【コラム】大原雄の『流儀』

「マスク」・考

大原 雄

2020年、新型コロナ蔓延の中で、その男は、長らく所属した団体をやめた。ウイルスは、細胞を持たないので、生物ではない。が、自己複製する。人間の自然破壊によって、本来の生息地を追われた外来生物に例えられる。本来の生態系では大人しくしているが、違う生態系では、外来生物もコロナも天敵がいないので、生態系の境界線に向かってどんと驀進する。いつの日か境界線が定まれば、旧型人間とも共生することができるようになる。さて、境界線はどこにあるか。
(P.E.N.日本ペンクラブ会報特別号=『コロナウイルスとわたしたち』2020年 8月=2020年9月15日発行より「『新型コロナと旧型人間』 大原 雄」のみ、転載)

★ コロナと人間

コロナ界対人間界を高みから眺めれば…。日本列島の中心部、首都圏という地域。ここでは緊急宣言延長も通算2ヶ月半となったが、あまり効果を上げずに3・21で「解除」となった。中でも、首都圏地区の中心である東京都では、日々の感染者が増える傾向にあるにも関わらず、全面的な解除に踏み切った。「解除」は、難題のコロナ禍を抑圧するという意味での「解決」ではない。現実的にはコロナ禍は、「解除」後のショック的な反応である「リバウンド」(「感染再拡大」。一般的には、「跳ね返り」。診療で説明するならば、服薬を止めたことにより、症状が再発したり、以前より悪化したりすることなどの意味)現象として、コロナ禍を第四波へ「誘導」するような気配(いや、残念ながら、既に、実態か)が各地で濃厚になっている。

特に、西日本は深刻。大阪府などは、4・5から、「まん(蔓)延防止等重点措置」(略称・「まん防」)の初適用となった。対象地域は、大阪府の大阪市、兵庫県の神戸市、西宮市、芦屋市、尼崎市、それに、東日本・宮城県の仙台市。「措置」の適用は、5・5まで。次いで、4・12からは、東京都の23区のほかに、都内の八王子市、立川市、町田市、府中市、調布市、武蔵野市。沖縄県の那覇市など県内の9市が、それぞれ追加された。

やめたり、復活したり。猫の目のよう。まるで、朝令暮改の行政対応の典型である。いかに、今の政権や地方自治体が、迷走しているか。このようにコロナ禍の動向は、不透明で先が見えないので私は、大いに懸念している。もう一つの懸念は、菅政権の動向である。「4月に入ったら、いいことばかり」と、自己中心的な、何処かの能天気な政治家がほざいていると、聞く。

自分に都合の良い政治日程を入れて、政治劇の開幕を準備する。今回の政治劇とは、任期切れの迫った衆議院選挙を保守陣営と自分の保身(政権)、つまり己らの権力維持だけを狙う、政権維持派の寸劇を総選挙という舞台で演じようとしているのだろう。そこには、国民の生命と生活を最優先で守ろうというような気概は、全くない。日本は、どこへ向かおうとしているのか。寄港地を捜しあぐねて漂泊する幽霊船のイメージが、幻視される。

新型コロナウイルスについて私は、2019年の年末に新聞報道で初めて知った。中国の武漢という都市が、○○ロックダウン(都市封鎖)されるという記事が、掲載された。「なに、これ!」というのが、その時の、私の素朴な印象であった。新型コロナウイルスが、歴史的なパンデミックとして、これほど猛威を振るい続ける存在になるとは、想像もできなかった。それほど、私は、もちろんのこと、人類は、無知だったのかもしれない。
以来、コロナウイルスに関するニュースは、相次いで世界の各地から発信され、とうに、地球規模で溢れ出てしまっているかもしれない。宇宙から地球を見れば、地球の周りには、コロナウイルスが、文字通り、コロナ(王冠)のように火焔をあげていることだろう。

それにつれて、私の中でもコロナの火焔は、日々増殖され続けていて、もはや私の内部、特に精神的な内部では、もう、ほとんど延焼・占拠されてしまっている。その火焔は、燃え尽きることを知らないようで、恐ろしい。
それは、私の内部というだけではなく、世界各地、地球規模で人類そのものを延焼・占拠してしまっているようだ。そして、あれから1年半にもなる現在、コロナウイルスは、従来の新型コロナウイルスよりも感染力が高いと見られる「新・新型コロナウイルス」とでも言うべき「変異種」のコロナウイルスとなり、日本国内でも県境を越えて全国的に、その存在が日々強まってきているように感じられる。誠に、不気味な存在だ。

「新・新型コロナウイルス」は、最初は、外国からの入国者の中から空港などの、いわゆる「水際」の検疫施設で見つかったが、その後、外国への渡航歴のない人たちの間からも、見つかるようになり、今では、日本での検査体制が強化されるに連れて、感染経路を特定できないまま新たに見つかるケースも目立ってきた。実態的にどの程度まで感染が広がっているのか、全く判っていない。日本国内で変異しただけの国産型(E484K、N501Y)が、出現しているような気配もある。変異種ウイルスは、日を追うごとに不気味に存在感を増し続けていることには、間違いないだろう。わが命も、「風前の灯火」なのかもしれない、と私などは思うが、こういう危機感が、日本人の全世代に広がって行かないことが、日本での感染予防対策不備の致命的なところではないのか。

3月14日付けの朝日新聞の記事などを参考にすると、現場で検査に当たっている担当者の感覚では、「濃厚接触者で陽性となる人が、かなり多」くなってきているということだった。特に、変異種の中では、「イギリス型」のウイルスが、感染力が強いという印象だという。

★「新・新型コロナウイルス」

「新・新型コロナウイルス」は、まだ、正体が、よく判らないようにみえる。これまで、マスメディアなどで報道されたところからイメージすると、私には、次のような概要が描かれるのではないか、と思われる。

1)感染力が強い?
WHO(世界保健機関)によると、「イギリス型」は、従来型に比べると感染力が、1・36から1・75倍強いと言われる。ウイルス表面の「スパイク」と呼ばれるタンパク質に変異があり、これが感染力を強めているのではないか、と言われる。
2)独特の特異性は?
「南アフリカ型」や「ブラジル型」は、この変異種独特の特異性がある、という。それは、ワクチンを打ったり、ウイルスに感染したりしてせっかく得た免疫の効果を弱める力を持つ可能性がある、という厄介なものだ。

このように、新型コロナウイルスは、さまざまなタイプがあるようで、その変異種は、いまだに全貌がつかめていない。人類と「共生関係」にあるインフルエンザウイルスと同じように、ワクチンがウイルスに抑制的になり、人類がウイルスをある程度コントロールできるようになっても、その年に流行する変異種を予想し、ワクチンを毎年接種することが必要とされる状況が永続的に続くだけかもしれない。何れにせよ、生き物でも無生物でもなく、その中間に位置する、というこの厄介者は、これから先も、人間を悩まし続けることだろう。

WHOが、3・9付けで発表した週報によると、この時点までに変異種が確定している国と地域は、次のとおりである、という。以下、その時点までのデータだが、傾向は判るので引用する。

イギリス型は、111。
南アフリカ型は、58。
ブラジル型は、32。

日本国内では、この時点で、イギリス型に感染した人は、260人。南アフリカ型感染者は、8人。ブラジル型が、3人。

どうやら、新型コロナは、無生物なのに、キャラクターを持ち、そのキャラクターは、悪賢く、人間を掌中で弄ぶように、そして、弄んだ後は、巧みに人間から逃れて、さらに変異して行くようだ。まるで、忍者のようではないか。

これに対して、人間の側の対応策は、試行錯誤の連続で、まだ、新型ウイルスに対する特効薬を見つけ出してはいないようにみえる。急ぎ開発されたワクチンも、副反応などのチェックが、まだ、完璧ではない、というのが実態のようだ。

贅言;千葉県では、3・21の千葉県知事選挙が執行された。8人が立候補した。
うち、半分の4人が、コロナだけを論点にあげて、立候補し選挙戦を戦った。
選挙公報を見ると、一人は、「マスクを外そう! ワクチン危険 打つな! 強毒ワクチンは絶対に打ってはいけません(見出しのみ、そのほかは、略)」。もう一人は、肉筆で「『コロナはただの風邪』の〇〇さん(〇〇は、ほかの候補名)。私達、ただの風邪をひくのも嫌です。(略)」。ほかは、「医師の視点で、コロナ対策(略)」。もう一人は、「毎月7万円を支給します 『コロナは茶番』」などという大文字が選挙公報に踊っている。これも、政治劇かもしれない。

21日に即日開票された千葉県知事選挙は、無所属で新人の前千葉市長熊谷俊人氏(43)が、130万を超える票を獲得して、初当選となった。熊谷氏は、県民党の看板を掲げ、県医師会の政治団体の推薦を受けるなど、政党色を表に出さない選挙戦を展開した。自民党や公明党の一部の国会議員からの支援も受けた。熊谷氏は、事前に立候補を断念した森田健作県知事への批判も取り入れた。コロナ対策にも熱心に取り組む姿勢を強調した。立憲民主党や日本維新の会の県組織などにも支援の輪を拡げた。その結果が、130万票に結実したことになる。

一方、熊谷氏の対立候補は、無所属で新人、自民党の推薦を受け、熊谷氏との「与野党対決の構図」を構築しようとしたが、自民党の国会議員らの不祥事などが相次いだり、国政与党の公明党が、自主投票を決めたりする中で、個人よりも自民党そのものに吹く強烈な「逆風」に候補個人も押し戻された感がある。対立候補の得票は、結局、37万票余に終わり、熊谷氏に100万票の差をつけられて、敗北した。千葉県で非自民系の県知事が誕生したのは、12年ぶりである。県知事選挙の大敗を受けて、自民党千葉県連の幹事長は、開票日に幹事長職を辞任する意向だと表明した。その後、撤回したとか、いう情報も伝えられた。千葉政界に限らず、政治は、一寸先は闇のようだ。

★ マスクこそ、コロナ対策の原点

ワクチンの開発、ワクチン接種の改善など、人類は、ワクチン対策を軸に新型コロナウイルスと対峙しているが、手洗い・手指消毒、マスク、うがいのほか、いわゆる「3密」状態を作らないように生活環境を改善予防するなど、原則的で地道な対応が、引き続き求められている。この中でも、マスクは、人類にとって、重要な予防策のようだ。不特定多数者と接する機会のある場所には、近づかない。止むを得ず、そういう場所に出かけた際、マスクは、必携であり、さらに、帰宅後は、手洗い・手指消毒、うがいなどを励行するようにする。このように、マスクこそは、コロナ対策の原点ともいうべき位置付けになっているようだ。

今や、マスクは、ワクチン同様の位置に祀られているのではないのか。市中などで販売されているマスクは、色彩も豊富、形のデザインも、描かれた絵や模様も豊富、素材も、綿、シルク、ウール、不織紙ほかなど、これも豊富。1920年代は、後世には、断然、「マスクの時代」として、記録されることだろう。

★ マスクと言えば

コロナ禍の中で、「巣篭もり」生活を余儀なくされている私たち。巣篭もりの「おうち」時間を活用して、新型コロナウイルス対抗のためのマスクだけでなく、「そもそもマスクとは?」について考えてみることも、一興かもしれない、と思った。コロナ禍の鬱陶しさや今後への不安感を吹き飛ばし、今回は、気分を変えて、視点も変えて、一風変わったマスク談義へ、皆さんをご案内したい。

さて、ファッションとしてのマスクの効用といえば、まず、思いつくのは、映画ではないか。
まあ、マスクといっても、日本式の口や鼻など顔の下半分に被せるようなマスクは、アメリカ映画では、簡単に登場しないだろう、と見当を付けて、マスク(仮面)から、作品チェック。

例えば、タイトルも、そのものズバリの「マスク(仮面)」。1994年に公開されたアメリカのコメディ映画。お人好しで冴えない銀行員のスタンリー・イプキス(ジム・キャリー)は、ある日、偶然拾った木製の仮面(顔の全面を隠す)をつけると、緑の竜巻とともに変幻自在の怪人・マスクに変身できることが判った。仮面で顔全面を覆うことで、別人格になる、というわけだ。スタンリーは、自分が勤める銀行の窓口で対応した美人のティナ・カーライル(キャメロン・ディアス)に一目惚れしてしまう。超人的なパワーを手に入れたスタンリーは、その力を使ってティナにアタックを試みる、というドタバタ・コメディ。「主演のジム・キャリーのコメディアンぶりが光り、90年代のコメディ映画の代表作とも言える作品」とは、ある映画批評家の弁。

仮面舞踊会の場面などは、映画ならではの華々しさは、いかがか。仮面舞踊会は、映画では、数多くの場面で何度も見た記憶がある。
例えば、近年では、「フィフティ・シェイズ・ダーカー」(2017年6月日本公開)は、豪華な贅を尽くした仮面舞踏会シーンが話題になった。巨大企業の若き起業家にしてCEO、女性ならば誰もが憧れずにはいられないイケメンのグレイ(ジェーミー・ドーナン)と、それまで恋の経験がなかったうぶな女子大生アナ(ダコタ・ジョンソン)との恋愛模様を描く。グレイは親が主催したチャリティーパーティーにアナを招待した。二人は、刺激的なデートを楽しむ。煌びやかなドレスとビシっと決めたタキシード姿。さらに、二人を魅惑的に見せたのは、眼を中心に素顔の上半分を隠すマスクだった。新型コロナのマスクは、顔の下半分を隠す。
パーティー会場の場面も、曲芸師など多くの大道芸人が参加し、場を盛り上げ、さらに200人のパーティー客全員が、ベネチアンマスクと華やかな衣装に身を包んで出演した。その上、そのマスクのひとつひとつに衣装合わせをしたヘッドピース(ヘア・アクセサリー)などが女優たちの髪にあしらわれるといった細部への凝りようが見逃せない衣装が話題となった。

贅言;「ベネチアンマスク」は、イタリア・ベネチアの名産品。年に一度開催されるカーニバル(「謝肉祭」)では、人々は、魔女に化けたりしたカラフルな衣装を身に纏い、「ベネチアンマスク」を付ける。それぞれのコスチュームで着飾った人々は、カーニバルの舞台の中心となるサンマルコ広場に集まる。キリスト教では、肉断ちなどをする節制期間を控えた祝祭が、カーニバル。禁断の期間を前に歓楽が許される日だけに、羽目をはずす。

ここで、おもしろいテーマを思いついた。人間の顔は、上半分を隠すのと下半分を隠すのとでは、どちらが美人に見えるだろうか、ということだ。
その想定で考えてみた。上半分を隠す場合は、ベネチアンマスクで検証し、下半分を隠す場合は、日本的なマスクで検証してみよう。

★「梅川忠兵衛」、傘のうちの美学''''''''

1)仮面舞踊会。映画で観る「ベネチアンマスク」は、ゴージャスだ。仮面は、フルフェイスではなく、上半分だけ顔を隠す。マスクには、両眼のための穴がある。穴の周りは、装飾が華麗であり、豪華である。マスクをつけた男女は、マスクに合わせるように、煌びやかなドレスとタキシード姿などの豪華な衣装を身に纏っている。それゆえだろうか、マスクに空(あ)けられた穴の中に窺える両眼の「瞳」は、衣装に負けている、ように思う。このため思ったほど、男女は妖艶には、見えない。

2)夜目、遠目、笠の内。
日本人の江戸時代の美意識を表すことわざ。美女のシチュエーションを意味する。
夜の暗がりで見る女性、遠くから見る女性、笠の下からちらりと見える女性。こういうシチュエーションに置かれた時、女性はいちばん美しく見えるものだ、という。「いきの構造」(九鬼周造)ばりの、日本人ならではの、相対的な、曖昧さが売りものの美意識。

ネットに掲載されていた「故事ことわざ辞典」を見てみよう。次のように書いてある(一部、引用者による加筆・補筆あり。文責は、引用者にある)。

夜の灯りや、遠くからものを見たときははっきりと見えず、美しいものだと期待してしまう。
はっきり、よく見えないものを、実際よりずっと美しいものに仕立ててしまう(想像する)ものだということ。
夜目、遠目、笠の内のいずれか一つの状況に当てはまった場合にもいう。
また、ぼんやりとしていてよく分からない状態も、これに当てはまる。
「笠」とは、頭に乗せる「かぶりがさ」のこと。
『上方(京都)いろはかるた』の一つ。

3)夜目、遠目、傘の内。…(マスクの上)。
「傘の内」は、前述の「笠の内」の誤りというのが、通説。現代にも、この故事ことわざが生きている状況を考えれば、「笠の内」に加えて、「傘の内」も、ありではないのか?
以下、島崎藤村の「若菜集」から、『傘のうち』を引用してみた。読みやすいように、表現の一部に引用者が手を入れた。ルビも省略した。文責は、引用者にある。

詩は、歌舞伎・人形浄瑠璃の「梅川忠兵衛」の物語(「新口村」の場面)を詠い上げる。廓抜けの遊女のように、雪道を素足で歩む死出の旅路。雪まみれになりながら、人目を避けて逃避行を決行する若い男女の「傘の内」ならではの、「破滅の美学」の美意識を指し示す。大坂で公金横領をした逃亡者・忠兵衛。それに同情する若き遊女・梅川。一張の傘の内に、顔と顔とをうちよせた、不安げな二人の姿が、白い雪の中でぼうっと浮き上がる。黒い、揃いの衣装もうら寂しい。明日無き身同志の、冥途への旅である。

藤村は、詩を詠うシチュエーションで、雪を雨に変えているが、ここは、雪にこだわりたい。ついでながら、島崎藤村は、1935年に創設された日本ペンクラブの初代会長である。

島崎藤村「若菜集」より

傘のうち

二人してさす一張の傘に
姿をつゝむとも
情の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな

顔と顔とをうちよせて
あゆむとすれはなつかしや
梅花の油黒髪の
乱れて匂ふ傘のうち
恋の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間や
染めてぞ燃ゆる紅絹うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋に戯れて
それ忠兵衛の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて    
傘の涙を乾さぬ間に
手に手をとりて行きて帰らじ
(引用、終わり)

★ マスクの「上」の、美学

2020年から21年の、ただいま、顔の下半分を覆うマスク姿の男女が街中にあふれている。マスクの上には、二つの瞳だけ見える。瞳の上には、頭髪。ここで存在感を主張するのは、断然、瞳である。男性たちの場合、それほど、存在感を感じるわけではないが、女性たちの場合、二つの瞳は、女性を美しく、艶めかしく、誰をも可愛らしく見せてくれていると、私には、思われる。これは、なぜだろうか。仮面をつけた男女。フルフェイスなれば、男女とも素顔の機微を窺わせない。顔の上半分に被せられた「ベネチアンマスク」では、マスク部分が強調されて、瞳の存在感が薄められてしまう。それが、顔の下半分を隠すマスクならば、素朴なマスクであればあるほど、顔の上半分で存在感を誇る瞳に魅力が集まる。傘の内の美。マスクの上の美。ここに、共通する美がある。その辺りに、マスクを着ける美意識があるように思える。

★ 隈取りとコロナ''''

歌舞伎の話が出てきたので、歌舞伎のマスク(仮面)について、触れておきたい。「えっぇ!歌舞伎に仮面なんて、あまり聞かないなぁ?」という人も、多いかもしれない。歌舞伎では、登場人物のうち、武士で身分の高い人物(立役)が、世間から正体を隠すために頭から顔まで隠れる頭巾を被って登場する場面がある。また、女性役(女形)が、御高祖(おこそ)頭巾を被り、お忍び姿で登場する場面もあるだろうが、今回は、ジャンルとしての頭巾を紹介するつもりはない。

贅言;宗十郎頭巾(そうじゅうろう ずきん)。江戸時代、主に武家の男性が被った頭巾の一種。「宗十郎頭巾」の名前の由来は、寛政8年正月(旧暦。1736年2月)江戸の控櫓・桐座で初代並木五瓶原作の「隅田春妓女容性(すだのはる げいしゃ かたぎ、通称「梅の由兵衛」)」が初演された際、主役の侠客・梅の由兵衛を勤めた初代澤村宗十郎が、その男伊達(男のセクシーな美意識)を演出するために考案した頭巾から、称されるようになった、とある。当初は「茶の錣頭巾」(ちゃのしころずきん)などとよばれた、という。この演目が当たり狂言(人気演目)となり、以後、澤村家の宗十郎代々が、これを家の芸としたことから、主役のトレードマークである「頭巾」が、「宗十郎頭巾」として定着した。
御高祖(おこそ)頭巾。目だけ出して、顔と頭を全部つつむ、和服の婦人用の防寒ずきん。昔の日本の婦人たちの美意識や封建意識の反映したもの。

今回、ここでいう歌舞伎の「マスク(仮面)」とは、実は、歌舞伎の「荒事(叙事劇)」で用いられる歌舞伎独特の「化粧」方法を簡単に説明したい、と思う。

繰り返すが、「荒事」で用いられる化粧方法は、「隈取(くまど)り」と呼ばれる。隈取りは、歌舞伎で用いられる最も特徴的な化粧法である。隈取りは、時代ものという演目で、男の役者が演じる立役と呼ばれる役柄や性根の特徴をひと目で観客に判らせるように表現する。そのために、役柄の顔の下にある役者の筋肉や血管の隆起を強調し、その役柄の感情や意思をクローズアップさせて、観客に見せつける。顔をキャンパスがわりにして、紅、藍、茶などの色に塗り分ける。そういう化粧を施した結果、役柄が異なって見えてくる。

例えば、「紅隈(べにくま)」は、正義の人や主役を表わす。「藍隈(あいぐま)は、敵役、悪人、さらに怨霊などを示す。「茶隈(ちゃぐま)」は、鬼、精霊などの異形の者、怪奇な登場人物である「変化(へんげ)」を表わす。「猿隈」は、滑稽な人物や猿などを表すために、猿の顔を役者の顔に写し取る化粧法である。

歌舞伎では、こういう人物などを表現する化粧方法を独特の表現で「隈を取る」と言う。隈取りでは、顔に筆で紅や藍の線を引き、片側を指でぼかすのが基本的な化粧方法である。直に素顔に貼り付けるように筆で描く仮面(マスク)である。このいう化粧方法を用いる隈取りは、逆に言えば、まさに、顔に直に着けるマスク(仮面)と言えるだろう。以下、各項目の説明では、日頃から利用している『歌舞伎用語案内』を改めて参照し、引用もした。表現を一部改めて使用したりした。改めて感謝したい。文責は、引用者にある。

★ 隈取りとは?

*「紅隈」のうち、いくつか説明しておこう。

「筋隈(すじぐま)」:地は生白粉。鼻筋、額、顔の両側に隈を取る。鼻と口を割る(鼻を紅で縁取り、口角に墨を入れる)。
典型的な役柄では、
『暫』の鎌倉権五郎、『矢の根』の曽我五郎など。荒事の代表的な隈取りである。

「むきみ隈(むきみぐま)」:地は生白粉、隈は目張りの延長となる簡潔な隈。
典型的な役柄では、
『助六由縁江戸桜』の助六は若い男性のセクシャルな色気を持たせるように、筋を細く描く。『寿曽我対面』の曽我五郎は荒事の青年らしく力強く描く。

「二本隈(にほんぐま)」: 地は生白粉。目尻、眉尻から出た二本の隈をやや上がり気味に取る。単純な筋に力感を出す。眉とは別に筋を描くこともある。青黛で髭を描き、墨で目張り、口の内側にも墨を入れる。
典型的な役柄では、
『菅原伝授手習鑑』の「車引」の松王丸。

「芝翫筋(しかんすじ)」:地色は砥の粉。眉尻、目尻から上に向けて芝翫筋といわれる赤い筋を強く引く。
典型的な役柄では、『熊谷陣屋』の熊谷。

*「藍隈」では、

「公家荒(くげあれ)」:地は白塗り、額に位星(くらいぼし)をつけるのが特徴。青黛で隈を取る。顔の両サイドの隈は内側に、額の隈は外側に、頬の隈は下側にぼかす。顎にわらび形の隈を入れる。眉は濃く、はっきりと描く。
典型的な役柄では、
『車引』の藤原時平公。『妹背山婦女庭訓』の蘇我入鹿は眉を書かず、目尻からこめかみに向けて上がり気味に描く。

*「茶隈」は、

地は砥の粉を混ぜた白粉か生白粉。額の部分は刳りに沿って描き、下にぼかす。目尻の隈は一度上に大きく上げてから下ろす。頬の隈と目の隈を取る。口は大きく裂けたように描き、眉は付け眉毛。
典型的な役柄では、
砥の粉を混ぜた白粉の地は『土蜘』の土蜘の精、『茨木』の茨木童子など。『紅葉狩』は生白粉の地である。

*「猿隈」は、

地は生白粉。額の一番上の筋はかつらの刳り(くり)に沿って取り、額の二本の筋はバランスを見て描く。頬には太めの一本の筋を取り、大きくぼかす。付け髭の左右の髭を繋げる糸の上に墨を入れる。眉は、八の字に茄子のような形に描く。これを「なすび眉」という。
典型的な役柄では、『寿曽我対面』の朝比奈など。

歌舞伎は、化粧をする。一方、能楽は、化粧をせず、代わりに仮面を用いる。能楽師は、仮面(能面)を「面(おもて)」という。面は、鬼神や亡霊など超・人間的な役、老人と女性の役などに用いられる。現実の壮年の男性の役を演じる場合は、面をつけず(かけず)、素顔で演じるのが、原則である。仮面をつけない場合でも、能では、化粧をしない。素顔で役を演じる。「直面(ひためん)」という。つまり、顔も「仮面(マスク)」の一種なのである。

歌舞伎では、役者が化粧をすることによって、さまざまな役柄を表現する。役柄は、類型化されている。白、赤、黒、青の四色を基本とする歌舞伎の化粧によって、登場人物の役柄が、観客には、ひと目で判るようになっている。赤(紅)は血管。黒(墨)は筋肉の盛り上がりなどを強調する。特に地肌の色は、その人物の役柄の基本を示す。基本的に、白い顔は善人や高貴な人で、「白粉(おしろい)」で顔一面を均一に塗ることから白塗り(しろぬり)と呼ばれる。

歌舞伎に限らず、日本には古来、顔を白く塗る伝統がある。白は高貴な色であり、神に選ばれた者の証である。また、色白は美人の条件でもあり、日に当たって労働することのなかった当時の上流階級という地位や身分を表していた。「白塗り」は、基本的に白の分量が多ければ多いほど(つまり、真っ白に近いほど)、高貴であり、悪と対照する「善」の度合いが高い、とされた。ただし、悪人でも高貴な人は白塗りである。

一方、顔の色が茶色に近い肌色の人物は侍や町人や悪人であることを表わす。これには、「砥の粉(とのこ)」と呼ばれる粉が使われる。

もう一つの特色は、紅(赤)の使い方である。口紅や頬紅のほか、目張り(めはり)と呼ばれる目元の化粧や隈取りにも紅を使用する。「隈取り」は強い印象を与える化粧方法で、「紅隈(べにぐま)」の赤は、正義のヒーローの勇ましさ、血の滾(たぎ)り、血管の盛り上がりなどが表されている。一種のクローズアップ効果を狙っている。

黒は眉や目張り、立役の口などに使われ、顔のメリハリ、つまり、アクセントの要素に使われる。青は清々しさや清潔感という明るいイメージとともに、青ざめるなどの暗いイメージがある。藍隈は悪人などの隈取りに使われ、不気味な印象を与える。さしずめ、新型コロナウイルスの変異株は、正体を見せるならば、藍色の隈取りをしていることだろう。

コロナ禍は、まさに風雲急を告げており、今も、コロナ禍第四波襲来、蔓延中。次号では、掲載にタイミングが合えば、「面・首・隈 ~マスク・考(2)~」と題して、能楽や人形浄瑠璃と仮面について、考えてみたいが、どうなるか。

★ 吉右衛門、倒れる

現代の歌舞伎界の大黒柱である播磨屋の巨星・中村吉右衛門が、体調を崩している。3・29の朝、テレビで、「吉右衛門倒れる」というニュースが流れた。
人間国宝の歌舞伎役者・中村吉右衛門(76)は、28日夜、東京・歌舞伎座「三月大歌舞伎」の第三部の「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の石川五右衛門役に出演した後、立ち寄った都内のホテルで食事中に体調不良を訴え、病院に搬送された、という。29日に出演する予定だった東京・ 歌舞伎座の「三月大歌舞伎」の千秋楽の舞台は休演する、という。甥(兄の息子)の松本幸四郎が代演する。さらに、幸四郎が演じる予定だった真柴久吉役は中村鴈治郎(62)が代わりに演じた。

松竹によると、吉右衛門は28日夜、都内のホテルで体調不良を訴え病院に搬送されたという。一時は、心肺停止状態になった、という情報もある。その後は、都内の病院で療養しているという。
現在76歳の吉右衛門は、半世紀以上前、22歳で二代目中村吉右衛門を襲名した。時代ものの演目では、重厚で深みのある演技で歌舞伎界の名優の一人として活躍してきた。既に、文化功労者にも選ばれている。歌舞伎界の重鎮である。

吉右衛門は、ことし1月にも体調不良を理由に、東京・歌舞伎座の舞台を一時休演・途中で再度出演し直すなど体調を崩したりしていた。

歌舞伎座三月歌舞伎
第一部「猿若江戸の初櫓」。新作歌舞伎。江戸に歌舞伎を持ち込んだ猿若を中村屋兄の勘九郎が、相手役の出雲の阿国を弟の七之助が演じる。猿若座という芝居小屋の初櫓(お目見え上演)を皆で言祝ぐ。「戻駕色相肩」。主な配役は、浪花の次郎作を松緑が、吾妻の与四郎を愛之助が、それぞれ演じる。
第二部「熊谷陣屋」。古典の時代ものの名作、「熊谷陣屋」という名場面。主な配役は、仁左衛門の熊谷直実、錦之助の源義経、孝太郎の熊谷妻相模、歌六の弥陀六など。「雪暮夜入谷畦道」。通称「直侍」。直侍は、菊五郎の当たり役。菊五郎が演じる。相手役の三千歳は、時蔵が演じる。按摩杖賀は、東蔵が演じる。
第三部「楼門五三桐」。吉右衛門は、石川五右衛門を演じたが、途中で体調不良となり、休演。真柴久吉を演じていた幸四郎が吉右衛門の代役を勤めた。さらに幸四郎の代役は、中村鴈治郎が演じた。Aプロ「隅田川」では、母の強い愛情ゆえ狂気に捉えられた斑女の前を玉三郎が演じる。舟長は、鴈治郎が演じた。Bプロは、玉三郎の所作事二題。このうち、「雪」では、芸妓、「鐘ヶ岬」では、清姫を玉三郎が演じる。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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