【コラム】大原雄の『流儀』
★★ 四代目市川猿之助のこと(2)
大原 雄
★ 承 前
今の歌舞伎界を支えている役者たちは、世代交代が激しい時期にさしかかっている。私たちが長年馴染んだ大名跡の松本幸四郎も、市川團十郎も、中村雀右衛門も、中村芝翫も、中村鴈治郎も、看板はそのままでも、豪華な衣装は、すでに息子たちに引き継がれている。中村吉右衛門、市村羽左衛門、中村歌右衛門、坂田藤十郎、中村富十郎などは、看板も空位のままだ。年齢を超えて巧みな演技で頑張っているのが、松本白鸚、尾上菊五郎、片岡仁左衛門、坂東玉三郎などであろう。中村勘三郎の名跡は、息子が引き継いだものの若くして病死してしまい、現在は空位になっている。
市川猿之助も、謎多き、奇妙な事件か事故(「四代目市川猿之助」と呼ばれる人気歌舞伎役者が、名前の前の「四代目」を剥ぎ取られ、「市川猿之助容疑者」と、名前の後に「容疑者」が強引に付けられ、母親自殺の「自殺幇助」容疑で逮捕されるという前代未聞の「事件」が起きた*。ここでは、暫定的に、仮称「猿之助問題」としておこうか)に見舞われて、大変なことになっている。特に、5月18日に発生した「猿之助問題」は、司直の手が入り、慎重な事情聴取が続いていると言われていたので、週刊誌やワイドショー、SNSで噂される情報には、できる限り触れずに、「歌舞伎界と澤瀉屋」というような視点に絞って、いろいろ考えてみたいと思って、前号では、「四代目市川猿之助のこと」というタイトルで書き始めた。司直は、6月27日、喜熨斗(きのし)孝彦という本名も伝えながら歌舞伎役者「市川猿之助容疑者」という人定で逮捕に踏み切り、捜査を軌道の載せたことになる。4代にわたる猿之助役者の中で、当代は私が最も関心を持つ猿之助なので、そういう視点も入れて書いてみたい。私が、司直の情報でいちばん解せないのは、次のような情報である。
「週刊誌報道をきっかけとして家族会議が行われて、『みんなでさよならすることにしたい』という趣旨の話をしたという」(朝日新聞6月28日朝刊記事引用)
内容である。みんなとは? 誰がそういう判断をしたのか。父親の段四郎が伝えられるように寝たきりで、認知症も発症しているなら、意思確認はかなり難しいのでは無いか。父親は、自殺の意向をきちんと表明したのか。表明できたのか。猿之助のパワハラ、セクハラの記事だけで、「家族の心中事件」、そういう発想になったのか。なるとすれば、提案したのは、誰か。自殺の段取りをつけたのは誰か。猿之助本人か。母親か。家族の中に、長年の老・老介護で疲弊している人がいたかもしれない。わからないことが多過ぎる。
澤瀉屋とか市川家(成田屋)とかという前に、現在の歌舞伎界の大黒柱を背負っている立場の人気役者が、それも自分の名跡を看板に書き入れた「明治座創業百五十周年記念 市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の中日に興行主に多大の迷惑をかけることになる「私事」(家族の心中事件、両親を巻き込んだ老・老介護の果ての心中事件)を敢えて実行するのかな、という疑問である。特に、四代目猿之助は、当代の歌舞伎役者の中でも、人気ナンバーワンクラスで集客能力も抜群、女性客も多い、演技は抜群。立役も女形もできる、若手役者に慕われていて信望もあり、指導力も優れている。そして何より、澤瀉屋、市川家というセクショナリズムに落ち込まず、歌舞伎界全体、あるいは歌舞伎そのものを発展させて、後世に引き継ごうという明確な意思を持って、日々、歌舞伎道に精進するというようなポジティブなタイプの役者が、「いちばんやらないこと、やってはいけないこと」を敢えてやってしまったという印象が強いからである。週刊誌が役者の私事、あるいはセクシャルな性向について書いたからと言って、猿之助の命にも匹敵する「レゾン・デートル」をぶち壊すようなことを実際に行うだろうか?
私はこの疑問を解かない限り、メディアの論調のように情報を発信することはできないと考えているからである。
今回は、前号に続く第2回目の連載だが、当面、猿之助情報が、週刊誌やテレビ、SNSなどで溢れ流ように出てくることだろうから、猿之助を巡る澤瀉屋の情報を私なりに整理するという規定路線に則って記述することで、連載2回目の今回で、ひとまず「了」とするつもりでこれを書き止めておきたい。猿之助を巡る事態に動きがあれば、続きを書きたいと思っている。公開できる資料が少ない中で、歌舞伎の常識をベースに推理を巡らしてみたという次第である。
四代目市川猿之助(本名・喜熨斗孝彦と本名が明らかにされる)が、母親の自殺幇助の容疑で27日、警視庁に逮捕された。現役の歌舞伎役者が、公演の舞台から引き剥がされるように「逮捕」されるという異常な事件である。初代の市川團十郎が舞台の上で、弟子の生島半六に刺殺された事件が江戸時代にあったが、私から見れば、これに匹敵するような歴史的な事件であった。
贅言;1704(元禄17)年、初代市川團十郎が佐藤忠信役で大見得をきって極まった時に突然舞台に飛び出してきた生島半六が隠し持っていた刀で團十郎の脇腹を刺して殺したという事件である。半六は自分の息子がいじめを受けたことで團十郎を恨んでいたという話も残っているが、明確な証拠もなく、事件の真相は、未だに不明である。半六は直ちに取り押さえられ、お上に引き渡され投獄された。事件から1ヶ月半後、半六は獄中で死亡したというが、自殺説も残っている。「生島半六」という名前は、今も、歌舞伎界では誰も名乗れない「止め名(とめな)」になっている。
猿之助逮捕という情報は27日朝のNHKニュースで知らされた。すでに、猿之助は、40日間に及ぶ任意の事情聴取をされていて、この「オルタ広場」連載の「大原雄の『流儀』」でも、前号(https://www.alter-magazine.jp/index.php?go=HC6wKw)と今号で原稿を書いている通りである。
★ 伝 統 と 異 端
歌舞伎は、異端からスタートした芸能である。澤瀉屋は、前号で触れたように、明治期以降の宗家であり、代々の猿之助は歌舞伎界の異端児と言われてきたと歌舞伎の概説書などには書いてある。歌舞伎界の異端児となったのは、誰か。初代市川猿之助は、どうだったろうか。初代猿之助は、歌舞伎役者になろうともがき、伝統の歌舞伎の世界へ何とかして入り込もうとしていたが、15歳という若さ故、焦りすぎて門人と不仲になり、さらに師匠の許可を待たずに成田屋の看板演目である「勧進帳」の弁慶を宗家に無断で演じてしまい、1870年に破門されてしまった。以降、明治維新後の草創期の20年間という貴重な時間を歩むのに、回り道を余儀なくされた。旅廻りの一座で芝居をしたり、大坂の舞台に立ったりしていたという。
歌舞伎通史などに書いてある通り、歌舞伎の開祖は、誰でも知っているように出雲の阿国(お国)という名の女性芸能者(出雲大社の巫女)だったという。1572年生まれ、没年は不明。実は、お国は1607(慶長12)年、江戸城に招かれ、勧進歌舞伎を上演した後、そのまま、消息が途絶えたとも言われている。
この小論では、歌舞伎に馴染みがない人たちのために、歌舞伎の知識については、最小限の説明を随時説明しながら、前号に続いて、四代目猿之助問題を考えてみたいと思う。
お国は、出雲大社の神前巫女になり、大社勧進のため、諸国巡回をしていた。これが評判になった。お国は当時、京で「ややこ踊り」&「かぶき踊り」(男女乱れての集団舞踊)を始めたと言われる。これが、420年以上続き、芸能として現代の歌舞伎に繋がった。
名古屋山三郎の亡霊(男装のお国、傾奇者=かぶきもの)と茶屋の娘(女装の夫・三九朗)が共に踊ったのが「阿国歌舞伎」の始まりと言われる。
歌舞伎・前史/阿国歌舞伎:男女の集団踊り。1603年以降。
当時の茶屋遊びを濃密(猥褻)に戯れる、エロチックな踊りであったという。したがって、歌舞伎は、誕生からしてエロティシズムとは、縁が深い。一座のほかの踊り手も、異性装を纏う。観客は、倒錯感に酔いしれる。最後は、「念仏踊り」のように出演者も観客も入り乱れて集団で、猥褻に、熱狂的に踊ったという。
「出雲阿国」という表記は、後世のもの。当時は、「出雲お国」などと口伝されたという。お国は、複数いたという説もある。京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。評判となり江戸城にも呼ばれ踊ったという。そして、上演の後、お国の消息が途絶えたと言われる。
不明の没年は、1613(慶長18)年、1644(正保元)年、1658(万治元)年など諸説があるという。消える直前の姿を見かけた最後のシーンは、皆、違うのかどうか? お国の二代目がいたとかいなかったとか。はっきりしないことがいろいろあるようだ。阿国(お国)は、出雲に戻り尼になったという伝承もある。出雲大社近くに阿国のものと伝えられる墓があるという。
京都の大徳寺の三玄院にも、同様に阿国のものといわれる墓があるという。阿国の墓は、夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されている。
お国一座は京での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業した。遊女歌舞伎、かぶき踊は遊里(色街)の遊女屋で取り入れられた。当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、遊女歌舞伎は、わずか10年あまりで全国に広まったという。
エロスは強しか?
遊女歌舞伎は、男装した遊女(客を演じる)と遊女との猥雑な掛け合いが、売りの芸能だ。遊女歌舞伎の舞台は、客にとっては遊女の品定めの場であったという。
しかし、1629(寛永6)年以降、江戸幕府は、風紀紊乱を幕政の取り締まりの対象とし始め、遊女歌舞伎は、寺社から締め出されるようになった。女人禁制、男尊女卑が、制度化された。
エロチックな芸能は、エロな集団での踊りをバックに風俗を乱したとされ、権力(幕府)が取り締まるようになる。
寺社:出雲の巫女・お国(阿国)→ 遊里:遊女歌舞伎→ 芝居小屋:若衆歌舞伎→ 芝居小屋:野郎歌舞伎(現代に通じる)へと芸能の表現は変遷した。
伝統は、異端として生まれ、伝統への組み替えを求める。巫女は、遊女となり、神とマグあうのだろうか。
遊女(女)歌舞伎:遊女の集団踊り。1629(寛永6)年以前。
遊女屋が経営する大がかりな遊女歌舞伎の興行が行われた。1608(慶長13)年、京の四条河原町で群衆数万人を集めている。踊る遊女は50~60人。当時最先端の楽器であった三味線の演奏に合わせて群衆が踊った。若者を引きつける現代の音楽イベントとあまり変わりがない光景ではないか。
人気があまりに高まって、ひいき同士の争いも頻繁に起きるため、取り締まりは厳しくなり、女性が舞台に立つと風俗が乱れるといういつもの理由をつけて、遊女(女)歌舞伎は幕府や藩によって禁止されたという。男と女、それにエロティシズムという美学がきらびやかさの色付けをする。阿国歌舞伎の時代、遊女歌舞伎の時代と変遷しても、「風俗の乱れ」は、変わらない。
1629(寛永6)年、風紀・風俗を乱すという理由で女歌舞伎は禁止された。
★ 「猿之助歌舞伎」の遠景は?
若衆歌舞伎:1629(寛永6)年から1652(承応元)年まで。
青年歌舞伎。女歌舞伎の青年版。三代目猿之助の発想に、スーパー歌舞伎への「芽生え」があったのではないか。
当時、若衆(わかしゅ)歌舞伎は、まだ前髪を落としていない成人前の若者たちによって演じられた集団舞踊。遊女(女)歌舞伎の代りとして登場した若衆歌舞伎が人気となる。江戸時代、成人男性は前頭部を剃り上げていた。このヘアスタイルを「野郎頭(やろうあたま)」と言った。若者は前髪があるので、「前髪(まえがみ)」と呼ばれた。この前髪の美少年に女装をさせて舞い踊らせたのが「若衆歌舞伎」。若衆というのは12歳から18歳くらいまでの青少年をいう。今なら、「ジャニーズ系」か。つまり、現在の学齢に当てはめるならば、中学生から高校生くらいの若者たちである。
若衆歌舞伎は、遊女歌舞伎の禁令が出た以降盛んになった。演目は、女装した若衆の踊りのほかに能や狂言をベースに時代に合わせて内容を工夫したものが演じられたという。小舞(能や当時の流行歌など短い文句に踊りを付けた)、拍子舞(能の科白を歌いながら、自ら舞う)。軽業のような動き、滑稽味のある道化方の役柄などのおもしろみが付け加えられた。スーパー歌舞伎の原型は、若衆歌舞伎に求められるような気がする。
しかし、遊女(女)歌舞伎から変わった若衆歌舞伎でも、やはり容色を売る部分がある。当時は、武家社会。武士の「衆道」は、戦国時代の遺風として黙認されていたのではないか。
セクシャルな問題を抱えていて、遊女歌舞伎と同じような理由で、若衆歌舞伎も、1652(承応元)年。遊女歌舞伎の禁止後、23年間という短い期間で同じく全面的に禁止されてしまう。幕府や藩は、若い遊女たちの女歌舞伎も若い男たちの若衆歌舞伎も警戒した。若衆も遊女も権力側は風俗の乱れという視点で同一視。エロティシズムを恐れ、彼らを監視していた。
具体的に想像力を発揮すると、若衆歌舞伎は、いわば宝塚歌劇団の青年版。歌と踊りを組み合わせたショーなど、遊女歌舞伎と似た内容のものが多かったという。さらに、若々しい青年劇団らしく、「とんぼ」や「綱渡り」、「組み体操」(大立ち回り)のような演技も取り入れたのではないか。若衆歌舞伎では若い男性の身体能力を活かして、こうした演技を積極的に取り入れたと思われる。現在も、大部屋の「立ち回り」の演技で使われている演出法で、舞台ではよく見かけるだろう。
贅言;「とんぼ」の種類:
とんぼには様々な種類がある。歌舞伎の舞台で、大部屋の立役たちが主役を囲んで立ち回り(チャンバラの場面)を彩るのが「とんぼ」である。
マスゲームのような「立ち回り」は、特に美しい。大部屋役者が舞台に大輪の花を咲かせる。
以下、「刀剣ワールド」のホームページで主な「とんぼ」について判りやすく説明していたので、参照・引用した。
用語 意味
返り立ち くるりと返ってポンと立つ
居所返り その場で返る
返り越し 他の人や物を飛び越しながらの宙返り
返り落ち 高いところから宙返りをしながら落下
三徳(さんとく) くるりと返って両手と片足で体を支える
平馬返り
(へいまがえり) 座ったまま回転する
このうち、「平馬返り」は、「源平布引滝〜義賢最期」の舞台で観ることができる。
贅言;「ケレン(外連)」/「宙乗り」、「早替り」、「本水(ほんみず)」(舞台で本物の水を使う、夏向きの演出)。
「外(け)」という字を使うように、「定式」に煩い歌舞伎から見れば、「奇をてらった」(差別的な評価を含んだ表現だが、…)というか、エンターテインメントも軽視しない演出を「スーパー」というのだろう。
「異端」として蔑む側に「伝統派、あるいは正統派」がいるとすれば、新しい演出法として積極的に取り組む「異端派、風雲派、あるいは革命派」もいる、ということだろう。古くからの歌舞伎の演技法。肯定的に評価され、特に澤瀉屋一門では、積極的に取り入れられている「宙乗り」は、その代表的な演技である。伝統を誇る家系の一座では、宙乗りもあまりしないし、たまに宙乗りと称する演出があっても、花道の宙空を行く「宙乗り」のほかに、私は、手斧(ちょうな・小型の斧)の上下を逆にして、簡易エレベーターのように使って片足乗りで木に登る様を見せる「音羽屋版」の宙乗り=「手斧ぶり」を観たことがあるくらいか。
それほど、澤瀉屋以外は、花道の宙空をまっすぐ進む「宙乗り」や客席の上を斜めに進む宙乗りを芝居にあまり取り込まない傾向がある。最近では、亡くなった中村吉右衛門の宙乗りを拝見したほか、幸四郎、團十郎など中堅の宙乗りも拝見できた。一方、若い役者の中には、宙乗り積極派も増えてきた。四代目猿之助は、そういう若い役者たちの求める歌舞伎改革運動の旗頭の一角を占めている。江戸時代の若衆歌舞伎は、澤瀉屋のスーパー歌舞伎の流れの中に見え隠れしている、というのが、私の試論である。
現代歌舞伎の源流・野郎歌舞伎:1652年以降現代まで。特に、元禄歌舞伎(元禄期を中心とした約50年間)は、成熟した歌舞伎の時代である。
成人男性だけの劇団が成立→ 現代の歌舞伎のスタイルに近づく。
歌舞伎は、容色を売り物にした女歌舞伎、若衆歌舞伎からリアルで、切ない写実的な芝居(野郎歌舞伎)へと軸足を移した。異端は、エロスに吸収された。野郎歌舞伎が遊女・若衆の歌舞伎を取り込む。不自由からの超克。この屈折した美意識こそが、日本の江戸歌舞伎では、かえって妖しい花を咲かせた。世界に冠たる江戸歌舞伎を日本の芸能は生み出した。歌舞伎の演目のジャンル分けは、以下の通り。
*江戸時代の古典歌舞伎(元禄歌舞伎など、伝統歌舞伎)。
*明治期以降:新歌舞伎。
*戦後:新作歌舞伎。スーパー歌舞伎もこちらのジャンルに入る。
女歌舞伎・若衆歌舞伎が、江戸時代、幕府によって早々と禁止された。歌舞伎を存続させるためには、なんとか成人の男だけで遊女も若衆も演じ切って、歌舞伎の上演活動を続けなければならない。そこから、男性が女性を演じる「女形・女方」が登場するようになる。女方こそが歌舞伎の「時分の華」である。
年老いた男性が、うら若き女性を演じる。歌舞伎座では、銀座通りを歩く若い女性よりも、もっと、女性らしい男性が、舞台の幕の裏側にいると言われるくらいだ。中村歌右衛門、中村雀右衛門、坂田藤十郎、坂東玉三郎など。すでに物故した人もいれば、今も、優れた容色を保っている人もいる。
江戸歌舞伎における女方の成立こそ、歌舞伎の本道であると思う。阿国歌舞伎から続いている茶屋遊び 、遊里通いなどの風俗描写の芝居や踊り。能、狂言、人形浄瑠璃などほかのジャンルの演目を歌舞伎に活用した演目の巧みさ。芝居を中心に、物まね、弁舌術(雄弁術、早口言葉?)などが演じられ、元禄歌舞伎(17世紀後半〜18世紀初め。)の基礎を築いた。短い一幕もの、いわば「短編小説」も工夫されれば、 小舞、拍子舞などの舞踊もストーリー性を取り込んで豊かになり、引幕(定式幕)も考案され、人形浄瑠璃にも学んで「続き狂言 (多幕物)、いわば「長編小説 」も発生し、それに応えるために廻り舞台も工夫された。歌舞伎は、女歌舞伎、若衆歌舞伎など禁じられた要素をも巧みに生き返らせながら江戸時代を通じて、江戸の庶民の芸能としてたくましく生き続けることになった。
歌舞伎は、やがて総合芸術として完成されるのが元禄年間(17世紀後半〜18世紀初め)である。 江戸の歌舞伎を代表する役者であるとともに、自ら「三升屋兵庫(みますやひょうご)」の名で芝居の台本も書いて、力強く豪快な、荒事という江戸歌舞伎の表現様式を確立させたのが、初代市川團十郎だった。
「荒事」も初めは、異端であった。上方歌舞伎の「和事」は、「伝統」であった。伝統に飽き足らず、和事は、江戸へ流れた。成田屋・市川團十郎家は、江戸歌舞伎の宗家と言われる所以である。江戸風和事は、「助六」に結実し、時空を超えて現代に繋がったのである。「助六」は、原作者不詳。芝居小屋の皆が表も裏も、役者もスタッフも、燃えに燃えながら、新しい元禄歌舞伎の不朽の演目を生み出したことだろう。助六は、この時代の、いわばスーパー歌舞伎。
成田屋の歴史は、ざっと、360年の伝統を誇る。これに対して、澤瀉屋・市川猿之助家は、ざっと、170年の伝統。190年の差がある。しかし、舞台に立つ時は、役者は、横一線ながら、役者の立ち位置が自ずと決まる。実際は、立役=男は最前線、女方は、一歩下がって立役の背後に回る。同じ市川家を名乗る成田屋と澤瀉屋だが、観客席からは見えない幕内などでは葛藤があるのではないだろうか。現在は、ないかもしれないが、歴史的な経緯を整理すると、あるポイントにぶつかるように見える。これが、今回の私の論点の一つである。
成田屋は、團十郎を頂点に海老蔵、新之助を軸とする。團十郎は、十二代目の死を受けて、息子の海老蔵が十三代目市川團十郎を襲名した。
澤瀉屋は、(猿翁は、隠居名)、猿之助を事実上の頂点に段四郎、團子を軸とする。当代の四代目猿之助が、今回のことで歌舞伎を上演できなくなれば、歌舞伎界には、大きな穴が開くことになり、いろいろ事情が変わってくる。
★ 澤瀉屋と市川家(成田屋)
歌舞伎の市川家は、成田屋(團十郎系)、高島屋(左團次系)、澤瀉屋(猿之助系)など役者の家系がいくつかぶら下がる。
江戸歌舞伎の宗家(源流になるような家系)は、成田屋。これは、誰もが認めるだろう。初代の市川團十郎は甲州の出だ。甲州から江戸に出てきた。初代はいつから市川家の宗家代表と言えば良いのか。生まれた年か。評判になった年か。いつなのだろうか。判りにくい。大雑把に編年を掴むために、初代の生年をそれぞれ始点として便宜的に区別することにした。その方式を使うと、
成田屋は、1660年から現在(2023年)まででも、初代以来十三代目團十郎まで、ざっと360年を数えることになる。代々の團十郎も苦労をした。舞台で弟子に殺されたほか、自殺したり、病死したり、若死にが目立つ。
中村屋は、どうか。十八代目勘三郎まで。1597年から現在まで、ざっと420年を数えることになるが、その道は平坦ではない。中村座は、幕府から上演を許可された江戸三座の一つだが、当初は、「猿若座」であり、初代中村勘三郎は猿若勘三郎と名乗っていた。
「猿若」とは、市川團十郎が「荒事」で、お家の芸を確立したように、お家の芸の名称であったという。猿回し、モノマネ、弁舌術(早口言葉、雄弁術?)など、江戸歌舞伎の特色を示す芸種であった。中村座は、幕末期の新しい波に乗り切れず、没落した。中村座は廃座となり、中村勘三郎という名跡もなくなった。十六代目で名跡を継ぐ者がいなくなったのだ。他家に名跡を預ける、「預かり名跡」となってしまった。
1950年、戦後になってやっと、三代目中村歌六の三男である三代目中村米吉が、十七代目として勘三郎の名跡を譲り受けて復活させたのだ。それに合わせて屋号も「中村屋」を名乗ることにした。代々が長いからと言って良いことばかりがあったわけではない。短くても苦労をする。
例えば、今回の澤瀉屋。そして、成田屋。
★ 成田屋:初代團十郎 1660年生まれ
★ 澤瀉屋:初代猿之助 1855年生まれ
生年比較だけでも、ざっと200年違う。
中村屋や成田屋が300年だ400年だと言っているのを横目で見ながら、新興の宗家は、時間を早回しさせてでも屋号に箔を付けたいと思うこと頻りであったことだろう。どんなに足し算をしても、百数十年とかの格差はある。だから、猿之助少年は、年数が足らない分を師匠の藝を無断借用したりして、破門させられたのだろう。風雲児とか革命児とかいうよりも、猿之助は初代を名乗る以前から「異端児」だったのかもしれない。足らなければ、他所から持ってきてでも、員数を合わせるというわけだ。そこで、破門20年。少年役者は、山崎猿之助、松尾猿之助ほかの名前で、旅の芝居を廻り、大坂の舞台に立ち、この間に身をつけたのが、藝種を増やすこと。若衆歌舞伎で流行った外連、宙乗りなど皆が手を出さない異端の藝種も積極的に取り入れたかもしれない。磨き上げた異端の藝を持って、師匠の成田屋宗家(正統)・九代目市川團十郎に詫びを入れて破門を解かれ、一門に復帰した。
1890年、35歳、師から破門を解かれたのだ。それを機に彼は初代市川猿之助と名を改め、澤瀉屋という屋号を名乗り、以後、腰を落ち着けるようになる。破門役者から芸熱心な澤瀉屋・初代市川猿之助となった。その後、猿之助は市川一門の番頭格(一門を、いわば統括する事務局長格)の役者となったという。勧進帳の弁慶は、後に初代猿之助の当たり役となる。
初代市川猿之助の名跡を創設した猿之助。以後20年、市川一門の中に、澤瀉屋の基礎を作る。二代目市川猿之助の名跡は息子に譲り、自分は二代目段四郎を名乗る。その後、裏方でも貢献、九代目亡き後の宗家不在(十代目が空いてしまった)の成田屋を守り抜くのである。異端から正統へ、伝統の江戸歌舞伎へと、本卦還りしながら、澤瀉屋の猿之助は、二代目&三代目にして大名跡の仲間入りを果たした。二代目猿之助は、欧米に留学し、新しい時代に合った、新しい形の歌舞伎を模索した。孤立を恐れず。独り荒野を行く気概。外連歌舞伎の復活。古典劇の再創造。歌舞伎の「風雲児」「革命児」と呼ばれた。次いで、三代目猿之助は、二代目が遺した新しい歌舞伎への熱情をさらに熱くたぎらせた。猿之助の歌舞伎は、伝統歌舞伎を改革し、「猿之助歌舞伎」と呼ばれるようになった。さらに伝統歌舞伎を超える独自の演出の「スーパー歌舞伎」を工夫して創設した。しかし、晩年は病に苦しめられた。息子を猿之助という役者には育て上げられなかった。甥の二代目市川亀治郎に四代目猿之助の名跡を託すしか選択肢はなかった。というか、二代目亀治郎は猿之助になるために生まれてきたような歌舞伎役者である。市川猿之助というと、高齢者にとっては三代目を思い浮かばせる人が多いと思う。それほど、三代目は、存在感があったのだが、四代目猿之助は、このまま精進していけばいつかは三代目に追いつき、追い越しする独自色を持つ猿之助役者であったと思っている。ただし、今回の事件、あるいは事故が、猿之助の名前を「汚した」から、以後、「廃止」、「使用不可」という声が上がっていると言われるが、もう、一方では、積極的に「止め名(とめな)」にして、いわば、「永久欠番」にするという意見もあるらしい。
贅言;芸能界・角界などで、名人上手と言われた人の芸名を誰にも継がせないで止めてしまうこと。凍結だ。 落語界では古今亭志ん生、桂文治など。 相撲の四股名では雷電、玉錦、双葉山などが、止め名だ。
また、歌舞伎役者では、その芸の家柄の最高の芸名をいうと説明しているようだ。1991年に三代目實川延若が亡くなった時、「延若」の名跡を三代目で止め名とすると遺言を残していたことから、以後、「延若」を襲名した役者はいない。ほかに事実上の止め名となっているのは、歌舞伎史上有名過ぎるものとして、女方の「吉澤あやめ」、初代團十郎を舞台で刺殺した「生島半六」などがある。
澤瀉屋はこういう起伏のある先人たちの歴史の流れの中に立たざるを得ないが、当代猿之助、つまり四代目猿之助も、若くして「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」の「ワンピース」で、新境地を開いた。三代目とは味わいが違う部分もあるが、猿之助代々では、三代目に並ぶ存在感のある猿之助役者である。それだけに、いずれ、歌舞伎役者・猿之助の活躍の場を作れないものか血思っておりが、事件、事故の扱い次第では、「止め名」になってしまうかもしれない。
コミックの原作を歌舞伎に化けさせた四代目猿之助。歌舞伎を超える照明の使い方を工夫した。舞台のスクリーンに映像を映した。音響も歌舞伎らしくないほど激しかった。それでいて廻り舞台やセリ・スッポンなど伝統的な舞台装置は活用した。歌舞伎の演出にこだわらずに、それでいて、歌舞伎の古い演出にも、新しい息吹を吹き込んだ。「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」は、歌舞伎を超え、歌舞伎の新境地という道のポイントに着地する。歌舞伎役者ではない役者(俳優)は、そういうイマジネーションを観客に抱かせた。「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」は、外連歌舞伎の復活、若衆歌舞伎の再現、江戸歌舞伎と現代歌舞伎の融合という一面を持つことも明らかにした。
★ 猿之助は、なぜ、歌舞伎を投げ出したのか?
歌舞伎公演の中日、「明治座創業百五十周年記念 市川猿之助奮闘歌舞伎公演」という大看板を掲げた劇場で、猿之助は歌舞伎を投げ出した、としか言いようがない行動に踏み切った。その真意は何なのか?
まだ、まだ、謎に包まれている。
明治以降、欧米からの様々な圧力(外圧)は、歌舞伎界にも吹き付けてきた。国劇としての歌舞伎劇を俎上に載せて「演劇改良運動」(活歴物の上演)を目指す成田屋・「劇聖」と呼ばれた九代目市川團十郎に対抗する澤瀉屋・初代、二代目、三代目の猿之助。歌舞伎はおもしろいものだ、というメッセージが猿之助代々の存在感には皆、共通して埋め込まれているように思われる。その影が、四代目の歌舞伎観にも影響していないか。スーパー歌舞伎は、まだ、猿之助歌舞伎の流れに添っているが、「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」は、違うのではないか。猿之助歌舞伎から脱却した上で、エンターテインメントも軽視せず、より高みの宙空に花を咲かせようとしているように思えて仕方がない。その挙句、舞台昇降装置に衣装が引っかかり、猿之助が大怪我をしたことがあった。頑張って、リハビリに努め復活した。執念の役者・四代目猿之助らしさが溢れているので、文章を調整しながら長いが引用しておきたい。今、司直のスピーカーを通して、聞こえてくる猿之助の言質は、猿之助らしくないと思う。3年前の記事だが、今回の事件、あるいは事故を語る本人の語り口としては、似たような状況なのかなと思い、引用させてもらう。司直の取り調べ内容の「リークだか、発表だか」では、参照・引用するにも大きな違和感がある。例えば、6年前の怪我をした時と今回の「心中未遂」問題との、騒つくような違和感を比べてみてください。
(以下、「スポニチアネックス」2020年7月26日記事より引用)
*猿之助は2017年10月9日、東京・新橋演舞場で「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)/ ワンピース」に出演中、花道の舞台昇降装置(スッポン)に巻き込まれて大怪我をした。左腕を骨折する重傷だった。
事故直後、病院にお見舞いに行ったという知人は猿之助に対面した時のショックを次のように語っている。「見た時に『ああ、終わったな』と感じた」という。
猿之助本人は左頬をさすりながら「(ここに)ひっかき傷があって、衣装がグッと花道の「スッポン」(装置)に挟まってしまった。このまま首を絞められた状態になって、もうちょっと行ったら首が飛んでいた状態」だった。数センチずれていたら命が危険な状況だったと言ったという。
さらに「挟まった時には『お坊さんになろう、出家して』と思ったという。でも腕がついていたので、これは『役者を続けろ』ってことだなと思った。必ず治ると思ったのですよ」と当時の心境を語ったという。
いちばん考えたのは、共演者や周りのスタッフのことだったという。「僕が事故にあってしまい、周りは阿鼻叫喚(あびきょうかん)だったのです。みんなが僕を助けようとして。黙っていても(事故が)自分のせいだと思いこんでいる人ばかりだし、追い打ちをかけることになれば、彼らの心の傷の方が深いわけだし。(舞台の)操作盤担当の人は「装置」を動かす度に(今後も、事故のことを)思い出すだろうし…」と事故から20日後に出演をした時のカーテンコールでは、敢えて、事故が起きた花道のスッポン(切穴)からせり上がって舞台に登場したという。これもスタッフへの配慮だったという」(以上、引用終わり)。
ここでの猿之助の対応は、スタッフやファンを気遣い、明るく「悲劇」を語る。いつものイメージ通りの猿之助だと思えるので、違和感は無い。
それほど日頃から舞台を大事にする四代目が、今回は、結果的に歌舞伎の正念場である公演を自らの事情で投げ出してしまった。自分の看板で掲げた公演を投げ出したのである。すでにこの役者は、自殺している。いったい、四代目猿之助になにがあったのか。
猿之助代々の系図をメモ入りで、再度整理しておこう。見えてくるものがあるだろう。澤瀉屋の二枚看板という割には、猿之助と段四郎のアンバランスが浮き上がってくるのではないか。己の精進で輝く猿之助代々と薄闇に沈む段四郎代々。
猿之助は2017年10月の事故から3か月後、歌舞伎座の新春大歌舞伎で舞台復帰を果たした。この年、猿之助は4月には大阪松竹座で「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)ワンピース」を上演した。その際、猿之助は次のように話したという。
(以下、引用)
「完治はしていないですよ。腕が今まで通りには動かない。それを受け入れてしまえば別にどうということはない…。僕より大変な人はもっと世の中にいますから」と話したという」。(以上引用)
冷静沈着な人だと思う。企画者としてはアイディアマンであり、役者としては、演技派で女形も立役もこなせる「兼ねる役者」だし、役者もスタッフも必要な人材を見抜く力のある有能なプロデューサーであった。まるで、この世に芝居を生み出すために生まれてきたような人だ。しかし、完璧主義者であり過ぎたかもしれない。
厳しく助言して、陰では恨まれたかもしれない。私だって、四代目猿之助という役者は好きだが、普段の生活の中で、心を許した「親友」になれたかどうかは、自信がない。
こうした猿之助だけに彼は「存在」もさることながら、むしろ、これから何年間か彼という役者が「不在」になるということの方が歌舞伎界に与える影響は大きいのでは無いかと私は思う。
今回のことだって、司直の手で検証されると、どういう結果が出てくるか判らないが、彼の肉声は司直のフィルターに遮られ、かき消されてしまう。司直を通さずに猿之助の肉声で語りを聞けれるようになれば、歌舞伎界やスタッフたち、さらに両親への気遣いは、鮮明に聞こえてくるのでは無いかと思う。
それまでは、四代目猿之助の肉声は、なかなか聞こえてこないだろう。
4人の猿之助。江戸時代からの伝統の芸を誇る歌舞伎の門閥の宗家役者たちに比べると、澤瀉屋の面々は、草創期の先人でさえ、幕末期か明治初期の生まれだ。百数十年の宗家といっても、明治期の宗家だ、門閥を誇る江戸期の宗家から見れば、澤瀉屋は歴史が浅いと思っていたのでは無いか。
そこに、澤瀉屋の悲劇の影がさしていないか?
★ 猿 之 助 代 々
初 代猿之助・二代目段四郎/破門・旅まわり* (同一人物)
二代目猿之助 → 初代猿翁/留学* (初代猿之助の長男)
三代目段四郎 (二代目猿之助の長男)
三代目猿之助 → 二代目猿翁* (三代目段四郎の長男)
四代目段四郎・死去* (三代目段四郎の次男)
四代目猿之助(当代)* (四代目段四郎の長男)」
★ 猿之助・澤瀉屋は、どうなるのか
初代市川段四郎は、出自不詳。歌舞伎の役者はしていたようだ。澤瀉屋の宗家は、明治期に入ってから九代目市川團十郎の弟子になった後の初代市川猿之助の方だろう。したがって、初代市川段四郎の方は、影が薄い。歴史的にも存在感が乏しい。澤瀉屋では段四郎と猿之助という二人の宗家がある。二枚看板を掲げた謎。さらに、将来の澤瀉屋を遠望すれば、次のような看板も見えていたはずだ。
五代目市川猿之助、前名:五代目市川團子。
だが、歌舞伎の未来についていちばん心を砕いているはずの張本人四代目猿之助がそれを自らぶち壊してしまった。
★ 猿之助、贖罪まで/澤瀉屋再生計画
1)猿之助の名跡は贖罪が済むまで、市川宗家預かり・凍結となるかならないか、決めるか決めないか、するのだろう。猿之助名跡は、その間世間から隠されるが抹消はしない。四代目自身は出家をして、刑期が終わるまでご両親の菩提を弔う修行の世界に入る。
2)澤瀉屋一門も、一門としては、猿之助の人生に合わせるように静かに暮らすが、
3)個別の役者は、それぞれの道を行く。五代目團子(三代目猿之助の孫)は、大学卒業後に向けて成田屋・市川團十郎預かりとする。
三代目市川右團次は、三代目猿之助を継ぐと思われていた旧「市川右近」時代(二代目市川亀治郎は、まだ、いなかった)に戻り、猿之助亡き後の澤瀉屋一門を陰で支える。
九代目中車は、それぞれの道を行く。
猿之助が、晴れて世の中に出ることができたとすれば、
五代目猿之助 三代目猿之助の孫(五代目團子)
五代目段四郎 三代目猿之助の長男(九代目中車)ほかと競合か。」
*三代目猿之助が、自分の長男(香川照之)を最初から、御曹司で育てていれば、四代目猿之助(当代)は、香川だったかもしれない。四代目猿之助(当代)は、二代目亀治郎のまま、亀治郎の名跡を大成させていたかもしれないし、本人は、昔からそれを望んでいるような発言をしていた。その方が幸せだったか?あるいは、四代目猿之助を襲名したからこそ、苦労を糧として有能な現在の歌舞伎役者になったのかもしれない。
★ 團 子 代 々 〜 五代目猿之助論 〜
「團子」、「だんご」?「だんこ」?何か、おもしろい名前だね。
いやこれは、「だんこ」と読むのだから、「断乎」やり抜くぞ、という使い方にある通り、目的や標的を貫徹するぞという強い意味があるのだろう。
猿之助叔父を尊敬していた断乎、いや、五代目市川團子。
叔父が突然起こした心中事件。身内の中から加害者と被害者を同時に出したというにが苦しい体験をいきなりさせられたのも辛いね。
團子代々の「團」の字は、市川家の團十郎の「團」の字。澤瀉屋の中でも、名跡に「團」の字の使用が許されているのは、團子だけ。九代目團十郎が名付け親。
★ 團子と猿之助の名跡
前 名(山崎猿之助、松尾猿之助ほか複数)→ 初代猿之助 → 二代目段四郎
初代段四郎 (出自不詳)
*初 代團子:二代目猿之助 → 初代猿翁
*二代目團子:三代目段四郎
*三代目團子:三代目猿之助 → 二代目猿翁
*四代目團子:四代目段四郎 (死去)
二代目亀治郎:四代目猿之助(当代) → ?
*五代目團子:(当代) → 五代目猿之助?
★★ スーパー歌舞伎・試論 〜 三代目から四代目へ 〜
三代目猿之助が考案した「スーパー歌舞伎」と四代目猿之助がさらに、改革した「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」とは、どう違うのか?
比べてみよう。
「スーパー歌舞伎」は、古典的な歌舞伎を否定しない。むしろ、古典歌舞伎をベースにしている。演出では、伝統的な下座音楽、幕、大道具、小道具、見得、付け打、化粧、隈取、衣装、外連(宙乗りなど)、廻り舞台、セリ(スッポンを含む)などの劇場装置などで舞台が大胆に再構築される歌舞伎である。
「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)では、これらの道具・装置に加えて、映像、音響、スポットライトなどの照明、加えて、歌舞伎役者が歌(主題歌、テーマソングなど)を歌う。歌まで使って、古典歌舞伎からの脱却・逸脱(スーパー)を目指す歌舞伎と言っても良いだろう。
ここでは、スーパー歌舞伎にとって、「何が、スーパーであるべきか」という設問で考えてみたい。
先代猿之助のスーパー歌舞伎は、役者からメッセージを発信するというイメージが強かった。例えば、「ヤマトタケル」では、「父子論」をテーマにしている。そのために歌舞伎の常識(定式、決まりごと)を敢えて逸脱する冒険に挑戦していた。
四代目猿之助の「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」の上演も、増えた。今回の東京・明治座での上演は、新作歌舞伎と古典歌舞伎のスーパー化を目指した2作品の上演であった。
昼の部(午前11時30分開演)は、「歌舞伎スペクタクル」と称された新作もので、「不死鳥よ 波濤を越えて —平家物語異聞— 」という外題の演目だった。
平家物語をベースにした平知盛の物語。「市川猿之助宙乗り相勤め申し候」というキャッチコピーが添えられている。
夜の部(午後4時開演)は、「三代猿之助四十八撰の内 御贔屓繋馬(ごひいきつなぎうま)」という外題の鶴屋南北原作の古典ものの上演である。「市川猿之助六役早替りならびに宙乗り相勤め申し候」というキャッチコピーが添えられている。猿之助が、相馬太郎良門など六役を早替りで演じるという外連の趣向だ。いずれも座頭の猿之助より若手の役者が目立つフレッシュな顔ぶれが売り物のようだ。若い役者たちは、猿之助兄さんの指導を受けて、張り切って舞台を勤めているだろう。
その歌舞伎公演の中日、「明治座創業百五十周年記念 市川猿之助奮闘歌舞伎公演」という大看板を掲げた劇場で、猿之助が命より大事と思っている歌舞伎を投げ出した真意は何か?
明治以降、国劇としての歌舞伎劇を俎上に載せて「演劇改良運動」(活歴物の上演が一つのモデル)を目指す成田屋・九代目市川團十郎に対抗する澤瀉屋・初代、二代目、三代目の猿之助。歌舞伎はおもしろいものだ。その影が、四代目の歌舞伎観に影響していないか。スーパー歌舞伎は、まだ、猿之助歌舞伎の流れに添っているが、スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)は、違う。猿之助歌舞伎から脱却した上で、エンターテインメントも軽視せず、いや、むしろ積極的に評価し、より高みの宙空におもしろみの花を咲かせようとしているように思える。
澤瀉屋のスーパー歌舞伎志向は、三代目猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」上演から始まった。「オグリ」「新三国志」などは、三代目猿之助の志向した「猿之助歌舞伎」の延長の上にある「スーパー歌舞伎」である。
「スーパー歌舞伎・Ⅱ(セカンド)」は、三代目猿之助からのテイクオフ作品である。四代目猿之助オリジナルの「空ヲ刻ム者」、「ワンピース」などから試行錯誤が始まった。「ワンピース」は、ついにコミックの原作をスーパー歌舞伎化した。それが成功したとは、言いがたい部分もあるかもしれないが、興行的には成功したと言えるだろう。若い役者たちは、猿之助兄さんの歌舞伎に参加したがった。四代目のテーマは、「父親論」、「男の友情論」、あるいは「愛情論」、「ジェンダーの仲間論」という辺りではないのか。特に、四代目猿之助は、皆で助け合って、何かを成し遂げようというメッセージを常に原点に持ち続け、いつも新しいスーパー歌舞伎作りのイメージにダブらせているのだろうと思う。観客へのメッセージ性は明確に浮き彫りになっていた、と思う。「ワンピース」終演後、新橋演舞場で観たロビーの人の波と翌日の歌舞伎座終演後のロビーの人の波の違いには、驚かされた。新橋演舞場では、ロビーに子どもの姿が目立った。家族連れだ。子どもがアニメ映画に集まるように、コミック原作を読んでいて、アニメ映画を見るように子が両親や年上の兄弟姉妹を連れてアニメ歌舞伎を見にくるのでは無いのか。翌日の歌舞伎座のロビーには、子どもの姿など一人も見当たらなかったのが、印象に残っている。いつもの高齢者と若い女性の姿が多かったからである。単独者か、二人連れが多いが、ここから先に広がる世界はなさそうである。まさに歌舞伎における時代の転換点を踏み越えたような生々しさの足跡が歌舞伎座ロビーの分厚い絨毯の上に印付けたような気がしたものだ。
今回の事故、あるいは事件は、何よりもリアルな四代目猿之助の人生の、まさに破壊である。四代目自身が演じた「自殺未遂」、母親を助けた「自殺幇助」という舞台は、なぜ演じられたのか。明治座公演の中日に幕が上げられたのか。
「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド))で演じられたことが、実生活では、なぜ、演じきれなかったのか。
以前から私は、「三代目のスーパー歌舞伎」の特徴は次のようなことだと思っている。
私なりに分析した三代目猿之助のスーパー歌舞伎の特徴を示す座標軸は、ふたつある。
① ひとつは、ほかの歌舞伎と区別される外見的な特徴。それは、宙乗り。早替り、廻り舞台と「セリ」などの積極活用(活動的な演出)、群舞(ダイナミックな動線)ともいえる大立ち回り、大部屋役者のとんぼ、大きな旗の活用。
② ふたつ目は、内面的な特徴であり、すでに示したように、明確なメッセージ
性のある科白の駆使。
猿之助スーパー歌舞伎は、400年以上続く歌舞伎の世界では、戦後の作品である「新作歌舞伎」のジャンルに入る。江戸期の幕末までの「古典歌舞伎」。明治期以降、戦前までの「新歌舞伎」、戦後作られた「新作歌舞伎」、というジャンル分けに拠る所の分類では「新作歌舞伎」ということである。
「スーパー歌舞伎」は三代目猿之助が命名した用語であり、澤潟屋・猿之助一門しかあまり上演しないジャンルなので、「スーパー歌舞伎」は、澤潟屋歌舞伎の演目群の一つである。澤潟屋・猿之助一門も古典歌舞伎や新歌舞伎、「スーパー歌舞伎」ではない新作歌舞伎も演じる。
「スーパー歌舞伎」でも、三代目猿之助は、歌舞伎へのこだわりは強いから、廻り舞台、花道、「セリ」などを伝統的な古典歌舞伎の演技・演出・演奏も継承する。その上で、ダイナミックな大道具の活用、「宙乗り(ちゅうのり)」など外連(けれん)と呼ばれるさまざまな奇抜さを狙った、つまり大向こう受けを狙った歌舞伎の演出も積極的に取り込む。
四代目猿之助は、現代劇的な照明・音響・映像・音楽(楽器)も活用、群舞に近いような派手な立ち回りも売り物、現代性のあるテーマ設定、「現代語」というか、現代の日常の言葉の重視。現代語の科白(新たな生世話=きぜわ=もの志向か)も大胆に取り組む。さらに、四代目猿之助独自の「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」では、歌舞伎役者以外の、ほかのジャンルの俳優も積極的に参加させている、などなど。歌舞伎を軸に現代演劇の新しい力も取り入れて総合的な演劇を目指しているように思える。その辺りの発想は、留学して歌舞伎の研究に勤しんだ二代目市川猿之助を彷彿とさせるではないか。
スーパー歌舞伎とは、従来の伝統的な歌舞伎の概念にとらわれずにそれを超える芝居という意味での「スーパー」であり、古典劇と現代劇の融合(例えば、科白も現代語)という意味での「スーパー」であり、演劇の他(た)ジャンルとの垣根をも具体的に越える(歌舞伎役者ではない役者を受け入れる)という意味での「スーパー」でもあるのだろう。
ここで翻って、考えてみた。南北や黙阿弥が。彼らが生きた当時の「同時代」に向けて作り出した歌舞伎も、もしかしたら、当時としては「スーパー歌舞伎」だったのではないのか。彼らは、澤潟屋・猿之助一門よりも古典歌舞伎にこだわり、古典歌舞伎の演目を書き換え、科白、所作などの点で、古典歌舞伎の「徹底化」=「スーパー化」(歌舞伎の外へのスーパー化)を狙っていたのかもしれない、というのが私なりの発見であり、発想である。
今回の猿之助「スーパー歌舞伎 Ⅱ(セカンド)」では、映像、音楽、照明など現代の「技術」を駆使して、スーパー化(歌舞伎の外へのスーパー化)を図っているが、役者の科白、所作などのスーパー化(歌舞伎の内へのスーパー化)をこそ図るべきではなかったのか。当代の四代目猿之助にも、歌舞伎を越える「スーパー化」よりも、歌舞伎味の徹底化に拠る「スーパー化」(歌舞伎の内へのスーパー化)をこそ、四代目猿之助には望みたい、と思っていた。「四代目よ、南北、黙阿弥にこそ、続け」、である。今回の事故、あるいは事件が、それを阻むことを懸念するや、切である。猿之助のチャレンジを阻むものが、四代目の身のうちから出てきたとすれば、残念無念極まりない。
その四代目が、結果的に歌舞伎の正念場である公演を自らの事情で投げ出してしまった。司直の『檻』の中に飛び込んで行き、自分の看板で掲げた公演を投げ出したのである。四代目猿之助になにがあったのか。まだ、私には判らない。
逮捕の日。四代目猿之助を乗せた車は、後部座席に設えられた臨時の幕が締め切ったまま。名優の最後の幕としては、あまりにも凄まじい。車は報道陣の間を縫うようにして所轄署の目黒警察署の駐車場へ入っていった。
カーテンコールもないままで。
(了)
編集部注:*7月18日に市川段四郎さんの自殺を手助けしたとして再逮捕されたと報道されています。
ジャーナリスト(元NHK社会部記者)
(2023.7.20)
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