【沖縄の地鳴り:番外編】【書評】

「平島大事典―トカラ列島・暮らしの中の博物誌」稲垣尚友著

 羽原 清雅
 

画像の説明

 労大作である。大型本(B5判)、554ページ、収録項目760余、著者によるイラスト・写真など220点余。定価5400円プラス税。大作、というのはそのことではない。内容のことに尽きる。ピーク時の人口は200人以下、昨今は71人の「点」のような小島に、著者がたどり着いて以来、島の生活に関心を持ち続けて半世紀、その執念がこの力作を実らせた。多彩にしてユニーク、広く深く現場に密着しつつ、クールな眼を向けて書き綴っている。
 
 著書のうたい文句に『もうひとつの日本が見える』とあるように、短視的で狭い枠組みの社会にとらわれすぎる現状の日本社会を、島の生活を通じて日本の生活潮流を対比的に見るとそういうことになるのだろう。また、「島暮らしの中で体に刻んだ体験と記憶から生まれた驚異の事典」とうたうことにも文句はない。
 活字離れの時代に、書籍の高騰ぶりに手が出にくい。できることなら、近隣の公立図書館に購入を求めて、心ある人たちの共有の書として読んでいただきたい。
 
 わが道を行く筆者 この本の紹介の前に、まずは筆者の個性ある半生に関心を寄せると、さらに興味と関心を刺激される。自称の肩書は竹細工職人兼「籠屋新聞」社主。この新聞、折々の行動や知人たちとの交流を記し、これまたユニークで面白い。手書きコピーの「籠屋新聞」の現46号に生い立ちが載る。2歳半で父が他界、小学生ながら「ニワトリの世話をし、畑を打ち、6年生の時は早朝の納豆売りをして小遣いを稼ぐ。しかし、苦労人よばわりしてもらっては困る」と書く。東京・九段にある中学校の授業で、金槌と鋸(のこぎり)を家に持ち帰り、自分の部屋を作ろうと押入れの外壁に鋸を入れた。文句も言わない家主が曲尺(かねじゃく)を持参、依頼されて小鳥小屋を作るなど大工の腕を上げた。
 
 1942年、東京生まれ。早逝した外交官の父親の道を目指すが、「自己流は大工と算数以外には通用しなかった」。受験勉強や詰め込み教育のつまらなさなどから国際基督教大学を2年で中退、いや「自主卒業」と判断する。時に22歳の1964(昭和39)年。「その後は自己流バイパス一点張りの歩みであった」。
 長い歳月、リヤカーを引き、竹細工の名人を求めて学び、全国を放浪する生活が続いたが、その最初の着地の場が鹿児島県の本土と奄美大島の間に点在する薩南のトカラ(吐噶喇)列島だった。そこは、人口700余の鹿児島郡十島村内にあり、この村は有人の7島だけで両端130キロに及び、無人の島も5島抱える。著者稲垣尚友さんが落ち着いた平島<たいらじま>はそのひとつである。
 今は無人となった臥蛇島生活を経て、1973(同48)年夏から平島に住み、労働生活の中でそこの風俗、歴史などを体験する。「臥蛇島金銭入出帳」「トカラの伝承」(1971年)、「平島放送速記録」(75年)を書き、その間には「トカラの地名と民俗 上下」をガリ版刷りなどで刊行する。
 この大事典の出版後の計画は、体調が整えば沖縄・那覇を皮切りに薩南の徳之島、名瀬、平島から鹿児島、熊本、日向、唐津、門司、出雲、広島、新宮、岡崎、静岡など、かつて関わりのあった各地を回る予定だ。答礼の旅、なのだろう。
 要は、いささか時代を超越し、江戸時代の気配を抱きながら現代の人間を生きる人物なのである。なにかにこだわるかの日々ながら、各地の人々と穏やかに接し、いっときは奇異に感じた人たちとも親しくなり、再訪が期待される。「個」に生きながら、こだわりを見せず、ふんわりと交わる。そんな気性が、この「平島大事典」の背景に見え隠れする。
 
 この書の特性は  内容に触れる前に、この大事典の特性に触れておきたい。
 タイトルに「平島」とあるので、有人7島のひとつである「平島」を取り上げるだけの材料や意義はあるのか、と懸念もあった。著者が住み着いたころからちょうど50年のいま、やはりその最初の強烈な印象からこの島の名を冠したようだ。たしかに、平島が軸に据えられているが、内容的には南九州から台湾に至るまでの南西諸島の「琉球弧」を広範に取り上げている。時に沖縄に触れ、奄美大島に飛び、またトカラ列島に戻る。江戸期以前から現代に至るまで、あの島この土地にわたって、きわめて自在に、且つ多彩に話題を網羅している。それが、つぎつぎに興味を誘うのだ。
 もう一点は、学術書にはないバラエティ豊かな内容で、歴史あり、紀行あり、宗教あり、言語あり、経済や政治あり、拾い読みが楽しいのだ。論理的、実証的に一定の結論を導き出すような学術的な研究書ではなく、ページをめくって目に留まった項目を読み、その関連項目を追って興味・関心の思いのままにめくり続ける面白さがある。
 筆者が出くわした「へえー!」という驚きや意外感、ニュース性を大切に書き留め、あっちに飛び、こっちに走る様子がうかがえるのだ。その面白さに引きずりこまれて、ついついページをめくってしまう、そんな書である。
 
 一端を紹介すると 話題の幅が広く、具体的な記述が多く、どう紹介したものか大いに迷うが、詳細はぜひ「平島大事典」を!! いくつかの項目に触れてみよう。字数の関係で、引用すると膨大になるので、文章や言葉を短縮したり、多少意訳したりしているが、事実関係はそのままである。

 <時代>
 【ふじちゃくひこうへい(不時着飛行兵)】終戦末期、トカラの島々には、南方に向かう特攻機などの軍用機が多数不時着、宝島には27機も。生還の兵士は温かく迎えられ、元兵士から戦後50年以上経って100万円を島宛てに寄贈されることもあった。戦災としては十島村や奄美大島などを含めると、死者20、負傷10、住宅全壊252戸、半壊57戸の記録がある。

 【くうしゅう(空襲)】広い砂丘のある宝島は米軍機の標的にされ、集落の三分の一の約40世帯が焼失した。27機もの飛行機が不時着していたため、駐機中の飛行場と思われたのかもしれない。中之島では米軍機にロケット弾などで6人が犠牲に。小宝島では機銃掃射で2人負傷、15戸焼失。平島の空襲は3回で、死者1と山火事、また駆逐艦2隻に護衛された船団の大船が米軍機の攻撃で炎上し火の海に。応戦の日本軍も米軍機を3機撃墜の由、日本兵の遺体5体上がる。

 【しゅうせん(終戦)】平島の人たちが終戦を知ったのは9月8日、24日後だった。「凄惨な事件」があったのは宝島。島に駐留の日本兵が戦時中、島民を使役し、食糧難のなかで供出を強要、女性への悪行などがあり、これを知った島出身の復員兵が報復制裁を加えた。
 終戦19日後、中之島の学校ではまだ武道訓練が。また9月29日、北緯30度線を境に、十島村が本土から分離され、米軍下に置かれると知る。「『大本営発表』は『嘘つき』の代名詞に」(【敗戦】の項)。

 【みっこう・みつぼうえき(密航・密貿易)】トカラ、奄美、沖縄など琉球弧の島々が「日本」でなくなり、米軍政下に置かれた数年間、島々の間、あるいは鹿児島本土との往来は禁じられた。そのため、米軍などの監視の目を盗み、親族に会うために密航したり、生活必需品などの密貿易を試みたり、密航船が往来するなどの「特異な暮らしを経験」した。終戦直後の人口は内地、外地からの引揚者たちが増えて22万人を数えていた。
 藩政時代は島特産の黒糖が売れるので、幕府命令による木曽川改修などで資金難の薩摩藩は、四囲が海の島々でありながら漁業を抑制して島民に黒糖生産を強いた。島民必需の米麦豆などは、金銭の流通を止め、藩が砂糖代価に換算して支給するなど、安い砂糖価格で高い物資を買わせた。「悲惨な黒糖地獄」である。明治維新後になると、資金を持つ鹿児島など本土の商人が進出して物流を抑え、貨幣経済に未知の島人を苦しめた。商人ばかりか、上層部の官界や経済界、教職の座は本土出身者が占めた。演劇などの文化面なども同様だが、こうした具体例などは多彩に紹介されているが、ここでは紹介し切れない。この項は9ページに及んでいる。

 【にほんふっき(日本復帰)】北緯30度以南の島嶼は、太平洋戦争終結後、米軍の支配下に置かれ、「日本」ではなくなった。日本復帰は十島村が終戦7年後の1952(昭和27)年2月4日、奄美大島群島が1953(同28)年12月25日、小笠原諸島が1968(同43)年6月26日、沖縄が1972(同47)年5月15日にそれぞれ復帰した(羽原註)。

 【たいふうじゅうななごう(台風17号)】1976(昭和51)年9月、島々を襲った戦後最大の雨台風。西日本一帯で死者、行方不明169人。諏訪之瀬島では5人の犠牲者。9月10日から15日までの記録が9ページに及ぶ。

 【しゅうがくりょこう(修学旅行)】宝島校が最初で、戦後6年目の1951(昭和26)年。鹿児島本土に行くには、北緯30度線の「国境」を密航船として越えなければならない。現金収入の乏しい時代で、参加生徒は14人中10人。村の全校での修学旅行は昭和39年からで、同46年以降は少人数では観光バスも仕立てられないので、2年に1度、小学校は5、6年生、中学校は2、3年生が一緒に。島の人口はこの頃から激減、平島では同42年中卒は10人だったが、6年後には4人に。
 2019年、平島で生まれ育った子どもはいなくて、小中校生14人全部が島外から来た

 【さんかいりゅうがく(山海留学)】生だけ。この制度は1991(平成3)年に発足した制度で、今も続く。(羽原註)島出身者や島に魅せられた人たちの子弟で、まずまずの人気のようだ。
 
 <生活> 
 【えいがじい(映画小父<ジイ>)】白黒映画のフィルムを持参して、平島で上映した人の呼称。昭和30年代に奄美・名瀬から定期船で来て上映会を開き、定期船で次の島に異動して上映したようだ。会場は集会所か校庭。(羽原註)終戦直後の東京でも映画会は同様だった。

 【えんとう(延灯)】1962(昭和37)年、平島で電気利用農協が発足、学校の教材用発電機(5キロワット)を利用して給電した。時間が制限され、時間が来ると発電機が止まり、あとは各戸とも灯油ランプを使った。結婚式の宴、行事後の慰労会などの際は「延灯」を願い出て既定の料金を払った。

 【ガスれいぞうこ(ガス冷蔵庫)】平島では1975(昭和50)年、電力供給が1日7時間の供給になるが、朝の2時間の送電後は夕方まで送電されない。その時点までは電気冷蔵庫は使えなかった。その代わりがプロパンガス利用の冷蔵庫で、1971(同46)年に学校、裕福な3軒の計4台が島内で使われていた。1台10万円近かったという。

 【クリスマス】平島でクリスマスを名乗る集いがもたれたのは戦後31年を経た1976(同51)年が最初。若い独身男性の教員宅に男女中学生が集まり、みんなで手料理を用意して歌やおしゃべりを楽しんだ。きっかけは、その2年前大阪帰りの27歳の日高重光が日常品を扱う店を開き、早めにクリスマス用の菓子、玩具入りの長靴を仕入れたことからのよう。

  【カツオづか(カツオ塚)】今は無人化した臥蛇島で、年に1万尾以上のカツオが水揚げされた年にこの供養塚を建てた。【笹森儀助】なる元奄美大島を統治した島司(1845‐1915)は、歴代島司のなかで唯一十島村の島々を3カ月半をかけて巡った人物で、貴重な調査報告書「拾島状況録」を残しており、その時にこの塚を確認している。(羽原註)ちなみに、笹森は青森の弘前藩士の出身で、青森では今も知られている。

 島民は【ちょうようのせつ(重陽の節)】旧暦9月9日に集まり、奄美大島の方角に掌を合わせて拝む。これは先祖の祀りではなく、源氏に追われて大島に渡った平家の残党の霊を、平島に住み着いた同族が慰めるためだという。

 【たびのひと(旅の人)】平島に住民登録をした人も、島派遣の教員や現場監督なども、さらに仕事を終えて島で暮らす人でも「旅の人」という。後者は「入り込み(いりこみ)人」とも。「旅の人」でも2世からは「トコロノヒト(所の人)」になる。つまり、土着と認められる。【ところ(所)】の項もある。

 【だれやめ(疲れ止め)】晩酌、のこと。黄昏時に仕事を終え帰宅すると、風呂を浴び、膳に向かい、一升瓶の焼酎を飲む。仲間が来て時に【やまいもほり(山芋掘り)】つまり「口論」になる。根が深く張り、右に少し掘っては左を掘り交互に掘り進むが、なかなか元にたどり着かない。酔いが回って、ああ言えばこう言うで話が進まない光景を指すようだ。時には【にわとりげんか(ニワトリ喧嘩)】といわれる酒席での口争いで、売り言葉に買い言葉の執拗な争いになることも。【いざけまつり(神<居>酒祀り)】といわれる、通りすがりの人に「いざけを飲んでいかんか」と誘いの声をかけるような仲直りをすることもあるようだ。

 【としままるばいてん(十島丸売店)】村営定期船の十島丸には売店がある。島々に寄港すると開店する。船客は船酔いを避けて船内は歩かないので、閉店状態でいい。口之島、中之島、宝島のように概して人口の多い島には島の商店が利用できるので、船の売店は利用されない。だが、平島ではかつて島には唯一の商店しかなく、しかも焼酎と煙草だけしか置かず、十島丸寄港時には島民が売店に菓子や冷蔵庫のジュース、ヤクルト、LL牛乳などを買いに来た。<羽原註>2023年5月、レントゲン撮影のための各島回りの船に乗った際、2,3のおばあが売店の自動販売機にアイスクリーム、アイスキャンディを買いに来ていた。

 【のろし(狼煙)】平島にはヘーケガホリ(平家が堀)というノロシを上げる地がある。島に逃れてきた平家の残党が各島に散った仲間に源氏の動向を知らせるためのノロシ場だ。
 藩政時代には、中之島に詰めている在番に緊急事態を知らせる信号の場に。平島では、年貢船を夜間に出航させる場合、沖待ちの船にノロシで知らせた。琉球王国では、進貢船や接貢船が中国大陸から那覇へ帰港するときに航路の諸島にノロシ台を設け、船影が見えたら島伝いにのろしを上げさせて知らせた。1隻なら1回、2隻なら2回、外国船なら3回など。これを受けて最後に早馬が首里城に知らせた。ノロシを使った最後は戦後間もないころで、肥後ナカなる平島生まれの女性の死を臥蛇島から平島に知らせた時だった。
 <羽原註>なぜノロシを狼煙と書くか。中国旅行の際に聞いたのだが、狼の糞は食べた獣の脂が多く、ノロシの火が長持ちするので多用されたからだ、と知った。

 【はやりやまい(流行病)】腸チフス、流行性感冒、赤痢などが記録、伝承に残る。明治期には、内地や奄美からの船が寄港して病人がいると、疫病を恐れ、村中で1週間仕事を休み、毎日シオ(潮)を汲んで神前や屋敷に散布した。前述した笹森儀助の「拾島状況録」によると、1862年に麻疹がはやり平島の老人1人が死亡。1883年の赤痢の大流行時には、死者は出なかったが、島人の半数以上が罹った。ただ、赤痢菌が残ったようで、2年後に地租改正に来た地券役人が罹った。6年後の1889年には腸チフスで10人罹病し、3人が死んだ。1959(昭和34)年4月に流行性感冒がはやり、180島民の4割72人が罹り、4人が死んだ。今は急患が出れば、鹿児島本土などに搬送できる。

 【みなまたびょう(水俣病)】「ネコてんかんで全滅、ねずみの激増に悲鳴」(1954年8月1日付、熊本日日新聞)が水俣病の第一報で、公式に水俣病が認定されたのは1968年。
 チッソ(旧新日本窒素肥料)KKが、この病気のもとになるメチル水銀化合物を生むことになったアセトアルデヒドの生産を始めたのは1932年。害毒を長い間垂れ流し続けたものだ。それでも、患者認定の申請はいまだに続いている。水俣湾の小魚が逃げ出さないように網を張ったが、東シナ海の回遊魚が小魚を食べて水銀汚染を広げた結果、口之島にも4人の疑似水俣病患者が発見された(1972年5月)。そのためか76年頃、トカラの島々でも頭髪検査が行われて、各自頭髪を切り小容器に入れて鹿児島市に置かれた町役場に送られた。水銀被害はインカ帝国の時代に使用を禁じられており、稲垣氏は「チッソがこうした歴史事実を知らなかったはずはない」と書いた。(羽原註)1965年、駆け出し記者の新潟で昭和電工による新潟水俣病が公表され、新潟大学の椿教授らの発表を記事にしたことがある。なんでこの地にまで広がるのか、と驚いたが、いまだに解決し切っていないことはさらなる驚きである。
 
 <旅館・経済など>
 【いちまるりょかん(一丸旅館)】など 戦後の中之島西区に一丸旅館、東区に大喜<おおき>旅館の2軒があり、戦前は小幡屋があった。トカラのほかの島には旅館はなく、民宿のみ。旅館の利用者は工事関係者や十島村役場からの出張職員たち。役場は鹿児島市内にあり、職員は9割までが同市民で、直接島に用事があると出張してくる。島々の住民は旅館に泊まることはない。
 帆掛けの丸木舟の時代から、各島間に宿の相互交換の習わしがあり、互いに無料で泊まる。天候不順が続くことのある島の生活上、気兼ねなく長期でも泊まれる宿が必要だ。この宿の相互利用制度を【おやこ(親子)】という。何世代にも亘る例も少なくない。行った先の島に親しい関係者がいても宿泊先を替えることは許されず、「心変わりはしても、ヤド替わりはするな」が鉄則。船旅は厳しく、現金収入が極端に限られていた時代で、旅人を丁寧にもてなさない人間は、自分が旅先で不憫を囲っても誰も振り向いてくれない、との教えだ。
 オヤコの新規の誕生は1975(昭和50)年前後までで、これは定期船就航の結果でもあるという。気象などの不定期な帆船の時代が終わり、現金収入の時代に変わったためだ。

 【あたりまえ(当たり前)】「ごく普通のこと」を言うのではない。共同漁に出た者が受け取る魚の「配当」のこと。「今日のアタリマエはカツオが5コン」といえば「今日の配当はカツオが5匹」ということで、コンは数詞。海中に潜って銛で獲物を突く苦労の多い仕事では、配当は多め。1979年の大型発電機配置、翌年の定期船接岸港の完成で、冷凍用コンテナによる鹿児島の魚市場への直接出荷が可能になったことで共同漁は不要になった。

 【いっぽうしごと(一方仕事)】「専業」のこと。島では漁、農作業、植林、建築など生活一般の仕事が共同で行われるので、専業はない。島では、異職種の交流がなく、職種間の摩擦、切磋琢磨の機会もない。専門職、技術習得の格差やその身分制もないから、新米も熟達者も扱いは同じ。人口が少なく、現金の扱われない時代の島では特殊な個人の「技」も皆の「共同財産」だった。

 【あさくらしょうてん(朝倉商店)】平島に1973、4年にできた酒、たばこの商店。この項目によって島の経済がわかる。1965年ころから自家製の芋焼酎に対する税務署の規制が強まり、市販の醸造酒を買うようになる。だが、時化で村営の定期船の欠航が続くと、食料は女性のやりくりでしのぐが、3週間目には焼酎の買い置きが切れてしまう。定期船が待ちきれず、はしけ舟で悪石島に買い出しにも行ったが、片道で3時間かかった。買いだめしたくても金が続かない。
 それまでは、鹿児島市内に置かれた村役場内の村の漁協購買部を通して商品を取り寄せていた。また定期船が来たら、船の売店で若干の買い物はできたが、品薄で欲しいものはなく、また船員に買い物を頼むこともできたが、気楽に頼みにくいこともあった。  
 そこで、焼酎と煙草については朝倉商店が生まれた。さらに、その後に別の店が大阪から引き揚げてきた夫婦によって開店、日用雑貨を扱うようになった。島の生活、島の経済の一端を示す項目だった。
 
 <伝搬文化・交流文化>
 【あんかり】英語のアンカー(錨)と日本語の「イカリ」の合成語。終戦後の米軍進駐後に使われるようになる。ランプの時代に懐中電灯が入ると「チ(池)」。素潜り漁の水中電灯が入ると「スイッチ」。船のデッキグラスは「デッキ」。こうした新造語は消えていきやすい。「アンカリ」は、戦後35年後の1980年に定期船の接岸港が完成し、接岸時の操船を主導する十島丸船員の使う「アンカー」が共有されたことで消えていった。

 【イギリスざか(坂)】トカラの宝島には、今もこの名の坂がある。「三国名勝図会」(1843年)による。1824(文政7)年、イギリスの捕鯨帆船が宝島近くに停泊、まず7人が上陸して、手振りで牛が欲しいという。薩摩藩派遣の島在番の下級武士が対応して拒否。翌朝、14、5人が再上陸、牛が欲しいとしてウイスキー、パン、衣服、時鳴鐘(時計)、
 金貨銀貨を差し出したが、異国交易はご法度につき野菜などを渡したが、牛は拒否。だが入れ違いに、3艘のはしけに2、30人が鉄砲を発射して上陸。沖の本船も大砲を放ち威嚇、島側は応戦力なく、イギリス船員らは3頭の牛をおさえて引き揚げた。火縄銃でひとりの船員が死んだ。
 この1件などが江戸幕府に伝えられ、1825年に強硬手段をとる異国船打払令が出されたが、外国船の出没が多く、1842年にこの措置を緩和した「天保の薪水給与令」が示された。平島には1746年、15人乗りの清国福建省の漁船、1780年には28人乗りの山東省の船が漂着、全員が長崎経由で送還されている。1842年には臥蛇島にイギリス船が寄港した。
 このようにトカラの島々には【いこくせん(異国船)】の到来が少なくなかった。

 【いちょまん(糸満)】 【いちょまんうり(糸満売り)】 【いちょまんめがね(糸満眼鏡)】トカラ諸島には琉球時代の沖縄の名残の名称、風習、コトバなどが多く残されている。 
 糸満は沖縄の地名で、トカラとの関わりは深い。素潜りで魚を取る文化のあるトカラでは、糸満からの影響が大きく、イチョマンとは、平島では潜水漁法に長けた漁師を言う。   
 イチョマン売りとは、糸満同様に貧しいこの島では幼い子弟の年季奉公に出したのだが、家事、子守、馬車曳きなどの仕事よりも、主力は潜り漁なので、そう呼ぶのだろう。人身売買となることもある。
 糸満で考案された独特の水中眼鏡はトカラでも便利に使われたようで、潜り手の頬骨にぴったり合うよう枠を作り、それにガラスをはめ込んだもの。糸満ではミーカガンと呼ぶ。
 このように沖縄とは共通のことも多く、沖縄の孤島である【くだか(久高)】という言葉は、優れた潜水漁法の漁師の総称として使われるよう。奄美大島で「クラカンシ―」の呼称が使われるが、これは「久高の衆」の意味だという。海に囲まれ、閉ざされがちな島では、他の島々の優れた道具や手法などをはじめ文化や言葉などが吸収されることが多い。
 
 <その他>
 【あか(赤)】島内の集落で、みんなが同調することに反対する者に対して言う。戦前の為政者が赤化思想の蔓延を畏れて思想統制を強めたその名残か、1970年代頃まで残っていた。テレビなどのない時代の国政選挙の時、候補者の立会演説など聞くこともできないままに一票を入れざるをえない。島にはかつて文字の書けない人のために投票所に代筆人が置かれていて、候補者一覧から一人を選んで代筆人に頼むのだが、その候補者が「アカ」だった。それで、そのことが島内に広がり話題になったため、投票したい人名を身近な人に紙片に書いてもらい、それを代筆人に見せて記入してもらうことになった。
 【しおけ(塩気)】酒のつまみ、塩分の利いた肴をいうのだが、【ぶえん(無塩)】という対語がある。これは、刺身のことだ。干物や塩漬けしていない鮮魚、という意味だ。冷蔵庫が普及する以前の用語である。
 【じか(地火)】大地に種を蒔いたり植えたりしてはいけない日のこと。ある年の場合、旧暦の4月7、8日に、こんなことに反発した小父<おじ>が田植えを強行したところ、その年に病の床につき、そのまま帰らぬ人になった。採れた米は葬式時に使われた。
 【じっとうビール(十島ビール)】自家製の芋焼酎のことで、「ヤマ」ともいう。市販のものよりアルコール度数はかなり低く、ビール並み、ということか。「七島」という言葉は古くから使われていたが、「十島」は明治41年に「十島村」ができて以来の用語だから、そのころ以降の名称か。平島では1965年ごろまでは「ヤマ」ばかりで、来客か催事などの時にだけ鹿児島県産で市販の焼酎【しらなみ(白波)】が出される。65年ころに、税務署が「ヤマ」を密造酒としたので、市販の「白波」が普及するようになった。
 【ハエノハマ(南之浜)】平島の海岸の名称。この大事典にないことを書くのだが、沖縄のコトバで東西南北を「アガリ」「イリ」「ハエ」「ニシ」といい、東と西は太陽の絡みとわかるが、北を「ニシ」というのはわかりにくい。平島で南を「ハエ」というのも、沖縄と類似した文化を持つ一端のことだろう。

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 著者稲垣さんは、この書の「はじめに」で次のように書く。「十島村内には有人島が7つあるが、個々に異なったコトバや文化をはぐくんできた。体躯も異なる。隣の島なのになぜこうもかけ離れているのか・・・その因のひとつは文化、なかでもコトバの伝播は島伝いではないからである」とする。
 以下を要約すると、➀難破船の乗組員がしばらく島に滞在しただけでコトバの抑揚や音韻が影響を受ける、②平島のコトバが種子島のそれに似るのは、藩政時代に平島が種子島家の所領だった、③政治犯が島流しの刑に服して平島に渡ってきた遠島人の影響は格別に強く、政治犯のほとんどが武士階級で島民はひれ伏して仕える、④琉球王府の覇権が平島に及んだ時代のコトバが今も少なくなく生き続ける、⑤ヤマトから入った古いコトバの痕跡もある、などである。
 一方、丸木船の時代は機械船や航空機の時代に、海底ケーブルによる電話の普及から電波によるネット通信へ、と島の暮らしを一変させる。大型の定期船が接岸できる埠頭ができ、電話、電気、水道が完備され、公共事業がやってきた。それまでの物質の不足を「協働」を心得、労賃の介在しない協同作業が暮らしの隅々にまで行き渡り、モノの貧しさに凹むどころか、精神の輝きに満ちていた。1970年代後半になると、ガラッと変わり、島内で公共事業が行われ、労賃という名の商品、つまり貨幣の流通が広がると、モノがあふれ、協働の場も激減した。他人の手を煩わせることが少なくなると、都市生活者と変わらない「個」の気楽さが生まれる。義務教育が終えると、子弟たちは皆島を出て都市生活者の仲間入りをする。島の道ですれ違っても挨拶ができない関係が生まれた。
 稲垣さんは、こうした抗えない現実に「一部の島民は何かしら物足らなさを感じ始め」「喉の渇きを覚えるものが出現する」と見る。そして、この大事典で「コトバの起源を明らかにすると同時に、時代とともに広がっていく語彙の内容も追い求めようとし」、その「コトバの意味を追っていくと、好奇の心が疑問点を限りなく展開させてくれる」ことで、「まずは日常の暮らしの下層に眠っている『島』を浮上させてみることから始めよう」と知るのだ。

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 分厚な書を面白く読んだ。ぜひ手に取ってみてほしい。そして、稲垣氏の生き方を絡めて読むと、さらに楽しくなる。
 大量に売れる本ではないだろうが、もし増補版が出るようになれば、その際には、索引を付けてほしい。また、人名、漁業、宗教、道具などの種別の索引も欲しい。
 繰り返せば、本離れの風潮の中での高値の書なので、近くの公立の図書館に購入すべくお願いしてみて欲しい。
                     (元朝日新聞政治部長)  
※編集事務局注
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「平島大事典―トカラ列島・暮らしの中の博物誌」稲垣尚友著

 (2024.3.20)

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