【コラム】大原雄の『流儀』

『忠臣蔵』の“完全通し”上演で見えてくるもの(3)

大原 雄


◆「仮名手本忠臣蔵」の近代化~「剪定」された忠臣劇~

◇ 1)来年、2018年、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」は、初演以来、270年を迎える。浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬り掛かったのは、18世紀が始まったばかりの新世紀初頭(1701年)であった。あれから、3世紀が過ぎ去った。18世紀半ばに作られた「仮名手本忠臣蔵」は、上演を繰り返すうちに、代々の役者が芸の工夫を重ねる。原作を改変する。科白を変える。増補版として、新たな場面を付け加えるようになるなど、いわば、「成長」してきた芝居だ。

 江戸城内で起きた大名による刃傷事件に端を発した赤穂諸事件を素材とした物語は、大名の家臣の中から選ばれた忠臣たちによる主君(当時の「国」意識からすれば、現代の「国家元首」に相当するかもしれない)の敵討ち成就で閉幕するまで1年9ヶ月の物語となった。芝居の「仮名手本忠臣蔵」では、これを1年に濃縮し、全十一段を1年間の四季を意識した芝居として、再構成した。近代になって書き直された赤穂諸事件は、敵討ち成就と、その結果としての忠臣たちの切腹事件を以て、終演としている。

◇ 2)国立劇場が開場50周年記念と銘打って、「仮名手本忠臣蔵」の完全通し上演を2016年10、11、12月の3ヶ月間の3部制として、大序から十一段目まで、内容的にダブっている部分も含めて敢行した。完全通し上演の基本は原作の姿に近づけた、ということだろう。その概略は、「オルタ」の前号に掲載したので、参考にして欲しい。要するに、原作時は男のドラマと女のドラマが、ほどよくバランスが取れていた、ということである。密かに主君の敵討ちを目論む男たちを女たちが支え、助けていたのだ、それがいつの間にか、上演されるのは、男のドラマにウエイトがかかるようになっていった。今回は、その辺りに焦点をあてて書いてみたい。

 ただし、この論考は、「仮名手本忠臣蔵」の研究書ではない。あくまでも歌舞伎好きのジャーナリストが、観劇記の延長線上で所感をまとめたものである。視点は仮名手本忠臣蔵における男のドラマと女のドラマの分析の一点である。だから、歌舞伎研究家の目からみれば、緻密な論証ではないことは明らかである。

◇ 3)普通、「通し」と称して上演される「仮名手本忠臣蔵」は、歌舞伎座を例にとれば、大序から始まり、三段目(部分)、四段目(部分)、五段目、六段目、七段目、八段目、九段目(部分)、十一段目(部分)を不完全ながら昼夜通し興行、プラス、劇場が近い新橋演舞場での併演(例えば、八段目、九段目)が、せいぜいであった。このような結果、観客たちは、いつも、いわば、「剪定」された忠臣劇を観ることになった。私の言う「剪定」された忠臣劇とは、別の言い方をすれば、主に男の視点で再構成された男のドラマだということである。客が不入りな時、上演すると客足が戻る、ということで「独参湯」(特効薬)として、18世紀半ばの初演以降、270年近く繰り返し上演された「仮名手本忠臣蔵」は、女のドラマの部分を剪定して上演されてきた、ということである。

 1748年に全編が初演された時、「仮名手本忠臣蔵」は、主筋の男のドラマと副筋に女のドラマが、原作者の思惑通りにバランスを保って上演されていたのではないか、と夢想する。今回の完全通し上演で確認した場面としては、私の言う女のドラマは、以下の通りである。

 二段目「力弥使者」、三段目「文使い」「裏門」、四段目「花献上」、六段目「身売り」、七段目、八段目・浄瑠璃「道行」、九段目(「山科閑居」の前半)である。端場(はば)が多いのがわかる。

 切り捨てられた女たちのドラマは、どうであったか。
 今回、国立劇場で完全通し上演という形で、やっと演じられた場面を含め、女たちのドラマの場面に光を当ててみた。

 このうち、今も、「通し」上演、あるいは、ワン・エピソードを繋げる「半通し」上演という形で、女のドラマが上演されることはあるが、今回のように大量に女のドラマが上演されたことは稀である。まさに、開場50周年記念ならではの、上演であった。特に、今回初見で興味深かったのは、ふたつあった。二段目「力弥使者」の「小浪力弥」のカップルの物語。「仮名手本忠臣蔵」では、ふた組の若い男女のカップルが登場する。しかし普段、もっぱら上演されるのは、「おかる勘平」の物語で、小浪と力弥が登場するのは、九段目だけ。それも脇筋的な扱いで、あまり目立たない。四段目「花献上」の顔世御前と塩冶判官の夫婦愛の場面。この二つの場面を含めて、女のドラマだけを再現してみよう、と思う。

◇ 4)女たちの「愛の忠臣蔵」~死なれて・死なせて~

 「仮名手本忠臣蔵」は、四季を意識した芝居だ。
春:「大序」から「三段目」の刃傷事件(史実の浅野内匠頭の刃傷事件は、旧暦の3月)「四段目」の判官切腹を経て、城明渡しまで。
夏:「五段目」、「六段目」のおかる勘平の物語。
秋:「七段目」、「八段目」。道行旅路の嫁入の浄瑠璃の文句に耳を傾ければ、特に、八段目は、それも晩秋だと、判る。「雪の肌えも、寒空は、寒紅梅の色添いて、手先覚えず、こごえ坂」。
冬:「九段目」、「十段目」、「十一段目」は、雪景色が続く。討ち入り事件は、旧暦の12月14日。

 こうして、「通し」で見ると、死んで行く男たちのドラマとして知られる「忠臣蔵」の陰で、生きた女たちの愛のドラマが浮かび上がってくる。男たちの視点で「剪定」されたのは女のドラマの部分だった。落ちていた枝を拾い集めて、改めて、女のドラマを織り直してみたい。

 忠臣蔵に登場する女たちとは。
 戸無瀬と小浪の母娘(二段目、八段目、九段目)。おかる(三段目、六段目、七段目)。塩冶判官妻・顔世御前(大序、四段目)。与市兵衛女房・おかや(六段目)。大星由良之助妻・お石(九段目)、天川屋義平女房・お園(十段目)。このうち、比較的よくお目にかかれるのは、六段目、七段目のおかるであり、おかると勘平が出ることであわせてお目にかかるのが六段目のおかやである。後は、大序の顔世御前くらいだろう。

 今回は、そういう女たちに焦点を合わせて、女のドラマにスポットを当ててみよう。題して、「死なれて・死なせて。女たちの『愛の忠臣蔵』」。

 まず、二段目「力弥使者」。小浪(児太郎)と戸無瀬(魁春)の母娘が登場する。翌日の登城時刻を伝える判官の使者として大星由良之助の嫡男・力弥(隼人)が桃井(もものい)館を訪ねて来るので、「二段目」は通称「力弥使者」という。義母の戸無瀬だけでなく父親の加古川本蔵、つまり小浪の両親は、許嫁同士の若い人たちにふたりだけの時間を持たせようと使者の口上を聞く役を小浪に任せる、という粋なはからいをする。戸無瀬は後妻なので、なさぬ仲の先妻の娘・小浪を余計に大事にする。八段目の「道行旅路の嫁入」、九段目の「山科閑居」でも、「娘のため」というのは、戸無瀬にとっては最優先のことがらで、継母の意地はそれを最後まで貫いている。この粋なはからいには桃井家の主である若狭之助も、一枚噛んでいて、うっとりするばかりで役に立たない小浪をサポートして、陰で力弥の口上をちゃんと聞いてくれているのである。小浪は、少々過保護な育ちのようである。

 三段目。おかると勘平が登場する。「文使い」と「裏門」、あるいは「裏門」を所作事に作り変えた「旅路の花聟」、通称「落人」という道行では、勘平に付き添うおかるがなかなか良い。

 三段目「文使い」。足利館表門の門前。顔世御前に仕える腰元のおかる(高麗蔵)が顔世御前から師直宛の返書(断り状)を判官に託すために、中継ぎを勘平(扇雀)に頼みに来た。業務を果たしたふたりは、職務放棄をして、アバンチュールを楽しみに職場(待機場所)離脱をしてしまう。

 その後、「裏門」。おかる勘平は、表門から裏門へ移動している。この場面の前に「刃傷」がある。塩冶家の主君・判官が殿中で師直に斬りつけるという刃傷事件を起こしていたのだ。裏門から城内に入りたいと申しれる勘平を門番は、緊急事態で閉鎖と冷たく追い返す。勘平はおかると共に途方にくれる。

 四段目の「前」に上演される三段目「裏門」の所作事化として、近年では、四段目の「後」に演じられる「道行旅路の花聟」がある。これは、基本的に同じドラマのバリエーション(劇と舞踊劇の違いに過ぎない)なので、ここでは同じものとして論じる。

 主君・判官の近習・早野勘平は、殿中に主君を送り出した後の待機とはいいながら、文使いに来たおかると職務中のアバンチュールを楽しみ、主君の刃傷沙汰という事件発生時、お側近くにおり合わさなかったという大失態を演じてしまう。

 颯爽とした青春まっただなかの勘平であるはずが、それだけに、落差が大きく「青春の蹉跌」の虚ろさに加えて、職業人失格による抑鬱状態に陥っていることが感じられる。

 おかるは、この時期特有の女性の早熟さ(姉さま気分)を滲ませながら、抑鬱状態の青年への気遣いを感じさせていて、時にリーダーシップを発揮したりしながら、失意のあまり、自殺しかねない恋人への気遣いをみせてくれる。

 四段目の端場(はば)の「花献上」。顔世御前(秀太郎)と判官(梅玉)が登場する。上使の到着を待って、切腹をすることになる塩冶判官。緊迫感の高まる塩冶館の雰囲気を和らげようと、判官の妻・顔世御前は、腰元らに言いつけて鎌倉山に咲く様々な桜の枝を集めさせて、花籠に活けている。夫のために何もできない焦燥感の中で、顔世御前は、連れ合いとしての気持ちを精一杯込めて、花を活けるのである。

 六段目「身売り」。ここでは、「妻の愛」が描かれる。ふたりの妻。つまり、母親のおかやと娘のおかる。それぞれの夫への愛情を示す。

 まず、おかや(東蔵)の夫・与市兵衛(五段目と違って、筋書に名前がない。つまり、遺体となっているので、役者としては登場しない)の遺体に対する狂おしい愛の表現が見せ場のひとつ。おかやの夫への愛は、娘婿への疑惑にまで、煮詰められてしまう。義母の疑惑に耐えられず、勘平は、自ら腹を斬る羽目になる。

 もうひとりは、おかる(菊之助)。この場面、登場人物のほとんどが灰色のようなくすんだモノトーンの衣裳のなかで、鴬色の勘平(菊五郎)と紫色のおかるの衣裳は、印象的だった。色彩で歌舞伎がふたりをクローズアップしているのが判る。おかるは、「道行」の初々しさが消え、実家住まいだけに猟師・勘平の妻としての落ち着きもあり、日常化した夫への愛情もあり、夫への献身ぶりが伺える。

 だが、おかるは、夫に忍び寄る、その後の悲劇は知らないまま、夫のためにと、遊廓に身を売る。

 七段目「一力茶屋」。前半は妖艶な遊女・おかる(雀右衛門)。後半は亡くなってしまった勘平への真情溢れる妻・おかる。悲劇を知るのは、色っぽい遊女として京の一力茶屋に馴染んでからだ。だが、兄・平右衛門(又五郎)に夫の最期の様子を知らされると、勘平の見えぬ遺体に対する妻としての狂おしい愛の表現がおかるに迸る。遊女の色っぽさの下に隠されていた夫への親愛が、一挙に出てくる。おかるの「二重性」。

 八段目、九段目では、小浪に対する母・戸無瀬の娘への愛が描かれ、義母となる大星お石の一日限りの嫁(力弥にとっては、一夜限りの妻)への愛が描かれる。

贅言;「道行旅路の嫁入」は、所作事(舞踊劇)。歌舞伎・人形浄瑠璃の三大道行の一つ、と言われる。三大道行とは、「義経千本桜」の「道行初音旅(はつねのたび)」、「妹背山婦女庭訓」の「道行恋苧環(こいのおだまき)」、そして、この「道行旅路の嫁入」。「仮名手本忠臣蔵」の、もう一つの「道行旅路花聟」は、後世、三段目の「裏門」を所作事に作り変えたもので、オリジナルではないので、外されたのだろう。

 「道行旅路の嫁入」。山深い松並木。舞台は暫く無人。竹本の浄瑠璃。松並木が上下に引き込まれると、初々しい加古川本蔵の娘・小浪(児太郎)と義母の戸無瀬(魁春)のふたり連れが、供も連れずに道中姿で富士山が見える辺りの東海道を行く。「八段目」では、戸無瀬が義理の娘との長旅を気遣う所作が良い。戸無瀬は継母ゆえに、実母以上に強靱な母の愛を滲ませる。それは、「九段目」への伏線だ。

 塩冶判官の刃傷事件以降、「結納(たのみ)もとらず、そのままに」放置されている小浪の婚約を心配している。ふたりは小浪の許嫁・大星力弥、由良之助、お石ら一家が隠れ住む「山科閑居」に強引に押しかけようとしている。鎌倉から京の山科へ。当初の約束通り、嫁入をしようと東海道の富士山付近を急いでいる。

 浄瑠璃の文句に「薩埵(さつた)峠にさしかかり、見返れば、富士の煙の空に消え」とある。薩埵峠は、東海道の由比宿と興津宿の間にある峠(現在の静岡市清水区)を歩いていると判る。この後も、浄瑠璃の文句には、鞠子川、大井川などと地名がたくさん出てくる。それに合わせて、節目では、背景も替わる。遠くに海。三保の松原に続く松並木を婚礼の行列が通る。事件がなければ、小浪にも、あのような嫁入り行列をさせてやれたのにと、義母は思う。

 富士山が上手に引っ込み、松並木が遠望された堤も下手にひっこむ。上手に城が見える。「駿河の府中」か。やがて、その城も見えなくなり、背景は琵琶湖に替わる。いつしか、琵琶湖の竹生島が現れる。浄瑠璃「やがて大津や三井寺の麓を越えて山科へ程なき里へ」で、小浪戸無瀬のふたりは本舞台から花道へと、踏み出す。母娘二人旅も、間も無く終わる。

 八段目、さらに、九段目では、小浪に対する母・戸無瀬の娘への愛が描かれ、力弥の母、小浪には義母となる大星お石の一日限りの嫁(力弥にとっては、一夜限りの妻)への愛が描かれる。

 「閨の睦言さざめ言、親知らず子知らずと蔦の細道もつれ合い、男松(おまつ)の肌にひったりとしめてかためし新枕(にいまくら)、女夫(みょうと)が中の若緑、抱いて寝松(ねまつ)の千代かけて、変わるまいぞの睦言は、嬉しかろうとほのめけば」と、「夫婦相和し」のようなことを言って、義母は娘を嬉しがらせて、さらに、「縁を結ばば清水寺へ参らんせ、音羽の滝にざんぶりざ、毎日そう言うて拝まんせ、そうじゃいな、紫色雁高我開令入給(ししきがんこうがかいれいにゅうきゅう)、神楽太鼓にヨイコノエイ、こちの昼寝をさまされた」。母から娘へ、 女性らしく初夜の心がけも、「道行旅路の嫁入」の浄瑠璃の文句には入っている。浄瑠璃の文句を聞いているだけでは、観客には判りづらいと思うが、「紫色雁高我開令入給」は、母親が初交の説明をしている。母は言う。「紫色をした雁高(かりだか)なものを私のものに入れて欲しい、とちゃんと言うのよ」。しかし、九段目で、小浪には永遠に一夜限りの初夜しか待っていないことが判る。

 塩冶判官の刃傷事件で、判官の行為を背後から止めた加古川本蔵は、切腹した判官の無念の憎しみの対象にされてしまい、事件前まで許嫁の間柄だった大星由良之助嫡男の力弥と加古川本蔵の娘・小浪の婚約は解消状態になってしまっている。その婚約を元に戻そうと戸無瀬と小浪は、山科の大星由良之助宅に押しかけようという強引な旅である。前途に控える難題を考えれば、母娘ともども、抑鬱的になりがちだろう。それを義理の母の戸無瀬は小浪の気持ちを明るくさせようと、道中の途中でいろいろな話を小浪に問いかけていて、この性教育も、その一つ。これを聞いて、まだ、処女(きむすめ)の小浪も恥ずかしがったことだろう。また、戸無瀬も、性を知り尽くした母親らしく口に手でも当てて、ホホホと微笑んだかもしれない。

 「九段目」(「山科閑居」)では、白無垢の娘に対して、嫁入りに命をかける赤い衣裳の母、灰色から、後に黒に着替える義母は、娘を一夜限りの嫁にしないよう冷たくあしらう。そういうふたりの母の思いを歌舞伎は、色彩感覚でズバリと表現する。それが「御無用」という二度にわたるお石(笑也)の声が、凛と響き、ふたりの母の愛がひとつになる。ここまでで、女のドラマは終わる。後半は、家老同士の男たちの「友情」のドラマに引き継がれる。男たちの戦いが描き出されて行くようになる。

◇ 5)男のドラマも苦渋の物語は九段目まで。
 女のドラマが終わると、男のドラマは、一気に戦闘的になる。判官、勘平、由良之助らの男たちが苦渋を浮かべて、いろいろ悩み抜く場面も、九段目までに終わってしまう、と私は思う。苦渋の極点が、九段目の加古川本蔵(幸四郎)なのだろう。由良之助(梅玉)よりも苦渋の度合いが深そうである。それだけ、男たちより、一歩も二歩も下がって至っている女たちの助力が大きかったのではないか、と思うのだ。

◇ 6)このあたり、さまざまな並木宗輔作品に共通する、彼の「母の愛」思想が伺える。そういう運命の大浪に揉まれながらも、小浪は、力弥への初々しい愛を表現する。死なれて、死なせて。生き残る女たちの苦悩。「忠臣蔵」3人の共作者のうち、並木宗輔は、きっと、そういうメッセージを、こうした女たちの愛の表現に滲ませた、と私は思う。

◇ 7)男のドラマは、十段目から筋も戦闘的になる。
 塩冶家出入りの堺の商人・天川屋義平(歌六)の店。山科在住の由良之助から鎌倉の高師直館へ討ち入りするための装束・武具の回送することを請け負い、準備に追われている。幕末期から明治期以降、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は最終の段を改変させた。

◇ 8)接ぎ木された十一段目。実録風に改変された。十一段目は幕末期以降、「近代化」した。実録(リアル)風、軍事的集団主義の強調である。十一段目「討入、広間、奥庭泉水、本懐焼香、引揚」。雪の戦場となる。お馴染みの大団円だが、原作から離れて幕末から明治期になって付け加えられた実録風の場面が展開される。いわば、増補版の十一段目。近代化された「仮名手本忠臣蔵」の誕生である。

 例えば、増補された「広間」の立ち回り。高師直邸に討ち入った塩冶浪士のうち、広間では大星由良之助の嫡男・力弥(米吉)が師直の息子・師泰(もろやす。男女蔵)と斬り合う。ふたりは斬り合いつつ奥へ移動する。続いて広間に駆け込んできた塩冶浪士・矢間重太郎(隼人)は、抵抗する茶坊主の春斎(玉太郎)をはずみで槍で刺す。命懸けで義を通した、というイメージで春斎に対して重太郎が敬意を表する、という場面らしい。

 「本懐焼香」も、珍しい。ただし、この場面は、原作への戻り。普通の十一段目では、「討入」で、表門での浪士勢揃いと「奥庭泉水」での立ち回り、炭小屋(今回は、柴小屋)での師直征伐での「本懐」、勝鬨で、閉幕となる。確かに、十一段目は、「大序」の仰々しさや「七段目」の元禄歌舞伎らしい華やかさとは、肌触りを異にする芝居となっている。

 「本懐焼香」の場。普段は、本懐を遂げて、師直の首を高々と掲げて、勝鬨を挙げて、閉幕となるが、今回は珍しく、原作通り、「焼香」までも上演をした。六段目で腹を切って亡くなった勘平の縞の財布が勘平の身代りに焼香に加わっている。勘平の妻・おかるの兄で、ただ一人、足軽の身分で討ち入りに参加した寺岡平右衛門(錦之助)が代行した。御用金を提供した勘平を含め集団主義の勝利を強調する。

 「引揚」は、時々上演される場面が、いわば、塩冶判官とその一統の諸事件は、「大序」で描かれたように、当初は桃井若狭之助と高師直の間のトラブルとして発祥した。それが桃井家の有能な家老・加古川本蔵の機転で回避され、塩冶判官と高師直の間のトラブルに変換されてしまった。それを負担に思っている若狭之助(左團次)が、花水橋で大星由良之助(梅玉)らの一行を出迎え、労を多とし、最後に一行を見送る。

 若狭之助の登場は、つまり、討ち入り事件直後では、まだ知り得ないはずの塩冶浪士たちに対する、いわば、「後世の評価」を先取りして、舞台で披露するという場面になる。

◇ 9)十一段目は、そういう目で見ると、敵討ちという「戦争」をし掛け、雌伏1年9ヶ月の旧暦12月の討ち入りまで、綿密な情報収集と分析、処理の末に勝利に導いた大星由良之助一行の戦勝物語として、近代は上演されている、ということだろう。前近代的な師直の守りに対する由良之助の近代的な情報戦の勝利。特に、幕末から明治期の10年代。徳川幕府から明治国家へ。欧米列強の近隣アジア諸国の植民地化を横目で見ながら、日本が植民地化されないように、列強に追いつくように、伍するようにと軍国主義化を目指して行った。そういう背景が、仮名手本忠臣蔵の改変にも影響していないのだろうか。特に、十一段目は、この時期に、今のような実録風の芝居に変えられた。

◇10)史実の赤穂諸事件は、家臣たちが浪士(浪人)に過ぎなかったのか、主君に殉じる義士だったのか、という議論は、浅野内匠頭の刃傷事件を処断した将軍綱吉に仕えていた林大学頭の義士論を主張して書かれた「復讐論」1703(元禄16)年から始まる。以下は、大石学「元禄赤穂事件」参照。

 以後、主な義士論、非義士論(浪士論)を挙げておこう。

【義士論】
・林大学頭「復讐論」。1703(元禄16)年
・室 鳩巣「赤穂義人録」。1703(元禄16)年
・三宅観瀾「烈士報讐録」。同時期?
・浅見絅斎「赤穂四十六士論」。1706(宝永3)年から1712(正徳元)年
・三宅尚斎「重固問目」。1719(享保3)年。
・五井蘭洲「駁太宰純赤穂四十六士論」。1730(享保15)年から1739(元文4)年
・松宮俊仍「読四十六士論」。1732、33(享保17、18)年
・伊勢貞丈「浅野家忠臣」。同時期?
・川口静斎「四十七士論」。1744(延享元)年
・山本北山「義士雪冤」。1775(安永4)年
・佐久間大華「断復讐論」。1783(天明3)年

【非義士論】
・佐藤直方「四十六人之筆記」。1718(宝永2)年
・荻生徂徠「論四十七士事」。1718(宝永2)年
・太宰春台「赤穂四十六士論」。1732(享保17)年頃
・牧野直友「大石論七章」。同時期
・伊良子大洲「四十六士論」。同時期?

 徳川幕府の御政道という「公」を肯定しながら、「義」を許容するというダブルスタンダードの構造を維持しながら、江戸時代を通じて義士論と非義士論が、断続的に議論され、やがて、義士論に収斂されて行ったことが、窺える。

◇11)男のドラマは、男たちを陰で支える女たちのドラマを切り捨てて、主君の敵討ちへ敵討ちへと、藩主(当時の藩=お国意識からすれば、藩主=国家元首であっただろう)のためという大義に収斂されて行く。国家主義への傾斜が見通せる。

 明治の実録風な台本が幕切前の場面に付け加わり、「仮名手本忠臣蔵」は、多面的な歌舞伎になった。本来の元禄風な大らかな場面。時代ものの中に「入れ子構造」で入っている世話ものの妙味。ふたつもある所作事。

 今のような「仮名手本忠臣蔵」は、明治初期に形作られた。近代日本の国家主義的な国の形は日清・日露戦争を経て構築された。1930年代から1945年までの戦争の時代。敗戦後、日本占領期を支配したGHQ。そのGHQが懸念した敵討ち物語の大本山としての「剪定」された仮名手本忠臣蔵は敵視された。主君のための敵討ちは、「ヒューダル・ロイヤリティ」(封建的忠誠心)とみられたのだ。上演禁止となった「仮名手本忠臣蔵」。戦前からの歌舞伎ファンで、戦後、マッカーサーに同行して進駐してきたフォービアン・バワーズ。「仮名手本忠臣蔵」の本質をGHQに力説したバワーズの尽力で、「仮名手本忠臣蔵」の再演は早まった、と言われる(異論もある)。再演は、1947年に行われた。

 なにしろ、厚木基地にマッカーサー元帥がコーンパイプを咥えながらタラップを降りた後、通訳兼務で同行の一員だったフォービアン・バワーズは、取り囲んだ日本の新聞記者らに対して、「羽左衛門は元気か」と聞いたと言われる。バワーズの問いに新聞記者は戸惑ったらしい。「羽左衛門って、誰だ」。

 その十五代目市村羽左衛門は敗戦を待たずに、宿泊先の長野県・湯田中温泉の旅館「よろづや」で、5月6日に既に亡くなっていた。

 (ジャーナリスト/元NHK社会部記者。日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)


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