宗教・民族から見た同時代世界
チベット人のアイデンティティー:仏教瞥見
中国政府と軋轢が絶えないチベット仏教徒の間で、最近、自分たちのアイデンティティーを仏教そのものから確かめようとする動きがすすんでいるという。わたしたちも寄り添って、チベット仏教を瞥見してみよう。
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◇◇ まずはチベット仏教の歴史から
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万物に精霊が宿るシャーマニズムの世界を生きていたチベット高原の人々に、最初に仏教の光を示したのは、7世紀前半のソンツェン・ガンポ王といわれている。王にはネパールからティツン王女が、ついで唐から皇女・文成公主が嫁いだとされ、二人がそれぞれ、インドの仏教と中国の仏教をもたらしたものと推測される。
8世紀後半のティソン・デツェン王はチベットで最初に仏教組織(サンガ)を確立し僧院を開いた王として名高いが、インド仏教の高僧と中国仏教の高僧を御前論争でたたかわせ、インド仏教が勝ったとの逸話もある。
この頃から寺院の建立や仏典の翻訳が国家事業としてすすめられるが、9世紀に入ると、内紛で王国が分裂・崩壊し、王や貴族の庇護を失った仏教は一旦、衰退する。
11世紀中頃、再びインドからの仏教流入が勢いを増す。以前は大乗仏教でも顕教が主であったのに対し、新たに流入したのは密教である。
密教解釈の色合いから、サキャ派、カギュ派、伝統仏教の流れを残すニンマ派(古派)、ダライ・ラマ制を立てて権力への道を志す改革派のゲルク派(黄帽派)などの教団が結成されたが、各教団が政治化して、それぞれ有力氏族と結び、ときにはモンゴルの各勢力とも結んで、覇を競いあった。その争いがついには清朝の介入をも許すことになって、現在に至るチベット問題の遠因にもつながるのである。
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◇◇ 日本では馴染みの薄い仏教だが
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同じく密教とはよばれても、真言宗など日本にもたらされた密教はインド密教史上、初・中期(5〜7世紀)の密教であるのに対し、チベットに伝わった密教は後期(8〜13世紀)に成立した、後期密教あるいはタントラ密教とよばれる、「無上瑜伽タントラ」を頂点とする密教である。
日本では馴染みが薄いので、イメージだけでも掴むなら、14世紀チベットの大学僧プトゥンの説を引くのがわかりやすいだろう。
プトゥンは、全タントラ(密教経典)を下から順に、「所作」、「行」、「瑜伽」、「無上瑜伽」の四階梯に分け、「所作タントラ」は、陀羅尼(呪文)の読誦や儀礼の檀の作り方など、外的な作法を説くもの、「行タントラ」は、外的な作法に内観を取り入れたもの、「瑜伽タントラ」は、観法によって行者と仏の合一をめざすもの、そして「無上瑜伽タントラ」は、その実現のために性エネルギーの制御を含む特殊なヨーガ(瑜伽=行法)の技術を開発したもの、としている。
さらにプトゥンは、無上瑜伽タントラを「父タントラ(方便=実践)」、「母タントラ(般若=智慧)」、双方を止揚統合する「不二タントラ」に三分し、双入不二の「時輪(カーラチャクラ)タントラ」を最高の教えと説いている。
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◇◇ あの男女尊交合の像はなぜ
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ここまでわかれば、わたしたちの目を驚かす、チベット仏教のあのおどろおどろしい男女尊交合のイコン(聖像)の意味も想像がつこう。
チベット仏教のイコンは、たんなる礼拝の対象ではなく、無上瑜伽タントラの行法を説いているものである。
密教では基本的な行法に、「生起次第」と「究竟次第」がある。「生起次第」は、曼荼羅の諸尊を観想することで行者が諸尊と合一することをめざすものである。そのさい、さまざまな尊格の姿形を細部までありありと思い浮かべることが必要とされ、イコンはその手引きになる。一方、「究竟次第」では、ヨーガを用いて自己の精神と身体を操作し、神秘体験を重ねて、仏と不二一体となる境地(成仏)をめざす。その行の重要部分に、性行為がもつ役割も位置づけられるのである。
チベット仏教に溢れる膨大・多様な尊格のパンテオンは、「祖師」、「仏(如来)」、「守護尊」、「菩薩」、「護法神」、「その他」に分類される。
「祖師」は龍樹(ナーガルジュナ)をはじめインド・チベット双方の顕・密両教の高僧・大行者であり、ラマとよばれて敬われる。「仏」は、釈迦、無量寿(阿弥陀)、薬師など顕教仏に金剛五仏、持金剛など密教仏が加わる。「守護尊」は、密教仏のハイライトであるグヒヤサマージャ、ヴァジラバイラヴァ、チャクラサンヴァラなどタントラの本尊で、多くが多面多臂の忿怒形、明妃(配偶神)との交合像である。
「菩薩」では観音、文殊、ターラーなどのへ信仰が篤い。「護法神」はマハーカーラ(大黒天)をはじめ、仏法を守護する強力な尊格であり、「その他」には、チティパティ(骸骨姿の墓場の主)、夜叉、龍王、ガルダなど雑多な尊格が加わる。
諸尊はそれぞれ強烈な個性の持ち主であるが、有名な『死者の書(バルド・トェドル)』が説く死から再生までの中有で出会うのはこれらの仏たちである。
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◇◇ 仏教は民衆の心の隅々に滲み
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チベットでは千年余りに亙って、仏教が人々の心を深く魅了してきた。それは正否両面で社会のあり方を形造ってもきた。仏教が人々の心を捉えたのは、もちろん、ここに述べたような表面的な知識としてではない。日々、マニ車を回し、陀羅尼や経を唱え、寺院に詣で、喜捨し、聖地巡礼し、その功徳で自分や家族の現世と来世の幸せを願うことや、その習俗としてである。
たとえば「転生活仏」もその一つあろう。高僧が亡くなると、その生まれ変わりの幼児が捜され、故人の地位や財産のすべてが受け継がれるシステムだが、ダライ・ラマばかりでなく、普通の多くの寺に転生活仏とされる少年(転生霊童)がいる。その少年を、僧侶ばかりでなく周りの俗人たちもみな、信じ、敬い、可愛がり、温かく見守って育てているのだ。
これらの信仰と習俗は、宗教が制度的に政府の管理下に置かれようとも、かかわりなく、人々の暮らしと心に生きている。
なお、この項は多くを奥山直司氏の教示(『チベット[マンダラの国]』小学館)に負うことを謝意とともに記しておく。
(筆者は元桜美林大学教授)