【コラム】大原雄の『流儀』

★東京国際映画祭・ジャニーズ問題など

大原 雄
 
 国民の各業種に大きな爪痕を残したコロナ禍。爪痕の全体像は、まだまだ、窺い知れないと思う。そもそもコロナ禍は、弱まってきたのか。感染の傾向は弱まってきたように見受けられるが、そうなのか。
 
 あちこちのイベント(催事)が、3年ぶりとか、4年ぶりで以前通りに再開されたとか、規模が復活されたとか、というニュースが届くようになったようである。
 
 先月開催された東京国際映画祭も、その一つ。今回で、36回目。10月23日から11月1日まで開催。東京の日比谷・有楽町・丸の内・銀座界隈を映画祭は、映画作品を通じて人々を一つにまとめて地域活性化に活用してきた。当初の六本木地区での開催、そして、現在の日比谷地区での開催へと志を繋いできた。
 
 感染予防では、行政の規制緩和が幾分緩んできた。映画祭の事務局の文章を引用しよう。「総勢2000名に及ぶ、多くの海外ゲストを招くことができ、従来の賑わいを取り戻しつつも更なる飛躍を遂げる年となりました」と浮かれゴコロが足元を怪しくさせているようで、つい、「足元気を付けて」と声をかけたくなる。
 
 東京ミッドタウン日比谷のステップ広場(2階)から日比谷仲通りにかけて敷き詰められた165メートルのレッドカーペット。各地でも見受けられる国際映画祭の象徴的シーン。監督、出演俳優、コンペティション部門の審査委員長、プロデューサー、スタッフなどが登場、カーペットは真紅に燃え上がる。東京宝塚劇場でのオープニングセレモニー。スペシャルパフォーマンスの演奏。ああ、コロナ禍は、押さえ込まれたかな?
 
 印象に残ったこと。
 フェスティバル・ナビゲーターを務めた安藤桃子のメッセージが私の心に印象を残した。
 「コロナがあったからこそ命という、生きているという不変の絶対に変わらないことがあって、映画祭は今の時代を最も象徴しているものが集まっているので、それを皆さんと一緒に体験できることを期待し、未来を照らしてくれる10日間になるんじゃないかと思っています」。
 
 映画祭は、新聞、テレビ、ネットで報道されたが、ここでは、触れない。むしろ作品について触れたいからだ。
 
 2023年度の東京グランプリ(東京都知事賞)は、『雪豹』だったが、ここでは、あまり触れられていない映画作品も含めて取り上げてみようと思う。
 例えば、台湾映画『青春の反抗』。ジョージア・アメリカ共同制作映画『タタミ』。日本映画からは2作品で、『正欲』、『わたくしどもは。』の合わせて4作品を取り上げた。
 
 台湾映画『青春の反抗』。スー・イーシュエン監督作品:
 女子学生・チーウエイ、同じく・チン、リーダーの男子学生・クエン(チンのボーイフレンド)などが青春の反抗の光景を演じる。
 戒厳令(日本の敗戦後。1949年—1987年の38年間)解除後の台北。
 1994年。美術大学の「学園紛争」いや、「闘争」だろう、というのが、我らが青春時代の感性。同じものがスクリーンに描き出されて行くように感じられる。表現の自由を求めて抗議行動する若者たちの日常。「主任」という地位の中年の教授が、学校側の代表的人物として描かれる。闘争に熱心な学生の評価を下げたり、落第させたり、権力を振るい、管理者意識をむき出しにして学生と対立する。映画は、闘争派の男女の大学生3人の恋愛関係も絡ませて描かれる。やがて、「闘争」も下火に。男が去り、女二人が残る。女子学生同士のレズビアンのキスの風景が美しい。時代は、まさに我々(引用者は、1995年入学)の大学時代とほぼ重なる。その思い出を二重写しにしながら、映画の青春は、私の「青春」を思い起こさせるとともに今を生きる私の「老い」を観たような気がした。ああ、「遥か青春」!!
 
 『タタミ』女優ザーラ・アミール・エブラヒミ監督、ガイ・ナッティヴ監督の共同作品(ジョージア・アメリカ合同作品):ワールドカップ柔道大会を基軸に描く。イランの新人選手が勝ち進むと、イランの政権幹部が、イスラエルへの忖度で、イスラエルと対戦しないようにと自国の選手に棄権を勧める。棄権への企みは、権力信仰が強い世界だけに陰湿。それに対抗する選手と監督。協会幹部の権力ぶりの対比。スポーツマンシップとステーツマンシップの戦いを描く。柔道の映画だからなのだろうが、畳の上で繰り広げられる「ファイト」は、熾烈で、それだけ印象が強まったのか、タイトルも『タタミ』であった。
 東京国際映画祭終了で、各種受賞作品が決まったが、『タタミ』は、「最優秀女優賞」と「審査員特別賞を受賞した。
 
 『正欲』岸善幸監督作品。
 稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香ほか出演:
 
 「いてはいけない人なんてこの世にはいない」。
 「あってはならない感情なんて、この世にはない」。
 「明日、死にたくない」。
 「明日が来なければいいと思って、生きてきた」。
  〜小説の原作者:朝井リョウ〜
 
 登場人物の職業は、検事やら、その妻と長男の小学生やら、契約社員やら、女子学生やらが、出てくる異空間をつなぐ群像劇。テーマは、多様性(ダイバーシティ。複数の個性、それぞれの立場)と不寛容(生きづらさ、こだわり)。
 
 勢いよく、蛇口から水が吹き出すのを見ると興奮するなど、いずれも、常人とは違う性的趣向の持ち主を取り上げた3つの群集劇(小説の原作と同じ)が同時進行するという複合的な演劇構造。
 
 テーマは、社会との違和感に苦しむマイノリティの人たち。世の中を「効率的に」生き抜こうとしている「一般人(マジョリティ)」とのさまざまな違和感に苦しむ。原作(朝井リョー『正欲』。「正しい性欲とは何か」というのが原作者からの問いかけらしいが、映画では明確なイメージが浮かんでこなかった。映画を観た時点では、小説を読んでいなかったので、なんとも言えない部分もあったので、その後、原作を読んでみた。登場人物たちの濃淡が、それぞれの感情を掘り下げるように描かれるというより、同じような疎外感がそれぞれに描かれて行く。
 
 時空を違え生きる登場人物ごとの視点で物語が進む。別の場所に生きていて、互いには交わらない登場人物が代わる代わる描かれる。
 主な「視点」(つまり出演者)は、現職の検事(寺井啓喜)、契約社員(桐生夏月)、女子大学生(神戸八重子)の3人だ。
 テーマは、多様性とは、何か。
 
 私は、映画を観てから半日経つた今(執筆当時)となっては、不登校男児を持つ検事を演じた稲垣吾郎(啓喜)は、性格も行動も一本気で、単調な人柄、職業柄(「法に違反しているか、いないかを判断する」仕事だからか。そんなものじゃないよ、という声も聞こえる)「単純思考」(と、決めつけては可哀想だから、別の表現にすると、「価値観がしっかりしている」とでも、するか)の持ち主だったので、印象に残るが、それ以外は、妻(由美)と不登校の長男(泰希)という小学生の息子、岡山の実家で暮らす契約社員(夏月)、大学生(八重子)などの方は半日の時間(執筆当時)が過ぎてしまうと、印象散漫で、映画批評を書こうとする私をもたつかせる。
 
 代わって、存在感が増すのは、いろいろ出てくる食事風景。この映画は、性欲というより、食欲がテーマなのではないか、とさえ思った。原作の小説を読むと、食事風景は、日常生活そのものということか、印象に残らないが、映画では、抜群の存在感を印象付ける。
 
 検事は、不登校児とその母親(つまり、検事の妻)との自宅での食事風景。マンションのキッチンにありそうなテーブル。仕事を終えて、家に帰り、法律という衣装を脱ぎ捨てて、風呂に入ったら寝てしまうのだろう。不登校児童を相手に孤軍奮闘するのは、母親一人だ。不登校児童だって、その母親だって、明日も、生き延びると思っているから、生きているだけではないのか。
 
 岸善幸監督は、いろいろな食事風景については、さりげなくを装いながら、かなり工夫を凝らして撮影に臨んでいるようである。結婚式の披露宴のテーブル。非日常の光景。参加者たちは、対面で並んでいる。後に判ってくることだが祝福、祝福のシーンは披露宴。披露宴は、実は、皆が卒業した地元岡山の中学校の同窓会を兼ねていたのだ。新郎新婦とともに結婚式も同窓会も、参加者同士は二重に人間関係を持つ人々の集まりだから、参加者たちは、対面で座っているというわけだ。多様性の幸福。これが、テーマか?
 
 ここまで生き抜いてきた後の人生は、どうなるのか。しかし、多くの人にとっては、人生の最後には単調な一般人という一つの墓穴しか残っていないのではないか。
 
 * この小説のキーワード:これぞ、正(性)欲。
 「水を出しっぱなしにするのがうれしかった」(藤原容疑者の供述)」
 「噴出している水の様子に興奮する」「噴出する水に身体の一部を熱くしていた」(桐生夏月)
 
 ちょっと贅沢な食事風景。回転寿司の店内と顧客などなど。実家のコタツの食卓。観客の眼は、画面を観ていても、脳では、見てはいないのだろうか。観客の記憶は、萎縮した脳からこぼれ落ちて行く。
 
 ほら、もう、思い出せない。
 
 3人に接点はないが、小説では、必ず、啓喜、夏月、八重子の順で、繰り返し繰り返し。それぞれが描き出される。
 
 啓喜 → 夏月 の結節点では、こういう繋ぎ方をする。小説は、この結節点の書き方にかなり工夫しているように見受けられる。例えば、以下のように。
 
 *①「(妻・由美の)表情は、啓喜からはよく見えなかった」
 
 ——桐生夏月
 
 「(西山亜衣子の)表情は、よく見えなかったが、その代わり」
 
 *②「誰かのことをこんな風に思うなんて、人生で初めてのことだった」
 
 ——神戸八重子
 
 「人生で、初めての感覚だった」
 
 * ③「バトンを受け取ったのだと思った」「孤独から救い出すバトン」
 
 --寺井啓喜
 
 *④「バトン引き継がれたときはどうなるかと思いました」
 
 
 生き延びさえすれば良いのか。炎上まじかの温暖化した地球の鬱陶しさ。もちろん、鬱陶しくしたのは、わたくしどもだ。「正欲」と書いて、「性欲」と読むそうな。性欲は、人類にとって、基本の欲望。正に「正しい欲望」とのこと。「東京国際映画祭最優秀監督賞」と「観客賞」を岸善幸監督が受賞した。映画を観るか、小説を読むか?
 
 次いで、受賞は逸した作品も、取り上げたい。
 『わたくしどもは。』:冨名哲也監督作品。小松菜奈、松田龍平ほか出演:新潟の佐渡に流れ着いた男と女たちの人生をそれぞれ描くが、画面に現れる「わたくしども」が、曲者というか、化け物、いや、幽霊であるとこが次第に判ってくる。
 
 映画の舞台は、新潟、日本海に面した佐渡島。時空は、金山跡地とそこに作られた金山の記念館とその周辺。登場人物は、過去の記憶を持たない女性(小松菜奈)と名前も記憶もない記念館の警備員(松田龍平)が、知り合い、互いに惹かれ当てゆくが、幽霊同士の恋愛とは、はて、どうなって行くのか?
 
 いや、私には、そういうストーリー展開は、無用だと気がついた。というのは、これらの主要場面というか、シーンというか、カメラワークの構図が、つげ義春原作漫画のさまざまなコンテのままというような、背景がの雰囲気も含めて酷似しているように見えた。つげ義春の、ユニークな絵の数々。原画集。それだけで、もう「映画」の時空が、完璧に設定されているようなのだ。つげワールドを再現したような映画。私の目には、そういう情報が飛び込んでくる。
 
 記憶をなくした男と女が恋に落ちる。歌舞伎役者の片岡千之助も出演。千之助は、片岡仁左衛門の長男・孝太郎の長男。つまり、仁左衛門の直系の孫。画面の中では、素肌の上に、女形の衣装を着て、踊って見せたり、自分で縄をより合わせて綯った首吊りの輪っかに首を入れて、自殺してしまったり、大変な役をこなしている。記念館の館長役は、ダンサーの田中泯。素人っぽい演技が魅力。以前に山梨県の白州町にある「道の駅」の駐車場で、偶然遭遇したことがあった。日本ペンクラブのイベントであったばかりだったので、この時も声をかけてみたら、答えながら「逃げて行く」ので、暫く、声をかけながらついて行くと田中泯さんは、さらに答えながら、逃げて行ったけれど、多分忙しかったのだろうね。そう言えば、良いのに。
 
 そもそも、幽霊は、自殺ができるのか。もう、二度と死ねないのか。オートバイ事故を起こした男女は、トンネル内に乗り捨てたオートバイを残してトンネルの中へと踏み込んで行く。「わたくしどもは、彷徨い続けるのです」。というわけか。
 
 ★ ★ 熟議民主主義=少数派尊重の民主主義へ
 
 民主主義が成熟するためには、少数派の意見が結果的に反映され、いくばくかでも尊重されるような民主主義を目指さなければならないと常々思っている。なんでもそうだろうけれど、ものごととは、弱い立場(強者に対する弱者。強者:健常者に対する障害者。強者:多数派に対する少数派。強者:優者に対する劣者。強者:金持ちに対する貧者など)に立たないと見えてこないものがある。だから、弱い立場の人から、いろいろ意見を聞くことが大事になる。そうやって、弱者の杖を、選択肢をたくさん持つようになると、弱い立場の人たちの持っている知恵をものごとの選択の場などに生かすように使うと、良いアイデァが生かされて、社会は進歩するのではないか。「マチズモ(○○優位主義)」だと、視野狭窄になる。
 
 「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」。
 
 これは、いわば、少数派尊重(4分の1)民主主義の、一つの具体例ではないか。
 日本国民は、この条文をすでに持っているのにも関わらず、生かしているとは言えない。
 
 日本国憲法53条。国民の代表である議員は、少数派(四分の一)であってもっても、「内閣(行政権)をチェックして、国会(立法権)を通じて、国民に説明責任を果たさせることが期待されているのである。議院を構成する力の過半数に頼るのではなく、少数派の人が要求しても議会が開かれ、少数派の意思も主張でき、それを聞く機会を残すというものであった。ところが、議会はその後「退歩」し、内閣は、召集期日が明記されていないことを悪用し、召集を遅らせたり、議会開会とともに、同時に解散権を振り回して、審議をしないまま、解散に突入するということで、少数派の発言の機会を奪うという安倍内閣のような対応がまかり通ってしまうものに「変質」させてしまったのである。例えば、菅内閣の時、菅政権が臨時国会を開いたのは、少数派の野党が要求した日から80日(約2ヶ月20日後)であった。政権与党の見解では、内閣は、広い「裁量権」を持っていて、「いつ召集しなければならないというような期日設定は、ないと主張しているという。これでは、三権分立(立法、行政、司法)のうち、行政権があまりにも強大過ぎてバランスが取れないのではないかと私は思う。さらに、三権分立のバランスをチェックすべき司法は、こういう事態をどう判断しているのか。
 
 臨時国会召集先送り違憲訴訟の判決が、9月12日に最高裁判所で出されたので、それを報じた朝日新聞(10月9日付朝刊記事、豊秀一編集委員参照、引用)をベースに問題点を考えてみたい。
 
 それによると、最高裁第三小法廷(長嶺安政裁判長=外交官出身)の5人の裁判官のうち、多数意見(4人)は、53条について詳しい解釈を示さないまま原告の訴えを退けた。少数意見(反対意見、1人)を述べた宇賀克也裁判官=行政法学者出身は、召集を遅らせる理由に使われた「合理的期間」を明示し、「20日あれば十分」という指針を示した。また、53条も「少数派のイニシアティブによる臨時会の召集を可能にすることを主眼とするものだ」という解釈を明確にしたと言え、これぞ、まさに、熟議型の民主主義のお手本を示す解釈だと、私は感心した。
 
 豊秀一編集委員は、「死文化しかけた憲法53条後段に息を吹き込む作業」と最高裁第三小法廷の労を多とし、『記者解説』というタイトルの特集記事にまとめあげた。
 「少数派の尊重という民主主義の土台を損ねる政治(安倍政権、菅政権)を許していいのか。選挙や最高裁裁判官の国民審査の権利がある、私たちも問われている」という文言で、記事を締めている。
 
 専門家の見方として、朝日新聞は紙面で、提案している。例えば、東京大学の宍戸常寿教授(憲法専攻)のアイディア。孫引きすると、
 臨時国会の「召集せず」は、内閣(行政権)と議会(立法権)の「紛争」だから、裁判所(司法権)が、「紛争」を解決する仕組みを作るという、新しい立法化の道を探るなど試みるべきではないか、ということだろうと、理解してみた。
 
 私も、メールマガジン「オルタ広場」(月刊)の連載コラム「大原雄の『流儀』」で、時折、「熟議民主主義」こそ、現代の民主主義という主張の記事を載せているが、今回は、「オルタ」(「オルタ」というのは、「オルタナティブ」(交代可能な)という意味の言葉である)という軒先を使わせてもらって、「熟議民主主義」=少数派尊重民主主義をピーアールさせていただいた次第。次の項目、沖縄の「辺野古問題」こそ、熟議民主主義の手法で、岸田政権と玉城知事の局面打開に結びつける知恵を発揮してほしいものである。
 
 ★ 沖縄・少数派に転嫁では、米軍基地負担は軽減されない
 
 沖縄の普天間飛行場(宜野湾市)を見下ろせる小高い公園に登ったことがある。住宅密集地の広がりの真っ只中にまっすぐ伸びた滑走路がある。普天間飛行場を名護市辺野古地区へ移設する計画は、沖縄県と日本政府の政治問題になって久しい。移設に伴う新たな区画の埋め立て工事に必要な防衛省の設計変更申請について、国土交通省は、国が県に代わって承認する「代執行」のための訴訟を福岡高裁那覇支部に起こした。裁判で国が勝訴すれば国が地方自治体の事務を代執行することになる。設計変更の不承認処分をめぐる訴訟では、先月(9月)の最高裁判決で沖縄県の敗訴が確定しているので、代執行訴訟でも県の敗訴が濃厚と見られている。(朝日新聞10月6日付朝刊記事参照、一部引用)。
 
 代執行訴訟は地方自治法に基づく手続きで、提訴から15日以内に口頭弁論が開かれる。結審は早ければ、年内にも判決が出る可能性がある」(前掲同紙参照)という。日米の安保体制のあり方が、政治問題になり、政治問題が司法制度のシステムの問題になり、それが地方自治の「分権」システムにぶつかっている。私には、そのような図柄が頭に浮かんでくる。
 
 自民党の政治問題、「国と対等」というのが原理の地方自治「分権」システム、司法制度システム、それらが入り乱れて、いろいろなレベル、ニュアンスの「決定」が出るが、それがごちゃまぜになって、県知事に襲いかかる。自民党は、首相、防衛相、国土交通相など、いわばピッチャーの継投策で、球を投げてくるが、沖縄県は玉城デニー知事が一人で、キャッチャーとして球を補ったり、ピッチャーとして球を投げたり、これは、二刀流の大谷翔平選手を「救援」にでも仰がないと、知事は球すらそらし、県民にきちんと投げ返せなくなる恐れがあるのではないか。
 
 前回、翁長知事の時の「代執行」提訴では、高裁は、国と県双方が訴訟を一旦取り下げて、国は工事の即時停止をし、問題の解決に向けて協議するという内容の「和解勧告」をした。これを国と県の双方が受け入れ、結局、代執行は行われなかった。今回は、どうなるか。
 
 行政の事務処理の枠組みを超えたこの種の問題は、本来政治が解決すべきだろう。代執行は、地方自治への国の直接的な介入になるので、全国の自治体も我がこととして憂慮すべき事態であろう。自治体連合で、知恵を出し合い、国に対抗できないのか。
 
 続報:沖縄県の玉城知事は、10月11日、予想通り、沖縄・宜野湾市にあるアメリカ軍普天間飛行場を名護市の辺野古へ移設する計画について、新たな区域の埋め立て工事に必要な防衛省の設計変更申請を承認しないと表明した。玉城知事としては、当然の判断だったろうと思う。政府と沖縄県という地方自治制度での問題と政治家・知事としての問題を天秤に掛けて見ても、ここは、「承認するという立場には立てない」という。そう、こういう判断しか立場としての玉城知事にはないであろうと私は思っていた。ならば、沖縄県に代わって政府が代行するという「代執行訴訟」の場で、知事自らの意見を陳述して、法廷で争うしかなかろう。沖縄県が敗訴した9月4日の最高裁判決で、政府の設計変更を承認する沖縄県の法的義務が確定している。「負け戦」を承知で参戦するしかない。政治家・玉城氏は、辺野古移設反対を争点の一つにして2018年と2022年知事選で勝ち上がり、2019年の辺野古の埋め立ての是非を問う県民投票でも、70%を超える埋め立て反対の県民の意思を背負っているのである。玉城氏は、知事でいる限り、この県民の声を代弁しなければならない。
 
 「沖縄県は、米軍基地負担が過重であるにも関わらず、基地が建設され続けていることに県民の多くは、『反対の民意を明確に出している』。これを踏まえて、沖縄県民の公益を法廷で主張できる」という趣旨を玉城知事は、述べているという。
 
 続報:10月31日付朝日新聞朝刊記事を参照、一部引用。「代執行訴訟」の第一回口頭弁論。福岡高裁那覇支部法廷。沖縄県の玉城デニー知事は「沖縄県の自主性および自立性を侵害する国の代執行は、到底容認できない」と述べたという。
 
 国が勝訴した場合、判決を受けた翌日から3日以内に沖縄県に対して、承認を命じるよう、国は裁判所に求めているという。年内にも判決が出る可能性があるという(朝日新聞10月12日付朝刊記事を参照、一部引用)。
 沖縄県が国に従わなければ国は代わりに執行できることになり、埋め立て工事が始まるという。玉城知事は、司法に対して、「国が代執行という国家権力で(県民の民意を)踏みにじることを容認しないよう、国と県との対話によって解決の道を探ることこそが最善の方法であると示していただきたい」と求めたという。
 
 国の重要政策で自治体の主張と対立が生じた場合、(双方が)合意に至るまで交渉すべきではないのか。それが、熟議民主主義の実相であるべきではないのか。日本列島には、国土面積の0・6%の沖縄県に全国のアメリカ軍専用施設の70%が集中している。こうした現況は誰がみてもおかしいのは、判りやすい問題点であるのだから。私たちは引き続き、注意して続報を見続けたい。
 
 この問題を考える際に役立つと思われるのは、山本章子「日米地位協定」(中公新書)であるが、琉球大学の山本章子准教授は、朝日新聞11月2日付朝刊記事「沖縄季評」でも、沖縄の米軍基地問題の基本的なポイントを書いている。ポイントを改めて紹介したい。
 
 日米の立場:日本政府のベクトルが示すもの。
 「国が戦後一貫して米軍基地を本土から沖縄へ、首都圏から地方へ、都市から過疎地へと移し、人口の多い地域から遠ざけることによって基地問題を『解決』してきた実態」を山本は改めて指摘する。
 「民家が密集する市街地の真ん中から過疎地域に基地を移設する普天間返還も、同じパターンの『解決』策である。」
 
 その通りである。冒頭触れたように私も普天間飛行場の近くの小高い公園から密集した住宅地を見下ろしたことがある。本当に街の中にアメリカ軍の施設は居座っているという印象だった。辺野古のアメリカ海兵隊キャンプ・シュワブ(名護市など)も、訪れた。沖縄本島の那覇市など市街地と中部とを結ぶ高速道路を走るバスに揺られて行った。正に、市街地から過疎地域へという「移動」であった。
 
 山本は、さらに沖縄の「県内移設」論に目を向ける。
 大田昌秀知事も稲嶺恵一知事も、一時は、普天間飛行場の県内移設に「同意していた」と強調する。当時、沖縄県知事は、「県内では小さな自治体に負担を転嫁する冷徹な政治論理を通そうとした面があった」と解説する。
 
 「県の論理が変化したのは2014年、自民党県連の幹部だった翁長雄志氏が革新陣営と手を組み、オール沖縄県政実現したときだ」。翁長知事は「弱者に抑圧を委譲する従来の『解決』策を根本から否定した」。正に、熟議民主主義の好例だろう、と思う。
 
 琉球大学の山本章子准教授(国際政治史専攻)は、「諸悪の根源は負担転嫁を繰り返す国だ」と主張する。
 
 ★ メディア断章/
 私の好きな朝日新聞記事/「訂正して、お詫びします」
 
 今回は、以下の2本。
 
 * 「ガザ停戦 国連総会で応酬」の記事で、決議案の共同提案国に「韓国」とあるのは「北朝鮮」の誤りでした。資料を読み誤りました。
 
 * 「梨泰院・雑踏事故 あす1年」の記事と写真説明で、(略)『向かい側で口元を押さえて笑っている』(右端)とあるのは『うつむき加減で笑っている』(右から2人目)の誤りでした」。
 
 朝日新聞社の、この率直さは、評価できる。こういう「訂正」では、ほかのメディアでは、訂正するだけという印象であるが、原因まで明示するのは、さすがだが、それにしても、私たちがマスメディアの現場で働いていた頃には、考えられないようなケアレスミスが新聞やテレビの報道現場で増えていやしないだろうかと懸念する。思い込みとか緊張感の減退とか、あるのだろうな。
 
 
 ★ メディア断章/
 メディアと「ジャニーズ問題」の本質
 
 この「大原雄の『流儀』」では、あまり、というか、ほとんど取り上げていないが、取り上げない私の発想には、次のような問題意識が私にはあるからである。
 
 メディアは、旧「ジャニーズ事務所」(今回の記事では、旧社名「ジャニーズ」を使用する)問題の過熱ぶりの余り、きちんと伝えるべき民主主義原理の重要な、ほかの問題をないがしろにしてやしないか。
 そもそも「メディアの沈黙」とは何か。メディアは、萎縮して言論・表現の自由を主張しなかったのか、したのか。
 あるいは、余計な「忖度」をして、ジャーナリズムの原点である「言論・表現の自由」を主張しなかったのか。
 
 ジャニーズ問題は、数十年間も職場で強い権力を握った大の大人(故ジャニー喜多川)が、自分の性的趣向を優先して己の勢力内に入り込んできた未成年・少年たちへの性的な犯罪行為を繰り返しているのを皆が「見て見ぬ振り」や「見過ごし」をし続け、不十分な問題意識のまま、「不正義」が堂々とまかり通ってきた社会が、戦後日本の社会だったということをやっと浮き彫りにしたということである。喜多川氏の未成年者に対する性的な虐待については、1988年、ジャニーズ事務所所属だった元タレントが告発した。1999年は、週刊文春が報道した。2004年には、ジャニーズ事務所と喜多川氏が名誉毀損として告発した週刊文春報道について、記事の重要部分を真実と認定した高裁判決が確定した。
 
 だが、日本のメディアは、この段階では、ほとんど動き出していなかった。この問題をドキュメンタリー番組として最初に放送したのがイギリス放送協会(BBC)だったことは、象徴的なことだったと言えそうだ。その視点は、人気タレントを統括する巨大な事務所と日本メディアの間にある「共依存関係」が、この事象に大きく関わっているのかもしれないと指摘し、報じたということである。「共依存関係」、つまり、もっと判りやすく言えば「もたれ合い」である。芸能事務所も「巨大な事務所」という存在感を持つようになれば、それは「権力」に化けてしまうだろう。メディアの方も、特殊な裃を常時着けていれば、これも警察官の制服のように「権力」に化けてしまうではないか。これぞ、今回の問題の核心にあると私も思うからである。日本のメディアが動き出すのは、今年の8月末の調査報告書の公表や9月7日のジャニーズ事務所の記者会見であった。
 
 ★ 日本のメディアの体質=記者会見は、誰が仕切るの?
 
 今も、変わっていないと思うが、報道する際にメディアが関わる「記者会見と」は、記者クラブが、輪番制(加盟各社が期間限定で当番=幹事社となり、順繰りに役割を交代する)の「幹事制度」の下、記者クラブ加盟社の議論を自主的に仕切るというルールだったはずだ。記者クラブの部屋を提供(あるいは、賃貸)している役所や企業は、記者クラブの自主的な運営をサポートするというものではなかったか。国民にとって重要な情報源であれば、新聞社やテレビ・ラジオ・通信社などの加盟社は、それぞれ複数の社員=キャップ、サブキャップ、複数のメンバーを常駐させて、日々取材・交渉に当たらせている。
 
 ジャニーズの問題が、収束どころか、逆に広がっている。ジャニーズ側から見れば、最初の問題(後述)が、飛び火して、どんどん燃え広がっているのに、ジャニーズ側は、火元と違うところと向き合っていて、とんでもないところに消火剤を撒こうとしているという感じなのではないか。気持ちも体も萎縮してしまっているものだから、そういうことになるのだろう。
 
 ジャニーズ問題というのは、ジャニーズの創設者ジャニー喜多川氏が、創設者としての権力をいわば、水戸黄門の「印籠」のように、10代の若いタレントの卵たち(少年たち)に性癖(病気)に問題のある行動(「性器」を突きつけ、見せつけ)をして、「オレの言うことを聞け」と「性的加害行為」を強制していたということなのだろうと感じていた。だから、問題点は、ジャニー喜多川という人物は、力の弱い未成年者の人権を蹂躙し、性的なひどいことを日常茶飯事のようにしていて、ジャニーズ事務所内では、周りの連中も、自分に降りかかるかもしれない火の粉を払うばかりで、若い少年たちが苦しんでいるのを見て見ぬ振りをし続けたということだろうと思っていた。問題の本質は、未成年の少年の人権蹂躙と性被害の、二つの問題と思っていた。日本ペンクラブは、報道機関(メディア)ではなく、また、日本のペンクラブという独立した組織でもなく、ロンドンに本部のある国際ペンクラブが定めた「国際ペン憲章」の下、ボランティアで活動している団体である。
 
 「国際ペン憲章」を紹介しよう(日本ペンクラブで、日本語に訳した原文をそのまま転記する)。
 
 1. 文学に国境はない、よって政治的また国際的な紛糾にかかわることなく、人々が共有する価値あるものとすべきである。
 
 2. あらゆる状況下において、特に戦時において、遍く全人類の遺産である文芸作品は、国家または政治の一時的な激情にさらされることなく保たれねばならない。
 
 3.ペンの会員は、人々、ならびに諸国間のよき理解と相互の尊敬のためにつねにその持てる限りの影響力を活用すべきである。全ての憎しみを取り除くことに、一つの世界に平和に、そして平等に生きる無二の人類としての理想を守ることに、最善を尽くすことを誓う。
 
 以下、憲章では、4.として、「自由」の原則を追加的に具体的な「ケース」を列挙しているのだろう。
 
 (原則)思想の伝達の自由、表現の自由、報道の自由、政府・行政・諸機関への自由な批判、意図的な虚偽・事実の歪曲など表現の自由の悪用に反対。
 
 実は、日本ペンクラブの中では、私が見聞きした範囲でも、ジャニーズ問題について意見が分かれていたようだ。未成年への人権蹂躙、性的侵害は、けしからんが、国際ペン憲章の平和・戦争・平等などという理念とどう絡ませて声明なり、意見発信なりをするべきかどうかなどの問題が横たわっていたように思う。まず、私自身も、未成年の人権蹂躙問題としてならばまだしも、言論表現の問題として、ペンクラブがジャニーズ問題を取り上げるべきかどうかについては、個人的にも迷っていたのは私に関しては事実だ。
 
 ところが、最近でも、「記者クラブ体質」は、旧態依然のようである。会社側の記者会見進行ぶりを見ていて、気になったのである。
 今は、会社側が記者会見のルールを決めて、記者クラブ側に押し付けているのだろうか。ジャニーズの記者会見は、会社側が及び腰ながら開催されているのだろうか。
 
 例えば、10月2日の会見。記者やリポーター、カメラマン(テレビカメラ、スチール)など。約300人という。記者たちの発言は、記者会見場では、ジャニーズ側が準備した会見下請け会社が仕切って発言者をコントロールしていたという。何度かの記者会見で、「面の割れた」記者、特に、コンパクトに要点を質問する記者ではなく、この問題に関連して自説を長々と述べる、いわば演説型の記者やジャニーズ側に(結果的)不利になるような質問をする(事実や真実を質すために、これをしなければ、記者とは言えないだろうと私などでも思うのだが)記者は、事務所側から嫌われる。嫌われても質問する、いわば、「コワモテ」する記者こそが、理想的な記者だと私は思う。案の定、質問記者「NGリスト」なるものが、会見下請け会社によって勝手に作成され、記者クラブにはこっそり隠される。顔写真とお尋ね者のお触れ、まさに、江戸時代の「人相書き」宛(さなが)らの文書を記者会見の進行を取り仕切る司会者である人物(メディアの報道によると、元公共放送のアナウンサー出身という)の手に渡されていたという。
 
 手をあげても指名されない記者がいる。質問をしようともしない年配の男性記者たちがいる。挙手でうるさい記者たちを怒鳴りつけ、黙らせようとしていたという。事務所側の責任者は、子どもを盾がわりにして「ルールを守る大人たちの姿を見せたい」などと勝手な理屈を言って、記者会見を進めようとすることで年配記者を援護していた。そうしたら、「会見場の一部は拍手喝采に包まれた」という。何か、おかしくないですかね。
 
 このリストが漏れた時には、「記者クラブ」仲間の他社の記者らが、挙手していた当該人物をこき下ろすようなインタビューを流しているテレビ番組もあったのを私も観たのを覚えている。仲間の足を引っ張るようなことをやっている場合じゃないと思うが……。「記者クラブ」の、いつもの横並びの、仲良しクラブの、記者会見であったのだろうか。表面上の体裁を保った会見、国民不在の会見が、そこでは演じられることになる。こういう連中が、記者でござい、リポーターでございと記者会見場を跋扈しているようでは、強い者、権力者に成り上がったジャニー喜多川のような人物には、まさに足元を見抜かれてしまうだろう。忖度以前、取材者の腹の中は見抜かれてしまっている。
 日本のメディアは、今回の事件を通じて、体質改革されるのだろうか。
 
 ★ ドメスティック対応と記者クラブ体質
 
 新聞各社もさることながら、テレビ各局は、自社の芸能番組、ワイドショーなどの情報番組番組として、日常的に馴染みがあるジャニーズ事務所の問題である。恐らくテレビ各社とも報道番組畑の関係者は、「横並び」の掛け声がなくても、エンターテインメントの問題、芸能界のスキャンダル問題、故ジャニー喜多川の未成年少年たちへの性的虐待問題というだけでは、ニュースではないという意識の低さがあったのではないか。私自身は、自分の腰の重さが、この「意識の低さ」に引っ張られていたと思っている。
 
 テレビ番組としてスポンサーになる企業、広告代理店などは、通常の報道局業務としては、スキャンダルも、芸能界のスキャンダルだし、いわゆる「ワイドショー」・情報番組向きのネタである限り、「関係なし」という認識だったのではないか。報道>編成・制作>芸能、という感じだったのではないか。民放のことは詳しくないが、こういう図式が間違っていないとすれば、報道は芸能とは、日常業務も、予算も、広告代理店も関係が薄いという感覚ではなかったか。テレビ各局にしても、今回の事柄については、意識は最初から内向きだったのではないか。「内向き」、つまり、「ドメスティック」だったのではないのか。スポンサーも「ドメスティック」だった。ところが、今回は、海外メディアのBBCが日本に火をつけた。
 
 メディアもグローバル派。判断基準はグローバルな国連標準。
 ニュースの文言は、以下のようなものであった。
 
 「ジャニーズ事務所の『性加害』をめぐり、国連人権理事会の専門家らが、4日、日本記者クラブで会見した。性加害を深く憂慮すべき疑惑と指摘した。日本のメディアは、不祥事のもみ消しに加担した。日本のメディアの責任に言及する場面もあった」(オンラインのメモを含めて概要をまとめた)。
 
 この問題について検証する特集番組を10月7日に、放送したTBSを含め、テレビ各社は、「疑惑」を検証する番組を放送した。9月11日、NHK。10月4日、日本テレビ(いずれも、参照した)。
 
 ジャニーズ事務所のタレントたちと契約して、番組のスポンサーになっていた企業の中には、この案件が伝えられた初期段階からニュースの今後の展開を読んで、契約期間が切れたら、早々と更新しないというトップの判断を実践したところもある。その前社長のインタビューを観たが、ブランド企業の責任者は、こういう時こそ、大局を見通して、大所高所を総合的に分析・判断して、企業への損失を最小限に抑えるようにしなければならないと発言していたが、まさしく、こういう事態の時こそ、判断を間違えないようにしなければならないのだと思う。それができないなら、辞任すべにだろう。グローバル派の社長は、こういう局面こそ、血湧き肉踊る、経営者名利の状況なのであろうと思う。
 
 ジャニーズのタレント起用打ち切り、契約更新せず、などを表明したブランド企業;火災保険会社、航空会社、ビール会社(2社)、自動車会社など。このうち、ある会社の社長は、「人権について真摯に考えた結果だ」と明快に答えたという。「人権を損なってまで必要な売り上げは1円たりともありません」と言ったという。その考え方の根本には、「人権侵害があれば、取引先の企業でも救済のために介入する」という。2011年に国連でも指針に示し、すでに国際標準にしている「ビジネスと人権」という原理的な考え方だという。日本ではグローバル企業、特に製造業を中心に定着してきたという。児童虐待に日本よりはるかに厳しい欧米をはじめとする世界に製造・営業の拠点を持つ企業は、今後、海外社会から評価され続けることになるであろう。曖昧に消し去ろうとすれば、とんでもないしっぺ返しを受けることになるのだろう。
 
 帝国データバンクの調査によると、テレビCMや広告にジャニーズタレントを起用した上場企業65社(9月末)のうち、「中止する」と表明したのは、19社。期間満了後、「契約更新しない」と表明したのは、14社だという。
 
 ところが、日本のメディアは、内向き、つまりドメスティック派(横並び優位主義)だから、こういう芸当ができない。グローバル度を比較すれば、とうに、メディアよりも、大企業の方が進んでいるということなのだろうか。
 
 ★ メディア断章/コロナ感染者
 「北海道以外は皆、減少」
 
 この記事の見出しは、私の試案。「コロナ感染者、北海道以外は減少」の方が良かったか。字数が少なくても、同じ意味を伝えているからである。
 朝日新聞の実際の紙面では、次のようにつけられていた。
 
 *「コロナ感染者、46都府県で減少」
 
 日本列島は、1道1都2府43県。つまり、47の地方自治体で構成されている。どちらが、コロナウイルスの動静を表す見出しになっているだろうか?
 
 厚生労働省は、10月6日、以下発表した。定点医療機関(全国で、約5000箇所)で9月25日〜10月1日に報告された新型コロナウイルスの新規感染者は、計4万3705人だった。1定点当たり、8・83人で、前週比の約0・80倍で、北海道を除く46都道府県で減少した、という。
 
 続報:「コロナ感染減少」
 厚生労働省は、10月13日、以下発表した。定点医療機関(全国で、約5000箇所)で10月2日〜8日に報告された新型コロナウイルスの新規感染者は、計2万5630人だった。1定点当たり、5・20人で、前週比の約0・59倍で、全都道府県で減少した、という。14日付の今回の見出しは、「コロナ感染減少」であった。
 
 続報:「コロナ感染者数香川県以外減少」
 「厚生労働省は、10月20日、以下発表した。定点医療機関(全国で、約5000箇所)で10月9日〜15日に報告された新型コロナウイルスの新規感染者は、計1万8587人だった。1定点当たり、3・76人で、前週比の約0・72倍で、6週連続で全都道府県で減少した」、という。「都道府県別では、香川県を除く46都道府県で減少した」という。
 
 * 引用者注:香川県に触れていながら、具体的な数字を明記していない。ちなみに、「東京2・33人、愛知5・12人、大阪2・77人、福岡2・83人」という列挙の仕方もおかしくはないか? 
 
 続報:「コロナ感染者数7週連続で減少 インフルは増加」
 「厚生労働省は、10月27日、以下発表した。定点医療機関(全国で、約5000箇所)で10月16日〜22日に報告された新型コロナウイルスの新規感染者は、計1万6075人だった。1定点当たり、3・25人で、前週比の約0・86倍で、7週連続全都道府県で減少した」、という。「都道府県別では、香川県を除く46都道府県で減少した」という。
 
 一方、季節性インフルエンザは、去年の冬から流行が続いていて、例年より患者数が多い状態で推移しているという。20日の発表では、インフルエンザの患者数は、計5万4709人で、1医療機関当たり11・07人だったという。「17都県が注意報レベルを超えた」という。インフルエンザも、要注意。
 
 (朝日新聞10月7日付、14日付、21日付、28日付けの朝刊記事それぞれ概を参照し、一部引用)。
 
 コロナ感染は、減少傾向が継続しているが、朝夕の通勤電車内には、まだ、まだマスク必携の人も目立つ。「オルタ広場」の私のコラムに書くか書かないかは別にして、暫くは、感染症の流行状況もウオッチングしておいたほうが良さそうだ。
 (了)
 
 
 (ジャーナリスト)
 
(2023.11.20)
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