【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

インド政治を動かしてきたヒンドゥー・アイデンティティの象徴・牛

荒木 重雄


 ヒンドゥー至上主義団体出身のモディ首相が「一強」を誇る政治状況を背景に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛をめぐる話題がまた、ニュースに散見されるようになった。いわく、牛を運んでいたイスラム教徒がヒンドゥーの暴徒に襲われたとか、食肉店が放火されたとか、食肉処理場が閉鎖されたとかである。古くて新しい、インドの宗教と牛の関係を探訪してみよう。

◆◆ 菜食の広がりは反英意識から

 インドというと、「不殺生(アヒンサー)」という言葉とも繋がって菜食主義のイメージが強い。禁酒も広く認められるモラルである。だがじつは、インドで肉食や飲酒を忌避する文化がうまれたのはそう古い話ではない。たしかに、カースト最上位のバラモン(ヒンドゥーの司祭階層、人口の5%足らず)は古来、肉食・飲酒をしないことをもって自らの「浄性」の証しとし、そのことによって社会で特権的な地位を獲得・維持してきた。しかしそれ以外の庶民は肉食も飲酒も日常のことであった。

 ところが19世紀に入って、英国による植民地支配が確立されていく過程で、現実の力関係がうみだす劣等感に苛まれたインド人が、自らを慰めて反撃する手段の一つとして編み出したのが、「英国人はしょせん、生き物を殺してその肉を食べ、葡萄酒を飲む、倫理的に劣った人間ではないか」と、自文化の精神的優位性を信じることであった。
 こうした心理操作をおこなったのはバラモンをはじめエリート層であったが、民族意識の高まりとともに、ナショナル・アイデンティティの象徴として一般のインド人にも広く受け入れられていったのが、インドにおける菜食・禁酒のそもそもの広まりであった。

◆◆ 牛はヒンドゥー主義の象徴

 野蛮な「牛食い人種」英国人の食欲から聖なる牛を守ろうと、19世紀後半にはインド各地で「牛保護協会(ゴー・ラクシャス・サバー)」なる名称の団体が設立されていった。だが実際には英国人の牛肉の消費を止める術はなく、他方で、ヒンドゥー・エリートがヒンドゥー内でのアイデンティティ強化のために使った「牛保護」のシンボル操作は、インド人ながら牛を神聖視せず食用や供犠用に屠殺するムスリム(イスラム教徒)への攻撃に向かった。

 当初は、屠殺禁止を求めるヒンドゥーと屠殺の権利を主張するムスリムの地方行政府や裁判所を舞台にした攻防だったが、英国の分割統治政策による宗教コミュニティー別選挙がもたらした政治的利害の先鋭化も背景として、しだいに暴力性を帯び、とりわけヒンドゥー側からムスリム側への暴力的攻撃が顕著になった。
 たとえば1893年の北インドの織物業の町マウでの出来事である。メッカ巡礼日の最後に合わせてムスリムが祝う「牛の供養祭(バカル・イード)」が近づくと、ヒンドゥーの店がムスリムに物を売らなくなったり、ムスリムの畑が荒らされたり、家が壊されたりと不穏な空気が漂いだしたが、供養祭の当日には、近隣から剣や弓や銃や棒で武装した1000人を超えるヒンドゥー教徒が集まってきて、「牛供養反対」を叫び、ムスリムの居住区を次々襲撃して、破壊、略奪、放火、殺傷をほしいままにした。
 こうした牛供養をめぐる衝突・暴動は毎年、各地で繰り返されることとなった。

 政治権力をめぐってライバル関係にあった全インド・ムスリム連盟とヒンドゥー主体の国民会議派は、第一次大戦終結後、前者はカリフ制擁護を掲げ、後者は非暴力抵抗運動(サティヤーグラハ)を掲げて共闘する一時期を迎えた。この間は牛供養をめぐっても歩み寄りが模索され、ムスリム側では犠牲獣を他の動物に替える提案がなされたりしたが、ここで発せられたのがマハトマ・ガンディーのあの有名な言葉である。
 「ヒンドゥーはムスリムに牛屠殺を止めよと強制できると思ってはならない。隣人たるヒンドゥーに配慮してムスリムが自分から牛屠殺を止めるだろうと信頼すべきである」。

 だが、ヒンドゥー・ムスリムの蜜月は長くは続かなかった。共闘した運動が挫折すると両者の関係は以前にもまして険悪となり、「牝牛と囃子(カウ・アンド・ミュージック)」といわれるように、牛屠殺にヒンドゥーが目くじらを立て、ムスリムはヒンドゥーが曳く山車の囃子さえ耳障りだといって、インドのどこかに暴動がない日はないといわれる状況が続いた。
 たとえば、連合州(現在のウッタル・プラデーシ州に相当)で1924年から27年までの4年足らずの間に同州立法参事会議事録に記録されただけでも72件の衝突・暴動が起こり、ヒンドゥー・ムスリム合わせて死者65人、負傷者1492人、起訴された者2,083人を数えている。

◆◆ 牛保護とポピュリズム政治

 1947年、英国植民地インドは、ムスリム主体のパキスタンとヒンドゥー主体のインドに分離して独立した。50万人から100万人に及ぶ無辜の民が殺害されたとされる分離の騒乱を経た独立インドでは、しばらくの間は牛屠殺の問題は表には現れなかったが、この問題を再び正面に掲げたのが、独立前からのヒンドゥー至上主義団体・民族義勇団(RSS)が創設した政党ジャン・サングであった。

 1951年の連邦下院第一回総選挙では僅か3人の候補者しか当選できなかったが、その後の同党は、長年のヒンドゥー・アイデンィティの象徴を復活させた牛保護キャンペーンを非合法的手段も含めて積極的に展開した。たとえば66年秋には、牛屠殺禁止を要求して議事堂前に動員した12万5,000人の群衆を扇動して暴動化させ、議事堂に殺到し投石、付近にも放火して、警官隊と衝突し、多数の死傷者に加え同党幹部を含め1,500人に及ぶ逮捕者を出した。こうした騒動で大衆の心を掴んで、翌67年の総選挙では連邦下院に35議席を獲得し、さらに首都デリー(連邦直轄領)では同議会第一党として市行政を掌握する躍進を遂げた。
 このジャン・サングの後継党が現在のモディ政権与党・インド人民党(BJP)である。

 インド政局の今後を占うとされた今年3月のウッタル・プラデーシ州議会選では、BJPが8割に迫る圧勝を収めたが、その公約には、無登録の食肉処理場の閉鎖や新処理場の建設禁止に加え、牛殺し罪の刑罰を現行の懲役7年から終身刑への引き上げが含まれていた。牛問題はいまなお、ポピュリズム政治の焦点となる。

 (元桜美林大学教授・オルタ編集委員)

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