【本を読む】

『命のビザ、遙かなる旅路 — 杉原千畝を陰で支えた日本人たち』

北出 明/著  交通新聞社新書

高沢 英子


 1990年代のはじめ「国際観光振興会」、現JNTOに勤務していた筆者は、偶然JTB本社から送られてきた「日本交通公社70年史」を読み、ふと「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」という項目に眼を留める。それは1940年から41年にかけて、旧ソ連のウラジオストックから日本の敦賀港まで週1回、20数回にわたって、日本海汽船の定期航路を利用し、「天草丸」という2346トンの老朽船で、幸運にもナチの手を逃れたユダヤ難民を福井県敦賀港に運んだ記録だった。興味を惹かれて読み進んでいるうちに、筆者は図らずも実はこの時、その難民たちに添乗し、煩瑣な斡旋業務、金銭の授受等一切の世話を献身的に行った4人のJTB職員のなかで、最も長期にわたってこの激務を果たした人物として、筆者が若き日公私ともに世話になった元上司大迫辰雄氏の名を発見して愕然とする。

 1940年、戦乱のヨーロッパで、リトアニアのカウナスに前年開かれた日本領事館の領事代理として赴任した杉原千畝が、ナチのユダヤ人狩りの魔の手を逃れるため、命がけで救いを求めたユダヤ難民に渡航ビザを発効し、6,000人に及ぶ人命を救った逸話は、これまで多くの研究書や書物で明らかにされ、映画化もされた史上有名なエピソードであるが、杉原千畝が権力に屈することなく決行した「命のビザ」発効措置を実際に有効にするべく協力を惜しまず、幾多の困難を乗り越えてこの難民たちを日本に送り届け、さらにその人たちを、無事希望の地に送り出すに至るまで、はかり知れない蔭の労苦を惜しまなかったジャパンツーリストの関係者たちの働きや、彼ら難民を一時的にせよ受け入れ、その困難な道行きを支えた敦賀や神戸の人たちと彼らとの人間的な交流はこれまであまり知られていなかった。

 筆者はかねてから前記当事者と深い親交があったにもかかわらず、彼らがこれまで敢えて語らなかった真実を知るに及んで深く感動し、こうした埋もれた人間ドキュメントの真相を、いつかは明らかにしたいという強い気持ちを抱いてきたが、数年後大迫氏を訪ねた折、遂に事情を詳しく知る機会を得た。

 そして初めて大迫氏から、その事実を聞き、さらに70年前ナチの非道な追跡を逃れ、殆ど着のみ着のままシベリア鉄道でウラジオストックに辿り着いた悲運のユダヤ難民を日本経由で横浜と神戸に輸送する為、まず敦賀港へと、時化で荒れる冬の日本海を船酔いに悩まされながら目指した往時の困難な状況を淡々と述懐した「回想記」及び、乗客数名の写真を提供され、これら知られざる蔭の協力者たちの人道的な無辜の働きにあらためて強い感動と衝撃を覚え、隠された事実を掘り起こし明らかにするべく、困難ながらやりがいのある調査に立ち向かうことになる。

 こうしてそれをきっかけに、また日本国内が歴史的に緊迫を深めて行ったあの時期に、ドイツの同盟国であったにもかかわらず、肩ひじ張らず難民たちを温かく迎え入れた世紀の運命的な救出劇の舞台となった港町敦賀のひとたちの善意や、さらに彼らの逃避行の最後の出発港、神戸での無名の住民たちの無償の善意など、歴史の裏に秘められた多くの知られざるドラマが、筆者の疲れを知らぬ綿密な調査で明らかにされてゆく。

 敦賀や神戸におけるユダヤ難民の当時の様子と、日本国内の反応を能う限り情報収集し、さらに残された数少ない資料を手掛かりに、事件から既に70年を経た昨今、自ら足を運んで彼らの足跡を、遠くアメリカ全土にまで求め、これによって救われたユダヤの人々の後の生涯を追い、すでに故人となった場合も彼らの子孫にじかに会うなどして、その生の思い出話や証言を能う限り聞き取って綿密な記録作品にまとめ上げることで、苦難を乗り越えて連綿と続く命のドキュメントが徐々に明らかにされてゆくのである。

 敦賀の町の人たちは優しかったようである。聞き取りに応じた老人たちの証言から読み取れるのは、当時の敦賀の町のひとびとが持っていた国境を超える良識と寛容の魂である。ある老人の証言によれば「小学校では、生徒に対してユダヤ難民に関し、あの人達は自分の国が無いため世界各地に分散して住み、金持ちや学者や優秀な技術者が多い。今は戦争で住むところを追われて放浪して落ちぶれた格好をしているが、それだけを見て彼らを見くびってはならないと教えていました」という。

 ユダヤ難民がさらに長期に亘って留まっていた神戸では、さらに多くの足跡が残され、互いの交流も活発に行われていたことが数々の引照によって紹介されているが、ここでは、山形裕子さんという女性歌人の歌集「ぼっかぶり」の中の往時を歌った短歌を紹介してみたい。70年前小学校1年生だった少女の眼で見た難民の子供たちのありのままの姿が生き生きと歌われ、日本でのユダヤ難民の人々の様子が目に見えるようである。

  夕立に駆け込んできたユダヤの子 破(わ)れた大きな西瓜を抱いて
  麦茶よと母さんの出すコップ受けてダンケシェーンとごくごく干した
  八つかなあ九つかなあとおばあちゃんピンクの長い手足眺める
  早うお逃げ 早うお逃げおばあちゃんユダヤの子供に蛇の目持たせる

 これに関して再び残されている杉原千畝の語録を借用し、その揺るがない信念を今一度振り返ってみる。

 私に頼って来る人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。
 「世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり争ったりせずに、みんなで手をつなぎ合って回っていかなければなりません。・・ではお元気で、幸運を祈ります」
 大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。

 また千畝がカウナスに赴任する直前、当時の外相近衛文麿が在外公館に発令した極秘訓令なるものも参考までに紹介しておく。

  猶太避難民ノ入国二関スル件
 …陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、独逸及伊太利二於テ
  排斥ヲ受ケ外国二避難スル者ヲ我国二許容スルコトハ、
  大局上面白カラサルノミナラス現在事変下ノ我国二
  於テハ是等避難民ヲ収容スルノ余地ナキ二付、今後ハ
  此種避難民(外部二対シテハ単二『避難民』ノ名義ト
  スルコト、実際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地
  ナラビ二各植民地へノ入国ハ好マシカラス(但シ通過
  ハ此ノ限二在ラス)トノコト二意見ノ一致ヲ見タ。

 当時の国際事情、日本の立ち場などが判然とする通達だが「通過はこの限りにあらず」という1行に僅かな救いの見出されるこの冷たい通達に、敢えて挑戦し、身命を賭して避難民たちへのビザ発効に踏み切った杉原領事官代理の英断。そしてそれを蔭でしっかり受け止めて、素早く着実に困難な業務を黙々と果たし彼らを救ったた日本人がいた事。そして遙かな旅路を辿るこれら不幸な人々を受け入れて暖かく見守った民衆がいた事。この一連の事実を、感動の人間ドキュメントとして明らかにし、当時の数々の国際事情や歴史状況にも触れながら、胸の抉られるような悲劇の中から光を見出して生き延びた人々と、共に喜び、共に往時を振り返って感動を新たにする私心の無い筆者の熱い心情は、まさに杉原千畝の魂に相呼応するものであり、読む者の心に沁みわたる。

 筆者北出明氏の姿勢の根底にある人種の違いや国籍の違いを超えた人間存在への愛と良知に充ちた暖かい視点が、取材される人たちの心をも開かせ、進んで数奇な人生行路を心ゆくまで語る結果を生み出していることも見逃せない。第6章及び終章では、戦中戦後を通して日本郵船の客船が辿った数奇な運命なども併記され、多くの秘話が披露されていて興味深い。

 それにしてもこうして生き延びたユダヤ難民たちは、数少ない幸運を掴んだ人々であった。両親を殺害され、ひとり生き残ったものの、追憶に苦しめられ、身を裂く苦渋からついに逃れられず、後年、パリで自ら命を絶ったユダヤ系詩人パウル・ツェランの詩を一つご紹介しておく。

  白楊(はこやなぎ)、おまえの葉は白じらと闇を見詰める。
  ぼくの母の髪は決して白くならなかった。

  タンポポ、こんなにもウクライナは緑。
  ぼくのブロンドの母は家(うち)に帰ってこなかった。
     パウル・ツェラン「白楊」飯吉光夫訳より

 以上大雑把な読後感で、筆者の意図が十分語りつくされていない憾みがあることを深くお詫びして筆を擱きます。

 (東京都在住・エッセイスト)


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