【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

イスラム教徒の信仰と暮らしの基本

荒木 重雄


 「イスラム国」やらボコ・ハラムやら、イスラムを標榜する犯罪的集団が過激化している。同列に扱われ、警戒と嫌悪の目を向けられて迷惑するのは一般のイスラム教徒である。そこで、今回はあえて、イスラムとイスラム教徒について、最も基本的なことがらを述べておきたい。

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◇◇ 啓示宗教の完成版を自負
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 まずは「イスラム」という言葉からだが、それは、「一身を委ねる」「絶対帰依する」という意味である。何に帰依するかといえば、唯一絶対の神アッラーと、アッラーの言葉を人々に伝えた預言者ムハンマド、および、ムハンマドが伝えた神の言葉を記したコーラン(クルアーン)である。
 この三点が要だが、加えて、天使、ムハンマド以前の預言者たち、コーラン以前の諸聖典、そして、最後の審判と来世を信じる。これがイスラムである。

 ムハンマド以前の預言者たちには、アブラハムをはじめ、ユダヤ教のモーセやキリスト教のイエスも含まれ、コーラン以前の諸聖典として『モーセ五書』(旧約聖書)や『福音書』(新約聖書)も尊重される。
 神は、神の言葉を人々に伝えるべく20万人の預言者を地上に遣わしたが、ムハンマドはそれら諸々の預言者の最後のそして最高の預言者だというのが、イスラムの立場である。

 ここからも明らかなように、イスラムは、ユダヤ教やキリスト教と同じ神を仰ぐ同系統の宗教だが、ユダヤ教は、神の恩寵を受けるのはユダヤ人のみとしたこと(選民思想)が誤りであり、キリスト教は、一預言者(人)にすぎないイエスを神の子としたところに根本的な誤りがあると、イスラムは批判する。

 同じ啓典の民として、イスラムも最後の審判を極めて重視する。
 その日、天は裂け山は砕けて、全ての墓は開かれて、人は生前の行為、すなわち、神が定めた生き方をしたかどうかを裁かれて、天国と地獄に振り分けられる。仏教やヒンドゥー教のような輪廻の観念を持たないイスラムでは、振り分けられた先での来世は永遠に続く。

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◇◇ イスラムは暮らしの指針
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 この、天国行きか地獄行きかが決まる、人が守るべき「神が定めた生き方」は、コーランに記されている。その一番大事なものが、五つの宗教的義務(五行、アルカーン)である。

 第一は信仰(シャハーダ)。唯一の神アッラーと預言者ムハンマドをはじめ、上述の諸々を信じること。「アッラーの他に神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」や「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」はイスラム教徒がつねに口にする言葉である。
 第二に礼拝(サラート)。1日5回(日の出前、正午、午後の半ば、日没時、就寝前)、メッカに向かって、上に述べた言葉やコーランの一節を唱えながら礼拝する。金曜日の正午の礼拝はとりわけ重要とされ、身を浄め、晴れ着をつけて、最寄のモスクに集って集団礼拝を行なう。
 第三は断食(サウム)。イスラム歴の第9月の30日間、日の出から日没まで、日のある間は一切の食べ物、飲み物を口にしない。そのかわり、日没を待ちかねたあとの食欲は驚異的である。
 第四は巡礼(ハッジ)。年に一度のカーバ神殿の大祭に合わせてメッカを訪れることだが、これを果たした者はハッジーとよばれて一目置かれる。
 第五が喜捨(ザカート)。これは規則に従って収入の一部を納める税金に近いものだが、もう一つ自発的な寄付としてサダカとよばれるものがあり、これらは教団によって管理され、貧者のためや公共の福祉のために使われる。

 以上が、イバーダートとよばれる宗教的義務の主なものだが、他に、シャリーアとよばれる生活や社会の規範がある。これは、コーランや、ムハンマドの言行を記した『ハディス』から導き出されたものとされ、豚肉や所定の儀礼を経ずに屠殺された肉を食べないことから、飲酒や賭博、高利貸しの禁止、結婚や離婚の手続き、遺産相続の仕方などまで、細々と定められている。

 人々は、このような、日常生活の隅々に張り巡らされた宗教的義務や生活・社会の規範に出来うる限り沿おうと心掛けながら、日々の生業に勤しみ、モスクをコミュニティーの拠点として地域の福祉活動や教育活動に力を注ぐ。

 こうしたごく平凡で地道な暮らしそのものが、じつは、イスラムの理想であり、まっとうなイスラムのありかたであり、そして、大多数のイスラム教徒が実践しているところなのである。

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◇◇ イスラム教徒は皆、同胞
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 じつは、上に述べたイスラムの宗教行動や生活規範には、一つの効果が組み込まれている。
 たとえば、一定の時間がくれば町中や村中の皆が、揃って、それぞれの場で始める礼拝。世界各地でのイスラム教徒の祈りがメッカの一点に向かう。
 イスラムでは死者は、最後の審判の日、立って神の裁きを受けるため土葬されるが、その葬り方は、横たわって右に向けた顔がメッカを向くように埋葬する。世界中のイスラム教徒の遺骸は、すべて、メッカを向いて眠っているのだ。
 一定の期間に何百万人もが集まるメッカ巡礼。断食月、日中の飢えと渇きに耐えて日没とともに町中・村中で一斉に始まる夕食。さらには豚肉を食べないとか酒を飲まないとかの日常生活での禁忌の共有。

 これらの信仰と生活様式、価値観を共有する意識は、必然的に、「イスラム教徒は皆、同胞」という一体感を育む。この同胞意識、一体感が、イスラム社会に濃厚な連帯感と相互扶助システムを築きあげているのだ。さらにこの一体感・連帯感は、国境を越えても同じイスラム教徒の境遇に敏感に反応し、声を挙げることにもつながる。

 「聖戦」と訳されることの多い「ジハード」も、じつは、神とイスラム共同体のために「各人が最大限の力を尽くす」ことがその正確な意味であり、本来、「戦い」の意味はない。しかし、それがときに「戦い」の様相を帯びるのは、これは宗教のもつ性格の故にではなく、政治的・社会的な状況や動機に発するものであり、追って次号で述べたい。
 ここでは、イスラムというと連想されがちなテロに関連するイスラムの教えの一端にだけ触れておこう。

 「人を殺した者は、全人類を殺したのと同じであり、人の命を救う者は、全人類を救うのと同じである」とはコーランの説くところであり、「来世で最初に裁かれるのは殺人についてである」とはムハンマドが語る言葉(『ハディス』)である。
 自爆がもたらす自殺についても、コーランはこれを「信仰する者よ、あなたが自身を殺したり害したりしてはならない」と禁じ、ムハンマドも「剣で割腹自殺した者は、地獄の火の中で、その剣を手に自らの腹を永久に刺し続ける者となろう。毒を飲んで自殺した者は、地獄の火の中で、永久に毒を啜り続ける者となろう。山の頂から投身自殺した者は、地獄の火の中を、永久に落ち続ける者となろう」と戒めている。

 イスラム教徒が日頃にかわす挨拶の「アッサラーム・アライクム」は、「あなたに平和を」である。人々が望むのは、なによりも、平穏な暮らしなのである。

 (筆者は元桜美林大学教授)


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