【視点】

「政上下民」でいいのか

 —政治の低劣化を阻む道は 
羽原 清雅

 自民党の腐敗堕落の体たらくを見せつけた裏金問題は、政治資金規正法の改正に向かった。政財官界など広く揺るがしたリクルート事件の発覚(1988年)から36年。長期の自民党政権時代を終わらせた非自民各党による細川政権のもとで小選挙区制度、改正政治資金規正法など政治改革4法の成立(1994年)から30年。そして多くの政治家を巻き込んだ自民党の主要派閥の裏金事件が発覚して、リクルート事件の反省時に比べると、極めて短時日のうちにケリをつける方向となった。だが、政治はほんとうに禍根を残さない方向に真摯に進んだのだろうか。だが、岸田首相・自民党総裁のもと、十分な時間もかけず、ごく安直なケリをつけようとしたか、に見える。

 4月末の衆院補選は自民党の全面敗北と、野党第1党である立憲民主党の3連勝で決着したが、本質的な政治家の「改心」とは思えない。とりあえず有権者の意思表示が示され、結論が出たように見えるが、政権の責任を負う与党政治家が一人ひとり思いを改めた気配はない。有権者に頭を下げたのは、強風を避けるために過ぎず、反省の上に今後のありようを改めたわけではない。

 政治家個人の自覚がこの程度である限り、悪智恵がばれて、10年も経てばまた国民の批判を浴びる事態となるに違いない。その程度の打開にしか見えない。
 やがて派閥は復活し、新しい手口でカネを稼ぐ道を見つけ出すだろう。第2、第3の森喜朗が誕生するに違いない。すでに処分をかわした萩生田光一、茂木敏充らあたりがその候補に挙がるのではないか。

 これから例示する自民党のありようは、政治家なるものは特別の立場にあり、国民有権者はその下方にある、と見ているのではないか。つまりは「政上下民」の姿勢である。
 有権者の民意、ささやかな1票の蓄積によって国民の代表の座を得たことで、いろいろの特権を得たとでも思っているのだろう。政治にはカネがかかる、それを企業、団体から得てなにが悪い、といった開き直りが見える。国会に長くなじんでくると、選挙前後の短期間のみ、低姿勢と沈黙でいれば何とかしのげる、といった様相である。「民」が主であるはずの立法府の代表だが、特権を握るにふさわしい上位の座にあるのだ、と大きい誤解、錯覚に溺れているように思える。呆れた主権者は選挙権の行使を断念し、投票率は着実に下がる一方で、そうした政治の実相に反発、批判している。
 裏金問題の扱い、その責任への対応、あるいは首相・党総裁の口先ばかりの反省、モノを一切語らずにしのぐ若い政治家群・・・そうした政治の風景を見せられていると、「民主主義」とは何なんだ、と思えてくる。

 国民各人が納める政党交付金の250円は、その金額に意味があるのではなく、本来、有権者こそが上位にあっての金額であり、その証としての代価でもある。今度の事件は、国民の存在をなめ切った政治家の本性を明らかにしたものと断じたい。

<いくつかの問題点>
 一応とりあえずの決着のようだが、その根っこは深い。国民有権者の沈潜した怒りは容易には収まるまい。いくつかの問題点を指摘しておこう。

 1>事態収拾に動いた自民党総裁である岸田文雄首相が、自分の派閥の職員が起訴されたにもかかわらず、役職就任時に辞退するはずの派閥の長を続けたうえ、しかも政権与党として責任を負うべき総裁がなんのお咎めもなく、口先だけで逃げ切り、収拾の旗を振っている。民間での責任の取り方であれば、明らかに辞任ものだろう。

 2>自民党安倍派、二階派などは、派閥パーティで20%足らずのコストで80%以上の収益を上げたばかりか、所属議員は派閥から課せられたノルマ以上となったカネをキックバックされ、この分を秘かに受け取りながら使途を明らかにしない。キックバックなどのカネが500万円以下ならほとんど不問に近い処分とした。まさにお手盛りである。しかも、その用途は私的に使ったとしても許容される。
 なんで500万円以下のキックバックなら、罰を逃れられるのか。確定申告に汲々とする国民とはまったく異なる、野放しの特権を握っているのだ。
 安倍派のキックバック分は5年間で約5億円、ノルマ以上に売ったパーティ券収入分を派閥に納めず「中抜き」するという手口もあり、これは5年間で1億円にのぼるという。

 3>二階派を率いる二階俊博が幹事長時代に、自民党から受け取った「政策活動費」は5年間で50億円にのぼった。使途はほとんどわかっていない。ごく一部は書籍購入費だとされる。これは3年間で3472万円とされ、尋常な数字ではない。御用執筆陣や身内的政治家などのものか、大下英治6種1万余冊、石井一3種900冊、山谷えり子1000冊、森田実300冊など、ほかに月刊日本3000冊、月刊公論2000冊など。捌きようもないほど買い上げた、という。それ以外のカネはどうしたのか。せがれの出馬用に使うためなのか。それも政治的支出といえるのか。「いい齢をしてなんだ!バカヤロウ!!」と言いたいのはどっちだ。
 自民党の2022年の政策活動費のうち、党幹部ら15人に支出されたのは計14億1630万円で、最多の茂木幹事長には9億7150万円が出された。いずれも使途は不明のままだ。
 なお、この交付金を当初から受け取らず、党費や機関紙などの収入で自活しているのは共産党のみ。

 4>上記の「政党交付金」と「政策活動費」のありように触れておきたい。難しい扱いではあるが、改めるべき問題も多い。政党交付金は、リクルート事件の反省から1994年の政治資金規正法の改正で「政治家個人への企業、団体献金は原則禁止」が決められたもので、年間で国民1人250円の税金をもとに、一定の条件を備えた政党に政策活動費として配分される。つまり、国民の血税を使うもので、各政党、各国会議員は、いわば直接国民の財布からのカネに依存しつつ「政治活動」をしている。この基本を踏まえず、いい加減な使途や、裏金への依存などの問題を引き起こしている。この国民との原点を前提に、今度の裏金事件などを考え、政党、議員も改めてこの重さを踏まえなければならない。
 この原則のもとに、「裏金の温床」ともいわれる政策活動費の実態を考えたい。
 政党への配分は各政党の議員数と得票率によって決まる。2024年は以下の9政党に配分される。<自民160億5300万円、立憲68億3500万円、維新33億9400万円、公明29億0800万円、国民11億1900万円、れいわ6億2900万円、社民2億8800万円、参政1億8900万円、教育無償1億1800万円>  
 このカネを握るのは当然政党幹部らで、そこに権力が集中する。党内や閣僚などの人事、立候補の公認、カネの配分などで、政権の盛衰に関わり、派閥運営にまで発言権を握る。議員らの賛否の発言にも影響して、党内の声をも封じる。カネがあれば、足を使った党活動も鈍りかねない。
 既存の小党に存続の命運が掛かり、また極右とも言われYouTube活用の参政党がにわかに台頭したり、「2大政党による政権交代」をうたった小選挙区制度にそぐわない多数政党状況を生んだりしている。また、1年使い切りで国庫返納が原則の交付金が翌年以降に蓄財される実態にもなっている(これは選挙時期が各年にまたがる以上やむを得ないこともあるが)。

 さらに、選挙活動の自由の建前上、使途は明白にされず、高級料亭利用、高級贈答品購入、家族や秘書らの飲食費、特定企業への癒着的使用など、「政治活動」の枠内とは言えないような疑惑も持たれている。使途不明示の措置がこうした疑惑を許しており、これがわかれば国民の怒りは激増するに違いない。政治に時間とカネがかかることは事実だが、政党や議員任せをいいことに、度を越した乱費も許す一因になっている。国民感情への思いが欠如している。

 5>この政党交付金だけでは不足だ、として政治家個人への献金が禁じられた企業・団体から、違法すれすれの形で集めているのが政党パーティのチケット販売。
 茂木幹事長らはこうしたパーティなどで稼いだ数億のカネを、公開度の緩やかな関係団体に移して隠ぺいを図っていた。これも許容されるのか。茂木は当初、政治資金の縛りを厳しくするなら、政党交付金の増額を、とまで言及した。国民一人当たり250円の徴収をどさくさにまぎれて、さらに増やせ、という。いったい、どの口で言えるのか。

 6>安倍派のキックバック方式は20年以上続いていたという。とすれば、内閣支持率9%となって首相を退任した森喜朗の時代が浮かぶ。不仲の下村博文がほのめかす通りだ。森は、当人もリクルート事件で未公開株を入手した、と報道された1年後の1989年6月に清話会の事務総長になり、98年には自ら清和政策研究会(森派)と改称して会長となった。2000年4月からの首相在任の1年間は会長を避けたが、首相退陣の直後には会長に復活、2006年10月まで在任した。しかも、森の派閥会長時の1994年、細川政権のもとで政治家個人への献金が禁じられるなどの政治資金規正法の改正があり、この比較的厳しい改革になんとか対応する必要に迫られた。このようななかで、森周辺で思いついた策が政治資金パーティの収益の一部をキックバックや中抜きする手口だったのだ。
 長期の派閥ボスとして君臨し、キックバック方式などの不法な策ながら、内密にすれば派閥本体も構成議員も充たされよう、との打算があったのだろう。もしそうであったら、森支配の20余年間のカネは100億円をも超えていたのではないか。そのカネが安倍時代にも使われ、100人を超す最大派閥として保守傾斜の激しい議員を擁したとすれば、自衛隊の海外派遣や対米追随型外交などの強硬政策にも影響していたことにもなる。日本の針路をもゆがめる裏金でもあったのか。

 森は東京五輪についても疑惑の中心とされながら、うまく逃げ切り、物事の裏をよく知って法網を潜り抜けてきた。茂木らの、資金の公開をかわす隠蔽術にも通じるものがあり、彼らは政界の裏街道の悪知恵者と言えよう。

 7>まだある。懸案のままの「調査研究広報滞在費」の扱いである。700人の衆参議員に月額100万円が支給される。年間84億円の血税である。自民党ばかりでなく野党の一部にも「廃止・返上」を望まない気配があるので、存続が決まり、しかもその支出内容を明らかにしないことでも「なんとなく」合意している。
 このカネは、いわば政治家連中の使い勝手自在のカネだ。名目すら、なんでもありに見える。国会の各政党が国民の立場を踏まえず、このような予算を組み込むこと自体が「政上下民」の措置なのだ。

 8>旧統一教会問題と裏金問題とは、直接の関わりはない。ただ政治家多数が関わり、国民の中に多くの被害者を出してきた点で、無関係とは言い切れない。
 目下は文科省に処理が任される形で収まっているようだが、その霊感商法、高額献金、二世信者など多くの犠牲者を出しながら、教団の政界、とくに自民党内にまではびこった選挙支援の受け入れ、代償としての教団関係組織の活動のテコ入れなどの連鎖の状況について、本当に手が切れたと言えるのか。大量にして、甚大な被害者群の蔓延はまだ続いている。
 大量の自民党議員が関わっていた対外的な「甘え」の構造と、今度の裏金事件が大量な関係議員を生み出してきた内部的な「利益」本位の思考とは、通じるものがある。それは、社会的に許されない事態であっても、ひそかであればメリットに走ってもいい、という「みんなで渡れば怖くない」式の集団的、利己的な精神構造に陥っている点で共通項があるのだ。
 この点を改めるには、相当な努力がいるし、その罪の重さを自覚する素養と資質が必要だ。はたして、そのような精神性を彼らに期待できるのか。
 政党なり、派閥なり、あるいはリーダー格の人材なりが、旗を振って改まるものではない。個々の議員そのものがその思考力に腐敗的なものに侵されていないか。そこまで深く改めることを期待できるのかどうか。
 そこに、これらの罪悪の重さを徹底的に反省する文化や思考力があるのか。容易には期待できない現実が横たわっている。自民党の体質を考える中で、この両者に溺れる、つまり腐敗の構造に取り込まれる弱さ、打算性、可否善悪の判断力の鈍さ、国民の抱えた苦境への鈍感さなど、二つの事態に多数の国会議員が落ち込んだ状況は分析しておくべき課題だろう。

<例えば、世襲議員の意識を見る>
 このような政治家の低劣化のひとつの原因は、議員一族の世襲にある。首相経験者の7割が世襲議員であり、自民党議員の約4割が世襲的環境にある。
 5世には、鳩山二郎がいて第6代衆院議長の鳩山和夫以来継続し、もうひとり平沼正二郎が第15代将軍のあと貴族院議員になった徳川慶喜にさかのぼる政治家一族だ。4世では、麻生太郎、林芳正、小泉進次郎、岸信千世、川崎秀人ら7人、3世は福田達夫、小渕優子、大野泰正、中川俊直らが並ぶ。世襲は、野党にも広がりつつある。

 世襲のどこが問題か。数えればいろいろあげられよう。
 ➀地盤<選挙区>・看板<役職や名誉>・カバン<カネ>という3バンがよくあげられ、政治の新陳代謝が滞る、
 ②婚姻関係による閨閥が生まれ、財力を蓄え、特定の利害を含めた一族の、裏も含めたつながりが強まる、
 ③高齢化した先代が早めに引退を表明すると、その子らが話題になり、有利な引継ぎの世論が生まれ、選挙の結果を左右する、
 ④投票率が下がると、とくに世襲的知名度の高い世襲候補が得票メリットを得る、など。

 さらに、このように硬直化した状況は、結果的に新人議員の誕生を阻害する。とくに、1選挙区1候補の小選挙区制では公認候補の擁立にあたり、知名度がある世襲組は党内での候補者の審査の際に、集票力を評価され、現職にあった親らの派閥や情的関係もあり、公認がとりやすい傾向になる。つまり、政治が硬直化せざるを得なくなるのだ。
 女性が国会の場に登場しにくいひとつの理由は、選挙の世界自体が男性中心で、女性への世襲は男性の場合よりもかなり低いという事情もある。

 もうひとつ大きな理由を挙げると、世襲する人物が政治家としての素養があるかどうか、である。候補者の選定は、もっぱら知名度、資金の有無や派閥側の論理で決められる。しかし、有権者としては、その候補者が社会に対する広く深い識見を持つかどうか、が選択の重要な判断基準になる。本来は財力、知名度、容姿、弁舌などではなく、候補者の内実を基準にすべきなのだ。
 しかし、世襲候補者は富裕な環境に育ち、著名な大学などの履歴を誇る身であることはいいとして、はたして一般の有権者の抱えた問題、貧窮がらみや病弱、疾患などの福祉、子育てや教育、物価高騰といった課題を肌で感じるだけの才覚が身につき、あるいは気づきがあるのか、さらには経済や外交課題、社会状況などを細やかに広く受け止め、判断しうるか、そんな向き不向きの感性を見抜く必要がある。

 狭い社会感覚の中で目が開けず、一定のこだわりのある視座で政策などを考えるような人材ばかりが、政権与党として多くの議席を持つようなら、政治の姿は細まる一方になるだろう。政党への国民の交付金を黙殺するかの「上位」感覚の政治家に、社会全体の「バランス」を読み取れるのだろうか。
 政治の劣化とは、このような実態のことであり、昨今は地盤沈下が進んでいるように思われてならない。

<民主主義下の政治家とは>
 政治家というものは議席に至る以前に、多彩な思考の広がる社会の動向、その感覚を読み取り、そのバランスの所在を捉えられる資質を伸ばし、一個の政治家としての意見、見識を育てておくことが望ましい。政党としての見解を頭に入れ、そのまま発信すればいいというものではなく、個の政治家として、広い範囲の中で問題をとらえ、自己判断力を持ち、可否善悪をくだせることが、あるべき政治家の素養というものだろう。価値観の多様化した社会にあっては、それが当然で、ただ議席に座って「右へならえ」の採決マシーンに堕してはなるまい。

 また、民主主義と一概にいうが、その決定は単純に「多数決ありき」ではない。その前段には、多様な考え方や対応が各方面、各議員から示され、論議し、多数派も極力少数意見を取り入れるよう努め、可能な限り採用、救済、修正する努力が払われたうえでの採決でなければなるまい。

 現行の小選挙区制度のもとでは、
 ➀大政党の公認を取り付ければ、半分は当選の可能性を確保できる、
 ②そのために、政党幹部の思いをよくしようと、逆らう意見などは抑え、発言自体を控えたり、追従しがちになったりする、
 ③1選挙区1人を基本とする制度なので、落選者の得票は死に票となるため、政治に多様多彩な意見が反映しにくく、多数党の見解があたかも一般的な民意のように扱われる、
 ④死に票になる票を投じる結果になった有権者は、選挙や政治への関心が薄らぐことにもなる、
 というような傾向から、➀と②は従順な議員が増えて、党内に物言わぬ空気が強まる。
 裏金問題が大きな批判を呼び、改革の声が上がっても、物言わぬ議員がやたらに増えているところにも示されていよう。
 ③と④は有権者サイドのありようで、日頃の鬱積した怒りが燃え上がっている今度の裏金問題でも、この問題以外に持たれる批判や不満までもが鬱憤になっていよう。
 自民党の反省は、こうした制度面からくる世論の反発にも考えが及ばなくてはなるまい。

<国会議員は偉いか?>
 ちょっとわき道に入りたい。朝日新聞2024年4月20日付の別刷り版<be>を見ると、<国会議員は偉い?>というテーマのアンケート<回答2709人>が掲載されていた。13年前の2011年7月9日にも同じ設問のアンケートと比較している。対象の年代がわからないのが惜しいが、仕方がない。
 「偉い?」の問いに「はい」と答えたのは“11%”(13年前は“15%”)、「いいえ」が“89%”(同“85%”)だった。
 「いいえ」の理由は、➀私利私欲が目立つ64.0%、②モラルが低い、カネに汚い58.9%、③国民の代表と思えない53.0%、④選挙やポスト優先50.9%、⑤信念、理念が感じられない50.7%、⑥責任まっとうせず49.7%、⑦徳、品がない28.2%、⑧党利党略に走っている46.9%、⑨国民のことがわかっていない45.1%、⑩行動、言動が軽い44.1%
 「はい」の方はどうか。➀国民の選んだ代表だから5,4%がトップだが、②~⑧の「行動力、実行力がある」「理念、信念、志がある」「権力を持っている」「人のために頑張る」「よく勉強している」「社会的地位が高い」「国、国民を考えている」がいずれも3~2%にとどまった。
 また、「国会議員になってみたい?」には「はい」16%、「いいえ」84%
 「政治に希望はある?」の「はい」19%、「ない」43%、「どちらともいえない」38%
 「政治に関心ある?」では「ある」84%、「ない」16%
 「政治を良くするために期待できるのは?」「有権者」60%、「政治家自身」12%、「マスコミ」6%、「司法」5%、「その他」4%、「ない」13%

 政治家の言動がいかに疑われ、信頼なく、軽蔑的に見られているか、に驚かざるを得ない。
 国民有権者の感覚から、極めて遠いことに政治家自身が気づいていない。また、政治にかなりの関心があり、その主体が有権者にあることを自覚しながらも、政治家という存在にほとんど期待せず、むしろ「司法」というに至っては「逮捕・有罪」への期待さえ思わせる。
 このような政治家と国民有権者との、いわば絶望的な関係はまず政党、また政治家自身が自覚し、反省するしか道がないように思われる。この双方間の落差の広がりはまさに「民主主義」の形骸化、空洞化としか言いようがない。
 首相逮捕のロッキード事件、リクルート事件、そして目前で反省も改革も見えない政治とカネの問題など、政党・政治家の非が繰り返される。
 その都度、有権者は抜け殻の民主主義の犠牲となり、離反していく。政治の愚かさは、国民有権者の感覚をマヒさせ、日本社会を徐々に低質化させていく。その破綻は、どのような社会を生み出すのだろうか。

<野党第1党・立憲民主党の現実>
 5月6日付の朝日新聞に次期衆院選の立候補予定者の一覧が出ていた。
 社会党がかつて選挙のたびに自民党から「過半数の候補者も立てられない政党が政権を握るなどありえない!!」と厳しい攻撃を受けていた。
 新聞をみて、あらためて当時を思い出して、野党第1党の立憲民主党もまた同じか、と思い数えてみた。
 衆院の過半数233議席に対して、立憲の立候補予定者は177人、まだ50人以上届いていない。6月選挙さえ予測されている段階で、候補者不在は滋賀、和歌山、徳島、佐賀の4県、都市部で強いはずの立憲だが、候補者のいない都府県が少なくない。30選挙区の東京の候補者未定は11区、19選挙区の大阪は11区が空白、16選挙区の愛知、11選挙区の福岡はそれぞれ6区、20選挙区の神奈川、12選挙区の兵庫は各5区が候補者不在のままだ。
 全選挙区の候補者が決まっているのは、選挙区の少ない北海道、岩手、秋田、新潟、石川、三重、岡山の7道県のみ。
 野党共闘の余地はかなりある、ともいえるが、楽観に過ぎるだろう。しかも、候補者が出せなければ、ブロックごとの比例区での当選はない。「これから追い込みだ」とはいっても、出遅れた状態では勝ち目はあまり期待できない。比例区での救済が少なければ、さらに過半数など望むべくもない。
 このような状況は、都道府県議や市町村議の数が少なく、各地の党組織のネットが極めてか弱いということだ。日常活動の不足、有権者への語り掛けの乏しさ、党収入の弱さ、さらに言えば若い世代の党員確保や日常活動への努力不足、地方議員からのピックアップなどの計画的な人材育成の欠如などがあげられよう。
 連合が大手の労組に固まり、中小企業や時限や不規則の未組織労働者への対応がもろく、また政権へのすり寄りにウエイトが置かれるなど対立しがちの2つの政党を抱えた状況も芳しくない。労組依存ではない政党自立の夢が朽ちて消えかけた社会党・社民党の二の舞を思わせる実態についても、真剣でなければなるまい。

 野党各党に問題はあるが、政権、政権という前に、第一党としての立憲民主党の現実を昇華させることこそ、重要なのだ。

<野党は政権に近づけるか>
 前述の姿にも拘らず、補選3連勝を手にした立憲民主党の党首ら幹部は手放しで喜ぶ。「政権に近づくのだ」と。だが、裏金事件にこれだけの怒りが燃え上がっても、メディアの世論調査を見ても、野党の支持率は思うようには伸長せず、一桁程度の支持率をわずかに引きあげたものの、政権取りの期待の声は出てこない。
 したがって、野党第1党の立憲が盛り上がらないのは当然と言えば当然だろう。
 自民党政治や岸田首相、派閥首脳たちがこれだけの醜態をさらしながらも政権を維持できているのは、むしろ野党側のだらしなさが支えているともいえる。その責任を感じ取る気配も見えてこない。
 野党は、自民党政治についての批判はする。だが、それもメディアの後追い程度で、ほとんどが自ら探し出したものではない。
 また、野党第1党として政権を狙う立場にある立憲だが、これまでの自民党政治に対抗して「このような社会を作る」といった将来の方向すら示していないのだ。「自民党政治のこうした点を、このように変えていく。」税制、教育、子育て、外交、軍事体制など、一気には無理だろうから、その段階的変革を示せばいい。それも、具体性が欲しい。将来社会のありようを見通せなければ、政権への期待など生まれるはずもない。

 野党のほとんどが、将来社会を具体的にどのようなものにするか、したいか、をほとんど物語っていない。何に反対、どこに問題山積、といった批判ではなく、どのような社会構造をめざし、どのようなステップを踏み、どのような段取りで進むか――ロマンだけではなく、既成の自民党政策の呪縛から解きほぐされて、それぞれの人々が将来の人生設計を考え、このような国際社会の日本でありたい、などと描けるような政治の未来図を示すべきなのだ。進路の定まらない船に誰が乗ろうとするのか。

 そのような身近に感じられる先行きへの取り組みが見えない。
 また、そうした青写真を描き得る能力集団の存在があるのか、ないのか。党内だけで描けるものではなく、それなりの能力集団と日常的な研究作業を進められなければならない。 
 かつての社会党や民社党には、シンパ的な学者研究者集団との構想づくりがあった。総評の調査部門の協力もあった。党内にも、優秀な書記局員たちが少ないながらも存在した。
 イデオロギー的に過ぎてはいたが、将来社会へのロマンを語る空気もあった。それが、今の野党にはあるのだろうか。

 政治権力は突然舞い込むものではない。自民党が1年交代の政権を3代続けたあと、民主党政権が登場した。だが、東日本大震災と原発大事故を抱えたばかりでなく、政権運営の準備を怠っていた弱点もあらわになり、3年程度の短期の政権に終わった。
 政権を担当するという大仕事は、自分らが権力の座につくためではなく、国民のための献身的な姿勢を具体的に示すためであり、時の政権の動向にひとつひとつ反省的に学びながら、その日に向けて備えなければならない。批判ありきの野党時代から、時の政権と国民との落差を見つめながら、求められるものが何かを学び、その実現に向けて一歩ずつ築いて行く。この努力を怠っていては、政権の確保などは夢のまた夢である。
 そうした意味からも、現状のどの野党にも政権担当の資格はない、と言えよう。

 しかも、政党の存在が日常生活の中に見えてこない。政治家が駅頭などで、定期的に門立ちをし、話しかける姿などはめったに見られない。チラシなども配られることはまれだ。選挙時だけに姿を現すのではなく、大きな問題が起れば、各政党の国政、あるいは地域の議員たちが全国各地で一斉に立ち上がり、演説するくらいでなければ、政権への道は遠い。
 電話やインターネットなど見えない手段だけに頼らず、政党の姿と肉声の持つ意味を感じなければ、政治的主張は生きてこないだろう。古臭いようだが、大切な作法である。

                     <元朝日新聞政治部長>

(2024.5.20)
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