【オルタ広場の視点】

コロナと安倍政治


羽原 清雅

 昨年末に始まった中国発生の新型コロナウイルス禍は、4月末になろうとしても収拾のメドが立たず、世界中が右往左往している。襲われた以上、この火の粉は払い尽くさなければならないが、これからが正念場になるのだろう。
 日本を含めて欧米などの科学技術の発展している先進国にして、この混迷であるから、さまざまな面で後れを取りがちなアフリカや難民地帯などが広範に汚染されたときには、どうなるのだろうか。大量死を待つのみなのだろうか。この面にまで報道の手は伸びていないが、国内の懸念以上に気がかりである。
 右往左往状態の日本だが、ここでは政治の面からコロナ禍を見ておきたい。

 安倍晋三首相は、なかなかの弁論家である。
 テレビで見ている限り、言葉の選択は巧みで、シッポを出さないどころか、ボーッと聞いていると乗せられかねない説得性すらある。それも、政治家としては重要な能力だろう。
 問題は、その中身である。

 2月末の独断による学校の一斉休校宣言に始まり、30万円制限付き給付から10万円全員給付への転換を暫定予算案の提出間際に打ち出すなど、マイペース、後手後手、詰めの甘さ、自治体や医療界など関係部門との調整不足、などが際立つ。
 定年任期の法律を変えてまでお好みの検事総長づくりを進め、各省庁の高級官僚人事を一手に掌握して思いのままに動かす、そのような「優秀」なはずの能力を、安倍首相、菅義偉官房長官、忠実な首相官邸幹部たちは、いざというこの場面でどうして使わないのかな、とも思う。「お友達」「お仲間」の、心を一にした政権のはずだったのに・・・。

 安倍首相は、8割までの国民に外出しないよう、協力を呼び掛ける。
 しかし、なかなか徹底しない。日々働かなければ生活できない人など、たしかに難しい社会であって、容易ではない。だが、それだけだろうか。
 テレビの安倍首相の雄弁ぶりを見て、聞いていても、どこか「信頼感」が湧かない。
 犬を抱えたくつろぎの映像、昭恵夫人の奔放な言動のせいばかりではない。森友学園、加計学園の問題、最近では桜を見る会問題などの“疑惑”に対する答弁ぶりが、「信用していいのか」と思わせてしまう。まだまだ奥には、隠された真実がある、との確信を持たせてしまうのだ。

 答弁は同じセリフの繰り返しで、質問者の意図に沿わない。責任の範囲を巧みにずらす。責任の所在を転嫁し、はぐらかす。誠実、真摯、丁寧、といった無意味に近い用語の連発でかわす。
 そのような身近な疑問を別としても、公文書の管理、集団的自衛権問題などの説明、特定秘密保護法の扱い、アベノミクス成否の主張など、政策面での国会答弁でのあしらいは、納得のいく説明内容ではなく、むしろ切り口上におのれの正当性をアピールするにとどまっていた。そうした蓄積が安倍政治への信頼欠如につながる。

 「この人が言うのだから」という根っこにあるべき為政者への信頼が、多数世論を惹きつけていなかったことが、今日の混迷の中で明白にされてきた、化けの皮がはがれつつある、ということにつながっている。

 首相答弁や説明がうわべだけの教条的なものではなく、野党の追及に対して本音を示しての応酬を重ねてきていたら、国民の信頼度は違っていただろう。
 彼の強さは、与党自民党の「数」の強さであり、弱小にして勉強不足の野党を黙殺、ないし軽んじられるところにある。いい加減な説明や答弁でも、逃げおおせる、かわしきれる背景を持ち、これにべったりと寄りかかってきている。ほんとうの多数を確保しての政権とは言いにくい実態がある。

 世論調査の支持率は4割台と、決して低くはない。とはいえ、若い世代の選挙投票率の低さから見ると、要は政治への無関心が横溢し、あるいは政治状況のなかに「かくあれかし」という選択肢を持たない階層が増えて、「今ある姿でいい」と現状に追随する風潮が強いだけなのではないか。
 政治離れの傾向を増すことが、安部長期政権の支えになる、というおかしな矛盾が、世論調査の示す数字なのだ。

 安倍首相は、東京五輪にかこつけて、「ワンチーム」の日本を得意げに言い立てた。それはスポーツでこそ許されるが、多様な階層の中でさまざまな意識、思考、主張がうごめく民主主義の社会では、単一化した政治などはヒトラーの独裁政治を思わせ、むしろ排斥すべきなのだ。多様な意見をぶつけ合い、少数意見の良い点をも吸収しながら調整し、より望ましい政治にすることこそが民主主義なのだろう。
 トランプ大統領の登場以来、「自国ファースト」が流行化して、WHOまでが反中国のターゲットに巻き込まれた。先進国ほど、周辺諸国の国情や経済実態、置かれた状況を読み取り、自国の安定のためにも相手との可能な協調点を見出すべきところだが、そのような風潮は遠のくばかりになっている。このありようは、安倍政治の傍若無人というか、我が道ばかりを行く姿勢にも通じるところだ。

 もう一点、コロナ禍で見えてきているのは、日本の政治、行政等の取り組みはまことに視野の狭い、いわば短視的だということ。そして年々、学術的な研究費が国家予算から減少させられ、未来開拓のエネルギーがそがれていること——このような姿勢が具体的に見えてきている。
 コロナ感染者が日を追って増えてきているが、一般人のマスク、体温計などもさることながら、医療関係に防護衣、サージカルマスク、フェースシールド、人工呼吸器など最低の機材すら不足し、いまもそのような状況が続いている。PCR検査もいまだに広がっていない。病院船作りもいいが、思い付きに飛びつくことなく、長期的な予測を立てつつ計画的な行政が必要なのではないか。

 今の事態は予想外の緊急、突発の事態ではあるが、その日暮らしの姿勢が後手後手の状況を生んでいるように思える。コロナ禍を事前に想定しておくということではなく、財政面、生産面、物流面、日常生活対応などの実態からみて、どのような緊急時にどんな対応ができるか、弱い面はなにか、その対応はどうあればいいか、などの研究、検討である。

 高齢化、人口減少の進むなかでの基本的な課題は統計上、かなり以前から指摘されていながら、年金問題、医療体制、財政基盤、出産育児の課題など、複雑な事柄ほど結果的に放置されがちであった。
 その具体策をすぐに、ということではなく、国としてその弱点を把握し、長期的に対応する方策を考えるようにしなければなるまい。輸入に頼らざるを得ない島国の日本は、中国をはじめアジア諸国との物流などについてもっと知っておくべきではなかったか。

 これらは、コロナ禍に反省ができるようになってからの課題だろう。目先にばかり眼を注ぐ政治ではなく、長期的な視野を持つという姿勢だけは強調しておきたい。

 (元朝日新聞政治部長)


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