【書評】

『六四と一九八九 ― 習近平帝国とどう向き合うのか』

  石井 知章・及川 淳子/編  白水社 2019年

初岡 昌一郎

 新年早々出版されたばかりのこの本を読み、お屠蘇気分が吹っ飛んでしまうような知的興奮を覚えた。本書は、昨年6月に明治大学で開催された国際シンポジュウムの報告・論文集である。中国人4名、アメリカ人1名、日本人3名の研究者の論考が収録されている。
 この本の特色は、過去の出来事として天安門事件を解明・分析するに止まらず、グローバルな世界の将来展望を視野に入れていることにある。「過去と現在の対話」だけでなく、「過去と将来の対話」が試みられていることが本書を読み応えのあるものとしている。さらに、もともと口頭発表のために準備された報告がほとんどなので、読みやすく論旨が明解である。

 編者たちの最も先鋭的な中国研究が、フランス文学・思想関係中心の出版社であった白水社から継続的に出版されているのが面白い。従来の親中・反中の枠にとらわれない中国関係書出版が意図されているのだろう。日本の中国研究者と関係者の間では、現在中国の公式的な立場に忖度し、天安門事件とその後を正面から批判的に取り上げない事大主義的傾向が顕著なので、さもありなんと思われる。自由な見解の表明と中国との友好を促進することは相反するものではなく、むしろ長期的に見て相互理解を深めるものだ。
 天安門から30年経った今日、当時は窺い知れなかった多くの重要な事実とその諸関係、また党と政府指導者たちの当時の見解や動きがかなり明らかになっている。それらを分析・整理・解明しようとしている諸論文が興味深い。

 本書は啓蒙的研究書であるが、それにとどまらず、将来に対するアクチュアルな問題を提起している。特に、編者である石井知章による序章、かつて中国社会科学院所属の学者で、現在コロンビア大学客員教授張博樹による第4章「三十年後に見る天安門事件」、そして中国研究の泰斗矢吹晋による第8章「新全体主義と“逆立ち全体主義”との狭間で」が本書の白眉である。

 編者の石井知章は、天安門事件を「中国民主化の挫折」という国内問題に矮小化する視点を批判、当時の世界的な動向を背景とした「市民社会の復権」とそれを阻止する一党独裁的支配の擁護の衝突という観点を示している。低賃金、低福祉、低権利の体制による急速な経済成長を実現させた核心的担い手層こそが、民主的改革に背を向けた新全体主義的習近平体制を生み出したと見ている。

 1989年の天安門事件と、その直後におけるポーランドの選挙による連帯政権の誕生、同年秋のベルリンの壁崩壊と東欧革命、ソ連体制の崩壊は、現代中国の「分水嶺」(張博樹)となる天安門事件の背景となっている。外国の影響とか介入による動乱に原因を求める公式見解が矮小化しているような次元のものではない。天安門以後の、政治的締め付けと裏腹で強引な市場経済化のなり振りかまわない導入とその経済的な成功は、単に中国だけではなく、中国周辺のアジア諸国、アメリカ、そして西欧へと、世界的な新自由主義的経済思想の全面展開に波及的な大影響を及ぼした。

 20世紀後半にあれほど推進され、不可逆的とさえ思われたグローバリズムの破綻、それと軌を一にした「アメリカ・ファースト」的偏狭なナショナリズムの世界的勃興、20世紀において主流であった啓蒙主義思想の後退とポピュリズムの蔓延が、天安門後に中国が見せた経済的な躍進と政治的な立場どのような因果関係にあるのかを堀下げて考察する課題への挑戦が、本書のタイトルに示された編著者たちの意欲をしめしている。
 天安門以後の中国は、世界の影響をこうむる受動的なファクターである以上に、世界に影響を及ぼす強力なファクターになっている。これが「紅い」帝国と呼ばれる所以である。

 天安門事件は過去の中国における国内的な出来事ではなく、世界史的なコンテテクストで受け止められるべき、思想的政治的な課題を我々に突き付けている。本書を読まれ、現代中国における思想状況にさらなる関心を持たれた人には、第4章「三十年後に見る天安門事件」の筆者、張博樹の『新全体主義の思想史』(白水社、2019年)を推薦する。これは、天安門以後の中国における諸思潮を包括的に詳しく紹介した筆者の「コロンビア大学における現代中国特別講義」をまとめたものである。これについての論評が本書の矢吹論文冒頭でなされている。

 天安門事件とそれに至る改革運動が、非暴力的で極めて平和的理性的な性格を持っていたことに改めて注目したい。これが紅衛兵による既存権威否定の暴動的な運動とそれを口火とした暴力的な文化大革命との根本的な相違である。1970年前後に世界的に盛り上がった学生を中心とする新左翼運動が暴力的な手段を辞さなかったのと違い、それに続くこの時代の主な政治的な変革は基本的に非暴力的平和的であった。特定政党やイデオロギー的な集団の前衛的ヘゲモニーは存在せず、必要ともされなかった。
 70年代にはギリシャとスペイン、そしてポルトガルで独裁が平和的に民主化された。80年代後半には、韓国、台湾、インドネシア、タイなどのアジア諸国における政治独裁が平和的に民主主義に移行した。それに続くソ連、東欧の民主革命も平和的に達成された。現在の香港の運動も官憲の暴力的な介入が行われるまでは極めて平和的なものであったし、今もその基本的な性格は失われていない。

 このように革命的な変革が平和的に達成されてきたことは、グローバルに見た市民社会の全般的な成熟が基礎となっている。平和的な改革の可能性にとっての最大の脅威は、軍事力の拡大と政治の軍事化である。その危険は決して軽視できず、近年の軍拡競争が潜在的な危険性をむしろ増大させている。

 蛇足的な感想を付け加えると、政治独裁と全体主義には質的な相違がある。全体主義政治的な権力の独裁的な行使に満足せず、特定イデオロギーに基づく政治支配を社会の隅々まで貫徹するために、言論と結社の自由空間を徹底的に制限する。そこでは、自律的な組織と表現の自由は奪われ、市民社会の存在が否定される。習近平体制下の中国で「市民社会」という言葉が禁句になったことが象徴的だ。しかし、かつて存在したスターリン的な全体主義と習近平下の「全体主義」は同一ではないし、今後もそれはありえないだろう。

 1960年代前半の4年間、私は当時のソ連を毎年訪問し、モスクワに1年近く滞在したことがあった。それはフルシチョフ時代の後半から終末期であった。1964年10月にオリンピック開催中の日本に帰国するためにソ連を離れたのは、奇しくもフルシチョフが失脚したその日であった。それ以後の半世紀間、ごく最近にいたるまでロシアの地を踏むことはなかった。
 私が当時見たソ連社会はグロテスクなもので、社会主義の理想とは大きく乖離していたが、スターリン批判以後の諸改革に触発されて全体主義体制が崩壊し始める兆しがはっきりと感じ取れた。だが、計画経済の主柱としての労働力の計画化(職業選択の自由の欠如)はまだ基本的に続いていた。これが政治的社会的自由空間の成長を阻害する最大の基礎的な要因であると私は感じた。職業選択の自由が権利として実現するのは、ゴルバチョフ以後のことである。

 中国を初めて訪問したのは、文革が終焉を迎えていた1975年夏であった。窓口は共産党対外連絡部で、そこに席を暫定的に置き、文革中に閉鎖状態に置かれていた総工会の再建を準備していた人たちがいた。その後、総工会関連だけではなく様々な機会に、ほとんど毎年のように訪問する機会が習近平時代直前まではあったので、その変化を身近に体感してきた。
 中国の解放・改革のなかで全体主義の基盤を掘り崩した最大の基礎的な要因は、事実上の職業選択の自由容認である。ILO国際労働基準の基本である「自由な労働」権とは、人が自ら選択する労働を可能とする保障だ。法的な保障の有無にかかわらず、これを習近平体制といえども後戻りさせることは不可能であろう。

 職業選択の自由は全体主義的政治支配を侵食する基盤だ。人間は経済的な基盤の確立によってはじめて自由になれる、と述べたのはアダム・スミスであった。かつてポーランド連帯運動は出発点において「一党独裁下における自由な社会」をまず目指した。中国における政治的社会的自由空間の拡大、すなわち市民社会成長の可能性が、今後の諸改革の平和的な実現のカギとなる。本書はその可能性を示唆している。その成否は21世紀の世界の進路に計り知れないほどの大きなインパクトを与えるだろう。

 (姫路独協大学名誉教授、元国際郵便電信電話労連東京事務所長)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧