【コラム】
大原雄の『流儀』

「憲法くん」という、私の同級生(4)
~日本国憲法の源流・「五日市憲法」草案~

大原 雄


日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ。 
(「五日市憲法」草案のうち、第二篇 公法 第一章 国民ノ権理 四五より)

 「『憲法くん』という、私の同級生」という項目のシリーズは、とりあえず、今回で了とする。この項では、1947年1月生まれの私の自分史と絡めて、1947年5月施行(公布は、1946年11月)の日本国憲法を「同級生」に見立てて、『あたらしい憲法のはなし』(1、2)、沖縄(3)、「五日市憲法」草案(4)にテーマを絞って4回連載で書いてみた。

 戦争に負けた日本に戦勝国を代表してアメリカが押し付けたから、という理由で、「押し付け憲法」などと渾名される日本国憲法。この日本国憲法に、源流とも言える憲法草案があったことは多くの人たちに知られているだろうか。日本国憲法は、国民の間から発想された憲法、という側面を大事にしたい。

 頃は、明治期。幕末期の黒船来航で鎖国の惰眠から強制的に覚醒させられ、不平等条約を列強から、まさに押し付けられた日本国。その不平等に気がついた国民各層の人々は、それぞれの思いを込めて日本国を近代化すべく、「国家の形」のイメージを描き、動き始めた。そういう潮流の一つに自由民権運動があった。

★自由民権運動

 自由民権運動は、理解をするのに、なかなか、一筋縄ではいかない、ものだと思う。「自由民権運動とは、旧士族や豪農、農民たちが中心になって行った自由を求める政治活動」というのが、教科書的な表現かもしれない。幕末・維新期の下級士族らによる倒幕運動の結果、徳川幕府は倒れ、天皇を頭に掲げた維新派が明治期の政治体制を牛耳った。当時の明治政府の体制は、藩閥政治と言われ、薩長土肥の西国諸藩の下級武士出身の改革派が、「立身出世」して、権力者層を形成した。これに対して、藩閥政治を批判し、「国民」の政治参加、国会開設、立憲政体などを要求した人々がいた。

 1873(明治6)年、いわゆる「明治六年の政変」がおこり、「征韓論」を主張して敗北した板垣退助や西郷隆盛、江藤新平などが明治政府を去った。その後、不平士族となった江藤新平は、「佐賀の乱」、同じく西郷隆盛は、「西南戦争」での武力志向に向かった挙句、敗北した。板垣退助は、言論という手段で明治政府へ働きかける活動に戦術を切り替えた。それが、「民撰議院設立建白書」であり、自由民権運動が広がるきっかけとなった。

 板垣らの主張は、「憲法制定」、「国会開設」、幕末期に欧米列強から強制された「不平等条約の改正」、「地租の軽減」などであった。言論表現というメディアを活用し、各地に勃発した政治活動が自由民権運動であった、と言えるだろう。一方、明治政府は、「新聞紙条例」や「讒謗律」(ざんぼうりつ。1875年に出された太政官布告。名誉毀損に対する処罰を定めたもの。その後、旧刑法制定に組み入れられ、これに伴い廃止された)を作り、政府に批判的で、急進的な言論活動を取り締まった。自由を求める人権の運動対それを抑圧する権力による戦いは、メディアの規制という形で現在まで続く。

 明治政府に対する不平士族の民権運動は、その後、豪農民権運動、農民民権運動と広がり、国民各層の「人権」への目覚めが、活動の機動力となった。こうした各種の自由民権運動は、担い手も主張も違うけれど、共通の目的は、あった。それは、国会開設運動ということであった。

 1880(明治13)年、全国の民権派活動団体が大阪に集まって、「愛国社」の全国大会を開いた。この大会で、参加者たちは、「国会期成同盟」を結成した。8万7,000人余りが署名をし、40編以上の私擬憲法草案が発表された、という。

★私擬憲法、続々誕生

贅言;「私擬憲法」草案とは、大日本帝国憲法発布を前に、明治期に民間で検討された憲法草案のこと。「しぎけんぽう」と読む。現在60編以上の草案の存在が知られている、という。私も、若い頃、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や千葉卓三郎の「日本帝国憲法」などを読んだ記憶がある。このうち、千葉卓三郎の「日本帝国憲法」は、今回ここで詳しく取り上げるもので、通称、いわゆる「五日市憲法」草案と呼ばれている。

贅言追加;ちなみに、大日本帝国憲法は、1889年2月11日に「発布」された。日本国憲法は、1946年11月3日に「公布」され、翌1947年5月3日に「施行」された。言葉として、「発布」と「公布」の使い分けは、いかに? 1889年、当時の政府は「発布」という言葉を使っていた。1946年、当時の政府は、「公布」という言葉を使っていた。「発布」という言葉は、現在も法律用語としては使われなくなった、というだけの話。

★「五日市憲法」草案

 五日市憲法草案は、51年前、1968(昭和43)年8月27日に、東京経済大学文学部・色川大吉(いろかわだいきち)教授らのグループが、当時の東京都西多摩郡五日市町(現在の、あきる野市)の深沢家にある土蔵の中から発見されたことから、この名で呼ばれるようになった。

 色川大吉さんの本は、私はまず、『増補 明治精神史』(黄河書房刊)を読んだのが、最初だっただろう、と思う。発行元の黄河書房というのは、多分、今はないのかもしれないが、当時も、知られた出版社ではなかった、と思う。私の書庫の書棚に所蔵されている本を見つけて、50年ぶりくらいに取り出してみた。しっかりした厚紙の箱に入った本である。奥付に明記された黄河書房の住所は、東京都杉並区久我山2—501となっている。刊行日は、1968年6月18日初版発行。定価は、1,300円。現在は、講談社学術文庫や岩波現代文庫にも所収されていて、名著らしい扱いを受けている。

 『明治精神史』は、歴史と文学の違い、思想と精神の違いを検証することをテーマに、北村透谷など明治期の思索的な青年たちの思想、あるいは、思想以前の精神の軌跡を描いている。当時大学生だった私は、古書店で、絶版ゆえ高価な価格を付けられていた、1964年に刊行された最初の『明治精神史』には手が届かなかった。それだけに『増補 明治精神史』が4年後に発刊された時は、小躍りして喜び、貪るように読んだ記憶がある。
 私の印象では、色川大吉『明治精神史』の刊行の、大きな業績の一つは、その内容からして、「精神」や「精神史」という言葉が、その時代まで持たされていた右翼的な色彩を拭ってくれたことではないか、と思っている。

 「BOOK」データベースに掲載されている『明治精神史』の紹介文を取り上げてみよう。「民衆思想史の草分けとなった著者の記念碑的代表作。大学紛争が全国的に展開され、近代の価値が厳しく問われていた時代にあって、大きな共感をよんだ、戦後歴史学、戦後思想史の名著」とある。
 そういう本だから、その後、新編が刊行されて古書価格は下がった。神保町界隈などではない街の普通の古書店で色川大吉『明治精神史』(黄河書房。杉並区久我山2—501。昭和39年6月22日発行。定価880円)の初版本を見つけた時には、内容がほとんど重複しているにも関わらず、購入をし、今も書庫の書棚に所蔵している、というわけだ。色川大吉という歴史家との出会いは、まず、『明治精神史』であり、ついで、「五日市憲法」草案、ということになる。

 さて、「五日市憲法」草案の発見のきっかけとなったのは、色川大吉教授のゼミ(日本近代史)で、明治、大正、昭和の100年間の近代日本の歴史を賛美する日本政府の歴史観への疑問が、テーマとしてあげられたことによる。この憲法草案を土蔵の中で実際に、最初に手にした新井勝紘(あらいかつひろ)さん(当時は、東京経済大学4年生。その後、学徒の道を歩み、専修大学教授となる。新井さんは岩波新書に『五日市憲法』などの著作がある)は、輝かしい近代日本の発展を強調するばかりで、近代日本を挫折に導いた先の戦争時代に対する反省がない当時の論調に疑問を抱いた、という。色川ゼミの討論でも、「戦争を繰り返してきた100年間が、国を挙げて祝うような歴史だったのか」などという反論が出ていた、という。私が、NHKの社会部記者として新井さんにインタビュー取材をした時にも、新井さんは、同じような批判をしていたことを思い出す。
 色川ゼミでは、「地域住民たちの視点で100年の歴史を改めて検証しよう」ということになり、色川教授の提案で、地域の旧家の土蔵を調査することになった、という。その結果、「開かずの蔵」といわれていた深沢家の土蔵の中から出てきたのが、五日市憲法草案だった、というわけだ。

★町田自由民権資料館

 「五日市憲法」草案の話題を、NHKの社会部記者だった私が、朝のニュース枠で記者リポートとして放送したのは、明治100年でも、自由民権運動100年でもなく、町田自由民権資料館が1986(昭和61)年に開設された、ということをきっかけにして、東京・多摩地区の地域史の中に自由民権運動の位置付けをどうすべきか、というような問題意識をベースにニュースにしたのだと思う。
 町田自由民権資料館は、町田市を始め多摩地区の自由民権運動や地域の歴史に関する資料を保管・展示している。元々は、地域の自由民権運動に携わった村野常右衛門(むらのつねえもん)が、私財を元に建てた文武両道の道場「凌霜館(りょうそうかん)」の跡地を、村野常右衛門の子孫から町田市に寄贈されたのを活用して、町田自由民権資料館として建設された、という。

贅言;村野常右衛門という人は、どんな人だったのだろうか。村野は、1859(安政6)年~1927(昭和2)年。明治期から大正期にかけての政治家。自由民権運動家・実業家から神奈川県議会議員を経て、貴族院勅選議員、衆議院議員を歴任。自由民権運動家では、いわば、第2期段階の活動家だったようだ。

★「五日市憲法」草案前夜

 明治期。日本が近代国家になるための胎動期。国民各層で、それぞれの国家像を求めて活動していた。地方地方で政治結社が作られた。結社の自由などという原理も明示されない時期で、勝手に結社が作られ、明治政府は、後手に回りながら、「集会条例」や「新聞条例」などの法律を作って、言論表現活動を規制し、国家形態が明確になるにつれて、権力による規制がなされるようになったりした。

 当時の五日市地域には、「学芸講談会」という政治結社が作られた。相模地域では、「湘南社」という結社があった、という。「湘南社で」は、「講学会」という私的な「学校」を作り、英語のできる講師を雇って、生徒たちは語学を学んだり、英語などの原書も購入して、政治・法律・経済などの学習会を開いたりしていた、という。資金のある豪農や豪商などの階層の人たちが、東京の神保町などに出向き、書籍を買い集め、人を雇い、志のある青年層に学習させたようだ。したがって、学習会の講義内容も、結構レベルが高かったらしい。多数の私擬憲法草案が各地で作られた背景には、こういう事情があったようだ。

★生涯、「五日市憲法」草案研究

 深沢家の土蔵の中で、竹製の箱に入った和紙24枚綴りの包みを最初に手にした新井勝紘(あらいかつひろ)さんは、それがオリジナルな憲法草案だと知って驚愕した。東京経済大学文学部を卒業した新井さんは、その後、生涯をかけて「五日市憲法」草案の研究を続け、専修大学の教授になる。その体験を集大成したのが、新井さんの著作である岩波新書『五日市憲法』である。ぜひ、一読をお勧めしたい。

贅言;このニュース企画を取材する際、土蔵を含めて深沢家の取材にも私は参加した。30年余前のことで、記憶も鮮明ではなくなっているが、草深い山の奥に分け入ったような場所に深沢家があったような印象がある。母屋や土蔵のたたずまいは、いかにも地方の旧家という風格があったように思う。

贅言;史跡になっている深沢家屋敷跡は、武蔵五日市駅から徒歩でおよそ1時間かかった、という記憶がある。

★「五日市憲法」草案

 すでに触れたように、「五日市憲法」は、別名を「日本帝国憲法」という。全204条からなり、そのうち150条は、基本的人権について触れている。基本的人権の尊重、教育の自由の保障、教育を受ける義務、法の下の平等、さらに言論の自由、信教の自由、地方自治権、外国人の権利についても記されている。草案起草者たちには、国民の権利保障に対する意識がいかに強かったかが、窺がわれる。「学芸講談会」での集団学習の成果とみられるように、草案は、地元農民らの集団学習発表の成果をまとめたものだと言われている。定説は、メンバーの一人、千葉卓三郎が、1881(明治13)年に起草したという。清書された「五日市憲法」草案には、「陸陽仙台 千葉卓三郎草」という署名があるからだ。

 草案のうち、「第二篇 公法 第一章 国民権理」には、国民の権利・人権などについて書かれている。ここには、当時としては、画期的な内容も含まれていて、現在の日本国憲法に近い内容も見られる。そういう意味で、強調するなら、「五日市憲法」草案は、日本国憲法に滔々と流れ込む源流の一つであると言えるだろう。日本国憲法は、決して、GHQ(占領軍)から、押し付けられただけのものではない、ということが、皆さんにも改めて認識されるだろう、と思う。

 しかし、「五日市憲法」草案も、時代の子である。第一篇の「国帝(「天皇」)においては、よその結社草案の丸写しではないか、という指摘もされている。草案には「進んだ人権保障、遅れた統治機構」という批判的な評価も多い。
 大日本帝国憲法に似た「強大な天皇大権」も規定されていて、その権限は国会よりも強く、軍隊の統帥権を始め、35条には「国帝ハ、国会ニ議セズ特権ヲ以テ決定シ、外国トノ諸般ノ国約ヲ為ス」、38条では、「国帝ハ、国会ヨリ上奏シタル起議ヲ充否(いんぴ)ス」とあり、国会に諮ることなく条約を締結できたり、国会の議決に対して拒否権を行使できる規定があったりして、三権分立の原則への理解が未熟な部分もある。
 さらに、27条では、「国帝ハ特命ヲ以テ既定宣告ノ刑事裁判ヲ破毀シ何レノ裁判庁ニモ之ヲ移シテ覆審セシムルノ権アリ」と、天皇の命令によって刑事裁判のやり直しができるなど、司法の独立が不十分である。

 第一篇の天皇大権の規定と第二篇の国民の権利保障には、互いに相容れないような欠陥的な矛盾がある。時代的な制約、「自由民権運動で生まれた多くの私擬憲法のなかでも民主主義の志に重きを置いている」(新井)という面も強いが、三権分立などデモクラシーの原理原則への理解の不十分さなども見受けられる。だからと言って、それだけで、「五日市憲法」草案を過小評価はできない。優れる部分、足らざる部分をきちんと客観視して、評価することが何より大事である。

 私がNHK記者として取材した時、「五日市憲法」草案の現物は、東京経済大学に保管されていて、草案の映像取材は、大学の許可を得て行った記憶がある。新井勝紘(あらいかつひろ)さんには、いろいろとお世話になった。色川大吉教授は、取材日には、何かの事情で不在だったような記憶がある。ぜひ、お会いしたかった。

 また、私が委員長をしていた日本ペンクラブの電子文藝館に草案の文章を載せる時の草案原文のチェックは、東京経済大学から移管されていたあきる野市中央図書館のご協力で実施した、という記憶がある。「五日市憲法」草案は、現在、東京都の有形文化財に指定されている。また、深沢家屋敷跡(憲法草案が眠っていた土蔵なども含む)は、東京都の史跡に指定されている。門、土蔵などが、修復・保存されている。

 深沢村の名主の長男・深沢権八を中心に結成された「五日市学芸講談会」の有志と宮城県出身の五日市「勧能学校」の教師・千葉卓三郎が、この地で出会い、二人が中心となって起草した私擬憲法「五日市憲法草案」がこの土蔵から発見された。

★千葉卓三郎という人

 「五日市学芸講談会」のメンバーで、草案の起草者となった千葉卓三郎は、五日市の人ではなかった。では、千葉卓三郎とは、どういう人物だったのだろうか。千葉卓三郎は、1852(嘉永5)年~1883(明治16)年。仙台藩の下級武士、宮城県栗原郡刈敷村(現在の栗原市志波姫)出身。明治期の自由民権運動家。
 卓三郎は、青春期、広範な学びを得てさまざまな宗教に出合い、各地を放浪した。1880(明治13)年春より、当時の神奈川県西多摩郡五日市町(現在の東京都あきる野市)の勧農学校(農業学校)の教員として、五日市に移り住んだ。地域の「講談会」活動で、五日市や近隣の地元青年たちと討論を重ねて憲法草案を練り上げ、1881(明治14)年、9歳年下の深沢権八らとともに、起草したとされる。2年後、1883年、卓三郎は31歳で亡くなってしまう。

 千葉卓三郎を支援した深沢権八(ふかざわごんぱち)は、1861(文久元)年~1890(明治23)年。深沢家は、五日市町(現在のあきる野市)にあった深沢村の名主の家系であり、学習する青年たちの支援者であった。権八は、深沢村の名主である深沢生丸(なおまる)の長男。深沢家は、父子で青年たちを支援した。
 1880(明治13)年頃に五日市に「五日市学芸講談会」が発足すると、権八は幹事の一人として名を連ねた。権八は自由民権運動の傍らに詩を作るなど文学青年であった。1883(明治16)年11月に千葉卓三郎が死去した際には、葬儀や遺言の執行などを執り仕切り、追悼の詩を残した。その権八も若死にで、1890(明治23)年に29歳で死去した。

★深沢家は、地域の私設図書館

 深沢家は江戸時代に八王子にあった「千人同心」を勤めていた、という。有力な山林所有者だった、という。さらに、権八の祖父・清水茂平が「筏師」の総元締の家から嫁を迎え、筏師の元締として莫大な財をなした、とも言われる。その財力を活かして、深沢家の生丸・権八父子は商用で東京に出た際、書店を回り、書籍を買い集めてきたという。

 それらの書籍は、深沢家の土蔵に収められ、土蔵は、「私設図書館」の様相を呈していた。深沢家の土蔵から、「五日市憲法」草案が見つかったのは、不思議ではない。草案と共に蔵書・200冊、千葉卓三郎や深沢権八のメモや目録に残された書籍・170冊、合計でおよそ370冊の書籍が発見された、という。書籍類の分野は、宗教、歴史、医学、芸術、小説など多岐に渡っていて、中でも、政治、法律関係の書籍は全体の3割以上に及ぶ。当時の主要な雑誌、新聞なども集められていた。
 これらの蔵書を千葉卓三郎ら、「五日市学芸談講談会」の会員は、自由に利用できた、という。深沢家の土蔵は、いわば、地域の私設図書館のような存在だったらしい。深沢家の財力と卓三郎ら進取の精神に燃えた青年らがいなければ、「五日市憲法」草案は、生み出されなかっただろう。

 「卓三郎の豊富な経験と、近代黎明期の若者たちの熱意により生み出された」(新井勝紘・元専修大教授)若々しい憲法草案は、こうして誕生し、1946年公布・1947年施行された現在の日本国憲法の源流の一つになった、と言っても過言ではない。

 千葉卓三郎の墓は、仙台市の北山五山・資福寺にある。私も、NHK仙台放送局勤務(東北地区報道担当デスク)の時に、休日を利用して、墓参りに行った覚えがある。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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