【コラム】大原雄の『流儀』

オリンピック「後遺症」=感染爆発

大原 雄

猛暑の夏、大雨洪水の夏、コロナ禍の夏。蝉は、狂ったように大声で鳴き交わしていた。2021年の夏。100年に一度のパンデミック(まさに、コロナ禍)蔓延の真っ只中、「普通なら、開催しない」と政府の「コロナ対策」の「分科会」尾見茂会長が言っていたが、誰かが普通ではない判断に拘り通した上、IOCのバッハ会長とも「共演」をして、東京オリンピックを「強行」開催した。つまり、普通でないオリンピック至上主義という「狂気」の果てとでもいうべき力(魔力)に押されて開催したのが、この年(2021年開催なのに、「2020」と言い続けた偏執性にも、驚く)のオリンピックであった。

その軸になって踊り狂った面々が、菅政権の骨格を築いている。5人いる。俗に、「5大臣」と呼ばれた。総理大臣、官房長官、担当部門の3大臣。彼らの行為は、閉幕後の日本社会に「東京オリンピック後遺症/症候群」とでもいうべき深刻で、厄介な病理を残した、と言える。

「東京オリンピック後遺症/症候群」は、私が勝手に名付けた名称だが、その意味の第一は、オリンピック閉幕後、急激に増えたコロナ感染急拡大(感染爆発=ステージ4)にまつわることである。そう、東京オリンピックは、閉幕後、東京を軸にした日本列島各地に、コロナ禍の「オーバーシュート(感染爆発)」を誘導した、と思う。

その結果として、東京で一日あたり、4,000から5,000人が発症し、これが、いわば、日本列島の「踊り場」的な構造の軸となり、東京発信の感染は、全国で一日あたり1万5,000から2万人というオーダーで、新たな感染者群を日々生み出し続けた。東京オリンピック開催は、「無観客」にも関わらず、社会の「人の流れ」(「人流(じんりゅう)」というらしい)に確実に影響を及ぼし、東京の感染者を新たに「製造した」と、言えるのではないか。

その後、8・19には、東京で1日あたり5,500人を超える日も出てくる。そういう時は、全国では1日あたり、2万5,000人超え、となる。その軋みが立てる音は、鳥の鳴き声に似ている。その鳴き声は、「カコサイタカコサイタ」。人によっては、「カコ咲いたカコ咲いた」とも「過去最多過去最多」とも聞こえる、という。冗談ではないが、「過去最多」は、今年の流行語になるかもしれない。コロナ禍の「過去最多」は、裏側から見れば、「現在最悪」ということだろう。

オリンピックは、日本列島から見れば、爆発的な感染拡大という現象を引き起こした。そして、私の言うコロナ禍の深刻な後遺症/症候群になった。後遺症の具体的な現象が、日々更新される感染爆発というわけだから、オリンピックの後遺症も、歴史に残るほど深刻だ。

★菅流「居処替り」(感染爆発→ 突然の「退陣」)

「どんでん返し」って、知ってますか。退路も、なさそう。追っ手には、囲まれた。己も疲れ果てた。心身ともに極まったシチュエーション。はて、さて。どうしたものか。

9・2「オリンピック後遺症」の列に、別の、大きな後遺症がぶつかって、列を乱し、長い列に傍若無人にも、割り込んで来た!!

オリンピック後遺症(お祭り騒ぎ→感染爆発)の対策に「専念」していたと宣言したはずの菅政権の責任者が、任期満了近くなって自民党総裁選挙に立候補しない、と宣言したのだ。「一強」の後遺症か。その結果、自民党は、9月中は、各派閥の候補選定を含めて総裁選挙というお祭り騒ぎとなってしまった。置き忘れされたのは、コロナ禍対策の大荷物。

この時点までの菅政権の面々の頭のうちを再現すれば、以下のごとくにでもなるのだろうか。まさに、「極楽とんぼ」の夢である。楽も極まる!

当初は、オリンピックさえ開催に漕ぎ着ければ、菅政権はオリンピックムードに包まれ、「自民党の総裁選挙」は、無投票再選、間違いなし。オリンピックでは、日本勢の、見込まれる金メダルラッシュを夢見ていれば、寝ていてもいい。金メダルラッシュの恩恵を受けて、「菅ブーム」に乗った「解散・総選挙」は、自公の、与党圧勝で、菅政権も悠々、金メダル。政権は、第2段階へ ……。安倍政権並みに、「一強」の長期政権へ、とでも思い込んでいたのだろうか。

ところが、朝、目が覚めたら、菅首相が「退陣へ」という黒地に白ヌキの大文字が踊る朝刊が、配達されていた。

★ところが、政権交代には、至らない? 「コップの中の嵐」なの?

だからと言って、保守系の菅批判票は、菅離(ばな)れはしても、自民党の枠から外れて野党支持に向かうわけではないようだ。コップの中の嵐に過ぎない。だから、政権交代には、至らない? マスコミ各社の世論調査でも明らかなように、有権者の多くは、コロナ禍対策失敗に対する菅首相への批判を強めてはいるが、それがそのまま、自民党に「レッドカード!」と離縁状を突き付けているわけではないからだ。菅から、誰かへと、自民党の総裁がコップの中で替わって仕舞えば、新総裁への期待感(?)から自民党の中にだけ、改めて「追い風」(つむじ風、つむじ曲がり風?)が吹く可能性さえある、というのが世論調査からは、うかがわれる、ということだ。

では、何をすれば、菅を引き下ろした国民に、保守・自公に代わる政権の、期待されるイメージの「見える化」を示すことができるだろうか。それができない限り、この国の政治は、変わらないのではないか。そういう虚無感が、コロナ禍の合間に、漂ってくる。「何よりダメな日本」というわけか。

★コロナ禍そっちのけで… 、この人たちの神経は?
  ~「金メダルラッシュ」・「政局」激震~

菅の退陣発言で、自民党総裁選挙が一段と過熱化し始めた。9・17の告示日までに総裁選挙に立候補宣言、または意向表明をし、さらに推薦人集めや所属派閥を軸にした「お仲間」などと意向調整をするなど、総裁選挙参加へ向けて準備・検討、模索をしている人は、当初、6人が取りざたされたりした。告示で、確定したのは、次の4人である(届け出順)。乱立気味である。

河野太郎(58)、岸田文雄(64)、高市早苗(60)、野田聖子(61)。

間も無く丸2年となる国難のコロナ禍が、感染拡大中なのに、この人たちは、何をしやる。オリンピックというお祭り騒ぎ強行の後に、感染爆発のコロナ禍対策を巡って、臨時国会でも開いて、与野党協力して議論すべき時期なのに、と私は思う。自民党の総裁選挙(日本政治の場合、現在は、事実上の首相選びになっている)という、もう一つのお祭り騒ぎを強硬に仕掛けたのが、コロナ禍対策に専念すると宣言をして、退陣表明したご本人というから、誠に摩訶不思議だ。

それどころか、逆にコロナ禍対応の分岐点という時点で、いわば「空白状態」を躊躇せずに作り出したのだから、呆れ果てる。それにもかかわらず、そういう状況に乗り、自らの権力志向欲だけで「炎上」しているのが、複数もいる。つまり、上記の人々。顔ぶれに新しさはないとしても、着ていたお祭りの「はんてん」を裏返しに着なおして「コロナ禍大例祭」の神輿に乗っているか、乗りかけている人々の顔を有権者は忘れてはならない。

東京オリンピックは、菅政権が目論んだ通りに、開催国日本に金メダルラッシュ、という記録を残して閉幕した。菅政権は、己の不人気を金メダルラッシュという他力本願で、勝手に「寄り添い」(おジャマ虫?)、自民党総裁選挙後の、解散・総選挙を通じて、権力基盤の劣勢を挽回しようとしたのではないのか。金メダルラッシュ(日本の獲得総数:27個。ほかに、銀・銅メダル獲得だが、記載は省略)という菅政権の智恵者の目論見は、成功したようだが、1日あたり、万単位で国民の感染拡大・増大が続くという深刻な被害は、オリンピック開催前から増え始めていた。コロナ感染者は、さらに閉幕後も急激に増え続けた。

その反面、マスメディア各社の世論調査などを見ると、政権支持率は、20%ということで、いわゆる「危険水域」(政権維持不可能の可能性高い)に落ち込み、「普通なら」政権継続望み無し、というところだが、自民党にこの難局に立ち向かって、国民のために汗を流す、というか、泥をかぶる、というか、そういう覚悟の政治家はいないらしい。現政権は、前回の自民党総裁選挙同様、派閥のバランスに乗り、菅首相の「続投安泰」という観測記事が流れているから、新聞各社政治部の原稿は、(政治部のデスク、記者には、失礼ながら)ムムム(?)と思っていた。誠に摩訶不思議な日本政治の世界であるなあ、と社会部記者OBの私は、自ら取材をしない面映(おもはゆ)さを棚に上げて、岡目八目を決め込んでいた。胸中では、このままでは行くまい、行くはずがない、と「何か」を待っていた。いずれ、何かが来るはずだ。

その後、8月22日の横浜市長選挙の結果が速報されると、菅政権を取り巻く「雰囲気」が、ガラッと変わったように感じた。案の定である。横浜市長選挙は、総選挙を占うブラックボックスになっていたのだ。この選挙の分析は、おもしろいが、これは、後ほど、次号あたりで分析したい。

まず、9月解散・総選挙説の頓挫があった。次いで、自民党の役員人事構想も頓挫。二階幹事長を含めて、党役員を全員替える→ つまり、人事だ。総裁の専任事項だ。菅のコントロール下の要職に何人のお仲間や「配下」(心当たりの方には、失礼!)をおけるか(9・6が目途だった)、という構想だ。「二階幹事長も交代」? なんだこれは? やはり、これも、頓挫した。菅首相自身の生き残り作戦に過ぎない、と自民党若手議員からは、不平不満続出。批判が相次ぐと、菅首相は、さっさと案を撤回した。

何か、おかしい? そう思っていたら、9・3の菅首相の自民党臨時役員会で、「コロナ禍対策に専念したいので、自民党総裁選挙には、立候補しない」と菅首相が述べた、という情報が流れる。政界に衝撃が走る。菅首相、進退窮まる。退陣へ、という判断。本来、専念ならば、首相として先頭に立って、最重要課題の解決に向けて一層奮励努力をして、新境地を切り開くのが、正当だろう。それなのに、菅という人は、口先はよじれて何処か、あさっての方向に通じているのか、自民党内の総裁選挙を炎上させて、6人(3人)の権力志向政治家を浮き彫りにしてみせた。

国難対応のために、我を捨てて、立ち上がった勇気ある政治家か。浮き彫りの中には、なんと、ワクチン問題を投げ出した(?)大臣がいる。「そんな馬鹿な」と、思い、目を凝らせば凝らすほど、その顔は、余計くっきりと目に飛び込んでくる。新型コロナワクチンの供給の元締め責任者まで、混じっているではないか。菅は、コロナ禍対策に専念するために、総裁選挙には、立候補しないと言いながら、総裁選挙をめぐる自民党の雰囲気をお祭りモードに変えてしまったのだ。自己矛盾だが、気がつかないほど鈍感なのか、この人は? 自民党の政治家たちは、党内に派閥という7つのグループを作って日々研鑽に励んで磨いたはずの「知見」の末に、1年前には、この人物を皆で選んでいたのだから、呆れる。

本当に、「変なオヤジ」とその取り巻きたち! 迷惑を被るのは、いつも、真面目な国民だ。案の定、野党もこぞって菅政権批判、緊急時のお祭り騒ぎ継続への批判の声をあげたが、これも自民党の「炎上」に紛れてしまったのか、世論調査でも、各党の支持率は、一桁止まりと、どの党も存在感がない。なぜ、「菅ダメ」層→ 野党支持へ、とベクトルが向かわず、自民党の中の「反」菅派、あるいは、「非」菅派が、党内の受け皿になってしまうのか。そして、その受け皿が、投げ出されていた政権を別の角度から握り直すだけで、この日本の政治を支配して行く、ということの不思議さ。こんな陳腐な想定はしたくないのだが。

贅言;自民党総裁選挙での、7派閥の支持(朝日新聞、9・17付朝刊記事参照)

 細田派(現在の所属議員数 96人)支持/容認は?→ 高市、岸田/河野
 麻生派(         53人)         河野、岸田/高市
 竹下派(         52人)         自主投票
 二階派(         47人)         自主投票
 岸田派(         46人)         岸田
 石破派(         17人) 自主投票
 石原派(         10人)         自主投票

 無派閥(         62人)

自民党の「派閥祭り」の総裁選挙は、9・17告示、9・29投開票という予定。

贅言;9・10の朝日新聞朝刊に次のような趣旨の記事が掲載された。以下は、原文ママではない。概要のみ。
白ヌキ黒ベタの見出し「二階氏『恩知らず』人事が招いた離反」
記事は、菅首相の「反転攻勢を期した人事」という内容で、二階幹事長の幹事長交代劇の裏話である。菅は、二階氏を切り自らの推進力を得ようとした、という。二階幹事長は、平気な表情で、「どうぞ遠慮せずにやってください」と応じたという。それを額面通りに菅首相は受け取り、「二階さんはすごい政治家だ」と安堵した、というのだ。それが、読み間違い。生身の政治家は、生臭い。それを読み落とした。
翌8月31日の朝刊一面。「二階幹事長 交代へ」の見出し。これを見た二階氏は、「誰が菅を支えてきたと思っているんだ」と声を荒げ、怒りを周囲にぶちまけた、という。9・3 総裁選挙不出馬表明後の二階幹事長のつぶやき。「立ち止まって考えるべきだったな。恩知らずだった、ということだ」

★横浜市長選挙って?

突然、「横浜市長選挙」に、私の筆は、向かう。
「横浜市長選挙」って、何? 
というわけだが、今回の菅「狂乱」のような一連の行動の震源は、この選挙にあると思うからである。
横浜市長選挙の開票結果は、次の通りである。

 山中 竹春(新)=50万6392票・当選
 小此木八郎(新)=32万5947票
 林  文子(現)=19万6926票
 田中 康夫(新)=19万4713票
 松沢 成文(新)=16万2206票
 福田 峰之(新)= 6万2455票
 太田 正孝(新)= 3万9802票
 坪倉 良和(新)= 1万9113票

選挙通と称する人たちが、この選挙の結果分析をいろいろしている。
8人の候補者のうち、唯一の女性候補の林文子さんが、現職市長候補で、ほかの男性候補は、皆、新人候補。長野や神奈川で県知事を経験した大物新人候補がふたりも混じるなど、豪華な顔ぶれであった。県知事体験者の思惑は、何?

岡目八目で、他所から横目で垣間見ただけだが、私が、素朴に思ったことは、この選挙は、争点がはっきりしない選挙だった、ということだ。選挙結果の分析は、次号に譲りたいが、さわりだけ、書き留めておこう。

8人が立候補したが、現職の女性市長・林は、蚊帳の外に置かれ、実質的には、革新系の山中、保守系の小此木の選挙。各候補が掲げたコロナ対策、IR問題(カジノのほかホテルや劇場、国際会議場、展示場などの施設、ショッピングモールなどが集まった複合的な施設。いわゆる「統合型リゾート」ともいわれる)は、実は、いずれも、実質的には争点にならなかった。誰も、コロナ禍が収束しなくて良いなどと思っていないからだし、ここには、政府として、政治問題としてのコロナ禍対策を討議する場でもないからだ。

コロナ対策は、これまでのところ、デルタ株を終息させるような決定打もないが、大局的には、それまで危惧されていたような感染爆発コースとは違う、とりあえず「高止まりコース」の水路へと、首都圏丸という船は向かっているように私には見える(しかし、全貌は判らない)。さらに、IR問題は、林のみ促進。小此木も、促進派ではない。山中も反対。市長に就任した日の会見で、早速、正式に「反対」を表明した。

投票結果を見ただけでも、疑問が湧出するようだ。1つ目は、自民党支持者票の塊が、二つあるのは、なぜか。女性の現職知事の実績は、どう評価されたのか。二人の知事経験者の立候補の思惑の意味。当選した山中候補の立ち位置は、何かなど。いずれも興味深い。全て、次号で。

★︎「むかんきゃく」と「むきゃんかく」

海外からの選手団ほかオリンピックに参加した大会関係者などに加えて、各地の競技場のスタンドでは、「無観客」(これも、最初耳で聴いた時は、「むかんきゃく」と、すぐには判りにくかった。菅首相など、最後まで、「むきゃんかく」と、言っていたと、思う。多分、今も、「むきゃんかく」と言っているのではないか)とはいうものの、競技場の周辺含め「密」状態をつくった人々などが、症候群発症の元凶となったことには、間違いはないだろう。

およそ100年に一度という、歴史的な大事件である「パンデミック」(その中の、「コロナ禍」)が蔓延中という異常さの中で、なにがなんでも、「強引」開催という形をとった東京オリンピック。その開催のためか、開催に操られてか、都心部を動き回った「人流」と呼ばれる人々の群れが、引き起こした後遺症であった。感染爆発症候群である。感染爆発症候群は、オリンピックという、いわば「ウイルス株」が、デルタ株に便乗してオリンピック閉幕した8・8以降も生き残り、別の薪の山に飛び火するように8・24開幕の「東京パラリンピック」にも燃え移ったことは、周知のことだろう、と思う。障害者は、既往症を持つ人が多いとも聞くが、幸い、9・5の閉幕までパラリンピック開催中には、選手団や大会関係者の間から大量のコロナ感染もなかったようである。安心したが、もう少し経過を見守ろう。

贅言:菅首相の周辺は、間も無く、「無観客」になるだろう。自分の責任のある政治活動を国民に説明もしない。声を出して何かを言っても、意味不明の内容では、誰にも何にも伝わらない。工夫して(戦術的に)、そういう言い回しを使っているのか、それとも、無能力ゆえ、そういう表現しかできない人なのか。

★パラリンピックも、金メダルラッシュ

さて、金メダルの話の続きだ。つまり、オリンピックの話に戻ろう。

まず、贅言;今回のオリンピックの金メダル獲得争いでは、アメリカが39個、中国が38個、日本が27個であった。ちなみに、パラリンピックの金メダルでは、日本は、13個(金・銀・銅の合計では、51個。アテネ大会の合計52個に次ぐ記録)。いずれも、ラッシュと言って、良いだろう。特に、パラリンピックの金メダルは、前回のリオ大会が0個だったことから、これは凄い。その上、パラリンピックの選手たちは、それぞれの障害を乗り越えただけでなく、マイナスをプラスにするようなパーソナル・ヒストリーを秘めているように思う。パラリンピック参加ということで、どの選手も、パーソナル・ヒストリーをカメラの前で語れる人が多いようだった。そういうことが、パラリンピックを観客とともに開催することで、社会の人々に訴えかけることができるように感じた。

今回のパラリンピックは、オリンピック同様に無観客を強いられたが、それは、コロナ感染予防にとっては、必要なことであった。私が言いたいことは、そういう懸念のない状況で、純正パラリンピックのようなものときちんと向き合える環境で観戦したかったし、マスメディアは、そういう純正パラリンピックをこそ社会の人たちに広く伝えて欲しいと思った。選手団と観客の交流も、パラリンピックの大きな成果だろうに、それが、できなかったのは、残念。

パラリンピックの金メダルラッシュには、選手個々人の血の滲むような精進の結果として、それぞれのヒューマンなドキュメンタリーを残したことだろう。まして、パラリンピックの選手たちは、健常者よりも幾重にも重厚な人生体験を経て(多くは、障害を乗り越えて)、リハビリとともに、スポーツの真髄獲得に取り組み、努力の末にオリンピックの代表の座を手に入れたことだろう。大人になって、交通事故などで、手足を失った人もいれば、生まれて間もなく、あるいは、胎児時代の原因で手足が不自由になった人など、障害は様々で、彼ら、彼女らの苦労は想像を絶する思いがする。紹介されたパーソナル・ヒストリーには、心動かされる。

私も彼ら彼女らには、敬意を表するが、今回、ここでは、個別の状況を分析せず、その思いだけを記して置くに止めたい。今回、私にとって関心があるのは、別のことだ。まず、オリンピック閉幕後、直ちに現れたのが、「東京オリンピック後遺症・症候群」とでもいうべき病理現象(感染爆発)であったからだ。オリンピック強行開催が起爆剤になって、オリンピック後遺症=感染爆発が起きたという認識に立たざるを得ない。その病理現象は、オリンピック閉幕後、8月末から9月初めに続けて開催されるパラリンピック(8・24開幕から9・5閉幕まで)に引き継がれている。

前月号の「大原雄の『流儀』」(月刊メールマガジン『オルタ広場』連載中)で、触れたように、オリンピック開催中のマスメディアのニュースの伝え方は、「コロナ禍」と「オリンピック/パラリンピック」という二本柱に寄りかかり過ぎていた、ように思う。繰り返しになるが、再度指摘しておきたい。

特にテレビのニュース番組では、番組前半は、コロナで、その感染状況を深刻に伝えながら、クッションを挟んで、番組後半になると、オリンピックの競技結果を従来のようなビッグイベントと同じ演出スタイルで「勝った、勝った」「金メダル取った、取った」と伝えていた。
このため、ニュース番組を見終わった途端、視聴者の印象としては、コロナとオリンピックのイメージが分断されてしまっていて、番組前半で伝えられたはずのコロナニュースの深刻な印象は薄れ去り、オリンピック・パラリンピックの金メダルラッシュの印象ばかりが残る、という結果を生み出した。
そのため、東京の都心部では、オリンピックの勝利の余韻に浮かれた世代が、遅くまで夜の巷に繰り出す、という「人の流れ」を変えられず、あたかも「マッチポンプ(自分で火をつけて、自分で消す)」的な、非効率な政策を菅政権がとり続けることを許容するような下地をつくってしまったように思われる。

本来、菅政権は、「国民の生命を守る」、お得意の「安心・安全」という至上命題を掲げているはずの自分たちの敵が、ウイルスか、オリンピックか、はっきり明示できないまま、ふたつのオリンピックの期間を過ごし、ウイルスにやられた後始末に、アフター・オリンピックの期間、振り回された。当然ながら、菅政権は、国民に分かりやすいように、敵の的(ウイルス)をもっと明確に絞るべきだった。それは、自民党の総裁選挙でも言えるが、今回の連載では、そこには、踏み込まず、パラリンピック論を展開して、この小論を閉じることとしたい。

★︎「パラリンピック」は、やはり「中止」すべきであった

パラリンピックは、成功したとは思うものの、参加者のことを配慮するなら、やはり、中止か延期かをすべきだったのではないのか。それは何よりも、以下のような現象が物語る。9・1、コロナ禍には、爆走中の「デルタ株」、その後ろに控えていた「ラムダ株」に加えて、新たに「ミュー株」が登場したからだ。

1)コロナ感染爆発とオリンピック「学校連携観戦」問題

パラリンピックは、その精神から見て、オリンピックよりも人類の「健康」問題を考慮すべきビッグイベントである。そういう見地からすれば、パラリンピックは、今回は中止、または、延期すべきであった。その理由は、今のままで、オリンピック同様に強行開催すると、参加した選手団や役員などの関係者の中から、多数の感染者が出るなど、不測の事態が起こり、関係者に禍根を残す恐れがあるからである。このことは、まっとうな判断力があり、物事を現実的に、また、具体的に考えれば、容易に推測がつくだろう。幸い、結果論的には、パラリンピックの開催中、選手団や関係者の間から、多数の感染者は、出なかったようであるが、それは、あくまでも結果論に過ぎない。

競技は、原則的にスタンドは無観客で行われたが、各地の競技場の外では、全国各地に住む国民の間で、容赦無くコロナ禍の感染者拡大・増大が続いていた。感染のピークが見えないまま、あるいは、見えかけた程度で全貌が判らない。特に重症の患者が急増して、連日、2,000人台で高止まりしている。重症患者は、死亡者になる可能性が高い。各地で国民一般の医療体制が逼迫・崩壊している。「中等症・2」という入院・加療が必要な感染者(患者)なのに、多くの人たちが、「自宅療養」という名の「放置主義」のままに、国家から見捨てられて、家の中で、時には、一人っきりで生命を落として行くからである。

9・9現在で、コロナ感染者の累計は、161万人を超える。このうち、コロナ禍による日本国内の死者は、1万6,000人を超える。この上、菅政権の「棄民策」の下という悪環境にも関わらず、外国から招いたパラリンピック参加の選手団、役員団であっても、棄民策から逃れることはできないだろう。彼ら彼女らも巻き込まれ、最悪の場合、生命を失う恐れがある。そういう危惧がある以上、厚顔無知にも、知らぬ顔をして、無表情な笑みを浮かべた仮面をつけたような顔(感情の起伏が判りにくい、あの顔である)をして、パラリンピック開催などと、口が裂けても私には言えないからである。

さらに、8・19には、政府の「コロナ対策」の分科会尾身茂会長が、参議院内閣委員会で、パラリンピックの学校感染について、以下のように批判している。橋本聖子大会組織委員会委員長が、パラリンピック「安全安心」開催のために観客席は、「無観客」とする、ということで合意形成したはずなのに、東京都の小池百合子知事らが、首都圏の児童・生徒らを競技場のスタンドの観客席に入れて、競技を観戦させる、と表明したことに、反対しているのである。尾身会長の言葉に、皆、耳を傾けてみよう。

尾身会長「(先の)オリンピック開幕の時期と比較すると、(パラリンピック期間の)感染状況はかなり悪化している。観客を入れるとはどういうことかは、考えていただければ、当然の結論になる」と述べ、「観戦の実施は慎重に判断すべきだ」という趣旨の意見を述べた。専門家の、それも責任者としては、極めて真っ当な見解表明であった、と思う。

同じ19日の参院内閣委員会では、野党から観戦中止を求める意見が出たが、丸川五輪相は「安全・安心」な大会にすると繰り返し述べ続け(菅首相そっくり)、予定通り開催する考えを示した。無事済めば、パラリンピックを観戦することは、子どもたちにとっても、教育的な効果があるだろう。しかし、政治家の判断は、己の既得権益ではなく、最終的には、国民ありき、住民ありきでなされるべきではないのか。

贅言;「学校連携観戦」とは、東京パラリンピックの会場で、東京都内の学校の子どもたちが競技を見るイベントのこと。東京パラリンピックは原則、無観客で行われたが、「学校連携観戦」は、教育的な意義を重視して希望者のみで安全対策を講じて実施された。まあ、理屈は、いろいろあるようだが、所詮、理屈の話。実際、子どもたちに多数の感染者が出たら、どうするつもりだったのだろう。結局、観戦参加は、現場の判断に委ねられた。行政の責任逃れ。

2)パラリンピックによる地域医療崩壊の懸念

もう一人、別の専門家の声に耳を傾けてみよう。マスメディアの報道(東京新聞など)によると、8月20日に開かれたオリンピック組織委員会の専門家会議(通称「専門家ラウンドテーブル」)の岡部信彦座長(川崎市健康安全研究所長)は、会議後の記者会見で、「大会を開催することで地域医療に負担をかけたり、(市民が)全く入院できない状況になったりしては困る」と懸念を表明した。大会の開催は原則「無観客」で実施することが決まったが、「今後大きな変化があれば(国際パラリンピック委員会などの)四者協議で(中止を)検討してほしい」と求めた。

選手・関係者およそ1万6,000人が来日する東京パラリンピックには、基礎疾患があるなど重症化リスクのある参加者が少なくない、という。専門家からは、東京オリンピック開催時より、追加的な感染対策を講じる必要があることを指摘された、という。さらに、専門家からは、オリンピックのお祭り気分醸成からくる市民のコロナ感染対策への気の緩みなど「オリンピック開催の間接的影響」もあり、「(首都圏の)7月後半(オリンピック開催期間であることに、注意!)からの感染急拡大について、全く影響がなかったとは言いにくい」と、慎重な言い回しながら、指摘があった、という。

贅言;以下、引用は、東京都オリンピック・パラリンピック準備局の資料による。引用は、表記を含め、原文ママだが、文章のテンポアップには努め、若干の手直しをした。

「パラリンピックは障害者を対象とした、もうひとつのオリンピック。4年に一度、オリンピック競技大会の終了直後に同じ場所で開催されている。2012年の第14回パラリンピック競技大会(イギリス・ロンドン)は20競技で行われ、史上最多となる164の国と地域から約4,300人が参加した。
パラリンピックに出場するには国際パラリンピック委員会(IPC)の定める厳しい選考基準のクリアが必要。回を重ねるごとに選手層が増し、大会レベルが高くなっている。アテネ大会では448の大会記録と304の世界記録が更新された」という。

「パラリンピックの起源は1948年、医師ルードウィッヒ・グッドマン博士の提唱によって、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で開かれたアーチェリーの競技会。第2次世界大戦で主に脊髄を損傷した兵士たちの、リハビリの一環として行われた。この大会は回を重ね、1952年に国際大会になった。
さらに1960年のローマ大会からはオリンピック開催国で、1988年のソウル大会からはオリンピックの直後に同じ場所で開催されるようになった」。

「当初はリハビリテーションのためのパラリンピックだった。現在はアスリートによる競技スポーツへと発展している。出場者も「車いす使用者」から対象が広がった。もうひとつの(Parallel)+オリンピック(Olympic)という意味で、「パラリンピック」という公式名称も定められた」という。

★パラリンピックの原点に立ち返れ

スポーツを通じて、障害者のリハビリ機能を高める。なんらかの障害を乗り越えてパラリンピックの選手になった人たちのスポーツにかける精進は、凄まじいくらいに血が滲むものだったろうと改めて推察する。パラリンピックは、参加種目がすこぶる多い。パラリンピック開催中の新聞記事は、読まれただろうか。選手たちの活躍ぶりや世界記録を紹介する記事に溢れているが、その中に、紙面最下段の記事に紛れるように、以下のような説明文が掲載されていることに気がつかれただろうか。

贅言;「障害クラスの表記」障害クラス分けの表記は、アルファベットが種目などを、数字が障害の種類や程度を示す。同種の障害では基本的に数字が小さいほど重度になる。陸上ではTが競争・跳躍で、Fが投てき。10番台は視覚障害、20番は知的障害、30番台は脳性まひなど、40番台は切断・機能障害、50番台は車いす、60番台は義足装着と分かれる。競泳はSが自由形・背泳ぎ・バタフライ・SBが平泳ぎ、SMが個人メドレー、1~10が切断・脳性まひなどによる肢体不自由、11~13が視覚障害、14が知的障害を示す。卓球は1~5が車いす、6~10が立位、11が知的障害となる。

例えば、実際の記事の中で、次のように表記される。
「陸上、男子、400メートル」では、(脳性まひT36)とか、「競泳、女子、200メートル個人メドレー(知的障害)予選「3組」などとなる。私は、このキメの細かさが、表記だけでなく、実際の競技に裏打ちされているだろうということに気づかされ、感動した。このきめ細かさが、パラリンピックが、オリンピックより細かく分類されていること、つまり、競技数や種目が多いことを裏付けているということを知ったのである。

東京オリンピックでは、33競技339種目が実施される。うち、非追加(元からある)種目が28競技321種目、開催地の組織委員会提案の追加種目は5競技18種目となっているという。
東京パラリンピックでは、22競技539種目が実施される。オリンピックに比べて、競技数が11競技も少ないのに、種目数は、200種目も多いのは、障害や障害の程度などを決め細かく分類しているからだということが判る。「公平性のためにクラス分け」だという。

競泳の中継をテレビで見ていて気がついたこと。決勝レースに勝ち残った彼ら、彼女らが、8人で競泳している場面。中継カメラは、プールの斜め上から、ロングレンズでレースを映している。スイマーたちは、水しぶきを上げて泳ぎ、競い合っている。この光景は、健常者のオリンピックの競泳でも見ているから、珍しくはない。

ところが、その画像に続いて、カメラは、水中での障害者の泳ぐ姿を映している。例えば、下肢のない人たちのグループのレースでは、彼、彼女が泳ぐ姿には、脚がない場合があるが、その姿が、美しい。まるで、魚が水中をスイスイと泳いで行くように見えるではないか。私は、度肝を抜かれて、ただただ、脚のないスイマーが一つしかない身体全体をくねらせて泳ぎ去って行く、その美しさを見送っていた。

また、両脚はあるものの、両手、両腕がないスイマーの場合、残っている腕、あるいは、切断された肩のあたり、あるいは、幼い頃発症した病気で成長しなかった小さな両手のまま、という状態で、残された機能を十二分に使い切り、泳ぎ進めて行く姿が、青い水の世界の中へ遠ざかって行く。ここがプールだということを忘れて、広い海原のように見えた。プールから海へ。これは、新しいパラレル・ワールドではないのか。パラリンピックが開くパラレル・ワールドの出現。

オリンピックとパラリンピックは、健常者、障害者、介護者という関係の中で、運営されたことだろう。だが、ちょっと、立ち止まって考えたが、これは、パラリンピックだけでなく、現実の社会運営でもなされるべきことではないのか。特に、パラリンピックの運営実績は、そのまま、現代社会が、さまざまな健常者、障害者、介護者の役割分担の下、運営されているかいないか、判断する際の、いわば「雛形」を写しているように思えてならない。パラリンピックをオリンピックに近づけるのではなく、オリンピックをパラリンピックに近づけること。パラリンピックに多様性の豊かさをこそ、私たちは、学び取るべきだろう。

(金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」から)
「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」。

パラリンピックの精神とは、お互いの違いを認めて、それぞれ、多様性(違い)を整理し直して、それを学び、協力してそれの調和を図る、ということではないのか。

★さて、デルタ株の作戦は? ドラスティックな「居処替り」

歌舞伎界の若手役者にコロナ感染増える。8・31、松竹は、歌舞伎座の「九月第歌舞伎」(三部制。9・2初日、9・27千秋楽)のうち、第二部の「近江源氏先陣館 ~盛綱陣屋~」の興行を、初日の2日から6日まで5日間の公演を中止すると発表した。松竹によると、第二部に出演する予定だった歌舞伎役者の中村歌昇、中村隼人を含め、舞台関係者合わせて5人が、定期的なPCR検査の結果、陽性判定が出たからだという。第一部の舞台関係者2人と第三部の舞台関係者ひとりも陽性判明だったが、館内の消毒の上、客席、舞台、楽屋への影響はないと確認・判断したので、予定通り、上演した、という。

歌舞伎座九月大歌舞伎の演目は以下の通り。
第一部の演目は、「お江戸みやげ」「須磨の写絵」。六代目中村歌右衛門二十年祭。七代目中村芝翫十年祭。当代の芝翫を軸に、成駒屋の一門が舞台を飾る。
第二部の演目は、「近江源氏先陣館 ~盛綱陣屋~」「女伊達」。若い世代の役者の研鑽の舞台。コロナ禍で、9・2初日から9・6まで、第二部は休演。9・7より上演開始。陽性の中村歌昇と中村隼人の二人は、引き続き休演とし、療養に専念した。それに伴い、第二部「近江源氏先陣館 ~盛綱陣屋~」は、代役で上演した。 代役:信楽太郎 中村錦之助 / 伊吹藤太 中村種之助。
第三部の演目は、「東海道四谷怪談」。坂東玉三郎、片岡仁左衛門の珠玉の演技が光ることだろう。異例の三部制での上演(上演時間が規制を受ける)ということもあって、いつもと違う場面が、「仁・玉」コンビで工夫されているかもしれない。

★「居処替り」、その1

ウイルスたちは、どういう行動を取っているか。生物と無生物の間に存在するというスタンスに立つウイルスたち。新型コロナウイルスも、そこからは免れられまい。新型コロナにとっても、生物と無生物の間で、立ち往生したままでは、自力では動けないが、代わりに動いてくれる生物(ここでは、人類)に「便乗」すれば、どこへでも行ける。

便乗しつつ、己は変異する。「変異」は、基本的にウイルスの生き延びる唯一の対策のように見える。生き延びるためには、ウイルスは、宿主(人類)を精一杯利用する。そのためには、手段を選ばない。
「変異」とは、生物やウイルスの遺伝子情報の変化を指す、という。変異が起こると、例えば、ウイルスに感染しやすくなったり、感染したときの重症度が高くなったり、ワクチンが効きにくくなったり、というウイルスの性質の変化が起こる、という。

その最たるものが、今回の新型コロナウイルスの場合は、デルタ株の「変異」に伴う、いわば「悪辣化」である。今のところ最強・最悪とみられるデルタ株がとった作戦は、先行変異株たち(アルファ株、ベータ株、ガンマ株)からの「居処替(いどころがわ)り」であったように見受けられる。つまり、ここでいう居処替りとは、コロナウイルス軍団の中での、デルタ株の独占的な「占拠」のことを、私は私流(私の流儀)の言い方で言いたいわけだが、それは、これから説明しよう、と思う。

ウイルス・デルタ株の「居処替り」の使い方
「居処替り」とは、普通なら聞きなれない言葉であろう。例えば、歌舞伎などでは、今でも日常的に使われている演出法を表す言葉である。歌舞伎・文楽(人形浄瑠璃)の3大演目のうち「義経千本桜」の、三段目「すし(鮓)屋」の場面で、この演出は今も見ることができる。

関西風のおしずし屋の従業員(下男)弥助、実は、平家の公達・平維盛。弥助は、下市村の「釣瓶鮓(つるべすし)」の主人である鮓屋弥左衛門に雇われている。弥左衛門は、昔、平重盛に大恩を受けたことから、偶然見つけ出した重盛の子・維盛(平家嫡流重盛長男)を自分の店の下男として雇うという形で、匿っている。つまり、弥助は、追っ手から逃れて山村に隠れ住んでいるのである。弥左衛門は、いがみの権太(兄)、お里(いもうと)の父親。「いがみ」とは、「歪み」(根性が曲がっている、と揶揄する)の意味を表す言葉。

「居処替り」は、このように設定で、身分のある主要人物が、訳あって身を窶す役柄だった場合に使われた演出法である。身を窶していた役者が、正体を現す場面になると、身分の上下を封建的秩序でいう正しい居処(ポスト)に直す演出をするのである。身を窶して下手(しもて)にいた主要人物が、衣装は同じながら、身分の高い人物となったという所作でメリハリを付けながら上手(かみて)に移動するのである。この場面の登場人物は、弥助、権太、お里である。

維盛は、後の場面で、源頼朝の重臣・梶原景時に見つかりそうなところをいがみの権太に救われたことから、この世の無常を悟り、出家を決断して家族とともに高野山へ旅立って行く。

以上説明してきたように、役者の強烈な存在感が、「居処替り」の成否を決定づけるのである。デルタ株ウイルスの存在感は、超強烈である。

★「居処替り」、その2

・菅首相の「居処替り」は、大道具の演出
歌舞伎の「居処替り」には、実は、もう一つの意味がある。役者を離れて、大道具に注目しよう。歌舞伎の舞台にある大道具(劇場の場面、装置)を転換する演出方法を「居処替り」と言うのである。

例えば、舞台と別の空間に通じる装置の「せり」。本舞台上の大道具(装置)を「大ぜり」で、まとめてつり上げて(つり下げて)、次に展開する舞台に替わる。上下に移動する昇降機「せり」(大・中・小)で舞台上の大道具・装置(仕掛け)などを一気に上げる、あるいは、下げる。舞台の床の一部を四角に切り、その部分に俳優や大道具を載せて上下させる機構(エレベーター。コンピュータで操作する)。上がるのを「せり上げ」、とか、「せり出し」という。下がるのを「せり下げ」とか、「せり下ろし」という。 花道の「七三(しちさん)」(本舞台から、3、揚幕から、7の塩梅という位置)にある小型の「せり」(穴)は、特に「すっぽん」と呼ばれる。穴から役者が首から舞台に登場するさまが、亀の「すっぽん」の首出しを連想させるからであろう。

このほか、「田楽(でんがく)返し」。 背景の書き割りの一部を切り抜き、上下または左右の中心線を軸に開け閉めして、回転させる仕掛けで、場面の背景を一瞬で替える演出。

・菅式「がんどう返し」
大道具を前後に動かす。大道具を後ろへ90度倒し、底面(次の場面)を垂直に立てて現し、場面転換させる演出。または、大道具の仕掛け。「がんどう返し」、「どんでん返し」という。例えば、「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」。寺社の大屋根などの大道具を倒し、そこから次の場面が現れる、という場面転換の演出。極楽寺という寺の大屋根の上で、多くの捕手に取り巻かれ、あわや袋の鼠という窮地で、絶望的にも、果敢に立廻りをしている弁天小僧が、大屋根に乗ったまま、後ろにあおられて舞台奥へ消えて行く。すると、下から次の場面の山門が現れて(せり上がって)来る。初めて、この場面を観た時は、私も感動した。スケールの大きな場面展開の演出である、と思う。

菅式「がんどう返し」演出で、弁天小僧を観てみる。まず、9月解散・総選挙説の頓挫があった。次いで、自民党の役員人事構想も頓挫。二階幹事長を含めて、党役員を全員替える→ 菅のコントロール下の要職に何人おけるか(9・6目途)、という構想だった。菅首相自身の生き残り作戦だと自民党若手議員からは、不平不満続出。批判が相次ぐと、菅首相は、さっさと案を撤回。いずれも、総理・総裁としての専権事項の権限行使だが、自ら出して、自ら引っ込める。まさに、勝手に踊っている。自滅行為であった。地獄しかない死出の旅。

9・3の菅首相の自民党臨時役員会で、「コロナ禍対策に専念したいので、自民党総裁選挙には、立候補しない」と菅首相が述べた、として政界に衝撃が走る。本来、専念ならば、首相として先頭に立って最重要課題の解決に向けて一層奮励努力をして、新境地を切り開くのが、正当だろう。案の定、野党もこぞって批判の声をあげた。菅首相、進退窮まる。自ら退陣へ、という判断。菅は、コロナ禍福対策に専念するために、総裁選には、立候補しないと言いながら、総裁選をめぐる自民党の雰囲気を、こんな困難山積のときに、お祭りモードに変えてしまったのだ。「屋体」(舞台装置)をどんでんと、ひっくり返さなければならなくなったのだ。

この仕掛けは、中が自在に動いて、光量を調整できる仕掛けが付いている「強盗提灯(がんどうちょうちん)」に似ていることから、「強盗(がんどう)返し」というようになった、という。さらに、一説では、そのときに下座の鳴り物(舞台下手、黒御簾の内の伴奏音楽)が、「どんでんどんどん」と鳴っていたので、「どんでん返し」というようになったとも言われる。菅首相は、コロナ禍対策の、いわば「胸突き八丁」という、いちばん苦しい段階で、政権を投げ出した。それも、コロナ禍対策に専念したいと、空々しい科白を国民に遺して。こんな首相歴代でも、見たことがない。何よりダメな日本よ、さらば。「どんでん返し」。

この小論では、新型コロナウイルス が、いくつかの変異種株を経て、コロナウイルスでも、従来の変異種とも「性質そのもの」が格段に違う(つまり、悪質、悪辣)と言われるデルタ株にドラスティックに変わったさま、その存在感の強さを見ていて、私が、身近な歌舞伎なら、と連想した印象を「居処替り」という用語で例えてみた次第。デルタ株のダイナミックスさが、この小論を読んでくださる読者の皆さんには、幾らかでも具体的にイメージされると嬉しいと思う。

★混沌新たに。「ミュー株」も、お目見え

当初首都圏で猛威を振るっていたデルタ株の新型コロナウイルスは、既に、全国的にも、95%は、占拠していると言われる。日本では初めにイギリスで見つかったアルファ株の感染が2020年末に初めて確認されたが、現在は、デルタ株が置き換わり、市中蔓延・猛威を振るっている。デルタ株の感染力は、従来の株の2倍。初期新型コロナのアルファ株の1・5倍程度高いとされる。

イギリスで現れた新型コロナウイルスのうち、アルファ株は、その後も変異を続け、ベータ株、ガンマ株、デルタ株へと、その性質を人類から見れば悪辣化させてきた。私から見れば、その「手口」は皆同じで、その手法とは、目下、感染症の専門家たちが力を合わせて検証中だが、「感染力の強化」、という点では、共通しているように思う。その上で、デルタ株の「殺し屋度」(致死率増加)、「反抗度」(ワクチンへの対抗力・ワクチン効果の低下)などの悪辣化の傾向については、まだ、定説は形成されていないようだ。さらに、デルタ株の後継と目される変異株として、まだ、全貌が見えない「ラムダ株」までが、現れている。

さらに、早々と「ミュー株」も、後ろの方から接近してきた。ミュー株は今年1月にコロンビアで最初に確認された。その後、世界40ヶ国以上に広がった。コロンビアでは、累計12万人以上が亡くなっている、という。ミュー株は感染力が非常に強く、ワクチンで得られた免疫を回避する特徴がある、という。ミュー株はすでに日本国内に流入している。厚労省は、6月にアラブ首長国連邦から、7月にイギリスから、それぞれ入国した女性2人から、ミュー株が検出されたことを9月1日に明らかにした。

日本の空港検疫で9月上旬までに確認された新型コロナウイルスでは、このほかにイータ株で18人、カッパ株で19人が感染している、という。国内でイータ株感染が明らかになるのは初めて、という。このように、ウイルス側は、絶えず、変異化を狙っているように感じられる。

さて、歌舞伎の舞台を観てみよう。
極楽寺という寺の大屋根の上で、多くの捕手に取り巻かれ、あわや袋の鼠という窮地で、絶望的にも、果敢に立廻りをしている弁天小僧姿の菅首相が、大屋根に乗ったまま、後ろにあおられて舞台奥へ消えて行こうとしている。大屋根の「強盗(がんどう)返し」という演出だ。
消えて行く小男の後ろ姿は、……。ああ、もう、見えなくなってしまった。逃げ足が速い。

贅言;
1)「ラムダ株」:ラムダ株は、2020年8月に南アメリカのペルーで初めて報告された。その後、南アメリカを中心に感染が広がり、世界保健機関(WHO)は「注目すべき変異株」と分類。インド由来で感染力が強く、日本列島でも、猛威を振るっている「デルタ株」を含む「懸念される変異株」に比べれば、「より警戒度は低い」、とされているが、変異ウイルスは、全貌が分かっているわけではないので、警戒は緩められない。

2)「ミュー株」:南アメリカのコロンビアで2021年1月に発見された新型コロナウイルスの変異株をWHOは「ミュー株」と名づけた。既に説明したように世界的に監視が必要とされる変異株には、ギリシャ文字を冠した呼称が用いられている。「ミュー」(μ)は、24文字からなるギリシャ文字のうち、12番目に当たる。ちょうど半分の位置である。残りは12文字。コロナ禍は、どこまで続くのか。

・行政の「判断ミス」
世界の国・地域で猛威を振るっている新型コロナウイルスの大部分は、デルタ株ウイルスに「居処替り」されてしまった。デルタ株ウイルスの特徴は、感染力が強く、これまで接種しているワクチンに対しても対抗力がある、という厄介もののようである。デルタ株の接種は、2回では足りず、「ブレークスルー」感染を防ぐには、「ブースター接種」という、3回目の接種も必要だと言われ始めたが、これも、まだよく判らない。私の息子夫婦は、神奈川県に住んでいるが、9月にやっとワクチン接種の第1回目を受けることができるようになった。

神奈川は、東京に次いで、毎日の新たな感染者数も多い。今年4月に全国各地の医療従事者に続いて高齢者を対象に始まったワクチン接種は、高齢者から年齢順で接種を始めたことから、息子の世代は、いちばん最後になったようだ。ところが、夏になったころから、高齢者より若い世代がコロナに罹患し、重症化すると騒がれ始めた。息子と同世代の若い人たちが皆、行政の判断ミス(1・自治体の多くが機械的に接種を高齢者順にしたまま、なかなか改めなかったこと、2・高齢者より若い世代に感染が広がることを予測できなかったこと、3・国の不手際でワクチンの供給が8月に中断してしまったことで、若い世代の接種が遅れたこと、4・ワクチンに異物が混じるというアクシデントがあって、この原因でも接種が滞ったことなど)で、ワクチン接種を受けないまま、感染したり重症化したりして、中には不幸にも死者が出ているなどというニュースが伝えられると、息子の母親は、自分が受けた接種を返すから、息子夫婦の接種を早くしてくれと、訴えるようになった。

息子夫婦もそうだが、彼らには、年齢的に小さな子どもがいる場合が多いのではないか。子育て世代。また、社会の中堅として、稼ぐ世代。こういう事情を抱える家庭は、全国各地に多いかもしれない。マスメディアは、コロナ禍問題をきめ細かく、きちんと取材し、報道し、国民に伝えているだろうか。

走りながら、私も、考えるしかないようだ。

贅言;「ブースター接種」とは、一度ワクチン接種を完了して、新型コロナに対する免疫がついた人に対して、予防のため数カ月後にもう一度ワクチンをうつこと。このようにワクチン接種済みの人がコロナに感染したり、発症したりする例は、免疫による守りが破られる(突破される)という意味で、「ブレークスルー」感染という。

(以下、次号へ)

(ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

(2021.09.20)
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