【沖縄の地鳴り】

「逃げた知事・泉守紀」の実像

羽原 清雅

 沖縄戦に追い詰められた沖縄県知事・泉守紀(しゅき)が、60万県民を預かる身にも拘わらず、逃げ惑った様子は広く伝えられている。わずかに擁護的な記録が、彼が書き残したとされる日記をもとに公刊されている。「汚名 第二十六代沖縄県知事泉守紀」(講談社・1993年)、筆者は野里洋氏(琉球新報論説副委員長=当時)
 その記録から4半世紀を経た今、なぜいまさら取り上げるのか、との疑問が出るだろう。この稿を書く筆者く羽原>は昨年、「米軍が次第に沖縄に迫る中で、当時の泉守紀知事は身を守るためか在任1年半の3分の1は県外に出張。住民の疎開についても消極的な意見を述べていた。また、10月10日の大空襲時には、県庁に出勤することなく壕にこもりきりで、米軍上陸と勘違いしたものか、県庁の移転を命じ、公用車で逃げるなどした、と言われる。さらに、44年末に東京に出張、年が明けても帰任せず、1月12日にはそのまま香川
 県知事に就任した。大蔵官僚の兄などの縁で異動工作したのでは、などと取り沙汰された。」
 (「沖縄『格差・差別』を追う一ある新聞記者がみた沖縄50年の現実」書肆侃侃房刊)と書いた。
 また、この「オルタの広場」にも、「沖縄戦に殉じた荒井退造に見る『死』の周辺」(2022年9月)を書いており、「いまさら」取り上げたくなった。
 冒頭の書を読んだのはこの後だったので、泉知事の生き方にも興味が湧いたのだ。多くのデータは野里氏の書から引用させていただいた。
 
 *泉守紀の人となり
 1898-1984。86歳没。山梨県大月市(現)出身。教育者の家に生まれ、次兄至剛は大蔵官僚として造幣局長を務めた。守紀は7人の末弟。東京帝大法学部政治学科卒後、内務省入りして青森、大阪など8道府県に勤務、1943年7月北海道内政部長から46歳で沖縄県知事に赴任。170センチ、27,8貫の巨躯、ハンサムだったという。
 日記に「第二十六代琉球王」と書く。赴任時は「黙々と至誠奉公に向かって推進、戦力増強に、治安の確保に微力ながら張り切って・・・」「滅私奉公、役人は公平無私、であるべきは当然。一個の栄達を思うならば役人としての資格を失う」と戦時下らしく、また優等生の挨拶でもあった。
 ちなみに、敗色濃い沖縄戦下で不在がちの泉の代行役を担い、沖縄の地に消えた県警察部長荒井退造(44)も同時期の発令だった。やや遅れて、県内政部長坂本信二が単身赴任、彼は沖縄敗戦直前に本土に逃げ帰った。
 
 *在任17ヵ月、上京6ヵ月
 泉の上京ぶりは、地元沖縄では有名になり、ひたひたと迫る米軍の攻撃に「逃げた知事」「卑怯な知事」など不評を買っていた。野里氏の書では、9回の本土出張で「1年5ヵ月の間6ヵ月近い175日間も沖縄を留守」にした、とある。
 この書では、4回の上京が紹介されているが、いずれも東京での地方長官会議という必須の出張名目となっており、「逃げた」の表現は言い過ぎとも思われる。ただ、在京の日数がかなり長く、誤解を招く余地はあったようだ。また、泉の日記を見ると、素直というか、ごまかしがないというか、とにかく本音丸出しなのだ。その気持ちはわかるが、ひとつの地域、 60万県民を預かる身としては、「逃げた、卑怯」の風評が出てもやむを得なかっただろう。
 「早いものだ、もう三月。沖縄なんかにいる間の日は早く経てばいい。東京に月末に行けると思うと急に嬉しくなる。心は躍る」「三月も、もう七日か・・・。昨今は内地から第一線に行くのだといって沖縄へ出征してくる兵もいるらしい。なるほど、沖縄は第一線に違いない。沖縄がやられるときは、日本最後の日だ。どこにいても駄目だと思う。沖縄県知事として、この戦局に、正に青史にぼくの名は残る。男児正に意義深い生き甲斐ある人生といえよう」
 不時着したジャワの司政長官が挨拶に来、「三月末に地方長官の大異動がある」と聞くと、大蔵省の兄に異動嘆願の手紙を送る。また、日記に「この異動に自分が入っていたらどんなに幸福だろう。ここで空襲に遭ったとて誰も偉いとは思わぬ。御苦労とも思わぬ。文官が空襲でやられるくらい阿呆なことはない。今月末に海軍機で上京しよう。それまでに地方官の異動があればいいが・・」と書く。
 
 *帰心矢の如し
 3月末に上京。「沖縄から上京するのがこれで最後であってほしいもの。いや、今度はきっと栄転するに違いない。どうもそんな気がしてならない。・・・母上、御助力下さい。父上、兄上、御願いします。日蓮大聖人様、何分、よろしく御嘉助して大願成就せしめ給え。何だか今度は栄転しそうな気がしてならぬ」。沖縄に帰着直後の4月24日、大東島守備のため39隻の漁船に分乗した18人が米潜水艦の雷撃で全員死亡。29日夜、久米島が米潜水艦に攻撃される。栄転はなく、愛妻の持たせてくれた吉屋信子の「良人の貞操」を読む。
 
 7月8日上京。その前日の閣議で、7月中に沖縄の老人、婦女子、学童ら8万人を九州へ、台湾に2万人の集団疎開の方針が決定。泉は「引き揚げ問題はくにとしてはっきり決めてもらいたい。ひとり沖縄だけの問題ではないだろう。……政府は最後の一線を示すべきではないのか。小乗的にならずに、大乗的に、目をつぶって『日本本土を死守せよ』となぜ号令をかけないのか。引き揚げがどれだけ戦力の増強になるのか。馬鹿な話だと思う。」と書く。
 さすがの筆者野里氏も批判的だ。「本土他府県への転任運動を秘かに行っている泉だが、内務大臣や関係省庁の幹部から九州や台湾への疎開について具体的な案が出され、そのための業務が進められると、<本土を死守せよ、となぜ号令をかけぬ>とひねくれる。自分で自分が矛盾していることに気づいているのかいないのか、泉の気持ちは大きく揺れて、考えも定まらない」。
 また会議の席で、内相安藤紀三郎から「人間、最後の御奉公というものは口では言ってもなかなかぶつかるものではない。が、しかし、沖縄県知事はその時が来た。誠にお気の毒だが、しっかりやってもらいたい」と言われる。泉はこの意味に悩む。「最後の御奉公・・。誠にお気の毒だが・・。一体どういう意味か」。野里氏は<強く反発。その一方で、心の内を見透かされたよう>とコメントする。泉の日記には「安藤大臣よ。君は部下を思うあまり、最悪のときを考えて、老婆心をもって言ってくれるが、なぜ、最後の地として死守せよ、帰県したら県民を指導して頑張れ、となぜ言ってくれないのか。上層部がサイパンの玉砕と同様に沖縄をしようとする、その敗戦気分が気に入らぬ」とある。沖縄での死を恐れる泉の心の揺らぎだろう。
 帰任後、「東京にいて玉砕だ、玉砕だ、といわれているより、現地の方がずっと気が楽だ。似たような気持ちの同病者が多い故だろうか。不思議なものだ」と記す一方で、「日本はきっと勝つ、勝つに決まっている」と書く。さらに、奈良県転勤となった部下について「耕地課長は幸いの人かな。家族は京都に引き揚げており、万事好都合なるべし。・・それにしても、栄転の便り、何ぞ、来るの遅きだ」とも嘆く。
 
 8月18日、上京。地方長官会議で臨席する天皇から「戦局急、皇国の興廃繋って今日に在り。汝等、地方長官宜しく、一層奮激励精、衆を率先官民一体、戦力を物心両面に充実し、以て皇運を扶翼すべし」と聞き、泉は「すべての未練も、すべての愛着も、すべての執着も吹っ飛んで、没我、ただただ、粉骨砕身の奉公、この四字に尽きる。誠に男一匹、生き甲斐ある人生なり」と発奮する。だが数日後、「今度は泉千葉県知事が出現するかな。先日会った内務省の先輩の一人は、泉岡山県知事と決めていたという。海路の日和よ、早く来てくれ」と夢想する。軍国日本を率いる天皇と、おのれの利害のあいだで揺れる泉がいる。
 
 10月、テニアン島の日本軍全員戦死の報。泉の夢想は続く。前任の知事が大分県知事から蘭領ボルネオに転勤。その後任にでも、と思ったが、逃した。そこで、在任2年以上の知事のいる8道県を頭に浮かべて、「千葉が一番いい。…もう千葉県知事しかない」と書く。
 
 12月24日上京。その前には、知事官舎の手伝いの女性を愛妻のもとに行かせ、また鍋、釜、服などの荷物を航空便や船便で送り出していた。当然、地元では「知事が沖縄から逃げたがっている」「転任運動に夢中」とうわさされ、不信感が流れた。
 年が明けて1945(昭和20)年1月。米軍の空襲は本土の大都市を中心に各地に広がっていた。沖縄などの南西諸島への米軍空爆は新年早々に始まり、高齢者や女子らを中心に本島県民たちの島北部への疎開の列が続いていた。食料をはじめとする物資は乏しく、その生活は日一日と悪化していた。米軍の本島上睦は近いとのうわさが強まっていた。
 在京の泉の正月は、3が日とも愛妻とゆったりと過ごした。12日、前夜の連絡で山崎巌内務次官のもとへ行く。「香川県へ」との発令を聞く。愛妻のもとに帰宅を急いだ。
 後任として沖縄に行く島田叡との引継ぎのあと、香川県から戦下の台湾に赴任する小菅芳次と会う。「食事中、小菅は突然、声をあげて男泣きに泣き出した。台湾に行きたくない・・・思いもよらぬ小菅の姿に泉は驚いた。人前も憚らずに涙を流す小菅が、別人のように見えた。」と野里氏は泉の様子を書いた。泉はその日記に「そんなにいやなら話があったときに、発令の前に、なぜきっぱり辞職しなかったのか。いやしくも勅任官ではないか」と書いた。年末までの泉と同じ姿にも拘らず、沖縄から逃れた喜びしか心になかったか。
 ちなみに小菅は、泉と東京帝大政治学科同期で、ともに内務省入り。台湾を生き延びて、帰国後1961年まで存命。
 
 *「10・10大空襲」の処し方
 沖縄は1944年10月10日早朝から夕刻まで7、8回、延べ900機の米軍機の大編隊による空爆を受けた。那覇、嘉手納、読谷など市街地、港湾、飛行揚をはじめ広く火の海となり、焦土と化して、県民の生活を追い詰め、戦争の恐怖を目の当たりにさせた。死傷者 1246人、家屋消失1万1513戸という災害だった。
 県庁もほぼ焼き尽くされていた。
 野里氏によると、泉は早朝の襲来に寝間着姿のまま知事官舎内にある防空壕に逃げ込み、南無妙法蓮華経を唱え、夕刻まで避難していた、という。この間2回、荒井退造警察部長が報告に来たが、泉は被害状況を見に外に出ることはなかった、という。車を動かすこともできずく筆者はこの稿冒頭で、公用車で逃げた、と書いたことを引用したが、訂正する>、部下に御真影を守らせ、徒歩で首里に向かった。
 翌11日未明に、大きな鍾乳洞の自然壕のある普天間の県中頭<なかがみ>事務所に向かい、泉は10月末までここを県庁の仮事務所とした。那覇の被災地視察に向かったのは12日以降だった。その間、県庁で空襲の後始末の陣頭指揮に立ったのは、警察部長の荒井退造だった。「知事の職場放棄」など、もともと泉と不仲の軍部からも批判の声が上がった。沖縄県を統括する立場の福岡県知事までが来県し、泉に県庁に戻るよう説得するほどだった。
 
 悪いことに、この10月10日から3日間、沖縄駐留の第32軍は長勇参謀長指揮のもとで大演習を予定、那覇には徳之島、宮古、石垣、大東各島からも兵団長、幕僚ら幹部級が参集、沖縄ホテルで大宴会を開いて気勢を上げていた。突然の空襲に、幹部不在の各地の軍は対応に慌て、指揮に戻ることも容易ではなく、混乱に輪を掛けることになった。
 
 *学童疎開船の悲劇
 10・10大空襲の50日前の8月22日のこと。鹿児島寄りのトカラ列島悪石島付近を航行中の対馬丸が、米潜水艦の魚雷により沈没した。この船には九州に疎開する人々を中心に1788人が乗り、その79%の1418人が犠牲となった。子どもたちが775人、先生ら29人、保護者を含む一般疎開者569人、船員24人、砲兵21人が亡くなる大惨事だった。
 
 知事の泉は8月18日から31日まで、東京にいた。天皇臨席の会議に出て、感激した り、部下である県課長の異動を羨んだりした時期でもある。この多数の遭難者が出た事態に、知事としての泉はどう感じたのだろうか。だが、野里氏の書にはこの件<くだり>はなくて 不明だが、泉の日記にも触れられていなかったのだろうか。
 
 *軍部と泉知事の軋礫
 泉は酒が飲めなかった。北海道時代も、日曜廃止、宴会・招宴の廃止を主張したし、競馬、ダンスホールなどの取り締まり強化を主張していた、という。知事就任後の9月、「宴会は中止せよ。泡盛に浸って勉強を怠るな。頭を切り替えよ」と述べた。沖縄の日常とは違う。泉はしばらくの間発言を抑えていたようだが、ほかの本土出身の幹部同様に「沖縄は遅れ ている」「だから沖縄はだめだ」など沖縄をさげすむような言動もあり、職員には不評になっていった。
 さらに赴任早々から、泉と軍部との関係は極めて悪かった。県の官舎や地方事務所提供の要求、飛行場建設の要員要求などに反発したり、派遣された兵土らの乱痴気騒ぎやけんか、発砲騒ぎ、女性がらみの風紀問題なども頻発して軍規粛正を申し入れたりした。さらに火をつけたのは慰安所設置の要求で、泉は「皇土につくれるか」と抵抗。結局、美妓三千と言われた那覇の辻遊郭から500人を出すといった騒ぎにもなった。
 中国から転進してきた精神不安定な兵隊たち、県民守護のために出動したのだというお仕着せ気分、沖縄軍支援に対する軍中央への各種の不満、待ち構える米軍の強烈な攻撃一軍部には地元の協力は当然、といった強引さがあった。一方、泉ら県側には、行政官としての誇りがあった。戦時下では、正論が通らないゆがみが通り相場なのだ。
 8月、第32軍の新司令官に牛島満中将が着任、また7月には同軍参謀長に長勇少将が就任して新体制になる。長参謀長は豪快というか荒っぽさで鳴る。部隊も続々と増強、配備された。
 
 ときの近衛文麿首相の秘書官細川護貞は、沖縄の実情を次のように書き残した、と野里氏は書く。「(10・10大空襲時に)人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず。……焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振る舞ひにて、軍紀はまったく乱れ居れり。」そこには、長勇参謀長の姓まで記されている。
  
 1944年6月、米軍のサイパン島上睦。サイパンには邦人の6割、4万を超す沖縄の人がサトウキビ栽培、漁業に従事していたが、多くが集団自決や崖から身を投げて自裁して玉砕、7月7日に壊滅する。そのころ、泉は上京して、先に触れた安藤内相から「最後の御奉公云々」の言葉を掛けられ、煩悶する。
 8月沖縄に戻ると、「転任運動」などのうわさが広がり、泉は「馬鹿な野郎たちだ。俺が沖縄の知事として喜んで有難がっているとでも思っているのか。排斥ならいくらでもやれ。喜んでその排斥を受けるぞ。愚民どもめ。」と記した。
 
 *泉知事、香川への異動とその後
 先に触れたように、終戦の1945年1月、沖縄を離れ在京中に香川県知事に異動することになった泉だが、念願かなって1月19日高松入りした。だが、米軍の本土爆撃に加え、食料や物資難はいよいよ厳しくなり、時局一新の名目で4月21日、泉ら16道府県知事の異動が決まった。あれだけ逃げ出したかった沖縄、そしてやっとつかんだ栄光の座は3ヵ月余で終わった。
 野里氏は戦後38年を経た1983年、埼玉県所沢市に住む泉を訪ねた。高齢化して、十分な会話は持てなかったが、夫人が対応した。夫人は「いい人生だったわけですねえ、おかげさまで」と夫を語った。泉の残した日記も入手して、長年追った記録をとどめることができたようだ。
 
 *逃げる者 残る者
 そのころ、1944年暮れごろから翌年1、2月にかけて、沖縄を去る本土人が相次いだ。
 ·44年11月 牧福松県官房長、「病気治療」で沖縄に戻らず
 ·45年2月14日  坂本信二県内政部長「熊本での国民貯蓄協議会出席」のまま戻らず
 同年2月中旬 西田親盛県衛生課長「那覇港見送りに行き、タラップの上がる寸前に船に飛び乗り姿を消す」。鹿児島到着後、内務省免官辞令が出た
 ·本土出身の水産課長、工業指導所長、薬剤主任らは、出張名目ないし勝手に職揚放棄して消えた。県職員以外でも、那覇市長山城徳三が復興資材の獲得交渉、九州疎開地視察名目で本土に行き消えた。那覇市の歴代市長ら幹部リストにその名はない(ネットによる)。沖縄連隊区司令部大佐、沖縄県議会議員までが失踪している。
 
 戦争終結まで島に残り、命を落とすまで職務を果たした人々も多い。
 いまも名が語られる知事島田叡は、就任早々台湾に行き食糧確保に手を尽くすなど陣頭指揮に立った。県警察部長荒井退造は、不在がちの泉県政の主軸として住民の疎開、対馬丸撃沈、10·10大空襲などに対応し、島田との二人三脚を果たした。このふたりは沖縄戦敗退の最後に自決している。
 沖縄師範校長野田貞雄は泉知事上京と同じころ、東京に出張したが、帰島して軍の指揮下にあった生徒と行動をともにして激戦地で命を落とした。遺体はわかっていない。
 
 *どのように考えるか
 戦時下の行動は、各人の本来の姿を表す。誰でも地位は上げたいだろうし、死にたくないし、より安全に身を守ろうとする。当然のことだ。泉知事の縷々語る逃げたい気持ち、出世したい思いはわからないことではない。泉の日記に見る姿は、各人の心中にも刻まれていることでもあり、むしろこの本音を記す率直さは驚きでさえある。ポジションによって、平穏時に権威にすがり、背伸びしてでもおのれの思う方向に引っ張りたい姿勢はよく見かけるところだ。
 問題は、社会に対するにあたって、それぞれの人に与えられた職務、責務をどのように果たすか、である。日頃の言動は、概して問われることなく、スルーできていても、戦時という異常な状況にあれば、日頃の言動との落差、状況の掌握・判断能力と決断を示さなければならない。そこに、人間としての本質が求められ、真価が問われる。また、職務上の責任感覚がどうであったか、を示すことになる。平時には一過的に済ませてきた作業でも、戦時ともなれば本当に十二分に検討され、責任を負う覚悟のもとに進められていたか、こうした結果論までが見直される。
 泉のような主力の官僚は、国のありよう、地域に生きる人々全体の長期的な生活や生命の保障の責任を負う。各自の求めたり、与えられたりした職務についてくる「責任」の重さを自覚しなければなるまい。
 人ひとりの生き方は自由だ。だが、それぞれの負う任務と責任には重さの違いがある。そこに、泉の生き方と、島田や荒井の感性との違いが見えてくる。
 泉の残した本音の記録は、そのことを物語っていないか。
 
 野里氏は、泉の日記を好意のもとに入手したことで、彼の生き方に理解を示そうと努め、その表現には相当の苦慮が読み取れる。その一方で、それでいいのか、と問い直すかの思いも示されている。
 
 両極に割れた人間の最期の姿をみてきた。
 「戦争」という人為の悪行に追い詰められて、人間の真価が問われる。平時も戦時も、ほとんどの人は誠実でありたいだろう。そうであれば、「悪」としての戦争を回避するしかない。戦争は相手との敵対に進み、憎悪を高め、徐々に積み上げられる。
 「悪」に持ち込ませない努力は、話し合いや交流による相手との違いを理解することに始まる。沖縄の戦争は、人々に大きな反省を促したと言えよう。 
 (元朝日新聞政治部長)

(2023.2.20)
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