【オルタの視点】

「ファースト政治」のおかしさ

羽原 清雅


 このところ、なんでも「ファースト」が流行語になっている。だが、それでいいのか。いわば、自己中心、ほかは二の次、つまるところ利己主義、自己本位、手前勝手、強者必勝・弱者必滅の論理に通じる。「数」を押さえれば勝ち、という政治が横行する。それでいいのか。そのような政治の台頭がもたらす弱者・敗者・不遇者・ハンデある者・資源小国・後進国などへの影響は、広範なデメリットを長きにわたって倍加させかねない。

◆◆ トランプ・ファースト

 意外感を持たれて登場したトランプ米大統領は、「アメリカ・ファースト」を叫ぶ。大国のリーダーの主張は次々に波紋を招く。植民地として、本国からの排除者による立国として生まれ、黒人奴隷を擁して財を成した国がいま、他民族の迫害された者たちを排除する。彼らの一部がもたらす犯罪や秩序破り、仕事の奪い合いなどを乗り越える前に、まず排除ありき、である。
 島国日本も、他民族受け入れをほぼ拒絶する状態なので、ものがいいにくい。とはいえ、緊急の人道上の問題を「ファースト」「排除」とばかり言っていては前進できない。
 トランプ氏は名うての経済人である。経済人にとどまるなら、「自国ファースト」による利益確保の思考があって不思議はない。一部の資産をもとに、勝ち残りをかけ、利潤を求める。そこに取り残される劣者を置き去りにすることはある程度許容される世界だ。そうした発想から、保護主義的な政策が持ち込まれる。

 しかし、万人を配慮すべき政治の理念においては、弱者必滅や排除の論理は通用しない。「損得勘定」中心の判断はおかしい。むしろ、政治の課題は公平公正のもとに、弱者たちをいかに支援し、平均値にたどりつかせるようにするか、である。そのために自国の発展を考えるべきで、不都合な部分を排他排除することによって、自国権益を守る策は妥当とは言えない。多民族国家としての歴史を持つ国として、イスラム=テロリスト的宗教と判断するような政策は通用しない。経済の論理をもって、政治の世界を律することがあってはならないのは、自明の理だろう。

◆◆ ヨーロッパの「ファースト」波紋

 ドイツ、オランダ、フランスなどでの今年の選挙に向かって、EU離脱の可否、難民受け入れの是非が問われるなか、右派勢力の台頭が目立つ。この保護主義的な動き、また他民族の入国拒否の動向は、トランプ政策に同調するもので、この成り行きとして右派の台頭を予測する見方が増えつつある。潜在していた欲求不満を結集させやすくしたところに、右派勢力決起に対して、トランプ効果が波及したというか、右派主張の正当性をアピールしやすくさせたという効果が認められるだろう。
 だが、この潮流は結果的になにをもたらすのだろうか。保護主義の台頭、閉鎖型社会の構築となれば、国際社会にキシミを生むことも覚悟せざるを得まい。「衆愚」の台頭とまでは言えないにしても、偏狭な世論の結集なら、禍根を残さざるを得まい。
 ヨーロッパ大陸は、第一次、第二次の戦争勃発に見られたとおり、偏狭に自己主張をすれば戦乱を招きがちな地域である。戦後にさまざまな苦労と工夫を重ねて、きしみながらもEU的な譲り合いの風土をつくってきた。この崩壊ともなれば、マイナスの連鎖が起きることも否定できない。
 そこに、トランプ氏がもたらす事態の不安がある。

◆◆ 「ファースト」は狭隘なナショナリズム

 国家、民族にとって、それぞれに「おのれ」に誇りを持ち、おのれを「第一」に考えることは、ごく自然なことだし、当然だろう。個々人の人間が誇りを持ち、他から侵されたくない気持ちを抱くのと変わりはない。そこには対立もあり、トラブルやけなし合いもあり、衝突や戦争も生じてくる。基本に「おのれファースト」の気分がある。
 この背景にあるのは、ナショナリズムだ。ひとつ間違えれば、自意識過剰に、自己を高く評価し、他を評価せず、蔑視、差別視しかねない。そのためにナショナリズムを抑制して、相互理解を高めつつ、共存する方向に試行錯誤しつつ進もうとしてきたのが近現代の歴史だろう。
 ナショナリズムの非に陥りがちな、腕ずくの「ファースト」主義を振り回していたら、個々人にとっては喧嘩、国家なら戦争状態を招く。
 政治や外交は、そうした事態を避けるために、他者・他国を受け入れ、宗教や民族を乗り越えて、調整や妥協、譲歩や条件付き打開などを図ろうとしている。つまり、発言力や効果などは不充分ながら、国際連盟、国際連合を成立させ、またEU、あるいはつぶれたTPPをはじめ、各種の連携や条約、協定などの歴史的実験を重ねてきた。

 そうした前提からすれば、「ファースト」の姿勢は政治以前のことであり、それを今さらのようにアピールすることは、あえて言えば幼稚というしかない。「おのれファースト」からもうひとつ、成長というか、階段を登るところに政治の役割がある。
 だが、アメリカでの国民的な分裂現象に表われたように、過半数割れとはいえ、トランプ氏に対する絶大な支持も存在する。小池東京都知事が圧倒的な支持を確保している現実もある。これは「衆愚」とも言えず、無視できない世論ではあるだろう。ただ、トランプ氏のように、リーダーたるものが一部の支持層を足場に一方的な論理を組み立て、他に対して排除の姿勢をとると、結果的に破たんを招き、政治の後退と長い禍根を引きずることになるだろう。
 また、浅い思い込みと流されやすい風潮の「ポピュリズム」は、ときに大きなうねりともなるので、それは怖い。世論は選挙時など、すごいほどの安定感を示すが、一方でおかしな怒涛のような危険な道を生み出し、その指揮を執るリーダーが一時的とはいえ、英雄のごとき信用を握ることもある。

 このような一時的な興奮の政治を避けるところに、あるべき政治の姿がある。一歩踏みとどまり、他者つまり相手側の立場や言い分に耳を傾け、長期的に多方面への影響を考える、そんなゆとりが欲しい。
 かつて、追い詰められた国民が起死回生の策を求めたり、諦めや無関心から政治の動向に眼を放したりした結果、劣悪なナショナリズム、ポピュリズムをテコとするヒトラーの登場を許した。この歴史的な汚点を長くとどめた史実を念頭に置いて、狭隘な「ファースト」思考を考えなければなるまい。

◆◆ 小池都政の「人気」とは

 青島、石原、舛添、猪瀬と21年間続いた東京都知事は、知名度先行の仕切屋の時代だった。当選のみの人、不登庁の人、金銭悪の人など、都民には恵まれない状況が続いた。言い換えれば、有権者の犯した大きなミスでもあった。そこに、「都民ファースト」の女性が登場、大人気を博している。過去の見えにくかった都政への反発が、多分に貢献したのだろう。
 「都民ファースト」の名セリフは、その象徴だった。それはそれでもいい。

 しかし、彼女は千代田区長選挙の勢いを借りて、都議会の過半数を占める一大勢力を確保しようとする。いわゆる<都民>ファーストグループによる議会制覇の構想である。
 この「数」で押し切ることを狙いとする政治の追求は、民主主義のありようとしては極めておかしく、危険なものだと言える。というのは、民主政治の根幹は「立法」「行政」「司法」の三権分立にある。「行政」の長たる小池知事が、おのれの政治を遂行しやすくするために「立法」の任を担う議会勢力を作り出す、というのだ。国会は、選挙で多数議席を取った政党が行政府のリーダーを送り出すのだが、東京では直接投票の知事が、その人気を頼りに政党組織をつくり、おのれの施策を決めやすい議会をつくる、という。

 行政が立法の府をほしいままにする政治はおかしくないか。単にイエスマンの多数培養が狙いなのではないか。議会は本来、行政の取り組み方についてチェックし、もの申す立場にある。チェック・アンド・バランスの機能である。多数与党が権力を握るにしても、行政との間にひとつの緊張関係がある。だが現実は、必ずしもそうなってはおらず、従来もわずかな予算のおこぼれを頂戴してあとは行政に追従する、というパターンが続いてはいたが、こんどは知事党を結成して正面から「数」で押し通そうというのだ。
 人気があれば、なんでもやれる態勢を作っていいものなのか。民主主義の基本的なありようを否定することが許されるのか。ものごとの可否を論ぜず、「人気」依存の態勢を許容していいものなのか。

 小池知事の手法には、そのような基本的な疑問がある。東京五輪、豊洲移転問題などの追及は人気の源ではあろうが、立法の府は、問題の所在を確認し、その是と非とを明らかにするところに責務を負う。議会周辺には、当選を求めて、党派や足場を都合のいい方に替えようとする議員や候補者がうごめく。もともと政治の理念もなく、名誉心とか打算、損得に議席を求める傾向は世の常ながら、権力を握った者がチェック機能たる議会を占有し、わが意を通そうとする姿勢はおかしい。たとえ、小池知事が今の時点で「人気」を確保できているとしても、その「人気」のままに、思いのままになる議会勢力を生み出そうとすることは、明らかな誤りである。せめて、議会でのチェック機能を発揮することが新政治組織の前提、くらいのことは明確にしておくべきなのだ。

◆◆ 安倍政治の「ファースト」政治の危険

 安倍首相は、各国注視のなか、ゴルフまでしてトランプ氏との「親交」ぶりをアピールしようとした。ゴルフどころの事態ではあるまい、沖縄を売るのか、中国はじめアジア諸国との関係はどうするのだ…‥といった声も出るが、ここではその点には触れまい。

 むしろ、問題は国会である。金田法相、稲田防衛庁長官などの不当な答弁などの根幹にあるのは、自民党の議席の多数占拠、つまり「数」にある。いわば「自民党ファースト」である。
 多数議席の占拠によって、おこぼれ頂戴の政党が尾を振り、さらなる多数派を形成する。もとはと言えば、小選挙区制の矛盾を許すことによって、有権者の得票率は半数を割りながらも、不公正な議席配分制によって、さらなる多数議席を握っているに過ぎないのだが、そこにあぐらをかき、共謀罪、安保法制、特別秘密保護法などの強硬立法と実施を策している。
 反対の論拠をただし、まっとうに論議を尽くせばいいものを、国会の審議を形骸化させ、失言、方言、答弁回避などがあろうとも、結論は「多数結着」を頼りに、時間の経過のみを待つ。しかも、行政資料は黒塗り、法制局長官などは蓄積した論拠を無視し得る人材起用など、「数あらばこそ」の対応である。そんな光景が目につく。もちろん、微弱な野党の責任も大きい。
 これが、安倍政治の「数」に依存する「ファースト政治」の姿である。いわば、国民なり世論なりは「セカンド、サード」に過ぎない。論議を誠実に尽くそうとすれば、政策の支持層は広がろうものを、「数」の自信がそうはさせないのだ。

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 欧米に比べれば、風波の立たないかの日本の政治状況だが、果たしてそうか。
 横着な政治のままに進めば、いつか世論に深い溝をつくりかねない。予想される世論の分断をどう避けるのか。政治のカギを握る中産階級層の二分化、というよりは中産階級大半の脱落の状況はすでに始まっており、政治の上部構造がそのことの重大性をかみしめなければ、トランプ氏のアメリカのような世論の分裂現象を呼び起こすことになるだろう。

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 昨夏、沖縄の伊江島に、反戦と米軍基地化に抗した拠点「団結道場」に初めて行きましたが、先日池袋芸術劇場で文化座の「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」の舞台を見ました。佐々木愛さんたち皆、力演でした。
 あらためて、日焼けした「米軍と農民 ―沖縄県伊江島―」(岩波新書・1973年刊)も読みました。地元の阿波根昌鴻<あはごん・しょうこう>さんが、米軍による農民の土地の強制収容の実態などを記録したもの。
 1955年前後から60年代にかけての確執、闘争でありながら、伊江島は今も米軍基地が大きく占拠、オスプレイなどが飛び交います。
 それ以上に感じたのは60年後の今、「辺野古」新基地建設の手法が当時とまったく変わっていない、ということです。あえて異なる点は、かつては島民の前面に出たのは米軍でしたが、昨今は日本政府が前面に出て、住民の求める対話やきちんとした説明もなく、国策として「辺野古唯一」というファースト政策にこだわる姿です。
 もういちど、この阿波根本を読んで、現状の沖縄と比較してほしいと感じました。

 (元朝日新聞政治部長・オルタ編集委員)


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