【沖縄の地鳴り】

「アメリカ世<ユー>」下の挑戦

  ――日米のはざまでの沖縄立県のあがき

羽原 清雅

 苦しい日米の沖縄戦から抜け出した沖縄。だが、待ち受けたのは米軍施政下の植民地化した社会だった。琉球王国時代に続く薩摩藩の支配、ついで本土政府による異質な統治、そして20万の犠牲を出した沖縄戦、さらにその上に生まれたのが、いわゆる「アメリカ世<ユー>」で、それはかつて経験したことのない、予想しがたい世界だった。
 民主主義到来の新憲法に守られることなく、全島の壊滅状態から再起をめざしたのは米軍の支配下に置かれた27年間だった。戦勝の異民族による差別統治、さらに本土政府から切り離された孤立の中のあがきが続いた。

*終戦後の新体制 1945(昭和20)年6月23日、沖縄戦は沖縄守備隊(第32軍)の司令官、参謀長の自決をもって終わり、8月15日に天皇の終戦の詔勅が全国に放送されて、第2次世界大戦は終わった。

 米国はすでに1943年の時点で、戦勝後の琉球諸島の扱いについて、いくつかの案を検討していた、という(大田昌秀「世界」1979年4月号)。それによると ①中国への移転、②国際機構による統治、③日本による条件付き保有、の3方式。
 ①では、中国(中華民国)はかねて満州、台湾とともに回復すべき領土に琉球諸島を挙げて、意思表示もあった、というもの。②は、北太平洋委員会などの管理に任せるもので、これは日本が軍事目的に使うことを防ぐという程度の案。③は、日本が非武装し、台湾や朝鮮が日本離れすれば、日本の琉球統治は脅威にはなるまい、というもの。
 さらに1943年11月の米英華3国首脳のカイロ会談で、蒋介石が米華の共同管理にしたい意向を表明したが、当時の諸会議では琉球についての話はほとんど出ていなかったという。またポツダム宣言でも、「琉球、沖縄」の文言は出ていないが、「この宣言が沖縄分離の最も重要な根拠の一つになったことは疑問の余地がなく」と、のちに県知事となる大田は記している。

 沖縄では終戦後の8月20日、琉球列島米軍政府の諮問機関として、住民代表15人による「沖縄諮詢会」が発足する。日米両国軍の終戦協定書の調印による正規の沖縄戦終結は9月7日で、すでに戦後の動きが始まっていた。9月20日には、沖縄本島、周辺島嶼の島民収容所など16地区で「市議選」が行われた。終戦から日ならずして、本土よりも素早く、また初の女性参政権が認められたのだ。
 だが、民主主義の好スタートではない。10月23日には、米統合参謀本部(JCS)は琉球諸島を「最重要基地群」の一つに位置付けた。マッカーサー元帥(連合国軍最高総司令官)も、沖縄と日本は別の民族で、その分離は当然、と見ていた。また、沖縄を米軍が確保することで日本本土の非武装が可能になる、とみなしていた。だが米国務省は、沖縄は日本の一部であり、沖縄を非軍事化してから日本に返還する、として、軍と外交当局は対立していた。

 翌46年1月29日、GHQによって、北緯30度以南のトカラ、奄美、沖縄諸島が日本本土から分離されることになる。このうち、サンフランシスコ条約調印で日本の独立が認められると、まずトカラ列島以北が51年12月に、奄美群島は同条約発効後の53年12月に日本に返還される。要は、これらの地域は戦略的に重視されず、日米安保条約締結によって米国の軍事態勢が整ったことから手放したものだ。そこに、沖縄の軍事拠点がいかに重視されていたかが読み取れよう。

*膨張する米軍基地 1945年10月に入って、米軍により収容所に入れられた島民たちが、それぞれの故郷に返され始めた。だが、驚いたことには、米軍はすでに広い地域で基地を建設しており、ところによっては住民の家、住宅はなくなっていた。

 沖縄の米軍基地は占領直後、旧日本軍が建設、敗色強まることで自ら破壊して撤退した飛行場跡を中心に再建して占拠、活用し始めた。戦時の日本軍も当初は飛行場をあまり重視していなかったが、沖縄を担当する第32軍が43年ころから、読谷、伊江島に建設、ついで嘉手納、仲西(牧港)、西原(与那原)の3飛行場に着手、海軍もまた既設の小禄(那覇)飛行場の強化に取り組んだ。時間を争う突貫工事で、伊江島、嘉手納の場合、徴用された県民の労務期間はおおむね10日から1ヵ月間、1日11時間労働、その賃金は半強制的に国債や貯金に回された、という。44年に取り掛かった嘉手納、仲西、西原の工事には1ヵ月で20万超の労務者が投入された。

 日本軍が取得した軍用地の面積は1,408エーカー(5.7㎢)だったが、米軍接収の面積は戦後初期で4万3,000エーカー(174㎢)、実に30倍の広さだった。50年代後半には7万5,000エーカー(304㎢)にのぼった、というから、ただでさえ狭い島の県民の生活に及ぼした影響がどれほど厳しいものだったかは想像を絶する(平良好利『戦後沖縄と米軍基地』)。
 今も返還の遅れている普天間飛行場は、終戦直後に宜野湾村(当時)の9,000住民の集落が破壊、移動させられ、2,400メートルの滑走路が作られた(野添文彬『沖縄米軍基地全史』)。

 ちなみに沖縄県の資料によると、沖縄の米軍専用施設は、日本の国土面積の0.6%を占めるだけの県内に、全国の約70%が集中する。本島にその15%が集まる。専用施設は30余。23%は国有地だが、77%は自治体所有か民有地で、その約4割が民有地だという。ほかに、27の水域、20の空域が米軍の手にあり、漁業などの面で支障も出ている。

*民政府の誕生 1946年4月、米軍政府によって沖縄諮詢会が解散され、「沖縄民政府」が作られた。知事には諮詢会委員長だった志喜屋孝信が就任。また、立法権限などはないが知事の諮問に応える「沖縄議会」(25人)が置かれ、知事任命制の市町村長が生まれた。だが、すべての制度が米国軍政府の下で、その了解がなければ動けず、軍部の思い通りだった。
 本土では、11月3日に新憲法が公布され、翌年5月には施行となるが、日本の一部とはいえ、切り離された沖縄には関係がない。

 46、47年ころには、宮古、八重山、本島など各諸島に政党が生まれる。沖縄の独立、米国の信託統治の主張があり、遅れて本土復帰の声が出るなど多様で、沖縄人民党、社会大衆党、琉球民主党などが次第に保守革新の、本土型の政党になっていった。市町村の首長、議員の選挙が行われたのは48年2月だった。
 50年9月、米軍政が沖縄、宮古、八重山、奄美に分かれて行われていたことで、この4つの群島それぞれで知事、議会議員の選挙が行われた。翌年4月、4諸島を統括する臨時の中央政府ができ、52年4月には一本化した「琉球政府」となり、政党も本土復帰か、独立か、を軸にまとまりを見せていった。3権分立下の初代行政主席は比嘉秀平。また立法院の選挙(同年3月・定数31)は、保守の民主党19、社会大衆党11、人民党1だった。

 同じころ、本土復帰運動に長期にわたって支柱となった全島的な沖縄教職員会が結成され、さらに沖縄青年連合会をはじめ、沖縄市町村長会、沖縄婦人連合会、のちの沖縄PTA連合会などが復帰運動の中心になっていく。復帰論は全島的に次第に強まっていった。

 56年12月、国連総会で日本の国連加盟が可決される。独立を経て、国際社会への復帰である。57年6月、アイゼンハワー大統領は「琉球列島に関する行政命令」を決めて、高等弁務官制度を設けた。この職は、主席、裁判官の任命権、琉球政府職員の罷免権、立法院の立法の拒否権など強い権限を握った。復帰までの15年間、6人の陸軍中将が就任したが、政府に介入することも多く、かえって復帰運動を刺激することにもなった。

 例えば、初代のムーア高等弁務官は選挙法を変えて、前年12月に那覇市長選で当選した人民党の瀬長亀次郎を不信任とするよう議会に仕掛け、1年足らずで失職させた。第2代のブース時代の61年1月、地対空ミサイル「ナイキ」の発射演習を始めた。第3代のキャラウェイとなった3月には、核巡航ミサイル「メースB」基地を読谷、恩納、金武、うるまの4ヵ所に建設すると発表、そのうえ62年10月には読谷の基地から核の発射寸前という事態まで引き起こした。
 この事例で分かるように、軍人官僚は上意下達の姿勢が基本であり、下達された命令に忠実に従うことが第一の任務で、住民の立場を顧みないものだった。

*沖縄への米国の執着 先にマッカーサーの沖縄への姿勢を紹介したが、歴代米国側の沖縄への軍事的執着の強さを紹介しておきたい。

 47年6月、マッカーサーは「琉球人は日本人に非ず」と声明した。また、48年に向けて、欧州での米ソ冷戦状態の進行に伴って、日本の占領政策も変化、沖縄統治の政策も変わって、沖縄は「太平洋の要石」としてウエイトをさらに高める。トルーマン大統領も、「沖縄の長期保有」と沖縄の軍事施設増強に言及(49年5月)、50会計年度予算に沖縄軍事施設建設費の5,000万ドルを計上、基地建設を本格化させた。
 10月には、米軍政府のシーツ軍政長官が沖縄での恒久基地建設に着手、軍事基地化がしやすくなるよう、民主化、復興計画などについて知事、議会、メディアなどに感謝と期待を述べるなど、北風よりも太陽の姿勢を見せた。「シーツ善政」といわれた。

 翌50年2月、GHQはあらためて沖縄に恒久基地建設を打ち出し、6月には国防長官が「沖縄は太平洋における米国防上の恒久的砦になろう」と述べた。
 朝鮮戦争(50年6月-53年7月)が終わっても、53年11月に来沖したニクソン副大統領は「共産主義の脅威のある限り、沖縄は保有する」と発言。さらに、アイゼンハワー大統領は54年1月の年頭教書で、沖縄基地の無期限保有を宣言し、後述するように沖縄でアカ狩りを強化している。その7月には、本土では防衛庁が設置され、自衛隊が発足した。
 55、56両年1月の年頭の各予算教書で、沖縄占領の無期限継続を再確認。56年12月には、国連総会で日本の国連加盟が可決され、国際社会への復帰が容認されるのだが、沖縄の扱いには変化もない。

 60年は安保条約改定、新条約発効に進む画期的な年だが、同条約成立、発効時に沖訪したアイゼンハワーは現状を容認、翌61年の予算教書では「極東の緊張が続く限り、沖縄の基地、施設は保持する」と声明を出した。前述したように、その頃ナイキ発射の演習を始め、3月には「メースB基地4ヵ所建設」が公表された。
 さらに62年1月のケネディ大統領の予算教書でも、「極東の緊張が沖縄の基地を必要とする限り、沖縄に対する施政権を保持する」と述べた。

 このように、世界の警察官を自認する米国にとっての沖縄の重要性は、第2次大戦後一貫していた。米ソ冷戦、中台間の緊張、朝鮮半島をめぐる南北両国と中ソの動向、そしてベトナム戦争と変動は大きく、地勢的に沖縄を重視する姿勢はわからないではない。だが、沖縄県民の日々の生活からすると、認めがたい米軍側の統治であった。

*「天皇のメッセージ」周辺 ここに、ひとつの注目される資料がある。
 それは、天皇による沖縄についてのGHQ宛てのメッセージ。天皇の側近である寺崎英成が、GHQの対日政治顧問シーボルトに会って伝えた内容で、これをマーシャル国務長官、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥に報告した文書である。「天皇のメッセージ」といわれた。
 終戦2年後、1947年9月22日の日付である。天皇はこの年5月6日、マッカーサーに3度目の訪問をしていた。

 「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりではなく、左右両翼の集団が台頭しロシアが“事件”を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているが故に、国民の広範な承認をかち得ることができるだろう。
 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与をするという擬制の上になされるべきである。天皇によるこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう。」

 また寺崎は、天皇の意見とは区別した私見として、次のように述べている。
 「そのための手続に関し寺崎は、(琉球列島内の沖縄を始めとする島々の)“軍事基地権”の獲得が、連合国の対日講和条約の一部としてではなく、アメリカと日本との間の二国間条約によってなさるべきだと考えている。寺崎によれば前者の方法は、強制された講和の色彩を著しく濃くし、〔アメリカに対する〕日本国民の同情的理解を危うくする恐れがあるからである。」

 この資料は、30余年後の1979年4月号の「世界」に掲載された進藤榮一(筑波大学助教授=当時)の論文によって明らかにされた。また、R・D・エルドリッヂの「沖縄問題の起源」でも、さらに詳しく伝えている。
 この天皇の発言は、どのような背景で語られたか、事実関係の裏付けも明らかではない。また、実際に政治を動かすきっかけになったかも不明だが、米軍の沖縄長期保有方針が固まりつつある時期でもあったので、当時厳しく、先行きの見えない状況での沖縄についてのひとつの思いを物語っている。また、今なら天皇の「政治発言」と問題視され、当時としては県民感情を逆なでする内容だった、ともいえるだろう。さらに情的な感覚でいうなら、先の天皇、現上皇夫妻が沖縄に強い関心を抱き、何度も訪れていたのも、昭和天皇のこうした発言について「痛み」を感じたことに起因していたのではあるまいか。

 当時、米ソ関係は極度に悪化しており、49年10月の中華人民共和国建国、50年6月の朝鮮戦争勃発に至る前段階のタイミングだった。また、49年7月からの米予算に初めて沖縄の基地建設予算が計上され、「反共の防壁」としての沖縄の位置づけが決まる、それに先行する時期だった。さらに国内では、50年8月に警察予備隊令ができ、保安隊、自衛隊へと発展、日本の再軍備化が本格化して、「日米同盟」への第一歩が踏み出されている。

 こうして、本土が後方支援基地化し、沖縄は米軍の攻撃基地化するのだが、本土側は戦乱による特需景気によって戦後の復興を可能にしたことで、沖縄の現実には目が向けられなかった。というよりも、米国による情報の遮断もあって、分断された沖縄の姿が本土側にほとんど知らされることはなかった。
 ちなみに、沖縄の実情が本土に広く伝わったのは、終戦から10年も経った55年1月13日付の朝日新聞が「米軍の“沖縄民政”を衝く」という特集記事を掲載したことからだ、と各種の記録でいわれている。ここにも、人為的な沖縄と本土との距離が感じられよう。

*日本本土政府の変身 1945年8月の終戦、占領、新憲法による非武装中立路線、戦犯処理、戦争指導協力者の追放と復活、レッド・パージ、東西冷戦下の朝鮮戦争、米国寄り路線の採用、そして51年9月-52年4月の対日講和条約、日米安全保障条約の調印と発効・・・敗戦国ながら比較的早く自立の道が開けたのは、米ソ対立の中での朝鮮戦争の勃発が大きく影響、それが米国の支援、連携のもとに日本の針路を決定づけ、今日まで続いていることはよく知られているところだ。また、そのような国際環境が、当初の日本の非武装中立型平和国家の方向から、対米依存の軍事体制国家へと変身させていった。

 この日本の針路の転換が大きく沖縄の姿を変えた。沖縄が本土から切り離され、犠牲的に軍事基地化されていった契機はここにあった。最大の戦争被害を受け、犠牲を払った沖縄では、戦後の和平への願望は際立って大きく、今もその思いは消えていない。本土政府の方針転換は、思いもよらないことであり、基地化の現実を受けざるを得ないとする現実的保守派の一方で、基地化を忌避する県民勢力が広く根を張っているのも、このような背景によるものだ。
 これは、沖縄の政党勢力、選挙結果から「保守革新の二分する沖縄」と見がちになっているが、そうではなく、じつは平和希求の思いは通底しており、その現実の受け止め方での濃淡が選挙の票に表れただけなのだ。沖縄公明党が、現実的に与党的立場につくか、あるいは県民の本来の願いに沿うか、うろたえがちなところに実相が見えている。

 1952年4月28日の講和条約発効で日本は独立する。その代償のように、沖縄の軍事基地化が進められていく。この日は、沖縄では「屈辱の日」として、日本復帰の合言葉とされた。
 平和条約第3条には「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(等)を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」と規定された。

*復帰運動の高まり 日本への復帰の思いは、終戦のあとも強かった。前述したように1951年3月には、4つの沖縄群島議会が「日本復帰要請」を決議。4月には4つの群島政府を統括する琉球臨時中央政府が発足すると、日本復帰促進期成会が結成された。
 この年9月には、サンフランシスコ講和会議で、日本の独立が実現することが前提にあった。沖縄統治の形態も徐々にまとまり、翌52年3月には初の全島的な立法院議員選挙があり、4月には琉球政府(初代主席に比嘉秀平任命)が発足、さらに平和条約、安保条約の発効で、沖縄を残す形で日本は独立する。また、56年12月には日本の国連加盟が実現する。

 その勢いの中で、52年4月には復帰運動の軸になる沖縄教職員会が結成、5月には戦後初のメーデーが行われ、11月には立法院が「琉球の即時母国復帰請願」を決議する。
 53年になると、沖縄諸島祖国復帰期成会(屋良朝苗会長)ができ、1月には第1回の祖国復帰県民総決起大会が開かれた。以来、全県的な本土復帰の声が高まっていく。

 そのひとつは、米軍によって基地化する土地の強制的な収容への反発、もうひとつは米兵や軍属による相次ぐ犯罪、とくに子どもたちを巻き込む性暴力犯罪が引き金になっていた。これは過去形で書くべきではなく、日米地位協定の不当、かつ不平等な取り決めのもとに、今もなお続く問題でもある。

*軍用地問題 占領直後に、生き残った県民が収容所からそれぞれの郷里に戻ると、その所有地は軍用地として、有無を言わさず接収され、すでに整備が進んでいた。つまり、農業中心の生活が維持できず、南米などに移民せざるを得ない事態を招くことにもなっていた。
 さらに、沖縄の長期的基地化の米政府の方針のもとに、米民政府は1953年4月、土地収用法を公布して、ただちに安謝、銘苅(現那覇市)一帯の強制収用をはじめ、伊江島では反対闘争(7月)が、さらに小禄(同市、12月)では武装米兵が出動する騒ぎになった。
 当時は朝鮮戦争の開戦前後であり、日本側への融和策のためか、占領下に組み込まれていた奄美群島が本土復帰している(12月)。

 このさなかに、桑江朝幸(のち沖縄市長)が軍用地主らによる市町村土地特別委員会連合会を結成(6月)、翌54年には立法院が土地4原則(地代の一括払い反対、土地の適正補償、米軍への損害賠償請求、新規接収反対)を打ち出した。防衛庁、自衛隊の発足直前のころだった。それでも10月には伊江島の土地接収が通告され、翌55年には伊江島真謝の射爆場の土地をめぐって、阿波根昌鴻らの激しい闘争が続き、また宜野湾の伊佐浜でも「銃剣とブルドーザー」に対する「金は一年 土地は万年」の「島ぐるみ闘争」が展開された。

 55年10月、米下院軍事委員会から土地問題の調査団のプライス団長らが現地入りしたが、翌年6月の勧告では立法院の土地4原則をほとんど拒否された。
 このころには、米国を席巻した共産主義者ら弾圧のマッカーシズムが沖縄にも及んで、瀬長亀次郎ら23人の人民党院逮捕といった事件も起きていた。瀬長はのちに那覇市長に選出(56年末、短期間で不信任に)、復帰後には衆院議員になった。

 土地問題には、保守多数の軍用地主らのグループと基地自体の反対派が絡んだ。安里積千代立法院議長、当間重剛行政主席らの折衝団が渡米、58年11月に米琉共同声明が出され、①地代は毎年払い ②賃貸料の大幅引き上げ ③地主・米軍の直接契約制から地主・琉球政府・米軍の間接契約制に改革、などが決まって、地主らもこれを受け入れることで、軍用地問題は一応の決着を見た。
 ただ本土の米軍基地は、改定前安保条約時(52年)から改定安保(60年)までに4分の1に減ったが、沖縄は2倍の基地を抱えることになった。米側が、日本本土の基地反対・反米感情の高まりを警戒し、本土から沖縄に移設していった、と見られている。

*多発する米側の犯罪・事故 米兵・軍属が駐留するから、犯罪が多いとは思いたくない。''''
 ただ、沖縄占領後、上陸してきた米兵たちは、戦争に駆り出されて男性のいない島に上陸し、本部半島などで大量の凌辱事件を犯している。日本兵が大陸や朝鮮半島で犯してきた不愉快な暴行を、同じように米兵らも犯す。欧米にはクリスチャンが多いから、その教えに沿って人道に背くようなことはしないだろう、と思うと、それは間違いだ。戦争がもたらす蛮行は時代、民族、宗教を超えて、戦争のたびに繰り返される。
 ただ、被害者はその事実を知られたくないばかりに、口をつぐむ。そのために加害者群は社会的な咎めを受けることもなく、平然と生き延びて、罪悪を繰り返すことにもなっている。おのれの鬼畜の行動に恥かしさも覚えることなく、である。しかも、米軍が押し付けた警察、司法の仕組みは身勝手で差別的、さらにその制度は両国政府で協議されることもなく、いまだに続いている。

 沖縄の県民が怒りを表明したことは、数限りなくあるだろう。ここでは、島ぐるみで抗議を示した事例を3例だけ触れておこう。

 ①1955年9月4日、嘉手納の6歳の女子幼稚園児を米軍曹が暴行した。立法院は「鬼畜にも劣る残虐な行為」と決議したが、軍事法廷は死刑から無期、さらに懲役45年に減刑した。
 ②沖縄戦50周年の95年、やはり9月4日、12歳の女子小学生をキャンプ・ハンセンの海兵隊員2、海軍兵1の3人で強姦、米軍はその身柄を日本側に引き渡さず、反基地・反米の機運を高めることになった。地元の宜野湾で10月、総決起大会が開かれ、島ぐるみの8万5千の人々が集結した。
 ③2008年2月10日、コザで14歳の女子中学生を海兵隊員が暴行、だが被害者が「これ以上触れてほしくない」との意向から告訴を取り下げて釈放、軍法会議では禁固4年の判決を出した。日米地位協定見直しを求めて県民総決起大会が開かれた。

 女性たちに対する犯罪は、表面化したケースだけでも相当数にのぼる。泣き寝入りも含めたら、予想をはるかに超えているだろう。
 おかしな話である。独立した日本領土での犯罪を裁くことが出来ない協定を生かし、いまだに許容しているのだ。米国はほんとうに民主主義、人権の国なのか。

 基地による事故も多い。ウィキペディアによると、②1972年の復帰から2012年末までの沖縄での航空機事故は540件で、そのうちの43件が墜落事故だという。事故による住民の被害は示されていないが、①1945年の終戦から71年まで、また③2013年から20年までの計33年間の分を数えると、その①③について、ウィキペディアで拾うだけでも墜落18、不時着5、落下物5、衝突1で、住民の事故死は29人、負傷は240人に及んでいる。

 1959年6月、石川市、現うるま市の宮森小学校に嘉手納基地離陸の戦闘機が墜落、小学生11人を含む民間人17人が死に、小学生156人を含む210人の重軽傷を出したことは忘れられない。63年2月、那覇市の男子中学生が横断歩道で米軍トラックにひかれ即死。米兵は無罪。65年6月、小学5年生の少女が、読谷村で米軍機から落下した小型トレーラーの犠牲になった。2004年8月の沖縄国際大学へのヘリコプター墜落事故もよく知られている。

 事故のあるたびに、地元には悲しみと怒りが渦巻き、とりわけ大悲惨時の時には島ぐるみの大会がもたれ、ぶつけようのない思いを沈潜させる。
 基地には付きものかも知れない。だが、基地が集中すれば、一層被害を出やすくする。しかも、まともな裁判の要求すら排除される。政府は、その権利を求める交渉に取り組もうとしない。そこに、米軍の横暴、政府の沈黙と、県民の思いがますます乖離する。戦後75年に及ぶ今に及んで、である。

*ベトナム戦争と復帰運動の高まり 1963、4年ごろは、明暗が激しく分かれる時期でもあった。米国はケネディ、日本は池田勇人の時代で、新安保条約をめぐる紛糾、対決を誘った岸信介政権の終焉を見届けて、高度成長期の東京五輪(64年10月)で盛り上がりがあった。
 だが、米ソ関係は悪化して、ベルリンの壁構築(61年)、キューバ危機(63年)に象徴される不穏な空気が流れ、また中ソ対立も激化していた。しかも、ケネディの暗殺(63年12月)という異常事態もあった。

 加えて、ベトナム戦争の激化である。ケネディは就任時に、東南アジアのある一国が共産主義化したらドミノ倒しのように他国に拡散する、とのドミノ理論のもと、南ベトナム支援の立場を表明、軍の増派に加えて、殺戮度の高い非人道的なクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤などによる攻撃を進めた。だが、事態は米国にとって思わしくなく、ケネディ暗殺のころにはベトナム早期撤退論も出ていたが、それでも泥沼化した戦闘は続いた。
 米駆逐艦が北ベトナム軍の魚雷艇に攻撃され(64年8月、トンキン湾事件)、翌年2月には米軍は北ベトナムへの空爆(北爆)を開始するなど、戦況は悪化の一途をたどった。北爆開始1ヵ月後、陸上自衛隊の約400人が初めての海外・沖縄での演習に参加、佐藤栄作政権はベトナム戦争容認の姿勢を見せていた。

 その頃すでに、池田首相は病気で退陣、佐藤政権に変わっていた(64年11月)。佐藤就任直前の10月には、中国が核実験に成功、日米間はじめアジアに強い緊張をもたらした。当時の駐日大使のライシャワーは65年7月、本国に対して沖縄問題の本格的な見直しを国務長官に提言したが、受け入れられなかった。その考えは「反基地運動で沖縄の基地存続は懸念される。日本への施政権返還の方法を検討されたい」というものだった。
 佐藤首相の姿勢は一貫して米国の立場を支持、野党などから批判を浴びた。「沖縄返還のため」に米国に寄り添ったものだったか。だが、戦時沖縄の悲劇をベトナムに持ち込んだのではなかったか。現地沖縄の反応は複雑だった。

 その年の8月、佐藤は沖縄を訪問して「沖縄の復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」と表明。すぐには進まないながら、佐藤は返還実現のタイミング、との思いがあったのだろう。
 67年11月、首相訪米で、小笠原諸島の1年内の返還を米側と声明したものの、沖縄には触れられなかった。12月の国会で「両3年の返還」に努力するとし、大問題の沖縄の核兵器について「作らず、持たず、持ち込ませず」の核3原則を明らかにした。
 だが実際は、「核の持ち込み、通過」は事前協議のうえで認める密約を交わすことになる。

 翌68年2月には、B52戦闘機が嘉手納基地に相次いで飛来し、ベトナム戦争に向かうようになる。軍事基地になった沖縄は直接の攻撃対象になることもあって、県民の間に危惧が広まり、立法院は「即時撤退」要求を全会派で決議した。
 この年の7月には、B52爆撃機16機が嘉手納基地に常駐。8月、5代目のアンガー高等弁務官は「基地の縮小、撤去は戦前のイモとハダシの経済に戻る」と述べた。

 だが、この年10月、ジョンソン大統領は北爆停止を表明し、直後にニクソンが大統領に就任した。当時、犠牲となった将兵の増え続ける米国内では、反戦の機運が高まる一方だった。沖縄では11月に行われた行政主席の公選で、復帰運動の中心となってきた屋良朝苗が当選、復帰の空気が盛り上がっていった。1年後には、佐藤・ニクソンの間で1972年返還の線でまとめるまでになった。
 ベトナム戦争については69年1月、やっとパリで第1回のベトナム和平拡大会議が開かれた。だが、戦闘はやまず、ニクソンが「戦争終結」を宣言したのは4年後の73年1月だった。

*いざ復帰 このように、ベトナム戦争と沖縄返還の動きはリンクし、ベトナムでの米軍の敗退、撤退、和平の希求が奄美に続く沖縄の返還に寄与していたのではないか。沖縄の強い本土復帰の動きが促進剤になっていたことは言うまでもない。
 69年11月、佐藤・ニクソンによる共同声明で「沖縄の1972年核抜き本土並み返還」が正式に合意され、米陸軍省は沖縄の有毒化学兵器を撤去し、また米民政府は日本国旗の全面的掲揚を認めた。
 その間に、①70年1月には全軍労の48時間ストがあり、②11月には戦後初の国政に参加する衆院選で自民2、人民、社会、社大の革新3が当選、公明、自民が落ちた。参院選では、革新共同候補と自民が当選。③年末には、深夜のコザで、米兵による交通事故処理をめぐってかつてないほどの大騒乱となった。この3つの事態をどうとらえたらいいものか。日頃穏やかな県民たちの米軍支配への怒りか、本土復帰への興奮か、あるいは復帰後の沖縄の方向付けへの期待なのか。この分析は興味の湧くところだ。

 そして、実際に復帰が実施されたのは1972(昭和47)年5月15日だった。
 沖縄県が誕生。政府主催の沖縄復帰記念式典が本土と沖縄で開催。他方、那覇市の与儀公園では「自衛隊配備反対、軍用地契約拒否、基地撤去、安保破棄、沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒」のスローガンを掲げて県民総決起大会が復帰協によって開かれた。
 6月には戦後初の県知事選で屋良朝苗が当選した。9月末には、自衛隊が沖縄に本格的に移駐した。翌73年5月に沖縄特別国体(若夏国体)、75年7月に沖縄国際海洋博が開幕した。
 自動車の右側通行から左側に変更されたのは復帰6年後の78年7月30日(ナナサンマル)だった。

*復帰後の基地 復帰後も沖縄の基地問題をめぐる動きは複雑だった。主なものを列記しておこう。

・1974. 9 元海軍少将ラロックが「米軍艦は核武装を解かずに日本寄港」と証言
  1981.5 元駐日本米国大使のライシャワーが「核装備艦船の日本寄港は核持ち込みに当たらない」と発言
  2009  元外務事務次官の村田良平が「核持ち込みの日米密約はある」と発言
     <日本政府は否定>
・1991   湾岸戦争で、米軍の1万人が沖縄から出兵
・1995. 6 「平和の礎」完成
・1996. 9 米軍基地整理縮小などを問う全国初の県民投票で、賛成89%、反対8%
・1997.12 名護市の住民投票で、普天間移設反対が54%、賛成は46%
・2003.11 ラムズフェルド国防長官が普天間基地を上空視察「世界一危険な米軍施設」
・2004. 8 普天間飛行場隣接の沖縄国際大学に米軍大型ヘリ墜落
・2009. 7 鳩山由紀夫民主党代表、普天間基地の移転について「最低でも県外」
     <翌年、首相として県外移設断念、日米両政府が名護市辺野古移設を確認>
・2012.10 普天間基地に垂直離着陸機オスプレイ配備
・2016.12 普天間基地所属のオスプレイ、名護市沿岸に不時着、大破
・2017.10 普天間基地所属の大型輸送ヘリが東村の民間地に緊急着陸、炎上
      2ヵ月後、同基地所属の大型輸送ヘリ部品の窓が普天間の小学校庭に落下
・2019. 2 辺野古移設の是非を問う県民投票で、反対が72%、賛成は19%

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 1972年復帰、が決まろうとする69年5月、朝日新聞は一柳東一郎編集局次長のもと、現地での桑田弘一郎編集委員を軸に20余人の記者が5チームに分かれて取材、100回の「沖縄報告」を連載した。筆者も最も若い一員に加わり、沖縄を歩き回った。独自の歴史を刻んだ島々ながら、どこか懐かしさを覚える思いが残り、その後も小倉、博多に4回の勤務の機会があったことで、数十回訪れた。いつか、沖縄と本土の「格差」を書いてみたかったが、難しい課題だった。
 沖縄を観光地として訪ねる若者たちは多い。観光でいいのだが、沖縄の文化と特異な歴史も覗いてみてほしい。その故事来歴の周辺は、多様なものの見方を教えてくれるに違いない。

 (元朝日新聞政治部長)

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