【コラム】大原雄の『流儀』

チェルノブイリの月(4)~回想・10年前の、ウクライナ(承前)

大原 雄

 国際社会の平和推進の一翼を担うはずの国連安保理事会常任理事国のロシアがウクライナ侵略。2月24日にロシア軍が軍事侵攻した後、その戦況の「一進一退」が、「一挙手一投足」をチェックするように動画で伝えられているような感じだ。ウクライナ支援! というように、毎日、日本のマスメディアのニュースになる、テレビではワイドショーで取り上げられる、という異常な現象が日本国内で5ヶ月も続いている。ウクライナの情勢は、様々なメディアから入手した動画で伝えられるが、ロシア本国の国内情勢は、国外向けに伝えることを禁じられているようで、ほとんど日本に伝えられないから、日本の視聴者や読者たちは、必然的に「偏頗」な情報に接しがちとなる。報道統制しているのが、プーチン・ロシアの権力層だから、偏頗な情報からフェイクニュースを、いわば「引き算」して、伝えるしかない、というのがマスメディア(組織ジャーナリズム)のデスクワーク(ニュース判断)をこなす編集責任者(通称・編責)の本音の実情なのだろう。

 ロシアの報道統制は、どうなったのか。ロシアからのフェイクニュースでは、ほとんど伝えられていないと思う。古い新聞を読み返そう。
例えば、朝日新聞3月6日付朝刊記事より以下、引用。

画像の説明「ロシア軍の活動に関する報道や情報発信のうち、ロシア当局が「フェイクニュース(虚偽情報)と見なした場合に、記者らに対して最大15年の禁固刑を貸すことができる」というものだ。画像の説明以上、引用終わり。

 プーチンはこの法案に大統領として署名した。この法案成立の影響で、欧米のメディアは、ロシア国内での取材活動を一時停止した。朝日新聞も、「ロシア国内からの報道は一時見合わせます」と、一面記事の中に溶け込むような形で、伝えている。これは、記事なのか、お知らせなのか、「社告」なのか。曖昧な「自粛?」のようなお知らせだったように思う。

 フェイクで始まった戦争は、勃発以来、相次ぐフェイクの嵐の中をかいくぐりながら、まだ、続いている。たった一人の男が選んだだけの戦争は、いったい、人類のどこまで食い尽くせば継続を止めるのだろうか。

★サハリン2譲渡命令 ロシア大統領令 日本、LNG権益失う恐れ
プーチン氏、制裁対抗か

 ある新聞の朝刊一面記事。飾り付けられた見出しの数々である。
 大見出しなどは、横見出し。

 以下は、7月2日付朝日新聞朝刊一面の記事である。本記リードは、次のようになっている。以下、引用。

画像の説明ロシアのプーチン大統領は6月30日、日本の商社も出資するロシア極東の液化天然ガス(LNG)・石油開発事業「サハリン2」の運営を、新たに設立するロシア企業に譲渡するよう命令する大統領令に署名した。ウクライナ侵攻をめぐり対ロ制裁を強める日本への対抗措置とみられ、日本側が事業の権益を失う恐れが出てきた。サハリン2で生産するLNGの約6割は日本も向けとされ、日本のエネルギー戦略にも大きな影響を与える可能性がある。

続いて、同紙二面記事の見出し。

★「時時刻々」 ロシア 日本排除鮮明

これは、横見出し。

以下は、3本が立て見出し。

英・欧州勢は損失覚悟の撤退

エネ安保弱み突かれた日本

電力不足に追い打ちも画像の説明
引用、終わり。

この記事の結末部に、本当の見出しがある、と私は思う。以下、引用。

画像の説明LNG火力発電所は、日本の発電量の4割弱を占める主力電源だ。(略)あるエネルギー関連企業の幹部は「ロシア側は日本の状況が分かっているはず。これはロシアによる究極のいじわるだ」と話す。画像の説明引用終わり。

★「ロシア 究極の日本いじめ」

新聞の作り手の気持ちを忖度すれば、本当の見出しは、これだったのではないのか。

 さて、岸田政権は、ここまでのプーチン・ロシアの意識と行動は、承知しているだろうと思う。私でも気がつく。その上で、岸田政権はいじめに負けずに何ができるか。ここから、国際政治の駆け引きが始まるのだ。
 
★ロシアは、テロ国家

画像の説明ウクライナのゼレンスキー大統領は(6月)28日、国連安全保障理事会にオンライン(演説ー引用者注)で出席し、ロシアによる攻撃を「テロ行為」と批判した。同氏は、ロシアが国連の理念や国際法について違反を繰り返しているにもかかわらず、責任を問われていないと訴え、国連総会が対応するよう求めた」。画像の説明
以上、朝日新聞6月29日付記事より、引用。

 ゼレンスキー氏は、ロシアが幼稚園やショッピングモール、一般住宅も攻撃の対象にしているのは、「テロ行為」だと主張している。全く、その通りだと、私も思う。国連総会決議でテロ行為という認識が認定され、ロシアが国連から追放されるようなことになれば、国連も少しは、その存在感を国際社会に印象付けられるだろうに、と思う。

贅言;ゼレンスキーの演説内容には、「国連憲章に重ねて違反した加盟国を国連総会は追放できる規定がある」と言及している部分があるという。このポイントは、もっと知りたい。なぜ、マスメディアは、ロシア追放というテーマを「深掘り」しないのか。

★二つの「国境線」が、見えませんか?

 日本とウクライナ。なぜ日本の人々は、これほどウクライナに関心があるのだろう。ウクライナという国は、西にヨーロッパの国々との国境線、東にロシアとの国境線に挟まれているという位置にある。

 日本は島国だから、日本の国境は海上にある。日本列島をぐるりと囲んで海岸から12海里(約22キロ)の地点が、国境線である。これは、1982年に結ばれた「国連海洋法条約」に基づいて決められている。

 これとは別にいまの国際状況で深刻な政治的な国境線が日本列島の北東と南西に2つあると私は思っている。この国境線は、政治的なものだから、4つになることも、潜在的に見えなくなることもある、と思う。

 まずは、列島の北東。北海道の知床岬から根室半島の描くライン。北海道の沿岸から沖に見える島影が、いわゆる北方四島の島々。この海域に描かれるラインが、日本とロシアの事実上の国境線。外務省のホームページには、次のような記述があった。以下、引用。

画像の説明日魯通好条約(1855年)
 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認しました。画像の説明
以上、引用終わり。

 このように、日本固有の領土という、いわゆる北方領土を抱える日本政府は、基本的には、北方領土の外側に国境があるという認識だろうが、今見てきたように、1855年2月(安政元年12月)、日本とロシアで結んだ「日魯通好条約」に調印した結果、(いわゆる北方四島の)択捉(エトロフ)島と千島列島の南端の得撫(ウルップ)島の間にある択捉海峡(水道)の「国境線」をそのまま日本とロシアの国境として認定したという。

贅言;なんとも痛ましい知床半島での観光船沈没事故では、5月に二人の遺体が、北方四島の国後島付近で漂流しているのが見つかり、ロシア側が収容した、というが、遺体の引き渡し方法などは、両国の調整が続くという。いわゆるDNA型鑑定では、漂流遺体は、観光船の乗客のデータと最終的に一致したと6月23日、外交ルートを通じてロシア側から日本側に連絡があった、という。ロシアと日本の交渉が、もっと速やかに行く関係なら、もっと情報共有化ができて、救助作業も速やかに進むのではなかったのか。

 朝日新聞6月25日付朝刊記事によると、この引き渡しが、「北海道と国後島などとの間の中間ラインの洋上」で実施できないか検討されているという記述があった。以上、引用終わり。

 この「中間ライン」が現在の国際状況の中では、事実上、日本とロシアの、いわば「海の国境線」ということなのだろうかと、思って調べてみた。

贅言ロシアの認識:北方領土問題などにより、日本とロシアで認識している国境が異なる、というから厄介である。北海道では、「事実上」の(及び、ロシアの認識によれば「法的な」)日ロ国境は、北海道本島とサハリンとの間の「宗谷海峡」、本島と国後島との間の「根室海峡・野付水道」(いわゆる「中間ライン」)、本島(納沙布岬)と歯舞群島の水晶島との間の「珸瑤瑁(ごようまい)水道」である。

 一方、日本政府の認識:それによれば、「南樺太」と「千島列島」の帰属は未確定であり(北方領土を除く)、帰属未確定地と日本との境界は本島と「樺太」との間の「宗谷海峡」及び択捉島とウルップ(得撫)島との間の「択捉水道」、帰属未確定地とロシアとの境界は南樺太の境界の「北緯50度線」及びカムチャッカ半島と千島列島東端のシュムシュ(占守)島との間の「シュムシュ海峡」である。日本国内で発行されている地図ではこの4ケ所に国境線が引かれている、という。

閑話休題:
 今回のウクライナ戦争への、日本政府の関わり方次第では、ロシア海軍は、微妙に動きを変えてくるようだ。ロシア海軍の軍艦などによる演習、軍艦から北海道にミサイルを打ち込む「鉄の嵐」、「国境」を越えて軍艦が日本の領海内へ攻め寄せてくるウクライナ戦争の日本版のような状況が生まれてくるかもしれない。あるいは、ロシアの軍艦が戦車などを乗せて、接岸・上陸してくるかもしれない。もう、映画の世界か。それならまだ良いが、正夢では困る。

 次は、列島の南西。奄美大島(鹿児島県)から沖縄本島、宮古島、石垣島、与那国島など南西諸島の島々。こちらの海域に描かれるラインは、日本と中国のいわゆる「国境線」。以下、時事・ドットコム(2022年4月11日)より引用。

 画像の説明「1972年5月の本土復帰から50年を迎える沖縄県では、自衛隊のミサイル部隊や沿岸監視隊の配備が急ピッチで進む。中国が領海侵入を繰り返し、台湾有事も現実味を帯びるなど、沖縄周辺の安全保障環境は激変。今後も「南西シフト」は続く見通しだ。米軍基地が集中する沖縄は、同時に「自衛隊基地の島」になりつつある。(略)転機は中国の東シナ海進出だ。2000年代以降、尖閣諸島周辺で中国公船の活動が活発化。これを踏まえ、政府は南西諸島の「防衛力の空白地帯」を埋め始めた。

 陸上自衛隊は16年に与那国島、19年に宮古島に駐屯地を新設。石垣島にも22年度中に置く方針だ(略)」。画像の説明以上、引用終わり。

 沖縄の南西諸島の自衛隊の基地が増強されて要塞化しているという趣旨の話を石垣島在住の詩人から聞いたことがある。南西諸島では、米軍基地反対より、自衛隊基地反対の声の方が大きいということだった、と記憶している。

 沖縄は、中国軍の海洋進出をミサイルなどで威嚇・阻止するというアメリカの世界戦略のシステムに沖縄駐留の自衛隊が組み込まれているというわけだ。

 北海道は、ロシア軍の海洋進出をやはりミサイルなどで威嚇・阻止するというアメリカの世界戦略のシステムに北海道の自衛隊も組み込まれているということなのだろう。アメリカの世界戦略のシステムこそが、いわゆるアメリカの核の傘。ロシアとウクライナの戦争が勃発・継続して以来、ロシア憎しという感性が日本列島を覆っているように見える。しかし、一歩下がって、日本列島の弓のように曲がった島影を見てみると、アメリカは巧妙に立ち回っているので、その正体は見えにくいが、ロシアもアメリカも、同じような大国意識の影を日本列島に落としていることが判るというものだ。大国主義の3ヶ国、ロシア、中国、アメリカが、国連の機能不全(あるいは、不備)に影響しているのだろう。

 北海道も沖縄も、世界大戦が勃発したような状況になると、どちらも「戦場の最前線」にさせられる可能性(恐れ)が高いのではないかと思う。それなのに日本では、ロシアがウクライナに勝ったら次は、中国が台湾をもぎ取ろうとするのではないか。台湾の次は、日本ではないのか。今のような平和憲法(戦争の放棄)で、日本を守れるのか。防衛費(というか、拡大解釈ならば、「軍事費」では?)を倍増すべきではないか、というような声が保守陣営から大きくなり始めた。アメリカの核の傘だけでは、安心できない。必要なのは傘でなく、核だ。アメリカと「核の共有」を実現させなければ、安心できない。「安全安心」などと使い古されたキャッチフレーズで、平和憲法を押しつぶそうとする保守、というか右派勢力が顔を突き出してくる始末。沖縄では、「戦後」も日本より遅れてやってきたし、憲法状態は、今も遅れている(例えば、日本国憲法の上に日米地位協定があるというように)。厳しい現実のしわ寄せが離島の島々に押し付けられている。平和憲法と相容れないはずの米軍基地の多くは何十年も沖縄に居座り続けている。米軍と沖縄県民の間に挟まり、両方の顔色を見ながら身動きが取れない日本政府という立ち位置のポーズを権力は変えようとしない。沖縄の現実を見れば、日本政府が、アメリカの後ろ盾を利用して沖縄県民の権利を、あれもこれも規制・制約しているだけなのではないのか、という人もいる。

★言葉の問題ですか? 「敵基地攻撃能力」と「反撃能力」

 これらの用語は、平和憲法の根幹に関わる「専守防衛」と「集団的自衛」とにそれぞれ繋がっていると、私は理解している。

「専守防衛」:戦後、日本という国家は、日本国憲法で「戦争放棄」を掲げ、自衛権のみをかざして国際社会を生き抜いてきた、と思う。専守防衛では、相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その程度も装備も、自衛のための「必要最小限」に限っている、という。「限定的」たることが日本の信条ではないのか。

「必要最小限」:「その時々の国際情勢や科学技術等の諸条件を考慮し、決せられる」(調査会「提言」より)ということでは、「必要最小限」も、ここでも、「拡大」志向の用語解釈が、まかり通ろうとしているようである。

 自衛権だけだから、専守防衛で、敵が襲ってきた状況の時のみだけ、反撃することができる。反撃するのは、敵の兵器や戦闘員に対してのみ。だから「敵基地攻撃能力」の範囲に限定された兵器を使用することになる。

 このように、私の印象では、「専守防衛」関係の用語では、言葉の意味合いが、限定的、縮小的(矩を越えない)ように慎重に使われているが、「集団的自衛」関係の用語では、言葉の意味合いが、故意に曖昧な、拡大的(枠から多少はみ出しても「良いのか」?)余地が許されているかのように積極的に使われているように思える。

 2013年の「防衛計画大綱」を踏まえて、2022年の「国家安全保障戦略(NSS)」では、上記の内容を「見直す」(つまり、「拡大する」?)と、岸田政権や自民党の「安全保障調査会」(会長=小野寺五典元防衛大臣)らは言う。参議院議員選挙が終わったら、与党協議が始まる見込みだ。

★専守防衛から集団的自衛へ

 まず、「敵基地攻撃能力」を見直し、「反撃能力」と言い換える。敵基地攻撃能力ならば、目標は敵の基地に限られるが、反撃能力ならば、目標は基地以外の敵の関連する全てを包摂(拡大的)することができるようになるのではないのか。専守防衛が限定的なら、集団的自衛は、逆に、拡大的である。「専守」と「集団的」では、大違いというわけだ。

贅言;「反撃能力」は、これまでの説明では、「弾道ミサイル攻撃を含むわが国への武力攻撃に対する反撃能力」だと説明する。攻撃対象の範囲も「指揮系統機能なども含む」という。与党協議の果て、「反撃能力」という4文字の用語に、どれだけ「ぶら下がり」の「お邪魔な」言葉が、付け加えられることだろう、と私は危惧する。表現に使われる言葉数は減るが、お邪魔な意味は増やされる。

★軍事用語は、国民の知らぬ間に変えられる!

*2013年:「策源地攻撃能力」。策源地とは、前線を支援する後方基地のこと。

*2017年:「敵基地反撃能力」

*2022年:「反撃能力」=仮想敵国は中国、米軍の打撃力の一部を担う、攻撃対象を拡大する。「反撃能力」論は、日本の専守防衛政策を「転換」させ、自衛隊を米軍とともに「矛(攻撃力)の一部」を担うことを意味する。

 以前は、日本の防衛のために、米軍は打撃力(攻撃力)の「矛」の役割を担っていると説明された。自衛隊は、専守防衛の「盾」に徹すると説明されてきた。それが、今後は変わるようにしたいのだろう。

 自衛隊が、今後は、集団的自衛により、同盟国アメリカの防衛のために、反撃能力(武力攻撃する同盟国の「敵」を反撃する能力)を発揮するようになるのではないか。反撃能力のスイッチ・オンについて、小野寺五典・自民党安全保障調査会長は、「相手側に明確に攻撃の意図があって、既に着手している状況なら、相手のミサイル発射前でも攻撃可能」との認識を示している、という。「着手」、「発射前」、「攻撃可能」などなど。「逃げ口上」のような用語の羅列。「スイッチ・オン」と「既に着手」は、違うのか。兵器(例えば、ミサイル)に「着手」(どういう状態? 触っているだけ? それでは、未着手か?)しているが、ミサイルは飛んではいない状態なのだろうか。ミサイルは、発射台から「ただただ浮いている」だけなのか?
 多分、日本側は「先制攻撃はしませんよ」というだけなんだろうなあ。
先制攻撃はしないが、「先制打撃もごめんこうむる。被害は受けたくない」。そこで、先手必勝を目標に掲げる。

 攻撃目標については、「指揮統制機能なども含む」と自民党の「提言」では、表現しているというが、兵器機能ではない、「指揮統制機能」(オペレーションのことか?)があるとみられる目標も憲法上、攻撃「可能」にしたいのだろう。これでは、目標や対象が限定されていた専守防衛が同盟国の集団的自衛に取って代わられたように、敵基地対象の「盾矛論」が「矛矛論」(日米同時の「攻め攻め」論)になってしまうのではないのか。そこには、攻めの理屈はあっても、守りの理屈はないのではないか。

 このような論理がまかり通るようになれば、日本は専守防衛だからと仮想敵国に説明しても、どこの「敵」も、ハイそうですかとは、聞いてはくれないのではないか。

 日本の国会の論戦は、与野党が日本政治の本来の「専守防衛」の変質の是非という問題の核心部分の「本質論」でやりあわずに、「用語の呼び方」という形式論を巡って論争する、というおかしな形になってくるのではないか。国際社会で、通用しないのではないか。

★時空を超えて

2012年、10年前。
 日本ペンクラブのチェルノブイリ原発視察団の一員として、ウクライナを訪れた2012年4月を思い出す。まだ、寒かった。デパートのスポーツ用品店まで売れ残っていたダウンジャケットを買いに行ったことを覚えている。当時書いたものや資料を参考にして「チェルノブイリ回想」(仮題「チェルノブイリの月」)を書き進めた。

 この連載コラムと10年前の時空を絡ませる構成を思いついた。文体も、コラム(「オルタ広場」連載)の日々という現在進行形のノンフィクションと過去をベースにした回想スタイルのフィクションとの接点の隙間を狙うというスタイルをとっている。このコラムは、現在のウクライナ戦争進捗を横目で見ながら、また、ウクライナの過去(10年前のチェルノブイリ)という、いわば時空の異界をドローンに、あたかもぶら下がりながら飛び回る、という趣向だ。飛翔しながら、構成を考えつつ、文章をまとめるという、2次元がほぼ同時に進行する作業をしている。かなり重層的な効果を狙っている。

 今回は、「チェルノブイリの月」(「10年前の、ウクライナ」の続き)というタイトルで書き進む。こういう状況の中でも、特に大兵(だいひょう)・ロシアと小兵(こひょう)・ウクライナの戦争という軸となるリアルな事態は、日々、一進一退で、その趨勢は、単純ではなく軍事侵攻から5ヶ月の段階でもまだ判らないのではないか。

2022年5月。
 プーチンについて、ロシア文学者の亀山郁夫さんは、次のように書いている。以下、朝日新聞5月3日付の文化面に寄せられた「寄稿・ロシアよ、兄弟を殺すとは」から引用。

画像の説明「同じスラブ民族同士の血で血を洗う兄弟殺しと化した。発端は、独裁者の脳裏にこびりついた恐怖と復讐心、そして過(あやま)てる宗教的使命感である」。

「独裁者はいま、みずからを(ママ)歴史の外に身を置き、良心の裁きを逃れようとしている」。以上、引用終わり。独裁者プーチンは、独り、地獄へ落ちるのか?

 ウクライナの文学者の声も記録しておこう。
 例えば、ウクライナの作家、アンドレイ・クルコフさんは、朝日新聞3月16日付の「オピニオン&フォーラム」に寄せられた「寄稿」に次のように書いている。

「今もやはり恥ずかしい。しかしロシア語を話すことが恥ずかしいのではない。ロシアという国が恥ずかしいのだ。かつては文明的で文化的な国だったのに」。画像の説明以上、引用終わり。

★ウクライナ人 どんな気質?

日本ウクライナ文化交流協会会長の小野元裕さん。朝日新聞5月27日付朝刊記事「いま聞く(インタビュー)」より、標題のようなテーマへの回答を概要の箇条書き的にまとめ、引用。

画像の説明「ウクライナ・コサックの気風が今も残っている」。
「ウクライナ・コサックは、14〜16世紀、西側のポーランドなどからウクライナに逃れてきた農民がつくった自治的な集団だ」。
「リーダー選びや軍事行動といった大事なことを集団で決めた。これが、専制的なツアーリ(皇帝)が300年以上にわたって君臨したロシアと大きく違う点だという」。画像の説明以上、引用終わり。

★ロシアは、ウクライナを制圧したのか

 ロシアは、これまでのところ、ウクライナという国家を潰すことはできなかったばかりでなく、ウクライナの一部の領土を制圧しているだけなのではないのか。その上、「制圧」という状態も、不安定な気がする。例えば、朝日新聞7月5日付朝刊記事より、以下引用。

見出しは、「ロシア、ルハンスク州制圧」。

本記記事では、次のように報じる。

画像の説明「ウクライナ東部ルハンスク州のほぼ全域を4日、ロシア軍が制圧した」という。略。その上で、これに対して、(ウクライナの)「ゼレンスキー大統領も3日夜の演説で、撤退を事実上認めるとともに、戦術上の方針だと主張した。ロシアのショイグ国防相は4日、ルハンスク州の作戦完了をプーチン大統領に報告した。」画像の説明という。どっちもどっちのような筆致で記者は記事を書いているようで、私には、判りにくい表現・文意の羅列だと思う。

★ウクライナの復興めぐる国際会議 スイスで開幕

 ウクライナは、ロシアを抗して「復興」が見込めるような状況を作ることができるようになったのか。これは、4日のNHKニュースから、以下引用。

画像の説明2022年7月4日 21時02分
 ロシアによる軍事侵攻で甚大な被害を受けているウクライナの復興をめぐって、日本や欧米などの各国と国際機関の代表が話し合う会議が、スイスで始まりました。
ウクライナのゼレンスキー大統領もオンラインで出席して各国に支援や協力を呼びかけるほか、復興に向けた具体的な計画が初めて示される見通しです。(略)ウクライナ政府は先月、ロシアの軍事侵攻によるインフラの被害は、これまでのところ総額で1040億ドル、日本円にしておよそ14兆円に上ると明らかにしていて、今回の会議をばく大な資金が必要となる復興の出発点と位置づけ、各国から長期的な支援を取りつけたい考えです。画像の説明

以上、NHKニュースのデジタル版から概要のみ引用。

ウクライナをめぐる状況は、

*「ロシアによるウクライナ領土制圧」なのか?
*ウクライナの復興を巡って、国際会議が開かれるような状況が見通せるようになったのか?

フェイクニュースを流しているのは、どっちの国家なのか?

★★チェルノブイリの月
       〜回想・10年前の、ウクライナ(承前)

 ウクライナへ初めて行ったのは、2012年4月。1986年に事故を起こしたチェルノブイリ(ウクライナ)原発・廃炉のその後の経過を見るために、「日本ペンクラブ」視察団の一員として、私はウクライナへ飛んだ。一行は、全員自費参加。作家、ジャーナリスト、評論家など8人である。参加者のうち、女性は、作家一人。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う津波により、東京電力の福島第一原子力発電所(以下、「原発」という用語を使う)で発生した原子力事故の問題について、日本ペンクラブ主催のシンポジウムほかで取り上げる時に、チェルノブイリ原発の現地のことを全く知らなくては話にならないのではないか、ということで有志が自費で行くという形ツアーをまとめ、ウクライナまで視察に行ったのだった。

 あれから、早いもので、もう10年が過ぎた。2022年2月24日からロシアがウクライナの領土侵犯をする軍事侵攻が始まるとは、この時には私も夢にも思っていなかった。軍事侵攻は、「ウクライナ戦争」と名付けられている。

★ウクライナ戦争とプーチン

 プーチンは今年10月で70歳になる。権謀術数を凝らして20年以上も孤独な権力の座に君臨している。いくら独裁主義であったり、専制主義であったりしても、生物的な寿命には勝てない。平均寿命の短いロシアでは、人生のこの先が短いことをプーチンも悟らざるを得ない。とりあえず、データ的な情報を贅言(いわゆる「注」の意味)という形式で、羅列しておこう。

贅言集
贅言;世界保健機関(WHO)の統計によると、ロシアの平均寿命は男性が68・2歳、女性が78・0歳。ウクライナの平均寿命は男性が68・0歳、女性が77・8歳。

 最近のプーチンについては、癌手術説など、フェイクニュースかもしれない情報も流れてくるが、己の健康状態は、本人がいちばん知っているのではないか。

 プーチンは「偉大な指導者」として歴史に名を刻もうとしているのだろうか。中世期、ウクライナに誕生した東スラブ民族の最初の国家・「キーウ(キエフ)公国」で、「東方正教会」(キリスト教の3大教派。カソリック、プロテスタント、正教と並ぶ)を国教化した伝説的な大公・ウラジーミル(ウクライナ名では、ボロディムィル)と肩を並べる、もう一人の「ウラジーミル・プーチンという偉大な政治的存在になりたがっているのだと思われる。

贅言;キーウ(キエフ)大公国は、9世紀から13世紀半ばにかけて存在した国家。9世紀後半に成立した東スラブ人の統一国家・キエフ大公国発祥の地。東スラブ人、バルト人、フインランド人を含む。複数の公国が連合していたという。

 現代のベラルーシ、ロシア、ウクライナはいずれもキエフ大公国を文化的祖先とする。プーチンのウクライナへのこだわりも、この辺りを源泉としているのだろう。しかし、過去がそうだったからといって、未来も同じだろうというのは、プーチンの勝手な思い過ごしである。

 「ベラ・ルーシ」、ロシアのそれは(ルーシ・ア)に由来する名称である、という。そのため、「キエフ」は「ロシアの都市の母」とされているという。

贅言;キエフ(キーウ)はウクライナの首都。人口は、296万(2021年)。ロシアからベラルーシ、ウクライナを経て、黒海に注ぐドニエプル(ウクライナ語では、ドニプロ)川の中流に位置する。大統領府などがある旧市街は、ドニエプル川西岸の丘陵地にある。古都の佇まいが美しい街であった11世紀に建立された聖ソフィア大聖堂は、世界遺産に登録されている。古都としてウクライナ人、ロシア人の精神的支柱と言われる。

贅言;東方正教会は、カトリック教会、プロテスタント教会と並ぶキリスト教の三大教派の一つ。日本ではギリシャ正教、あるいは正教ともいう。

贅言;大統領のプーチンことウラジーミル・プーチン自身は、「我こそは第二のウラジーミル大公だ」という思い上がりがあるのだろうか。あるのだろうね。
「ウラジーミル」という名は、ロシアとウクライナの関係において重要な意味を持つ人物の名前である。ウクライナの首都キーウ(キエフ)には、10世紀から11世紀にかけて、この偉大な君主・ウラジーミル大公(955年ころー1015年)がいた。キエフ大公国の大公としての在位は、978年ー1015年。在位37年。ウラジーミル大公はこの地域にキリスト教を広めた聖人と言われる。ウクライナ人のみならず、ロシア人にとっても偉大なる文明をもたらした人物として評価されている。東方正教会信仰のもと、ウクライナとロシアは兄弟国家として歩んできたのだ。プーチンは、こういうロシアとウクライナの歴史を都合よく捻じ曲げてロシアとウクライナとの一体化(未来永劫一体)を強調し、ウクライナの領土を侵略しようと今回の軍事侵攻に踏み切ったのだ。

贅言;「ウラジーミル」と言えば、ウラジーミル・イリイチ・レーニンがいたっけ。レーニンは、ロシアの革命家・政治家・哲学者。ロシア・ソビエト共和国およびソビエト連邦の初代指導者。「レーニン」はペンネームで、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。

贅言;元外務事務次官などを歴任した竹内行夫氏は、朝日新聞6月16日付朝刊記事「外交のプロが見る世界」(「オピニオン&フォーラム」の「インタビュー」)に、次のようなことを答えている。以下、私が注目した文章の概要を引用する。ただし、発言にすべて賛同しているわけではない。

「竹内インタビューメモ」
画像の説明*プーチン大統領は、現代の国際社会についての時代認識を誤り、ロシアのあるべき国家像も旧体制を描いている。強迫観念と陰謀史観にかられて戦争犯罪を重ねている。画像の説明

引用者注:強迫観念は、NATOに代表されるような欧米諸国との対立関係。陰謀史観は、竹内氏によれば、旧KGBからの習い性。

画像の説明*(ロシアは)時代錯誤の大国主義から抜け出せない。画像の説明

引用者注:ロシアは、大国ではない。農業立国のロシアは、現状の国際社会では大国でもないのに核兵器保持国というだけで世界の大国だと勘違いしているのだろう、ということのようだ。

画像の説明*プーチン・ロシアによるウクライナ侵攻と北方領土の不法占拠は、基本的にはほぼ同じ問題だ。画像の説明

引用者注:これは、竹内氏の持論だろうが、「国境論」で触れたように似ていると、私も思う。
 
画像の説明*「国際秩序が挑戦を受ける時代」:2010年代の中国の強大化、一国主義的なアメリカの出現。=「ポスト・ポスト冷戦期」への過渡期にロシアの侵略が起こった。画像の説明

引用者注:これも、竹内氏の持論だろう。アメリカの「一国主義」も、トランプ政権を思い出せば、良く判る。これも困ったものだ。

*以上、竹内インタビューメモ(文責・引用者)終わり。

 ところで、ロシア人は、銅像(立像)が好きなのだろうか。それとも、当時の体制特有の傾向だったのだろうか。もし好きなら、ロシア人にとって銅像は日本人にとっての、祭りの「神輿」のようなものなのかもしれない。

銅像関連
朝日新聞5月8日付朝刊一面記事より以下、引用。

画像の説明 「ウクライナの首都キーウ(キエフ)で4月26日、高さ8メートルのブロンズ像が解体された。1980年代に造られた、2人の労働者が寄り添って立つ、ウクライナとロシアの友好を象徴する像だ」ったという。(略)
「解体作業を見守る人々からは歓声が上がった」という。画像の説明引用終わり。

 ロシア人は、あるいはロシアの政権は神輿が担ぎたくなったら、銅像を建てるのかもしれない。その神輿に飽きたら、壊すのか。「友好の像」を倒した後に、レーニン像を立てるとか。1991年のソビエト連邦崩壊後、ウクライナでは、総計5500体ものレーニン像が各地で壊された、という。今、ウクライナにはレーニン像は一つもない、という。
 いや、あるとすれば、チェルノブイリ原発の倉庫に転がっているように、レーニン像の「首」のような胸像部分だけが無造作に投げ出されているということかもしれない。ウクライナは、当時のソビエト連邦の中でも、レーニン像の数が特段多かったという。ウクライナ人は、日本人のように、お祭り好きで、何かあればお神輿を担ぎたくなる(血が騒ぐ)のかもしれない。最近の噂によると、友好の像の跡地には、およそ30年前に破壊された「レーニン像」を復活建立するとか、しないとか。もっとも、ウラジーミル・プーチンは、2016年にクレムリンのそばにウラジーミル大公の像をすでに建立していることから新たな胸像はウラジーミル大公の像かもしれない。

 だとすれば、銅像好きのプーチンというイメージは、フェイクニュースなどではないことがうかがえる、というものだ。たまには、本当のニュースも流れてくる。

プーチンの健康状態
画像の説明【ワシントン=蒔田一彦】米誌ニューズウィーク(電子版)は(6月)2日、アメリカ情報当局の分析として、ロシアのプーチン大統領が4月、進行したがんの治療を受けたとみられると報じた。情報当局が5月末にまとめた機密の報告書の内容について、複数の情報機関高官が明らかにした、という。

 DIA(アメリカ国防情報局)の高官は、「弱くなったプーチン、つまり盛りを過ぎて下り坂の権力者は、自分の補佐官や部下を思いどおりに動かせない。例えば、核兵器の使用を命じた場合とかに」と言ったという。
確かに、全盛期のプーチンなら閣僚や軍部の反対を押し切って思いどおりの決断を下せたことだろう。しかし傷つき病んだプーチンは「もはや組織を完全に牛耳ってはいない」ようだから、そう好きなようにはできないという。今もプーチンは危険な男であり、もしも彼が死ねば混乱は必至だ。私たちはそこにフォーカスしている。君も、備えは怠るな」。読売新聞オンライン(デジタル版)より、概要引用。画像の説明

記者は、権力者の懐に入り込み、己の取材力を磨く。

︎ そのウクライナ戦争もロシア軍の勝手なウクライナ侵攻以来5ヶ月を超えた。そんな中、6月8日には、テレビの画面(テレビ朝日)が、「プーチンの政権移譲説」という情報を流し始めた。プーチンの健康状態などを理由とする「政権移譲」説は、以前からあり、テレビ朝日が放送した内容も、従来の「情報」をまとめて、整理してみせたまで、という感じなのだろう。マスメディアが報じたそのほかの情報を含めて、引用は無し。

贅言;さて、ウクライナの地名などについては、マスメディアでは、ウクライナ戦争の「趨勢」結果を経て、ロシア語表記からウクライナ語表記に替えるようになった。ここでもその原則に従って、表記すべきだろうが、古い文章を下敷きにして「回想」しているので、ロシア語も、ウクライナ語も不案内の私では、新しいウクライナ語の地名と旧い地名の表記を仕分けして直ちに正確に記述することができない。「キーウ」(旧キエフ)「ドニプロ」(旧ドニエプル)川」程度の表記訂正で誠に不徹底ではあるが、許していただきたい。お詫びして、お知らせしておく。

 ところで、プーチンだけではないが、ロシアがウクライナを「属国」同然のように扱う理由を考えてみたので、記述しておきたい。ウクライナは、自主自立の国家としては、1991年のソビエト連邦崩壊まで待たなければならないのだろう。

 ソビエト連邦だった区域は、ロシア帝国時代から多民族国家であった。中でもロシア人とウクライナ人は、連邦国家を形成していたが、別の民族だという説と帝国の中核をなす東スラブ民族だという説があるという。以下、多民族国家を構成していたロシアとウクライナの、その後の「確執」については、朝日新聞6月7日付朝刊「オピニオン&フォーラム」の特集記事「記憶をめぐる戦争」を参照、特に、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター准教授の青島陽子氏の解説は、私には、示唆に富むもので随時、概要的に引用した。

 帝政期のウクライナでは、地域の支配層のポーランド人に対抗するため、ウクライナ民族主義が盛り上がり、ロシア帝国にも抗うようになったり、利害が一致すれば、協力したりしていた。ソビエト期には、社会主義のイデオロギーが各国の地域史を覆うようになった。つまり、ウクライナでは、「ウクライナ人という意識の上にソ連市民という意識が覆いかぶさり、二つが絡み合っていた」(青島准教授)という。それまで、ソビエト連邦の中でも、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは、親近感というか、肉親感というか、一体感が強かったようだ。青島准教授の発想の上に、以下のようなイマジネーションを二重写しにすると、以下のようなイメージが湧き出した。

 そこで、私はこの3国を敢えて男の3兄弟に例えてみることにしてみた。私の勝手な私見に基づけば、今回の「ウクライナ戦争」の例を見れば判るように、困ったことに、ロシアが、いわば長兄意識が強く、ベラルーシは、3兄弟のいちばん下のように見受けられる。ウクライナは、次男として長兄「ロシア兄貴」への反発もあれば、進取の精神も強そうだ。3兄弟末っ子の「ベラルーシ弟」には、「ロシア兄貴の腰巾着め」くらいで、許容しているように見受けられる。「ベラルーシ弟」は、ロシア兄貴のご機嫌取りで、「そうだよね。ロシアお兄ちゃん」という感じでロシアについて回っているように見える。

 ウクライナは、ソビエト連邦崩壊の1991年以後、連邦を離れて自主自立の新しい国家形成に向けて自立心が芽生えたのではないか。それまでは、「国家」意識というより、「地方」意識が、愛郷度の証だったのではないのか。自立した国家としては、国家意識が必要となる。まず、何よりもロシアやベラルーシとは異なる新しい国家の正統性を形成する必要がある。2006年、ウクライナのユーシェンコ大統領(親欧派)は「ウクライナ史の記憶を国家プロジェクトとして管理する」(青島准教授)ため「国家記憶院」あるいは、「国民記憶院」と訳される政府機関を創設し、ウクライナナショナリズムを燃え上がらせようとした。「ユーシェンコ政権が歴史認識を政治的に統一する政策を推進し、ソ連(ソビエト連邦)とウクライナの歴史を切り放そう」(同志社大学の立石洋子准教授)としたという。「親ロ派」のヤヌコビッチ大統領時代に「記憶院」は、研究機関に「格下げ」されたものの、2014年、クリミア半島がロシアに併合されると再び政府機関に戻された。この辺りの経緯が、14年以降続いているウクライナとロシアの関係、つまり、14年以降の「8年戦争」の経緯が、今回の「ウクライナ戦争」の経緯と重なってくるというわけだ。「記憶の国家管理」は、冷戦後、ポーランドで始まった新歴史主義を真似たもので、ウクライナの「正当な歴史」(戦前戦中の大日本帝国の歴史意識構築の構造に似ているように見える)への書き換え、ということなのだろうと思う。この結果、ウクライナとロシアの「歴史の理解の違いが政治的な対立に結びつく」(立石准教授)ようになってきたという底流が、「ウクライナ戦争」の経緯の地下水脈には、紛れ込み、流れ込みしているのではないか。国民の記憶まで一つにまとめたいという権力者、現実的には、多民族国家群で構成されていたソビエト連邦の諸国で暮らす国民の記憶の多様さとの対立が、浮き上がってきたのが、今回の戦争の構図であり、あるいは実相そのものなのだろうか。

★ウクライナ戦争とチェルノブイリ原発

 36年前。1986年、当時のヨーロッパで有数の規模を誇るチェルノブイリ原発は、暴走事故を起こしてしまった。ウクライナでは、世界規模の深刻な放射能汚染が広がった。人類があってはならないと念じていた核の汚染事故が起きてしまったのだ。この日から住み慣れた街を追い出されたウクライナの人々。特に、チェルノブイリ市ほかから地域社会を追われた人々は、家族も、知り合いも、バラバラにされた。そして国内外へ避難した。

 彼らは、今回のロシア軍侵攻で、再び、別の土地へと追い出されたのだろうか。放射能汚染で廃都となっていた原発・廃炉周辺のチェルノブイリ市、プリピャチ市などは、住民のいない無人のママの都市であったはずだ。廃都に残る幻の市街地には、街路樹の木々が歩道や車道を分断し、路面に覆いかぶさるように茂っているのだろうか。廃炉となった原発は、建屋にひび割れや崩壊など劣化が増えたりしていないのだろうか。

 2012年のチェルノブイリ原発周辺で私が見た「光景」から、10年。光景の中にいた人々は、どういう人生を歩んできたのか。ウクライナ戦争と名付けられたロシア軍のウクライナ侵略戦争(「軍事侵攻」)で生活は、再び、根こそぎ削り取られてしまったのではないのか。生活どころか、生命まですでに取られてしまっているかもしれない。それに、私たちの視察旅行の中で触れ合った人々とは、その後の消息を共有するすべもない。新たな情報で検証すべきことも検証できないが、さはさりながら、感性的なものは何か私なりにでも比較できるかもしれない。

★2012年4月19日午後3時05分:プリピャチ市。
 10年前。2012年。日本ペンクラブのチェルノブイリ原発視察団の一行8人。チェルノブイリ原発から直線距離で3キロ離れている時空の中に立っている。1986年の原発暴走事故後、廃都となったままだったプリピャチ市を訪れた。原発のあるチェルノブイリ市に隣接する都市だ。原発の職員たちの住宅がある。「原発勤務者舎宅都市」とでも名付ければ、都市の性格を表現する上で良いのかもしれない。

 事故後、四半世紀が経ち、2011年から行政機関(チェルノブイリ国家委員会)に原発周辺への立ち入りを申請し、許可されれば、機関側の案内人(あるいは、監視人)同行で規制区域内部に立ち入れるようになったばかりだった。1年後、という時空。避難以来26年振りに自宅だった場所を訪れるという婦人らが原発施設にはいた。この地域の元住民だったという婦人らと共に、私たちも芽吹いたばかりの新緑が美しい雑木林に足を踏み入れた。婦人たちは、チェルノブイリ原発勤務者の家族だったのだろう。いわば、放射能に占拠されたままの街の、かつての目抜き通りを私たちも一緒に歩いてみた。26年前より以前は、地域社会の目抜き通りだったという証拠に、雑木林の中には不似合いな街路灯が、点々と残っている。街路灯を越えて、街路樹は、かつての目抜き通りの中にまで侵食しているのだった。舗装部分だった道路のアスファルトの割れ目に街路樹は、芽を伸ばし、葉を付け、茎を伸ばしてきたのだろう。都市の中心部には、地域のターミナルともいうべきロータリーがあり、ロータリーの近くには、ホテルがある。原発施設への出張者らが利用したホテルではないか。そういうホテルも、行政機関の命令で従業員たちは、慌ただしく職場を立ち去ったような跡が残ったまま、乱雑に散らかっている。

 ベートーベンのレコード(LP盤)の割れたものや人形などが床に落ちている。ベートーベンのレコードは、「月光」。

贅言;ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2

『幻想曲風ソナタ』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1801年に作曲したピアノソナタ。『月光ソナタ』という通称とともに広く愛好されている。

 さて、月は、どっちに出ている。「月光」は、逃げ急ぐ人々に何度か踏みつけられたらしく、床の上で、レコードは幾つもの破片に割れていた。
床に落ちているものには「触ってはいけない」「持ち帰ってはいけない」などと注意書きが貼られている。

 幻の街にリアルを求めて彷徨する婦人たちは、自分たちが住んでいた住宅を訪ねてみると話していた、という。私たちも、許可を得て、彼女たちに同行を申し入れた。そして、私たちも婦人たちに引き連れられるようにし、不思議な空間の迷路に踏み込んでいった。

 腐敗し、崩れ落ちた建物が目立つ被曝の街・プリピャチ市。原発の従業員らが多く住んでいた街。1986年。原発が稼働していた時代には、この辺りはヨーロッパ有数の原子力発電所を軸としたチェルノブイリ原発地区(企業城下町)として作られた機密都市だったのだ。

 2022年。思いもかけぬロシアからの軍事侵攻によるミサイル砲撃で、崩れ落ちた建物が目立つウクライナ各地の街並み。立方体を積み上げたような、つまり、似たようなシンプルなデザインの中高層住宅街が破壊されている。ロシア軍は、ウクライナの破壊された市街地を90%破壊だとか、80%破壊だとか、ロシアの国営放送の電波を利用して流している。戦火にまみれたウクライナの街々。既視感があったのは、10年前、2012年4月に私が見たチェルノブイリ原発周辺の、この街並みだったのだ。放射能で汚染され、捨てられた街並みと戦禍で破壊された街並みの、奇妙な既視感。

 ロシア軍は、今回の軍事侵攻では、ベラルーシとウクライナの国境を乗り越えて、侵攻初日には早々とチェルノブイリ原発の施設内に侵入し施設を占拠している。ロシア軍は、原発の何を占拠したかったのか、何が占拠の目的だったのだろうか。

 雑木林という「紗の幕」越しに、舞台の大道具のような中層住宅という「書割」が見える。舞台からは、平穏なころの街のざわめき、あるいは、芝居のように場面展開して、次の場面、爆発事故から避難までの喧噪のうなり声などが、聞こえてくるような気もしたが、目を凝らすと書割と思ったのは、壁や窓が崩落している侘しげな廃屋だと判り、放射能にまみれた土壌にしっかりと根を張った樹木が、アスファルトに裂け目をつくり、とんでもない場所からはい出しているのだということが判る。ホテルだった建物に通じる石段では、途中の段のひび割れた石の間から出た樹木が、すでに太い幹になって、茂っていた。石段という容器に入れこまれた樹木の幹。シュールな「生け花」ともいえるような構造的な光景が、なにげなく眼前に展開する。その奇妙さ。

 完成したばかりで、1986年5月1日のメーデーに合わせて使い始める予定だった遊園地の観覧車が、使われないまま、26年間も雨ざらしにされている。ゴーカートの乗り場近くにベンチがあった。今や、誰も座らない遊園地のベンチは、ほとんど朽ち果てている。もう誰も座らないベンチ。子どものいない遊園地ほど不気味なものはない、と私は初めて気がついたような気がする。

 耳を澄ませば、いくつかの野鳥の声が、雑木林のあちこちから聞こえて来るばかりで、幻影のような廃墟の街からは静寂が襲いかかる。見える人影も婦人とともに幻の街を彷徨う私たちだけだった。

 原発・城下町。プリピャチ市の5万人の人々がすべて消えてしまった廃都は、昼間だから歩けるものの、夜間になったら、そこにいるだけで、恐怖に襲われそうな気がする。叫び出し、逃げ出すにしたって、真っ暗で、道も判らず、一晩を過ごすことも出来ずに簡単に発狂してしまいそうで、心底不気味だった。

 チェルノブイリ原発・廃炉施設の立地は、看板のチェルノブイリとは異なり、ウクライナ北部にあったプリピャチ市である。

1986年。事故直前のプリピャチ市。
 人口は13414世帯・49360人。大半がチェルノブイリ原子力発電所やその関連施設の従業員とその家族だった。また、独身者や子どもも多く、市民の平均年齢は26歳と若かった。

 プリピャチ市の北西側市域は18キロ、北側は、ウクライナとベラルーシの国境。国境まで16キロ。ウクライナの首都・キエフまで南へ直線距離で、約110キロの地点にある。チェルノブイリは、ウクライナの州としては、キエフ州に入る。首都と同じ州なのだ。東京都の区制で例えれば、キエフが、千代田区なら、チェルノブイリは、「多摩地区」くらいの位置関係になるか、という感覚だったろうか、どうか。

★2012年4月19日午後4時35分:チェルノブイリの月は、どっち?

 私たち一行の頭上にも夕暮れが迫ってきた。私はふと、思いついた。薄い月が、いま、上空に見えるのだろうか。「さて、(チェルノブイリでは)月は、どっちにでているか?」と、呟いてみる。

 プリピャチ市は、チェルノブイリ原子力発電所の西側にある。事故の後、高い濃度の放射能を含んだ雲が、原発からプリピャチ市へ通じる道路と橋の上を通過したようだ。道路や橋が放射能の流れる通路の役割を果たしたようだ。道路沿いの松林は、一瞬で緑からオレンジ色に変わってしまい、そこは、今では、「オレンジの森」とか、「赤い森」(赤色の森)とか、と呼ばれているらしい。松林の葉の色は、緑に戻っているが、高濃度放射能は、沿道に残されたままだ。

★「安全神話」=「神風神話」、いずれも夢の跡

 日本は、自ら仕掛けた戦争(世界大戦)に負けて、平和で安全な生活が、如何に大事かを学んで戦後の再建に乗り出したのだろうに、なぜ、ヒロシマ、ナガサキの被爆体験から学ばず、経済の成長とともに、多数の原発をつくり続けたのか。日本の戦後は、原発54基(事故を起こしたフクシマの4基も含む)に象徴されるように、戦前の「神風神話」同様の、根拠の無い、あるいは、政府や電力会社によってねつ造された「安全神話」、つまり「虚偽神話」、フェイクニュースに寄りかかり、地震列島の上に多数の原発を張り巡らしてしまった。

 2011年3月11日。ひとたび、「安全神話」が崩れてみれば、福島原発周辺は、戦後の焼け跡よりもひどい荒廃の地になってしまった。政府、東電の言論統制で、マスコミ報道からは、実相は伝わって来ない。フクシマでは、見て見ぬ振りをしているようなことも、チェルノブイリに行ってみれば、いやでも、眼前に見せつけられる。人類のバカな所産が、神々から突き付けられる。

 いずれにせよ、チェルノブイリの先行例を見ると、ひとつの原子炉を廃炉にする手順でも、100年の計であることが判る。このことから、フクシマとチェルノブイリの25年くらいのタイムラグでは、五十歩百歩という距離感しかない。ウクライナの非常事態庁が管轄するチェルノブイリも緊急事態真っただなかのフクシマと今も変わらないということが判った。チェルノブイリで事故を起こしたのは、4号炉だけだったが、フクシマは、1号炉から4号炉まで4基の原発が事故を起こしている。原発維持派と脱原発派では、事故の認識について考えは変わるだろうが、いずれにせよ、どっちが、五十歩なのか、百歩なのか、判断は難しいだろう。

 逆に言えば、チェルノブイリの試行錯誤を学んで、もう少し上手にフクシマで対応できたとしても(対応するのが、人類共通の智恵だろう)、やはり、25年や50年が経っても、まだまだ、先行き不透明なのではないだろうか。この目でチェノブイリ50年後、フクシマの25年後を見てみたいと思うが、私の年齢では、100歳まで長生きしないとたどり着けない。もう、SF小説の世界か?

 日本人は、フクシマでは、本当に、人類史上、千年万年の対策が必要な大事故を起こしてしまったのだということをチェルノブイリの現場で、私はつくづく感じさせられた。

★核とは、毒のあるエネルギー

 廃炉になった原発の管理にも多数の人々が、年間被曝量をコントロールするために、つまり、一人当たりの年間の被曝量が越えないようにしながら一定期間の就労を繋ぎ合わせて、交替で現場に入り、今も作業を続けている。何度も強調するが、廃炉も、簡単には出来ないのだ。

 石棺の莫大な建設費ばかりでなく、今後の管理運営の費用も見込めば、いったい、いくらかかるのだろう。さらに、ウクライナの一部の国土は、住めなくなってしまったという現実が、目の前にある。チェルノブイリは、国土の保全も出来ない政府という実相を浮かび上がらせた。いつまでこの状態が続くのか。失われた地域社会の本来の生産性(逸失利益、得べかりし利益)を考えれば、その損失は、無限大に、永続的に、可及的に増え続けるのではないだろうか。「経済的にも、原発がコスト安」などという主張は、「安全神話」とは、また、別な新たな「神話」ではないだろうか。一旦事故を起こせば、原発は、経済的にも、莫大な費用がかかる。恢復には時間もかかる。健康のためには、原発を廃止することが、なによりもの安全対策なのだ。放射能は、致命的な毒であることを忘れてはならない。核は、毒のあるエネルギーなのだ。

★ロシア・ウクライナ・ベラルーシ:「廃村」500市町村

 チェルノブイリ原発・廃炉は、半径・10キロ圏と30キロ圏のふたつの同心円で規制されている。原発・廃炉に向かう幹線道路は、この円と接すれば、そこには検問所が設けられている。

 チェルノブイリ原発を外形的に見た私たち一行が10キロ圏から外に出るために10キロ圏の検問所で、チェックを受けなければならない。一人ひとりの放射線量を測定する機械の中に入り、チェックを受けた。被曝量を測る機械に頭から足まで全身の5ヶ所の部位を押し付けた結果、いずれも15マイクロシーベルト以下であった。5回ともグリーンランプが付き、私を閉じ込めていたゲートも開放され、私たちは全員が無罪放免となった。

 10キロ圏から外に出ても、30キロ圏との間には、強制的な移住対象区域(Chernobyl Exclusion Zone)がある。30キロ圏も、一般の人は立ち入りを規制されている。

 事故後当時のソビエト連邦政府は、ロシアのほかウクライナ、ベラルーシの両国にまたがる区域(チェルノブイリ原発から30キロ圏内)の住民13万5000人を強制疎開させた、という。いまなおこの区域には立ち入ることは厳しく制限されている。

贅言;ロシア、ウクライナ、ベラルーシは、「三位一体」と言うが、「三位一体」とは、父なる神(キリストの父)、イエス・キリスト(神の子)、聖霊(スピリット)のこと。キリスト教では、神はこれら三つの姿となって現れる、という。

 特に、国境の外に広がるベラルーシ側は、「ポレーシェ国立放射線生態学保護区」にもなっていて、総面積は、2165平方キロある。この区域に立ち入るためには、別途、許可が必要である。かつて92の村があり、およそ2万2000人が暮らしていたが、事故後強制移住させられた。特に高濃度に汚染された13の村は、汚染の拡散を防ぐため村全体が埋め立てられた、という。保護区の責任者は「保護区のほとんどの所で300年間は人が住めないだろう」と話しているという。

 私たち以降を乗せた車は、ウクライナを南下している。この地域にあるいくつかの廃村を通り過ぎる。この辺りの被災地は、ソビエト連邦当時、国有地だったので、当局は、除染処理に莫大な経費を掛けるよりも、住民を追い出し廃村にするという、「棄村・棄民」政策を取ったという。その方が、対策費が「安上がり」だったのかもしれない。フラットな地形の国・ウクライナでは、電力供給は、水力発電は考えられないという。電力行政の施策は、原子力発電一本やりである。原発以外は、考えられないという施政方針らしい。

 幹線道路から村に至る路は、バリケードで封鎖されているところもある。幹線道路から垣間見える廃村は、いずこも荒れている。雑木林の間に廃屋となった家々が見える。中には、屋根ごと建ち崩れている家もある。先ほども触れたように、放射能汚染の酷い地域では、建物を壊した上、地中に埋めたところもあるという。ウクライナ側の廃村は、全部で、168の市町村に及ぶ。規制区域を超えて40万人が、ふるさとを捨てたという。チェルノブイリ原発は、ウクライナの北側国境近くにある(事故当時は、「ソビエト連邦」という一つの大きな連邦国家であった)ので、隣接するベラルーシ、ロシアを合わせると、チェルノブイリ原発事故で廃村になったのは、500の市町村を数えるという。

★ おばあちゃんは強し

 こうした地域の中には一旦移住したものの、移住先の生活に馴染めずに、あるいは、移住先のインフラの不備、増えた家族の対応など、さまざまな理由で、元の家に戻って来ている人たちが「お目こぼし(?)」で住む村もあるというので、住民の戻ってきた村を訪れた。パールシフ村は、原発から15キロしか離れていない小さな村である。

 移住先の生活に馴染めず、廃村に戻って来て、自給自足で生活しているおばあちゃんたちに逢った。事故直後、行政の指示に従って別の地区に移住させられ、それまで飼っていた家畜もどこかへ連れ去られてしまった、とおばあさんは、嘆き、その不条理を異国の私たちに訴える。

 ウクライナの国旗は、青と黄色のツートンカラー。その国旗に敬意を表しているのかどうか、聞かなかったが、青一色に塗られた玄関ドアから家の中に入る。室内も青いのでびっくり。青く塗られた箪笥が立ち並ぶ室内。家族の多数の写真が飾られた居間でマリーア・ウルーパさん(当時・77歳)は、憤る。「騙された。1ヶ月で戻って来たら、ここで暮せた。移住しなければ良かった」と当時の実情を強い調子で非難していた。独居生活の友として同居している犬が、盛んに吠え立てる。大勢の人が来たので、びっくりしているのだろう。

 ウルーパさんの居住地が一度棄村とされた村に戻るとき、「お目こぼし(?)」の「帰村」に当たっては、地域を管理していた警察に「一筆」書かされたというが、兎に角、彼女は自宅に戻れた。その村では、同じような選択をした人々が、一時は、百数十人もいたという。皆で助け合いながら生活をしていたというが、その後、歳を取るとともに、おじいちゃんたちは、ほとんど死に絶えてしまった。現在も残っているお年寄りの女性たちが、互いに助け合って生活をしているという。おばあちゃんたちは、独りになりながらも、20数年間立ち退きを強制された地域で、それ以前同様の馴染みの暮し方で生きて来たことになる。庶民は、強し、特におばあちゃんは、強いのである。それにしても、チェルノブイリ原発・廃炉の周辺区域(規制区域)で人に出会ったのは、マリーア・ウルーパさんら少数の人々だけであった。彼女らは、今回の戦禍の中をどのようにして切り抜けたのだろうか。心配だ。

★ロシア軍に破壊された街の今後は?
 
 原発事故の棄村・棄民とウクライナ戦争の破壊・殺人。ウクライナ戦争でもいくつかの都市は市街地の大部分が破壊された。

 原発事故と戦争。どう違うのか。民間人も、子どもも、無差別に残虐に殺す、という意味では、どちらも人権無視、人命無視という「皆殺しの哲学」を実践する輩の犯罪行為である。

★街へ戻る(2012年4月19日午後7時00分)

 チェルノブイリ原発・廃炉のあるプリピャチ市からチェルノブイリ市中心街に戻って来た。時計の針は、2012年4月19日午後7時00分を指していた。貴重な一日を車は、走り回って来た。さすがに、疲れた。宿舎で30分程度小休止した後、昼食を食べたのと同じ食堂で、原発で働く人たちと同じ夕食を取るために、車で移動することになった。

★チェルノブイリ宿泊所(10年前)

 午後7時半過ぎ、非常事態庁宿泊所。緑色に塗られた食堂に到着。夕食のメニューも、昼食と変わらない。デザートのお菓子も同じものだ。30キロ圏の外から日常的に仕入れている品物が同じなのだろう。ただし、今夜の行動予定はもう無いので、食堂の売店で売っているビールや赤ワインを皆で注文する。食堂から宿泊所へは、徒歩でも帰ることができるからだ。長い1日は、終わりに近づいている。
(次号へ続く)

ジャーナリスト(元NHK社会部記者)

(2022.7.20)
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