【コラム】大原雄の『流儀』
★★★ 検察の勘違い
★★★ 検察の勘違い
★★★いきなり、引用。
抄録・「私の視点」10月2日付朝日新聞朝刊参照 弁護士 /中村和洋
★元検事の弁護士さんの寄稿がシンプルで良い!
「(略)。明治初期、日本の法制度の父」(略)、ボアソナードが、(略)拷問廃止を政府に働きかけた。」「成果」「特別公務員暴行陵虐罪で、現行刑法も受け継いだ。しかし、約150年経った今でも精神的な拷問を検察官が行っている。(略)被疑者の取り調べ、更には被害者その他の参考人の事情聴取について、全件、録音録画されるべきである。また、被疑者の取り調べについて、弁護人の立会い権を確保すべきである。(略)刑事司法は、真に近代的なものに生まれ変わることができるだろう。(引用終わり)。
何回か、読んだり、聞いたりした話だけれど、今回の袴田判決で、袴田さんが無罪になったことから、この勢いを利用して「再審法」を一気に改正しようという動きが活発である。
肉体の暴行は取り締まっても、精神の暴行は、150年間も取りこぼしたままになっているのが現状だからだ。
今回こそ、このようなことがないようにしたい。日弁連(日本弁護士連合会)が主張するように再審制度を人権を守る現代の価値観に合わせるべきなのだ。
袴田さんが、30歳で誤認逮捕され、さらに、死刑判決を受けた。再審制度の中でも救済されず、「袴田丸」は、大波の背に乗せられたり、一気に大波の背から谷底へ突き落とされたりしているうちに、声を失い、心を失いされてきたのだろうと思われる。その結果が、この人生だった。だが、袴田さんには、気丈な、弟思いの姉がいた。声も精神も奪われたが、弟は姉を失うことはなかった。袴田さんの人権は蹂躙されたが、姉の豪快な笑顔が袴田巌さんの命を守った。人権は蹂躙されても、負けはしなかったのだ。乗り越えたのだ。さあ、逆襲のときが来た!
私たちの目の前には、くっきりとした、真っ直ぐな道が見える。この道を歩こう。袴田さんも歩いた道、私たちも歩くしかない。先人の歩いた道。私たちはこの道を歩くしか、道はないのだ。見えなかった道が見えて来た瞬間に、いま私は立っている。そう、この瞬間を見逃してはならない。
★★★ 人権は、どこまで蹂躙されるのか?
第一弾。無辜(無実)の人を有罪とする冤罪は、国家による最大の人権侵害だと、言われる。袴田巌さんの再審無罪の判決を「袴田さん無罪」の一面トップの大見出しで新聞が伝えた。
二面では、トップの見出しに「三つの捏造」捜査断罪、次いで、「自白を強要非人道的」など、弁護団の肩を持つ見出しが並ぶ。二面左肩には、「一蹴され検察内に反発も」という見出しが、検察内部の雰囲気を伝える。
第二弾。一面。検察控訴断念。無罪確定へ。
10月9日付朝日新聞朝刊を含めメディアは検察の控訴断念の真意を伝えている。私が気になるのは、次のような趣旨の検察幹部の発言だ。
まだ不要な反発をしている。時代遅れの検察価値観。
「(略)証拠の『捏造』との指摘は『全く合理的でない』と反論し、『検察官の『名誉』にもかかわることだ』と述べた。
検察幹部の弁。
検察官の名誉が国民の人権より上位にあるという勘違い。
公務員は、公共的(パブリック)なことこそ、最上位に置くべき価値なのだ。
弁護団の弁護士の反発は、私の反発であり、国民の反発であろう。
国家的な、公共的な公務であり、組織的な業務遂行なのに、検察官はヤクザ映画の科白のような反発心を露骨に吐露するものなのか。私たちの青春時代には、私も高倉健出演の東映映画は多数観ていたが、感情的にはならなかったと思う。ヤクザ同士の対立の趨勢が見え始め、終局が悟られる頃になると、姿を現す。高倉健が演じるヤクザ者は、「官」、国家機関の手先たる警察に逮捕され、哀調を帯びた音楽が流れる中、身柄を確保されながら連行されて行く。
ならば、新聞社、テレビ局などつまりメディアは、この殺人事件を公正に報じてきたのか。
ここに1966年8月〜9月の毎日、朝日、読売の3紙の見出しを写した写真がある。
例えば、呼び捨てで、「袴田を連行、本格取り調べ」、という大見出し。夕刻までに逮捕、不適な薄笑い。だんまり戦術、袴田ついに自供。身持ちくずした元ボクサー、パジャマの血でガックリなどと、当時の新聞紙面には、このような見出しが踊っていた。
袴田巌さんの姉・秀子さんは「当時は、警察は正義の味方だ、警察が悪いことをするわけがない、とみんなが思っていた時代だ。(略)いまの記者のみなさんも、ひどい報道だったと思っているのではないか」。と、メデイアに向かって、市民感覚でキチンと証言し、やんわりとメディアを批判している。
専門家(メディア論)、「当時は容疑者を呼び捨てし、『逮捕された=悪』とレッテルを貼る犯人視報道が当たり前。人権問題という認識も薄かった」という。別の記者は、「警察と検察ばかり追いかけていて、弁護側に取材する発想もなかった」という。
私が記者になる前、つまり学生時代の頃から、地方で新人記者をやっていた頃は、まさに、こういう時代だった。
専門家(刑事法学)、「報道機関は、報道によって公平な裁判を受ける権利が侵害される可能性があると自覚する必要がある」と指摘。「刑事手続きの問題を正面から掘り下げていくことが報道機関の役割だろう。」
まさに、その通り。長いこと、以前から社会部などの記者の間でも、議論になっていた。
58年前、1966年に静岡県で起きた一家4人を殺害したとして、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん(88)の裁判をやり直す再審公判で静岡地裁の国井恒志裁判長は、(ことし)9•26、無罪(求刑死刑)を言い渡した(朝日新聞9月27日付朝刊記事参照、一部引用)。判決の注目点は、なんといっても、5点の衣類や自白調書など3つの証拠を捜査機関(警察、検察)による捏造だと認定したことだろう、と思う。
検察幹部は、(現場の反発を予想しつつ、)「感情のまま突き進むのが良いのかは考えなければいけない」と考えていることだ。考えるまでもなく、被疑者の人権上問題のある判断か、判断でないか、絶えず、考えて欲しい。むしろ、鉄壁な法の番人が、感情的に一歩踏み出すということがあるのだとしたら恐ろしい限りだ。検察幹部の感情で法が歪められる、というようなことがないように期待したい。人権擁護は、検察幹部こそ、座右の銘にして欲しい。
そのためには、遅れている「再審法」改正の機運を検察と弁護士の集団が、力を合わせて高めて行く、というアイディアがある。見えないことに左右されるのではなく、見えないことを見えるようにして、不充分な手続きを具体的に整備し、改善する。「お上」たる検察が持つ証拠開示の権限を改めるなど、国会の場で熟議を尽くす。検察に権限を独占させない方法を考える。
再審法改正の牙城・日弁連では、法改正の緊急性の高い項目に絞り、まず、議員立法で法改正を実現させることなど、袴田巌さんの無罪確定の機運を具体的に活用し盛り上げたいと言っているという。以上、前掲同紙、袴田記事参照、一部引用。
★★★ 見えないものに気づき、いかに見抜くか。
見えないものって、相手が必死に隠している場合がある。
隠そうとしている人がいると見えないことって意外と多い。それを剥ぎ取り、見えるようにさせる。これが大事だと思う。
そういう「ものを見る目」を持っている人は、職業的に見えないものを見ようとしている人たちより見方が上手いかもしれない。そう思っているとちょうど、今、ここへきた個展の案内状で私の見る目を試してみた。それぞれの個展は、会期終了など、注意。
多賀新個展:2024年 10.5 ー10.20 /みうらじろうギャラリー
建石修志展:2024年 10.12 ー10.22 /スパン アート ギャラリー
★★★ 見えないものを、いかに見るか?
★多賀の場合/多賀の個展案内と建石の個展案内は、ほぼ同時に私の自宅に到着した。美術評論風に、以下、このコーナーでは、敬称略。
建石の案内状には、「手紙が届く・・・」という、いかにも建石らしいシンボリックなタイトルが添えられている。読んでも読んでも読み切れない内容豊富なレターでは、ないか。極小の表現で、極大なイマジネーションを湧き立たせる。
多賀の案内状には、「樹霊に誘われ生れ出づる詩(うた)を」という、こちらも多賀らしいタイトルが添えられている。
森の奥に潜む樹霊には、対峙するだけで負けてしまう。
勝てないよ。妖しく、濃艶な熟女が相手じゃ、もうメロメロ。
多賀は、鉛筆画と銅版画の作品である。モノトーンの、薄闇の精緻な絵だ。暗黒の闇を背後に控えた、熟成した女性の横顔が描かれている。と思いきや、女性が描かれているのは、この作品ではなく、作品の中におかれた、一枚の絵皿であった。端正な女性の横顔。姉さま。
絵の中の皿いっぱいに拡がった女性の髪は、豪華なアクセサリで飾られている。皿が市松模様になっている「房」のようなものは、独房か? 魚、ヒトデなど海鮮物が生きたまま幽閉されている。皿が立て掛けられた、市松模様のテーブルクロスには、海鮮物に混じって、サイコロ、あるいは、サイコロほどの大きさの「月」のミニチュアなどが、置かれている。これらの配置は、たぶん、独房の謎を解けば、意味が通じるのだろうが、今は、棚上げということにしておこう。
★ 建石の場合/永遠のテーマ「少年」を描いた作品である。画面いっぱいの建物は何か? 絵か、実物の建物か。いや、古びた共同住宅か? 一つの窓が開けられ、室内から飛び出してきた鳩。鳩は共同住宅の窓の中に繋がれている。ならば、ここも刑務所か? 少年が立つ場所は、刑務所か共同住宅か、いずれにせよ。主人公は囚われの身というところだろう。
立っている少年の近くには階段があり、ちょっと上がった階段の踊り場から破られた窓ガラスを注意深く通り抜け、隣りの刑務所の壁に立てかけられた長い梯子を登り、室内に入り込み、幽閉の君を助け出し、少年は、共に逃げ延びてきたのか。ならば、幽閉の君は、少年のいるこちらのビルのどこかに身を潜めているのかも知れないではないか?
こちらの謎解きを棚上げにするのなら、あちらの謎解きも棚上げにするのが同義かも知れない。そして、お互いに協力しあって、見えないものを見えるようにすることが必要だろう。画家たちは、それぞれ独自の画風を大事にしているが、どこか違っている。「混合技法」は、「視像と視像とを重層させ、陶酔的に溶け合わせていく」と建石修志の幻想画の魅惑の核を美術評論家(相馬俊樹)は、こう指摘する。私の目には、多賀新の鉛筆画や銅版画なども重層的に見える。多賀も建石も一枚の絵の中に破壊の傷跡をいくつも残している。古いものは、破壊されて、修復され、新たに復元される。人間の意気込みは、こうして継続される。
建石の絵の額縁からは、大きく割れたガラスが外されている。見えないものは、不存在なのだろうか。私に向けて視線を維持し、左半分は凛として絵の外に立っている少年の支配する静謐の世界。少年の背後の外壁も静謐だが、綺麗に洗われているようだ。しかし、右半分、そこには少年の力も及ばないのであろうが、大きく天地から裂けた稲妻のような光が光跡を残したまま、薄汚れているばかりだ。紐で繋がれたまま、空中停止している鳩は、永遠に「視像の狭間・境界」を飛び廻る。
★ ★ 行政区分と放射性物質の関係
メルマガ「オルタ広場」(77号)では、オルタ広場の常連執筆者・矢口英佑氏が、早々と同じテーマで寄稿されている。そのテーマは、「被爆者と被爆体験者の違いって、なんだ」ということだろう。
その疑問は、実は、放射性物質による健康被害に苦しむ被爆者と被爆「体験者」が、別なもので、被爆行政上、裁判をしてまで争うような難題な争点らしいということである。ということが鮮明に私にも判ったのだ。
ならば、こちらは、原稿としておもしろく読んでいただきたいと思い、私の愛好する版画家•鉛筆画家の多賀新や同じく画家・建石修志の個展開催とともに、文章発表の場を工夫するべく準備をしていたら、矢口先生に先を越されてしまった。そこで、私は続篇を書くことにしたという次第である。
しかし、読む人が見ればきっと、丸わかりでしょうから、私もできるだけ大原流で、いつものように書かせて頂いた。矢口さん、今後ともよろしくお願いします。
以上関心のある読者に私の今回のカラクリをお知らせする次第である。
★ 1945年8月9日
長崎市周辺で原爆に遭ったが、被爆者と認められていない人々がいる。国が旧長崎市の行政区分に合わせて線引きした「被爆地域」は、なぜか南北に細長い形になっていた。
行政区分とは、国家機能や行政機能が、円滑に進められるように機能する町の境のことではないのか。自然的地形(海、山、川など)、社会的機能、他の町との関連性、複合する街区などで区分する。
地図の道路や河川などで、できるだけ、物差し通りに線を引いたのではないか。だとしたら、特に道路はギクシャク、ギザギザになりながらも行政や住民の都合の良いようですに線引きするのではないのか。その場合、その線が放射能の被爆区域の通りになるのは、かなり難しい、いや、不可能に近いのではないのか。
町や集落の境界は、人為的に線引きされる。それが、放射能を上空からばら撒いた跡が変則的な円形や楕円形になったりするかもしれないが、行政区分のように四角になったり三角になったりは、しないだろう。そういう部分で人間、つまり行政のメンツ争いとなりがちだ。もう、これ以上住民を虐めないで欲しい。
その後、国は1957年、被爆者を援護するため、定期的な健康診断を受けられるようにする「被爆者健康手帳」制度をつくった。
人為的な、不自然な形の線引きに素人の私も疑問を抱く。被爆の実相とは違う抽象的な概念を行政は、無理やり被爆者に押し付けようとしているのではないか。
区域外の住民は、1970年代に拡大を訴えた結果、周辺部が追加された。ならば、初めから周辺部も救済して欲しい。
その結果、爆心地はそれぞれ南北に約12キロ、東西に約7キロ、という楕円形になった。
行政、いや官僚は、見えないものを見たことにしているので抽象的な概念を直すのも、直さないのも、抵抗感がないのかも知れない。
★★ 被爆体験者と被爆者とは?
国は、2002年、12キロ圏内で手帳がもらえない人のために、被爆者とは違う「被爆体験者」という概念を元に、新しい制度を始めた。被爆者、被爆体験者、いろいろな言葉が出てくるが、その説明は、以下の通り。
「被爆体験者」/放射能による直接的影響ではなく、被爆体験による精神的な健康影響がある」というものであった。この結果、年一回の健康診断が受けられるようになった。被爆体験による精神疾患(心的外傷後ストレス障害)が認められれば、精神疾患とその合併症の医療費の自己負担分が支給される。どうやら、肉体的な被爆はなくてもメンタルな健康被害があれば、被爆者に「準ずる」、というようなイメージらしい。
★ 広島高裁判決は、どうか?
2021年の広島高裁判決では、区域外で放射性物質を含む、いわゆる黒い雨に遭った原告84人について「放射能による健康被害を否定できなければ被害者にあたる」と認定した。
国は、2022年4月からの新基準で、雨を浴びたことが「否定できない場合」も含め、幅広く「被爆者」と認めた。
一方、長崎については、「被爆地域外で雨が降った客観的な記録がない」などとして認めていない、という。
★ 24年の9・9、長崎地裁判決以降
原爆に遭っても、被爆者として認められていない長崎の、いわゆる「被爆体験者」訴訟では
原告のうち、15人を今回新たに被爆者と認定した。
長崎地裁判決では、国が定めた被爆体験者区域の内、東側の旧行政区分(旧3村)の一部に、いわゆる「黒い雨」が降ったと認め、この地域にいた15人を被爆者と認定したことになる。
原告らは、行政側の控訴断念を要望していると国に知らせた。
残る原告29人を含む被爆体験者全員を政治判断で救済するよう求めていることも伝えた。
長崎県の大石賢吾知事と長崎市の鈴木史朗市長が、9・11。厚生労働省を訪れた。政治判断を訴えるためと言われる。
長崎県と長崎市は、国からの法定受託事務として、被爆者健康手帳を交付している。地元として、国に被爆体験者の救済も求めてきた。
長崎県も長崎市も、訴訟では、国と並んで被告となっている。
長崎市議会、一刻も早い救済を求める、という決議をしている。
大石知事は被告だが、国に地元の思いを判って欲しいととして控訴断念を伝えた。
★ 政治判断9・21 /岸田首相会見
長崎・被爆体験者への支援拡大へと、岸田首相は、記者会見で、意向を表明した。
岸田首相の政治判断。というか、首相に花を持たせる。忖度上手な優秀官僚の手練れの政治学。政治手法。
それでいて、長崎地裁判決には控訴。つまり、政治的な実はいただくが、利は拡大しましょうということらしい。首相公邸で面会後、会見した岸田首相ほか、首相の政治判断ということなのだろう。
首相官邸には、足元注意という、政治判断が、落ちている。だからご注意。
皆さん。足元でトグロを巻くケーブルに気をつけて、歩いてください。ということか?
以上の部分の記事参照にあたっては、朝日新聞9月21日付朝刊を中心に参照し、加えて、ほかのメディアの情報も一部引用した。どこで線引きしながら私は書くのかと問われたら、そこが大原の流儀としか答えられない。
そこがデータ尊重の理科系と感性直感思い込みの文科(文化)系の、私のような人間との違いだろう。
人間に見えないものは、否定できないというだけの話だ。
いや、意外と「否定できない」という選択肢は包摂力のある概念かもしれない。皆で、熟議する価値があるかも知れないような気がしてきた。
ここにも、人間には見えないものがある。ならば、人間には見えないものがあることを予め承知し、見えないものが、いまは判らないだけかもしれないという認識に立ち、その認識が崩されない限り、逆に肯定して行くという姿勢こそが大事だと言えるだろう。
★ 自民党の総裁選から「学ぶ」こと/悪知恵
102代自民党総裁は、自民党独自の不思議な選挙制度の下、1回目、154票、2回目、215票を獲得し、逆転した石破茂さんが、初当選した。
それにしても、何も大事なことを言わない総裁候補者たちが、多いという気がしませんか。例えば、9人の候補者たち。
カーニバルのパレードみたいな候補ご一行様の練り歩き。政策討議なしだという批判があると、9人揃って、自分の国を守れ、と言うばかり。地球沸騰化阻止の問題は、ロシアも、アメリカも、北朝鮮も、イスラエルも、パレスチナも、知恵を出し切って乗り越えないと大変なことになるという大問題ではないか。軍事費増強、インフレ防止、高齢化社会の是正、災害に強い社会、原発問題、政治と金など、勢いこそ良いけれど、実効性の裏付けのない政策談義など、パレードだけ上手な政治的な太鼓持ち(「 ◯◯パレード。芸人、太鼓持ち、と認め手渡し打ち込んだが、→ 削除。差別的な表現ではないか、と思ったからだ。)自民党の総裁選挙は、人気投票だと言うより、売名投票ではないのか。そこで、投票権もない有権者として自民党総裁選挙を横目で見てみるといろいろためになることが判った。
アドバイザーは、平和学者から見た総裁選挙の知恵袋として、参照・引用させて戴いた(朝日新聞9月20付朝刊記事参照:宇都宮大学・清水奈名子教授のインタビュー記事。大いに活用させていただいたが、直接、話を聞いたわけではない。従って、文責は私にある。
教授のご主張は、ほとんど私も同感。今回、自民党の総裁候補たちが思いつかない課題を提案してくれた。政治学徒も変わった。私が大学の学部学生だった頃、政治学専攻の女子学生などほぼ皆無だったけれど、今は増えましたね。その上、男子学生よりよく勉強していて優秀だ。原則を大事にする優れた学者が育っている。気がつきませんか?
誌上ならぬネット上ながら、日頃のご無沙汰を陳謝し、改めてお礼を申します。
さて、清水教授が列挙した総裁選挙の課題の主軸は、以下の通り。
安保問題、つまり軍備拡大や軍事費増大を声高に叫ぶ、保守派の「生き生きした」高ら声が耳につく。更なる右傾化への危惧が強い。安部、菅、岸田、ガッチリした右傾化路線。その先を見据えて岸田→石破(後ろに、菅が隠れている)。さらに、その後ろに、逃げ込んだ麻生、というところではないのか。麻生と菅の院政の権力争い。石破をリベラルと勘違いしている人がいる、それも、多いという。日本の保守層の曖昧さは、層の厚さでは、強靭かもしれない。ー新聞を読まない、テレビも横目で見るくらい。という程度しか、メディアに接しない人が増えてくると、世の中は、一気に右傾化が酷くなるだろう。そんなことを続けていると日本は大変なことになるだろうと思いませんか?
原発問題、政治家は、事実、事象、現実的なことをきちんと言っていないのではないか。つまり、深刻な問題を議論していない。現状に目を瞑るだけで、見ようともしない。
総裁選挙で彼ら彼女らが、テレビの前で力説する「高邁な」国家レベルの政策論争と町の声から響いてくる生活者の「低音の声」が未だにかけ離れているのではないか。安保も是、原発も是、皆、ちょこちょこっと、閣議了解で済ませた。
★ さあ、バタバタと総選挙へ
10月9日。午前、閣議了解、午後、本会議で国会解散。総選挙も閣議了解で、スタートというわけか!
袴田巌さん。9日、NHK昼のニュースで、無罪確定の報道。58年ぶり。人権確保。長かった。
さあ、大事な話は、終わった。
それ以外のことを話しましょう、では、真摯な議論はできません。そもそも、閣議了解ってなに? 民主主義的とは、手続き主義のようなものではないか。草の根から育てて、将来の開花を待つ。それが民主主義。
平和学者、女性教授は、こう仰っています。日本の「直接的な脅威は、『外からの敵』よりも、目の前で起きている政治腐敗、経済格差、人口急減、災害、そして国家の基本が崩れ始めていることでしょう」と言っている。本当にその通り。
私たちは、そのことに正面から向き合うことが必要でははないのか。
政治と裏金、候補の皆さん、声が小さくありませんか。
経済格差(分断されている。富裕層と貧困層に分断されている。人口急減、災害対策(季節は変われど、被害が出るのは、似たような同じような地域ばかり)が、ねらわれている。国家の基幹が壊されている。行政はもっと危機意識を持たなければならない。
先生が足りない。地方自治体からは、先生募集のチラシを自治会や町内会の掲示板にも掲示してくれと、要請が来る。ご存知か。医師が辞めて行く。官僚(役人)が辞めて行く。自衛官も不足している。農業、漁業、林業など第一次産業の担い手が不足している。福祉、介護など人類生存のために不可欠な職場でも慢性的な人手不足が続いている。
戦争も、原発事故も、犠牲になるのは、人間なのに、国会では人間対策の議論は浅くて、深掘りされずに、与野党仲良く、議案は国会を通過して行く。原発事故では、日本国内にも避難民、難民がいることを改めて浮き彫りにしたではありませんか。被害は長期化している。それなのに、現実味の乏し避難計画は、そのまま。
声高になるのは、原発回帰政策ばかり。再開発。
総裁選挙。9人の候補者のうち、反原発派は一人もいない、というのも、自民党が右翼の血を濃くしてきた証左ではないのか。議員世襲制の是非論の陰には、保守の血の純化作用もあるのではないのか。
9人の候補が、「原発で、言い分けた」言葉は、以下の通り。
再稼働派、リプレース(建て替え)派、新設派、新増設派など。
いろいろ、本音がバレないように、言葉で誤魔化そうとしているところがあちこちでみうけられる。
政治家たちの「言い訳」とは、まさに「言い分け」ではないか。
原子力委員会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、原子力規制委員会。変わるのは、看板ばかり。戦争も原発も、犠牲になるのは、現場で働く人ばかり。
★★ 動かない観覧車
地方も都心も、貧富の差が深刻化している。コミュニティは崩壊し、過疎化が進む。
10年以上前になる。日本ペンクラブの視察団で、チェルノブイリへ行った。浅田次郎さん、中村敦夫さんに混じって、私も参加してきたが、原発の隣町に造っていた原発労働者都市というべき社宅群は、建設途中ながら事故の後、中断。廃市・廃墟になった。誰もいない無住都市の遊園地には、動かない観覧車が取り残されていた。近くのバスターミナルには、割れたレコード盤が床に落ちていた。触ったり、持ち出したりしてはいけないことになっていると、私たちに同行したウクライナ政府の役人は説明していた。ウクライナは、さらにロシアから侵攻されて戦禍が拡がっている。ウクライナ政府も、この無住都市を地域から隔離して、国家が保管・管理するだけだった。その後、どうなったか。戦争や原発事故など天地動転するような国家危機の時は、歴史が示すように国家は国民を保護などせずに切り捨ててくるだろう。国家を切り捨てる権力者は、自分たちにとって役に立たない人々を平気で見捨るだろう。例えば、プーチンを見れば、よく判るが、権力者は権力を手放さない限り自分は安全なのだ。虐められるのはいつも国民なのだ。
プーチンのためになるシステムか続いている限り、大統領・プーチンは、安全なのだろう。権力者こそ、分断されるべきだ。
★見える、見えないとは?
見えているはずなのに、見えないふりをする。「旧統一教会」による参院選支援の問題もメディアは触れるが、自民党は知らぬ顔。専門家たちは、党として、「第三者委員会を設置して徹底的に調査し、膿を出し切るべきだ」と主張するが、総裁選では、何も聞こえてこなかった。
権力者には、全てが見えているわけではないだろう。見えていれば、なぜ、このような「ばか」なことをするのかというような馬鹿なことはしないでしょう。そういうときが大事だ。そして、危険だ。何が起こっても不思議ではない。核兵器が使われるかもしれない。
そういうときこそ、違った意見を言う、抗(あらが)う者たちの出番のときではないのか。解散前の党首討論。石破政権は総選挙大敗など、解党的な事態を避けようと必死だ。危機感を訴えるのは、野党より自民党の方が上手い。野党は、脇が甘いんじゃないか。ガッチリスクラムのときに、油断大敵。総選挙は、野党こそ頑張らなければいけない。見ようとしなければ、物は見えないのだから。
(了)
ジャーナリスト
(2024.10.20)
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