように憲法9条を改定する。「改憲」である。
 ② 現状の方を、元の憲法9条に合わせる(戻す)。「護憲」である。

 阪田雅裕元内閣法制局長官によると、憲法9条には、自衛隊があっても軍隊ではないというための柱が二つあるという。特に第2項は大黒柱だ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」。戦力を持たないために海外で武力行使をしないという。つまり、「集団的自衛権を行使して米軍と一緒に戦うようなことはできないとしてきたという。

 「しかし、安倍内閣が押し進めてきた安保法制で、この柱が失われた。「すなわち『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』という『存立危機事態』に際しては、集団的自衛権を行使して良いと決めたのです」という。この結果、武力行使をする場所も、日本周辺の公海、公空までという、地理的な制約も消え去ってしまったという。つまり「集団的自衛権を行使する場合、海外での武力行使も可能になった」ということだ。『専守防衛』というもう一つの柱は生き残っていた」。しかし、去年暮れの「国家安全保障戦略」改定により、攻撃を受けた場合は、ミサイル基地など相手国への攻撃を行う能力を自衛隊に持たせることが決まった」と阪田氏はいう。「敵基地攻撃能力」と呼ばれ、政府が「反撃能力」と呼ぶものである。岸田政権は、「反撃能力」という字面にしがみつき、『専守防衛』の防衛戦略は、不変であると強弁しているが、「これは詭弁だ」と阪田氏は主張する。

 阪田氏によれば、「『専守防衛』の神髄は、自衛隊が攻撃的な兵器を持たず、敵国の領土、領海、領空を直接攻撃できる能力を持たない、(略)」という一点においてであると強調する。「自衛隊の武力行使は敵国の軍隊を我が方の領域外に追い払うのに必要な範囲内にとどまって外国の領域を攻撃することはしない、(略)というのがこれまでの『専守防衛』だったはずです」。
 「平生から攻撃的兵器を持つことが憲法の趣旨に反するのは、自衛隊が憲法9条2項で保持を禁じた『戦力』そのものになってしまうからです」という。これでは、「日米安保条約の下で強力な米軍部隊が駐留し続け、相当の攻撃力を持ち続ける中で、自衛隊にもこうした攻撃力を持たせることは、憲法9条を死に追いやる行為以外の何ものでもありません」という。その結果、彼は次のように言う。

 「自衛に徹する平和国家 → 強力な戦力を有する普通の国へ」

 これは、平和主義の放棄にほかならない。阪田元長官のような官僚もいるのだな、と私は思う。だが、当然、安倍元首相は、阪田さんたちの現状認識を批判した。丁寧に、はっきりと、明言されてしまっては、都合が悪いからであろう。しかし、安倍政権の政策は、岸田政権に引き継がれている部分がある。

★ 安保の現状認識と将来像

 しかし、私も阪田元長官の説を取らない。しかし、彼の現状認識は、以上、述べたごとくであり、私もほぼ理解しているつもりだ。ところが、そこから導き出されてきた彼の「結論」は、次のようなものであろう、と私は思う。

 *憲法の拡大解釈ではなく、 法治主義の国であることを守って行く。
 すでに、法律的に決定したことは、法治国家の政策変更として、明文化・明確化して行く。

 「政権が変われば、またぞろ解釈を変えて、際限なき集団的自衛権、際限なき反撃能力になりかねません」「集団的自衛権の行使を容認するならば憲法を改正すべきだ」「安保法制の問題は、我が国が攻撃を受けていない、侵略されていないのに進んで戦争に参加する」(前掲同紙から引用)ことになる。

 「拡大解釈」は、日本の政界を暗躍している。例えば、放送法の解釈を歪める(例の「捏造論」も、本質的に同じ問題を孕んでいるのではないか)という問題で元担当大臣の言動でも露見されたところである。元担当大臣は、拡大解釈論の馬脚を隠し、国民の目をごまかすために、「捏造論」を持ち出したのであって、かなり、確信犯的な対応ではなかったかな、と私などは当初から受け止めている。

 これが違うというならば、どうするか。安保の将来像の構築のあり方が思いつく。

* 現状を、元の憲法9条に合わせる(戻す)。

ならば、キャッチフレーズは、次のようになるか。

★ 「ハチのムサシは死んだのか」(ムサシ再生作戦)の構築へ

 「本来、9条は国際社会の中で輝くものであるべき」だと阪田元長官は言う。さらに、「憲法の立法者が目指し、(略)あるべき姿と現状は相当かけ離れてしまいました。平和国家になろうとした意志と誓いを忘れてはなりません。元に戻れないというのでは、いつかきた道になってしまいます」「歯を食いしばって取り組むことがあっていいと信じています(前掲同紙。阪田元長官の発言)。

 阪田元長官の発言は、かなり「直球」が多いように見受けた。大谷投手に学んで、「スイパー」やら、「スプリット」やら、「ツーシーム」やら、変化球も交えたほうがよさそうだ。

 私は、こういう議論は、官僚や政治家の間だけでやっていては、ダメだと思っている。国民が主体になって、燎原の火のごとく下から燃やして行くべきだと思う。今回の国会を見ていると、憲法論については世間(国民)の関心も低いことから、国会も目立った論戦が展開されていなかったと思う。国会を監視すべきマスメディアも言論(舌鋒)が弱かったように思う。

 こうした結果になっているのは、去年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻(侵略)が、影響していると私は思っている。万一、大国に侵略されたら、国際社会は、なかなか有効な手立てが取れないかもしれない、という危惧を日本でも国民は膨らませてしまったのではないか。その結果、日本国民の間にも、防衛力、軍事力への依存はある程度増額が必要なのではないか、と重ね併せて見る視点がジャーナリズムの中にも生まれたのではないかと思うようになった。こういう戦後日本の国是である重要な政策の大転換を十分な手続きも踏まずに、国会での熟議もせずに、急速に膨らませてきた与党の尻馬に乗ってしまったのではないのか。それに気がついている人たちは、今こそ、声を大きくして喋り続けないと、早晩、日本は戦争に巻き込まれることになりはしないか。

 「ハチのムサシは死んだのか」(ムサ・63シ=9条再生作戦)プロジェクトの構築へ政治のベクトルを変えていかなければならない。
 政策変更の措置をきちんと取っていかなければならない。ハチのムサシ(憲法9条2項)は、改めて、21世紀に輝く星として再生させなければならないのではないか。

★北朝鮮・ICBM級ミサイル発射

 官房長官は4月13日午前の記者会見で、北朝鮮が同日午前7時22分ごろ、北朝鮮内陸部から大陸間弾道ミサイル(ICBM)級の可能性がある弾道ミサイルを高い角度で東方向に向けて少なくとも1発発射したと発表した。官房長官は、「一連の北朝鮮の行動は日本、国家・地域および国際社会の平和と安全を脅かすものであり、断じて容認できない」と非難した。(略)北朝鮮に厳重に抗議した」という。発射直後、政府はJアラートで住民に避難を呼びかけた。その後、落下の可能性がなくなったので、エムネットで自治体などに落下の可能性が無くなった旨を伝えた、という。

 北朝鮮のミサイル発射は、アメリカや日本、韓国を仮想敵国として想定しながら、技術的「進捗」状況を仮想敵国や周辺国を含め国際社会に具体的に見せつけるように実射を積み重ねているのだろう。

★ 北朝鮮・「軍事偵察衛星」打ち上げへ

 北朝鮮は、軍事偵察衛星を完成させ、金正恩総書記が計画した期日内の打ち上げを指示しているという。4月22日、浜田防衛大臣は、「日本領域への落下に備え、自衛隊に「破壊措置準備命令」(自衛隊法82条の3に基づく措置)を出したという。北朝鮮の人工衛星打ち上げと称した事実上の弾道ミサイル発射に対して破壊措置準備命令を出したのは、2012年3月と同年12月の計2回ある。今回は、3回目。これまで、「北朝鮮から南方向に打ち上げられている」ことなどから、ミサイル迎撃のための部隊を沖縄県に展開する」という(以上、朝日新聞4月23日付朝刊記事参照)。さらに、琉球新報によると、沖縄県内各地に展開するのは、航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット、移動通信部隊、陸上自衛隊部隊で、関係者によると、展開先は石垣市や宮古島市、与那国町の自衛隊施設などを念頭に置いているという。なんか、国境線は「戦場」と背中合わせなのだという印象がヒシヒシと伝わってくる。情報の出し方次第で、緊張感が全然違うと思いませんか?

 これまでもこの「連載」で触れてきたように、沖縄の自衛隊は、当初、国境線の見守りの役割を果たすためという触れ込みで県民には説明されてきたが、こういう事態になってくると、沖縄は日本の安保戦略の最前線として初めから位置付けられていたのではないか、と思える。まさに、沖縄県民もジグソーパズルのピースのように「嵌められた」のではないかと懸念される。北朝鮮と沖縄については。目が離せない、と私は思う。

★ 「国」とその不確かな壁

 タイトルは、村上春樹のひさびさの長編小説のもじり。国と地域は、北朝鮮と沖縄、日本、韓国、台湾、中国か。6つの国(地域)というか、壁(国堺)というか。南西諸島の周辺には、多重的な、不確かな壁(境)があるように見える。村上春樹の「街とその不確かな壁」には、時空を超えて設定された複合的、多重的な「パラレルワールド」があり、時空を超えてそこを行き来する世界が描き出される。

 「北朝鮮の軍事偵察衛星の打ち上げに備え、自衛隊がミサイル迎撃のための部隊を沖縄に展開する準備を進めている。(略)(4月)22日の破壊措置準備命令を受け、石垣島(石垣市)、与那国島(与那国町)、宮古島(宮古島市)に航空自衛隊の地対空誘導弾「PAC3」の部隊を配備する方針だ」(朝日新聞4月25日付朝刊記事参照、一部引用)という続報を読んだ。なんだか、万が一にもボタンの掛け違いがあると、そのまま、戦闘態勢に入りそうな危うさが感じられて仕方がないような気分になりませんか。自衛隊の担当者らは、沖縄県庁に対し「PAC3」の部隊を3島の自衛隊施設内に「配備すると説明し、協力を求めた」という。

 贅言;「PAC3」は、地上から弾道ミサイルを迎え撃つ地対空誘導弾パトリオットミサイルのこと。 日本のミサイル防衛システムの一部。 敵のミサイル発射を警戒管制レーダーなどが探知すると、イージス艦に搭載した海上配備型迎撃ミサイル(SM3)が大気圏外を飛んでいる段階で迎撃するという。

 だから、今は、「迎撃準備」体制というわけだ。次の段階が怖い!
 自衛隊の駐留問題が浮上した際、国境線を見張るだけという説明を受けた沖縄の離島の人たちはその説明を信じていたかもしれないが、現実は、このように進行して行く。話が違うと思っていることだろう。沖縄では米軍基地撤去だけでなく、自衛隊基地(施設)の撤去まで主張しなければならないことに戸惑っている島民が増えているという。沖縄の島民たちの懸念は、日本列島の米軍基地のある周辺地域も同じ懸念を持たなければならないのではないか。「戦争前夜」の危機意識。岸田政権の対応ぶりを見ていると、私は、爽雨危機意識にかられることがある。ウクライナは、私たちの明日の姿にならないとは、誰も言えないのではないか。

★学術会議の独立性は守れるか?

 「日本学術会議は4月18日、学術会議法の改正法案を今国会に提出する方針の政府に対し、提出の見送りを求める『勧告』を出した。勧告は13年ぶりで、法に基づいて政府に実現を求める文書で、最も強い意思表明となる」(朝日新聞4月19日付朝刊記事より引用)。紙面からは、「学者たちは、怒っているぞ」という記者からのメッセージが強く伝わってくる。それを受けて、政府はとりあえず「改正法案」は、国会への提出を見送ることを決めた(前掲同紙4月21日付朝刊記事参照)。ただし、今回は見送るが、次回は「見送る」という道はないぞ、と権力は学者を威嚇しているように思える。

 そもそも、学術会議会員任命拒否問題は、菅義偉元首相がかなり意図的に仕掛けたものだろう。学術会議は、人事でデッドロックに乗り上げているように見える。しかし、表向きには、「学の独立」問題だ。それだけにこの問題は厄介だ。継続して、監視したい。

 学術会議の、この怒りの源泉は、改正案が、「外部の有識者による会員候補者の『選考諮問委員会』の(新たな)設置」というくだりだろうと思われる。自分たちが最高のレベルと思っている学者にとって、何より鬱陶しいのは、「屋上屋」を重ねられることだろう。まして「第三者が会員の人事に介入」するならば、「反発が相次ぐ」のは、目に見えているというものだ。学術会議が政府に突きつけた勧告が、「18日の総会で全会一致で決議」(前掲同紙)されたのは、宜なるかなということだ。学術会議の独立性こそ、最優先で守られるべき原理だからだ。学者、つまり専門家の議論は、専門家の間で十分に検討させなければならない。時の政権の意向を反映させるような専門家の意見など聞かされても困るだけだ。高齢化、少子化、医療、環境、食糧、原発、エネルギー、AI(人工知能)、軍事研究などなど、専門知の独立性、自律性など、専門家の力量が問われる時代を私たちは生きている。学術会議の問題は、私たち個人個人の生命や暮らしに直結している。学術会議の独立性は、国民の言論表現の自由を守り抜くために、民主主義のために、必須のことである。「曲学阿世」を生み出してはいけない。

★ ロシアの「隠れ動員」

 ウクライナのロシア軍に対する反転攻勢が、近づいているように感じられる。ウクライナへの侵攻を続けているロシアでは、プーチン政権による「隠れ動員」の動きが強まっているという(朝日新聞4月23日朝刊記事参照、一部引用)。

 「隠れ動員」というのも、プーチンらしい、姑息で、隠微なやり方に思える。そのやり方というのは、職業軍人(現在までの「動員」システム)採用ノルマを直接各自治体に課すことで、政権の「動員」働きかけを見えにくくする。

 応募者には、報酬やキャリアに対する厚遇を強調するというものらしい。
 *一時金(19万5000ルーブル=約32万円。以下、ルーブルで明記する)
 *作戦(手当か)、(侵攻)地域で、月:16万〜29万ルーブル、
 *同じく(手当か)、モスクワ市から、月:5万ルーブル。
 *参加後の職業紹介、
 *子ども(手当か)、1人あたり、月:1万8770ルーブル、
 *近くの幼稚園入園、
 *学校の朝食・昼食無料など。

 幼稚園や学校、病院、博物館、劇場、ショッピングセンターなどに対しても平気で空爆攻撃するロシア軍も、こうやって「軍事費」の細部を点検して行くと、意外と小市民的というか、残虐なプーチンらしからぬ政策決定の小心さがうかがえるというものだ。

 「ボクのお父さんは、戦争に行っちゃった。お陰でボクは、家の近くの幼稚園に入園することができた。それで良かったのかな?」

 これで、応募者の「月収は少なくとも21万ルーブル(約34万円)になるという。ロシアの平均月収は9万円程度、モスクワでも11万円程度と比較すれば良い。モスクワ市民の平均月収の3倍程度ということか。しかし、命あっての物種だ。小心で残虐なプーチンは、自治体の背後に隠れて、手首から先だけを出して、指で左を差したり、右を差したりして「命令」しているように見える。ロシアの大規模採用キャンペーンが力を発揮するか、ウクライナの反転攻勢が力を発揮するか。

 ロシア国防省は、2022年9月のロシア軍の「戦死者を5937人と発表して以降、更新していない」という。フェイクニュースで全身を飾っているプーチンは、裸の王様だ。イギリス国防省は、「ロシア側の死傷者が最大で20万人になると推測しているというのに(前掲同紙)。

★ロシアの外相・記者「会見(演説)」

 「ロシアのラブロフ外相が、4月25日、アメリカニューヨークの国連本部で記者会見をした。ラブロフ氏は会見で、1時間以上にわたってロシア側の主張を繰り返した。ラブロフ氏は、ワグネルについて、次のように語った」。

 「スーダンの準軍事組織『即応支援部隊(RSF)』(略)についても言及。ロシアの民間軍事会社「ワグネル」がRSFに武器供与している可能性について、『ワグネルは軍事サービスだ。スーダンは使う権利がある』と正当化した」という(朝日新聞4月26日付夕刊記事参照、一部引用)。非合法でも正当化できる?それができるのが専制主義というものだ。

 ワグネルについては、この連載でも、何度か触れている。ワグネルは、プーチンの若い頃からの「悪仲間」・プリゴジンが創設した「非合法の会社」で、プーチンがしでかしたことの「後始末」をする組織。非合法の会社を現役外相が正当化する。国際社にあっては、大国が、「大人って、いい加減」と若い世代に言われるようなことを平気で堂々と主張し、実行するような場なのか。これでは、世代間格差は、地球上に広がる一方ではないか。

 プリゴジンは、ウクライナ侵略などで最近は戦争の表舞台にしゃしゃり出てきてプーチンとの間には、隙間風を吹かしているように私には見える。プーチン・プリゴジンは、従来「肝胆相照らす」悪の主従関係だったが、このところ、プーチンの判断力が冴えなくなって(ここは、執筆者私見)からは、不協和音的に大胆に自己主張を入れるようになってきたようである。

 「ロシア国内で非合法の民間軍事会社「ワグネル」の存在感が増している。ウクライナの激戦地を掌握したと(プリゴジンが)主張するなど、苦戦が続く侵攻に不可欠な存在とみなされ始めたためだ。囚人から戦闘員を募る手法をとり、現在ウクライナに配備している5万人のうち4万人が囚人という(朝日新聞デジタル版より引用)。

 「ロシア民間軍事会社『ワグネル』のトップ、プリゴジン氏は(2月)9日、今後ウクライナで戦う戦闘員を国内の囚人から徴集しない方針を明らかにした。過去9カ月にわたり刑務所から多くの戦力を供給してきた戦略の転換を意味するとみられる」(2月10日 CNNデジタル版より引用)。

 国の徴兵計画を非合法の民間会社のトップが、発表する。ロシアという国は、どうなっているのか。「動員」は、国の業務だが、「隠れ動員」で、実務は自治体まかせ、「動員不足」の補充は、非合法民間会社を使って、囚人から徴集していた。ウクライナの反転攻勢の予兆を前に、囚人徴集の代わりは、どうするのか?

 プーチンもプリゴジンも、場当たり的だ。専制主義の連中は、なんでも自分本位で思い通りに決める習慣がついているから、精査や熟議などとは無縁、無関係と思っているのだろうか。そもそも見通しなど立てるのが下手なのではないのか?

 プーチンの戦争の仕方なども、下手くそじゃないのか。いや、ロシアのショイグ国防相など、3回も屈辱的な「撤退」を演じているのに失脚していない。戦争犯罪人・プーチンも非戦闘員を殺すばかりなのに、国軍の最高責任者の地位を奪われないじゃないか。負けを認めないトップなど、戦争の指揮をとる資格なしだ。殿将こそ、真の軍師(指揮官)だろう。軍師無き大国軍。ロシア国民の本音は、本当にどうなのか。今でも、祖国の危機論を信用しているのだろうか?

★中国は、何を考えているのか

 ウクライナのゼレンスキー大統領は、4月26日、中国の習近平国家主席と電話で協議した。ウクライナ側からの要望で実現したという。ロシア軍のウクライナ侵攻後、両首脳による協議は初めて。中国外務省によると、協議で習氏は、「責任ある大国として、対岸の火事を傍観することも、火に油を注ぐこともない」と強調。「核戦争に勝者はいない。各国は冷静さと自制を保つべきだ」とも語り、ロシアを念頭に核使用に反対する姿勢を示した」(朝日新聞4月27日付
 朝刊記事参照、一部引用)というが、原則論を繰り返しているだけ。

 当たり前だろう。まだ、そんなことしか言わないのか。この大国の大人は大耳だが、口は小さいようだ。聞くだけ。「電話協議で、両首脳の和平をめぐる意見が一致したかは不透明だ」と記者は書く。この記事は、翌日(4月28日)の朝刊に続報が掲載されたが、中国とウクライナの思惑と隔たりが浮き彫りになる。ちょっと二人のキーワードを整理してみよう。

 ウクライナ:ロシア軍の、撤退 → 停戦・和平。
 中国:ウクライナとロシア、(中国の仲介)・対話・停戦 → 和平。

 ロシア国内には、「(電話協議をした)中国はゼレンスキー大統領の正統性を認めた。ロシアの外交的な敗北だ」(プーチン政権に近い政治学者のセルゲイ・マルコフ氏)との指摘もある」と、北京駐在の朝日新聞高田正幸記者は記事の最後に付け加えた。

★ 朝日新聞世論調査・政権交代
 
 朝日新聞は、小選挙区制について全国世論調査(2月末〜4月中旬、郵送。
 3000人対象で、有効回答は、1967人)を実施したという。

 記録(抄録)だけ残しておこう。

 *小選挙区の是非/よい:53%、よくない:37%。
 *政権交代/繰り返される方が良い:54%、そう思わない:39%。
 *野党はなぜ政権を取れないか/批判ばかり:58%、現実的な対案の政策を掲げない:54%、離合集散繰り返すばかり:48%ほか(略)。

 以上。詳細は、朝日新聞4月28日付朝刊記事)。

★★ ヤジVS暴力(権力)と抵抗VS侵略
 5月3日の「憲法記念日」に関連して、マスメディアでは、安倍元首相の暗殺事件・岸田首相の演説妨害事件と暗殺未遂事件という「テロ」が続いたとして、「表現の自由」をテーマにした特集記事が組まれたり、特別番組が放送されたりしている。そこで、メールマガジン「オルタ広場」の今月号の「大原雄の『流儀』」では、日本国憲法が保障する「表現の自由」としての「ヤジ」を含めた「発言権」の問題を考えてみたいと思う。

 この問題には、2つの課題があると私は思っている。いつもと違った観点からこの課題を考えてみよう。

 ①ヤジは、憲法によって表現の自由として保障された発言権か。
 ②街頭演説を仕切るのは、政党か。

 朝日新聞の取材によると、衆参補選の選挙運動が行われていた大分選挙区では、4月16日、岸田首相が大分県佐伯市の青果市場に設けられた臨時の街頭演説会場で候補者の応援演説をした。この際、青果市場の入り口には、以下のような注意書きが貼り出されたという。

 「ご参加者の皆様へ
 プラカード等の掲示は禁止 ヤジ等参加者の迷惑になる行為の禁止
 係員の指示に従っていただけない場合ご退場いただく場合がございます
                             主催者 」
 政治学者は、「テロが続けば、(略)治安維持権力が大きくなる」と指摘する。

「テロの模倣連鎖が起きた」(政治学者)。

 そして、市民側も「『仕方ないよね』という空気で誰も文句を言わない。(略)治安維持の強化を無批判に容認していけば、(略)ものが言えない社会に成っていく」と懸念する」(前掲同紙より引用)。この写真を見たジャーナリストは、「暴力と言葉による表現を一緒くたにしてはいけない。表現の自由を奪ってはいけない」と投稿したという。「演説を聞く権利」「反対意見の表明は別の場所でやればいい」などという反応が返ってきたという。こうした反応について、ジャーナリストは、「街頭演説は市民にとって、賛同も異議申立ても、政治家に直接届けることができる数少ない場」「自分が不快だと感じる意見でも、それを言うことを認めるのが表現の自由」だと持論を強調する。

 2019年、北海道の札幌市で、安倍元首相が街頭演説中、それを聞いていた聴衆の2人が「抗議のヤジを飛ばし、警察官に体をつかまれるなどして排除された」という。北海道を相手に慰謝料を求めて提訴した2人に、去年の3月札幌地裁は、「表現の自由を制限した」と認定した。北海道は控訴し、6月に判決を迎えるという。この一連の記録を取材し「ヤジと民主主義」というドキュメンタリー映画を製作した監督は、「ヤジは迷惑だという意識自体が、表現の不自由を生み出している」と危惧している。

 演説会場で即興的に発せられるヤジも、演説会場であらかじめ認められた発言も、演説会を妨害しないのであれば、演説に対する参加者の反応であり、民主主義にとって、有意義な発言だと私は思う。

 街頭演説会を仕切るのは、選挙の党派性を考えれば、演説会を主催する政党だろうと思うし、警察が「仕切り」に乗り出してくるのも、あらかじめ主催者から要請されていることだろうから、警察は、警護対策のほか参加者の発言権を阻害することなくその範囲内で主催者に協力して対応すべきなのではないか。

 ウクライナ戦争を見ていると、ヤジと権力(暴力)との関係は、侵略戦争における抵抗と侵略の関係に准(なぞら)えて見てみると実相が浮き彫りになってくるように思える。弱者(民主主義の少数派)は、「ヤジる」あるいは、発言することで、少数意見を強者(民主主義の多数派)に伝える。ヤジることを少数派の権利として認めるべきであろう。ウクライナ戦争で言えば、軍事力的に弱者のウクライナが、抵抗者として軍事力の強者であるロシア軍に対峙して、国際社会(民主主義の多数派)の軍事支援など協力を得て、戦っている。少数派の意見や人権が尊重される時、民主主義は初めて輝くと私は思う。

 この問題については、6月の札幌地裁判決を注目したい。

ジャーナリスト(元NHK社会部記者)

(2023.5.20)
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