【投稿】
トカラの離島出身教師の生涯<下>
——離島など11校勤務の戦後
平田 松栄著
要約羽原 清雅
鹿児島県の吐噶喇の海に浮かぶ7つの島は、明治、大正時代に訪れる船は年2回程度。新聞は来ないし、もちろんテレビ、電話、郵便はない。食料は自給自足、台風に襲われれば野菜も魚も手に入らず、米の生産も難しい土地柄だ。いま、天候さえよければ物資も届き、連絡の手立てもでき、病人はヘリ輸送で救える。大型船の接岸可能なふ頭ができ、かつて少数の島民が総出ではしけを使って荷揚げした苦労は消えた。
だがそれでも、主産業の牛の飼育でいえば、成牛にするだけの牧場の土地はなく、子牛の出荷では船賃がかかり、揺れる船のために体重も大きく減量され、思う価格に届かない。高校進学は、島を出て寄宿の必要がある。ただ頼りになるのは、島民のがっちりした互譲・扶助の精神だろうか。
5年8カ月もの軍隊生活から帰国した平田松栄は戦後の混迷の中、念願の教職に就く。リタイアするまで僻地とされる離島の小中校5校、「本土」というべきか鹿児島の6校で教諭、教頭、校長を務めあげた。納得の生涯であった。
教職者の喜怒哀楽、子供たちとの接点など、その感情と実情についての時代の変容を若い世代に知ってもらいたく、こだわって紹介していきたい。一人の教育者の生涯を追いつつ、世相の流れについても伝えていきたい思いである。
*終戦直後の東京
終戦10ヵ月後の昭和21(1946)年6月、平田松栄は浦賀港に帰国、東京に向かう列車内は「軍帽に軍服姿の復員兵、よれよれのモンペ服を着けた婦人たちで満員であった。・・・みんな大きなリックや風呂敷包みを担ぎ、それらの人たちの目は虚ろではあったが、殺気立って異様であった。これが戦後初めて味わったしゃば(娑婆)の様相で、日本の変わり様に戸惑うことであった。・・・何もかも焼き尽くされた焼け野が原の街が車窓に飛び込んできた、真にひどい戦災である。戦線でも落城の街を幾つも通ったがこんなにまでに徹底して破壊されている街は見たことがなかった。土煉瓦の中国建築と木と紙の日本建築の差であろうか。」
神田駅で下車すると「ここでもまた敗戦国の哀愁をまざまざと見せ付けられた。神田駅のガード下には男女、老若、嬉々として遊びほうけるはずの子供たちまでが着物かと思しきぼろぼろの布をまとい、こもにくるまって栄養不足らしい顔をして、かろうじて行動できる者たちが他人の落として行った煙草の吸い殻を竹の先に針を付けた器具で拾っている子供たちの姿、そして異様な臭い、近くには脱糞まで、これが敗戦国の首都東京の現実かと身震いする程であった」。食堂に入ると「ここで又々食糧難の実感を味わう。定食というのがジャガイモ2、3個と薩摩芋の葉っぱの具が入った味噌汁だけであった」。「東京は(戦前の)3、4年前からひどい食糧難で四苦八苦だ」と聞かされた。
かつて販売店に勤務した関係で、有楽町の朝日新聞本社に行くと、旧知の岩月なる販売課長がいて、かつて働いたことのある杉並の販売店の高橋を紹介され、朝日の配達員として落ち着く場所ができた。除隊4日後だった。区役所に転入届を出すと、復員者として米5合、酒3合の(配給)切符をくれた。だが配給はなく、「闇食い」と「買い出し」だけで、少量手に入ったジャガイモをためて、リンゴ箱を並べて売った。
新聞配達の傍ら、杉並の郵便局員に採用され、保険の外交をやり、次いで保険のカード整理などをやった。官庁は週休2日制で、1日は食糧の買い出しが認められた。月給500円。退庁時、大浴場で汗を流せることが「ありがたかった」。米軍の作業服などを古着屋で買い、農村に行って、食糧と物々交換もした。進駐軍の残飯を売る所が銀座にあり、時に青カビもあったが、そこを残して食べもした。
戦中の流行語に、「星(陸軍)と錨(海軍)と顔と闇」があったが、前のふたつはなくなっても、後のふたつは生きていたようで、「隠匿物資、役得などもささやかれ、あるところにはあったようである」と書いている。
昭和20年8月以来、アメリカの日本占領が始まり、「街にはアメリカ兵があふれ、我もの顔で歩いていた。21年5月から極東国際軍事裁判が始まり、勝者が敗者を裁くなど世論もあったが、事の真相を明らかにする意味ではよいことではなかろうかと思った。しかし、結果として、あまり真相は国民の耳には届かなかった。また、財閥解体、農地解放などのニュースも聞かれた。天皇の戦争責任などもささやかれていたが、10月になってキーナン検事の『天皇に戦争責任なし』の言明も郷里に引き上げてから耳に入った」。
「世の中は相変わらず混沌として・・・世の中の落ち着くのも何時の事やらと思うと決断せざるを得なかった。復学を断念し帰京することにした。復学が不可能になった東京には何の未練もなかった。・・・まるで敗戦を2回迎えるようなものであった。今度は人生の敗戦であった」。
*いざ郷里へ
帰国後在京2ヵ月余の9月初め、飲まず食わずで鹿児島へ。トカラ列島の口之島以南は交通遮断、と聞く。だが、十島丸が「闇」で中之島まで行く、と聞き込み、2,3泊後に帆船が出ると聞き、これに乗り込んだ。諏訪之瀬島経由で小宝島に着き、そこから危険にも宝島への1キロほどの海を泳いで渡った。家族、島の者らはびっくりしつつも、大喜び、生まれたばかりだった長女ゆたかは満5歳に。逃げ回る娘を捕まえ、肩車するまで相当の日がかかった。
高射砲が設置され、兵隊10人ほどがいた島は、昭和19年ころから米軍の攻撃目標にされ、島民は連日の空襲に防空壕生活を強いられた、という。一億総動員の名のもと、兵隊らは毎朝暗いうちに山頂の坂道を、婦人会の女性に重い飲料水を運ばせ、夜になると集落におりてきて、遊びほうける始末。「兵隊たちの無軌道ぶりと基地への怨念が(終戦で)一気に爆発、兵隊たちは部落自治会に呼び出され、袋叩きにあった」と、平田は書いている。
島に1人の犠牲者が出、沖縄の玉砕が伝えられると、食糧難のうえ、この宝島も米軍の上陸があればどうせ全滅だとの思いから、鶏、豚、牛馬まで胃袋に入った、という。終戦の年は特にひどく、自給自足の島ではそてつ、つわぶき、タケノコなども限界があり、田植えも芋植えもできなかった、という。
食うに困る日々のため、父親から3反の土地をもらい、妻と農作業に取り組み、牛馬、農具の使い方を習うも失敗の連続だった。営農は無理、と思うなか、以前知った校長が奄美の名瀬在住と知り、履歴書を送ったところ、11月初旬にその恩師の斡旋で宝島での代用教員として働けることになった。僥倖、と思えたに違いない。
*米軍政府下の6年
十島村の戦災被害は死者20人、負傷10人、住宅の全壊焼252棟、半壊焼57棟。小さな離島としては壊滅的な被害だった。
さらに、十島村(当時「じっとうそん」と言った)は、終戦翌年の昭和21年2月2日、連合国軍総司令部の命<2・2分離宣言>により、上三島(現三島村)と下七島(現十島村・「としまむら」と言う)に北緯30度の南北に分断され、上三島は日本に、下七島は米軍政下に置かれた。
平田は米軍政下の宝島で教師になり、6年後の昭和27年2月4日に日本に復帰した際には奄美大島に在職、2年近く遅れた翌28年12月25日の奄美大島復帰の際には十島村の中之島中学校におり、軍政下と復帰後の教育環境を経験したことになる。
<1>郷里・宝島国民学校の代用教員に
食糧難の時代で離島赴任の希望がなく欠員の補充ができず、「平田先生(助教)」の登場となった。昭和21年11月10日、30歳。月俸150円。
臨時北部南西諸島政府の辞令だ。新任式は背広はなく軍服姿。校舎は台風で全壊、旧校舎の古材で2教室2棟のかやぶき校だ。校長ら職員5人。それでも児童生徒は80人余で、昨今からすればかなり多い。5,6年生の担任だが、台風のため指導書、参考書、教具はなく、黒板とチョークのみの授業だった。「親戚一同教育に対する理解がなく、教えるという事の難しさなど全く意に介せず、学校は子供達の守をするところとしか理解がなく、」音楽も楽器ひとつないうえ、「家で児童の唱歌の練習でもしようものなら義父母たちは頭が狂ったのではないかと鵜の目鷹の目で監視された思い出はいまでも忘れる事ができない」と書く。
校舎は元の敷地に22年4月、3教室が完成した。長女のゆたかが入学する。セーラ服は軍から持って帰った天幕を奥さんが裁断した手作り、ランドセルは平田先生手作りの牛の毛のついたままの粗革。「心だけはピカピカの一年生であってほしい」と祈った。
この年9月、長男の栄が誕生。
また、青年学校が廃止され、実業補修学級が併設、国民学校の教師が講師になることになって、夜間ランプのもとで授業が始まった。その場で民主主義のもとの憲法、地方自治、国語表記など「すべて新しいものばかり」を学んだようだ。
昭和23年、国民学校は小学校に改称され、高等科は新制の中学校に変わった。これも、本土より1年遅れだった。戦前の皇国史観などの発想から、個人を大切にする民主主義先進国なみの大転換の時代だった。平田は「ガイダンス、カリキュラムなどの参考書も配給になり、むさぼり読んだ」。この頃、島から出向く講習会への旅費などは自腹だった。
実業補修学級が新制中学校になると、英語が選択教科になる。そして、戦時下で英語に触れることのなくなった平田が担当することになる。そして、その後も「ジャック・アンド・ベッティ」に最後の退職まで付き合うことになる。本土と遮断された軍政府のもとで、最初は教科書不足から自分でコピーせざるを得ないこともあった。
米軍のララ物資の教職員への配給でラシャの洋服生地を入手、冬物の背広を作り、またうどん粉の配給が増え、ベーコン、バター、チーズ、アイスクリーム、アスパラガスなどの缶詰の配給もあり、食糧事情もよくなった。
23年夏、自宅を新築、中之島の戦友の杉材と自家製の砂糖とを交換、14坪ほどの自宅を持ち、また豚、鶏などを自家用として飼えるようになった。
24年9月、初の訓免をもらい、2年9ヵ月ぶりに「当たり前の教員」になる。月給880円。それまでは島を出て、夏と冬の休みのたびに資格を取るための講習会に出ており、「よく旅費が続いたものだ」と記す。それでも本訓免にはまだ届かず、もうひと息だった。この頃、主席の先生が闇物資横流しに連座、本土に密航し辞職、そのあとの学校事務を引き継ぐことになった。いわば教頭の仕事を引き継いだので、多忙になったが、勉強にはなった。
*学校環境あれこれ<1>
敗戦の不安も残る中で、軍政の厳しい追い打ちにもあきらめムードが見えたころ、「本土との物資の交流を絶たれた島民は生きるため、違法は承知で内地との闇商法が盛んに行われ、朝夕の挨拶も闇取引が話題で、教師を辞めて闇商人に転ずる者もいた。また闇船で命を亡くした者もいた。私も・・・学校用の謄写版を一式砂糖と交換し、後に1年生の国語の教科書に大いに活躍」したとか、「教科書会社の依頼で島の夜光貝の殻を買い集め相当な手数料が入り家計の足しに」なったりした。
本土との交流が阻まれ、大切だったのはなんと縫い針と糸、だった。子どもたちの衣類は親の手作業でしか作れず、「貴重品」「最も喜ばれる物資」だった、と書く。
24,25年ころ、ガラス戸もない学校の廊下での複式学級で、机間巡視もできず、廊下の両端に教員室が充てられ、授業どころではなかった。校舎、教員住宅は島民の奉仕作業、村役場は校舎増築などノータッチ、食糧難で増産第一、寺子屋時代からの「教育は島々で」の風潮など、増築どころではなかった。そこで、平田が中心になり、中学の技術の時間を利用して中学生を指導、丸太を切り出して骨組みを作り、屋根と壁のススキ(まかや)を生徒に親に刈ってもらうよう手配し、床には砂を敷いて完成、ゆっくり授業ができるようになった。この一件から次の増築のきっかけになった。ただ、その間に村議が校長に中学生を使ったことなどに「いちゃもんをつけ」に来て、平田が憤慨した様子も記されている。
当時、定期船十島丸が米軍に徴発、代わりに70トン級の廃船同様の焼玉エンジン付き木造船が村内を2週間に一度ほど運航、新聞も奄美の地方紙が2週間分まとめて配られた。
給料も2、3ヵ月分まとめて送られた。強みは、働けば里芋、カボチャ、野菜など何でもできたこと。離島生活は陸では「わりと呑気」ながら、とくに「冬の七島灘」は怖く、冬休みの名瀬での講習の帰途、5、6トン級のポンポン船が故障としけで流され、命がけのこともあった。
「戦後の混乱の中で、人的社会的条件も必ずしも良好とは言えなかった」として、「かつて軍国主義教育を受けた青年たちによる人権無視、自由の束縛などの問題」が若い教師との間にあった、としている。島の教師は最高の有識者で聖職視され、しかも平田は島出身者のため、若者たちが押し掛け、若い先生方の恋愛問題、つまり風紀の乱れだとの指摘があった。とくに先生らに問題はなく、青年らが軍国教育を受け、また「ヤッカミ」もあり、「恋愛は自由。私生活の問題。プライバシーの問題に口を出さない」と抑えに苦労する一方、「特に教育界での恋愛は真剣であるべき」などとも記している。校長排斥の運動もひそかにあったようだ。
<2>奄美の離島校へ
昭和26年4月、またも離島・名瀬の奄美小学校へ。ただ、ここは名瀬小学校に次ぐ大規模校で、40学級、職員43人。最末席ながら、張り切っての赴任だった。7組ある4年生の担任。小規模校では、ひとり3役、4役ながら学校全体の動きがわかった。大規模校は、校長の綿密な学校経営案があり、自分の担当を守っていれば楽だが、学校全体をつかむことは「難儀」だった。また、新任の1年間は、歓迎会、運動会、学芸会などでの「人権を無視するような絞りかた」だった、と書くが、具対的には触れていない。
面食らったのは、家庭訪問。平田は若い頃、名瀬を旅行し、宝島と奄美はかつて同じ大島郡に属しており、島言葉はわかるつもりだったが、主婦や老人の話し言葉がわからなかった。
家族は妻と男女の子の4人。月給1400円の生活は苦しく、鶏の卵は食べずに売ってもらい、うどん、そうめんの日々。「腹が減って、帰りはくたくた」ながら、大規模校で働けるという希望が支えた。「奄美の日本復帰」でハンストにも参加した。復帰の見通しが立たず、一年でも早く本土の学校で働きたく、転出届を出した。幸い奄美転勤の希望者がおり、11月1日付で発令されたのだが、行く先はまたも離島の十島村の中之島中学校だった。8カ月(実は7カ月)の短期の勤務ながら、「大規模校で働く誇り」があった。
<3>離島の中之島中学校へ
中之島は十島村7島の中心地で、当時はここに村役場があった。当時の人口は1000人近く(現在140人余)、奄美出身者の開拓集落がふたつあり、在来の集落との間には言語の違いなどで「違和感」があった。学校職員も当時は奄美出身者ばかりで、地元出身の平田について「校長は目ざわりであったようで、私に対する風当たりも強かった」と見ていた。校長以下9人の複式小規模の小中へ併設校で、小中各4人の職員がいて、平田は英語と国語の担当になった。
翌27年2月、本土復帰により給料基準が改定で月給、9500円に。夏の40日は本土で英語中心に厳しい特訓が続いた。軍隊の応召で大学専門部中退というハンデを負ったことに思いはあったが、中学の2級免許の取得に頑張り、29年3月には中学2級普通免許状を交付され、やっと師範出の教師と同等の資格が取ることができた。教員になって7年5ヵ月、30半ばを過ぎての快挙に「免許状を手にした時の嬉しさ!これから教師として堂々と生きていける、戦中の空白も取り戻すことができた」と率直に喜んでいる。
28年夏、中学1年の娘と長男を連れて1カ月ほど経験のため鹿児島に滞在、泣いてワンピースを欲しがった、と書く。この年、島で初めて修学旅行を計画、1年おき2、3年合同で実施、が認められた。鹿児島から「汽車に乗せた時の喜びようを見て自分の少年時代をオーバーラップして僻地の教師でなければ味わえない経験であった」と喜びを記している。
中之島に2年5ヵ月、本土への転出を希望したところ、これが叶い3月末に姶良郡の霧島中学校へ、との電報を受けた。
<4>転勤先は違い、高千穂小へ
やっとの本土勤務!との喜びで教育委員会に出向くと、教育長が「誤りだった」といわれ、宮崎県境に近い高千穂小学校(現霧島市立)に行くことになる。29年4月に家族4人で赴任、霧島温泉郷に近いが「県下一寒い処」と言われた。
中2の娘は転校4校目。息子は新1年生。平田は十二指腸虫にやられるが、投薬で済んだ。離島では夏冬の休暇でしか研修会などに出られなかったが、今度は日帰りで出られた。
7学級、職員9人。6年生の担当。1年を経て、卒業生を送り出すころ、「チチ キトク」の電報を受けたものの、卒業文集作りが遅れていて離島への帰郷もできず、死に水も取れず、「涙を呑んで酒を煽って詫びた」。
月給16000円ではなお生活は苦しく、掛け食いのうえ、ボーナスでも足りず、共済組合から生活費を借りた。同僚と話し合い、当時の牧園町奨励の羊を飼った。町営牧場で羊を放牧、羊毛は洋服生地、毛糸、ネクタイ、帯締めなど、主婦らの内職にも役立ち、平井の家計も助けることにもなった。
30年3月、前年の経緯を校長に話し転任を希望したが、結局近くの高千穂中学校(現霧島市立牧園中学校)に行くことになる。以来、8年間は高千穂での生活となった。
<5>経験積んだ高千穂中学校
隣り合わせの小学校を卒業した60数人と一緒に高千穂中に転入、一時は「とんだところに来たものだと溜め息を漏らした」が、「縁は異なもの」とも思う。校長は小学校も兼務で、全校5学級、校長以下職員は7人の小規模校。担任は3年生。校地は県下一の校庭があったが、木造の校舎は狭く教室が不足して窮屈だったものの、その後ブロック建ての2教室が増築された。
進学は当時まだ「45%程度で、就職希望者が多かった」。進学指導を担当して毎日放課後の1時間、国・社・数・理・英の5教科の補習授業を組んだ。英語は始業前1時間余分に実施した。「当時はまだ、組合活動は平穏で勤務時間などの観念はなく、どこの学校でも夕方遅くまで補習、部活動など積極的に行われていた」。
ただ、野球部が郡の大会で優勝し、県大会に向けての猛練習があり、午後の補習では1学期は生徒が落ち着かず、効果はあまり上がらなかった。「『スポーツと学習の両立』などを訴えたりした思い出がある」。夏休みも前後の10日間は補習を続け、野球の練習は午後にした。
9月、九州一周の修学旅行が計画されたが、問題はまず旅費の工面からで、当時は右から左というわけにはいかなかった。2年続きの旅行で、前年の青島行きには1人の児童が参加できなくなり、その分を負担したが、集金できなかった。「家内にその旨を伝え、月々の出費を出来るだけ抑えるよう命じ」たこともあった。熊本、別府の2泊の汽車旅行で、別府の旅館では1人不明となり、探すと一人で入浴中、といったこともあり、「何か必ず起こるもので、学校行事の中で一番神経が疲れる」と記している。
3学期は、進学組の受験指導の追い込みで、玉川学園大久志高校(南さつま市・鹿児島出身の小原國芳創立)に泊りがけで同行したり、競馬騎手志望の子には土地柄特殊な進路で戸惑いながらも東京・馬事公苑に合格したりした。進学組は「全員合格し肩の荷がおりた」。ただ、卒業後の春休みは「心に穴が空いたような虚無感を感じ」た。
*学校環境あれこれ<2>
教師にとっても、家族の生活や子どもの成長は極めて大切だ。教育の場にあることで、子どもの成長は気がかりだ。平田はおのれの苦労から、一層子らの歩みに気を使った。高千穂中の1年を経た31年、長女は牧園高校(現霧島高校)に進学、月謝の滞納請求も何度か経験した。月謝は安いが、教科書、制服、バス代などはかさんだ。
31年春、担任したときの6年生が中学2年生となり、その担当に。32年春、2回の担任で「気心も解り、気合も入った」。補習も充実、3年生が野球部の主力となり、県大会出場にも。その出場費用を、先生たちと校区の有志を訪問して募り県大会で優勝。また女子バレーボールが郡北部大会で優勝、とある。
33年春、進学は玉龍、加治木、牧園、鹿実高校など全員合格、就職組もみなそれぞれの希望の会社に就職、「最高の年」になった。この年は1年生の担任。1学級減、職員1減に。校務分担が増え、図書館司書補、PTA会計、年3回発行の学校新聞顧問などを引き受けた。
高千穂山系の炭焼き小屋から通学する子の家庭訪問に山や谷を越え、半日がかりだったことも懐かしい。34年冬の学芸会での「イワンの馬鹿」上演で、30人近いそれぞれのセリフつくり、演技指導など大変だったが、好評を博した。
この頃、文部省から来た県教育長によって、県内各地区間の人事交流が難しく、「上場の者は一生上場で、下場の者は下場間でぐるぐる回り不公平だった」人事に手が付けられ、「鹿児島県の教育は鹿児島県の教員全体で負うべきだ」として、「同一地区の長年の居座りを排除し各地区を出来るだけ経験させる方策を打ち出し」たのだ。
長女が高校を卒業し県立短大国文科に進学することになって、小6の弟とともに鹿児島市内で自炊生活させることに踏み切った。当時、小規模校と大規模校の学力差が目立つとともに、親の転勤もできず、越境入学もやむを得なかった。土曜日の子らの帰宅が楽しみだったが、「日曜日の夕方送り出した後の寂しさは言いようもなかった」。
35年、持ち上がりで3度目の卒業生の担任に。このときは1クラスで、職業、進学の両方の指導で大変だった。出稼ぎ県の鹿児島は、職場開拓の色合いもあり、会社側の意見が多く、どこも電話のかけ方、言葉の問題、機敏性とくに動作ののろさなどの問題が取り上げられた。新入社員には半年くらいは標準語で対応してほしい、のんびりした環境の鹿児島育ちで「のろい」のではなく、落ち着いてよく考えており軽挙妄動などはなく良い面もある、などと「持論を展開した」思い出もあった。
名古屋、愛知、岐阜、和歌山、加古川、佐賀の大和紡などを訪問、設備や定時制高校、茶道、華道などの教育面も完備、「往時の紡績哀話などは昔話で、日本の変容ぶりに驚き、今の子供達は幸せだと」思った、と書いている。「子供たちが職場訪問を一日千秋の思いで待ち望み、面接室ではまるで肉親と再会したような喜びで涙を流すものもおり、」と強い感動を記している。教師としての喜び、なのだ。子どもたちの写真をスライドにして持ち帰ろうとカメラを買ったもののフィルムの「カラー(空)」で失敗、キャップを外し忘れるなど、悔しがっている。
夏冬の休暇中には、校長に研修記録を提出して検印を受けていた。英文学の研究では中世前期(平安後期以前)の叙事詩風の口碑伝説から始まってシェイクスピアの亡くなる1616年までの詩・物語・小説・評論・随筆・演劇などイギリス文学の主な作品がどんなものかを取り上げた。「よく勉強したものだ」と思いつつも、参考文献の記載がない、と残念がる。
<6>4度目の離島は硫黄島・三島小中学校
またも離島勤務となったが、高千穂の充実した8年間を過ごせたせいか、平田の記録には「悔い」などは記されていない。三島村は、故郷の吐噶喇・宝島よりも本土鹿児島市から約100キロと近く、竹島、硫黄島、黒島の3島から成る離島村である。
当時、引っ越しの荷物は網に入れてウインチで巻き上げ、船倉に落とすので、大小の梱包がぶつかり合って破損することもあったが、今はコンテナなのでその心配もない。8年ぶりに海上を飛ぶトビウオの姿が懐かしかった。
硫黄島の人口は、平田は当時613人と書くが、今は130人余。安徳天皇が平家一門と漂着したとか、俊寛が流人とされた島、とかの伝説がある。また、かつては島は硫黄の主産地として栄えたが、今は霧島火山系で活火山の硫黄岳(703m)があるのみだ。
三島小中学校(三島村立三島硫黄島学園)は、小学校は5学級112人、中学校は3学級41人。職員は10人だった。
職務は初めての教頭で、「教頭職の忙しさをいやと言うほど味わった」。校長が出張で留守の間、「何となく不安で寂しかった」。教頭は字が上手でないと務まらない、とも思った。
歓迎のお茶は塩分が多く、生水は飲めなかった。火力発電はあるが、点灯は夕方から夜10時までで、10時からはランプを使った。船が午後4時着で、公文書は夜に仕上げ、翌朝の出船に間に合わせた。
*学校環境あれこれ<3>
課題があった。平田は小学校の免状を持たず、音楽ができないため、あと1年の小学校勤務があれば持てたのに、それを逃していた。仮免も無効になっていて、免許係から異議が出たという。「1年で小学校の免許を取ります」と返事をし、早速法政大学の通信教育に申し込んだ。戦争により中断した専門部の中途半端に苦しんだが、「一生勉強であるかと思えばまた楽しかった」とも書いている。中小規模の学校では、教頭も本来の事務のほかに、週10時間程度の授業を待たなければならず、37年9月から翌38年末までに専門教科の日本文法論、日本言語学概論、日本史概説、日本文芸史、日本美術史、国語教材研究、図画教材研究の計16単位をとる必要があった。終末試験は離島のため論文による受検で済み、48回のレポートを提出、39年5月付で小学校2級普通免許状が交付された。
8月には、長崎、雲仙、島原に職員旅行をする。村の予算30万円で技術科教室が充実し、その免許を持つ小学校の教師を中学に配転してもらい、小学校には農高卒の新任教師を迎えた。運動会疲れの女子職員が鹿児島に入院、これに「家内を動員」して付き添うことに。離島勤務では、奥さんの動員はありうることだった。
この年、卒業生17人中進学5人、12人が就職に。この「金の卵」は全員阪神方面で職に就いた。
修学旅行で本土へ。列車の窓から、「牛だ!」「馬!」と珍しがり大騒動に。蛙を見て「こんなに小さいのか!」と驚く。じつは硫黄島は、「す雨」と言って亜硫酸ガスが混じった雨が降り、作物の苗作りなどは困難で、風向きによっては晴天時など亜硫酸ガスが部落にも襲い掛かり目にしみるほどだった。牛馬は育たず、見ることもなかったのだ。硫黄岳の5,6合目から上は、火山の噴出による熔結灰岩と思われる火山灰混じりの岩石が、赤茶けた山肌を露出し、雨が降れば山頂から鉄砲水、滝のような雨水となり、晴天だと水一滴蓄えない川原に泥水と小石が一緒に流れる。それで、蛙もいなかったのだ。
このガスの関係か、歯の悪い住民が多く、鉱業所は時折歯科医を島に派遣して加療していた。診療所には医師が常駐、特殊な病気以外には心配はなかったのだが。
*学校環境あれこれ<4>
38年春、平田の長男は鹿児島中央高校に合格。また、村役場の要望で婦人学級を開講して、壮年組と高年組を設け、壮年組は野菜品評会など生産学習を主として教養学習を加え、高年組は婦人会の要望で読み書きの初歩をということで平田の担当に。彼女たちは、義務教育施行以前の人たちで、出稼ぎに出た子らの手紙の読み書きができない、ということだった。ひらがなの読み書き、1,2年生程度の漢字の練習だった。熱心で、夜間でも毎日続けてほしい、と言うほどだった。婦人学級の農作物の品評会に村の農業普及員を招き、審査・講評を兼ねて「これからの農業」を講演してもらうなど、社会教育指導員のいなかった離島では学校が中心になった。予算はなく、もちろん無報酬。
5月の連休中で、校長不在時に起こったことがある。連休で中学校新任の男先生が島の温泉に行った。聞けば、女先生も不在とわかった。島のあちこちを先生方が探すが、深夜になっても不明。翌日の学校を休校とし、部落の青壮年男女に願って数組に分かれて海上なども捜索へ。「干潮には渡れるが、満潮では渡れない小さな瀬がある」とのことから、2人の人影発見。学校の責任者も乗船して救出を、と言われた平田が乗るが、波はしけて近寄りがたかったが、なんとか接岸、救出に至った。ふたりは一晩中波しぶきにさらされ寒さと疲労でものも言えない状態だった。午後4時ころ救出して帰り、ホッとしたという。「とんだ新学期の滑り出しだった」。
部落の2人乗りの漁船が突風にあおられたか、夜になっても帰港せず、2,3日捜索しても行方不明で遭難したとして葬儀へ。その一人は村の教育委員で、中学2年の娘がいた。そんな悲しい出来事もあった。
この年初めて2,3年生合同で修学旅行に。「この頃まだテレビの普及もしてなく、見るもの聞くものすべて初めてで、子供たちを喜ばせた」。「離島は目に触れるものも限定され、図画を描かせると船と企業の持つ硫黄岳のケーブルだけであった」。そこで、学級園と体育用具などの整備を図る。体育施設は鉄棒とバレーコートだけで、無い物尽くし。予算も限られるので、話し合いを進めて、原材料を購入、職員でまずは登棒(のぼり棒)、バスケット、平均台などを技術の先生を中心に全職員が鋸を持ち、かんな、のみを持って頑張った。翌年5月に完成、また視聴覚器具もそろえた。
楽器は、貧弱で調律もしないオルガン1台だけなので、ピアノを購入しようと島内外の卒業生、鉱山事業所などに寄付を呼びかけて実現、そのあまりで図書館の図書をそろえた。子どもたちは学校施設の充実に大喜び。
さらに、米飯を持参させ、おかずは用務員が作るようにして給食を実施した。
県総合書道展・半紙の部で、特選4人、入選19人を出した。県医師会の口腔衛生ポスターのコンクールでは2人が入選。
卒業生は小学校18人、中学校9人で進学は3人。
39年.硫黄島の僻地も3年目。僻地3年で出身地区に返す決まりだったので、最後の年を頑張った。前年に続き、全学級単式を維持、小学校2、中学校1の転出に対して、小4人、中1人が転入した。このうち小の2人、中の1人は2,3校目の中堅教員で、職員組織はますます充実した。「僻地教育の見直しか」と喜んだ。この年の途中で、島の工業所が閉山、転住してきた小中44人が転校し、小学校68人、中学校39人になったが、学級編成、職員減はなかった。教頭としてはホッとしたことだろう。
諸行事のうち、島にある椿山のツバキの実の収入は江戸時代から学校の運営費として部落が提供してくれており、全校性が毎年実を拾い、鹿児島に出して製油、販売していた。石油缶3,4個分の収入があり、図書、体育用具などの購入に充てていた。
9月、民家を吹き飛ばすほどの台風が襲い、被害甚大で、職員住宅の屋根を吹き飛ばして修理に大わらわだった。台風常襲地帯だった。
<7>またも霧島へ、しかも小規模校
40年4月。硫黄島が僻地校だったので、「今度位は下場の大規模校に、と姶良西部を希望したが、高千穂峰の麓にある霧島東中学校(現霧島市立霧島中学校)の4、5学級の小規模校であった。霧島は8年いて、地理的には古巣に帰るようなものであったが、学校規模が不満であった。僻地生活3年を振り返って教頭の処任地で本土の教頭を経験して、今言える事は(先生に年間の役割分担などを決めた)進動機構が十分生かされないことであった。小規模校で育ち、しかも新任教員ばかりで、ほとんど校長、教頭で企画し職員会に計り決定していた。進動機構もただ掲示してあるだけで運動会行事と学芸会行事のほかは総て教頭に課せられていた。公文書も各係に流してはいたが、職員に任せていては提出期日に間に合わずに結局教頭が作成して出す始末だった。鉛筆書きでも良いから各係で作成して出すべきであった。・・・これも現職教育の一端では、と思うことであった。現職教育を指導法だけに限定することは間違いで、これに気付くのはずっと後のことであった」。
2度目の教頭職で、校長は霧島小との兼務で、小学校とは500m離れており、事務連絡などは平田が出かけざるを得なかった。「行事等も小学校と提携しなければならず、常に小学校に追従しなければならず、中学校の独自性が発揮出来ないうらみがあった。」
この小規模中学校は、4学級で校長以下8人。新任が1だけで、あとは4-10年勤務の先生で職員組織は整っていた。途中から美術の非常勤講師の配置があり、教科編成の困難は解消された。
温泉の霧島にふさわしく、全国でも珍しい学校温泉浴場の建設計画に取り組み、寄付集めに奔走。また部活動ではバレーボール、バスケットボール、剣道があり、バレーでは郡大会優勝の経験があり、生徒たちはひと汗流してから帰宅できた。40年度の卒業生は38人、内進学9人、それ以外が就職だった。
私事では、長男が鹿児島大学教育学部に失敗し浪人に。予備校生活があまり芳しくなく、中学校の住宅に勉強部屋を増築し、工事費後払いを認めてもらうことができた。長女も来て久々の家族4人の生活ができたものの、部屋の狭さに参り、家族の手作りでさらに3畳ほどを増築した。
2年目には新校長が赴任、今度は「人間性の感化を受け、学校運営の秘訣を学んだ」。
校内研修を充実、学力テストの結果を分析、町内中学校の研究会を自校で開き、「思考力を育てるための学級経営」のテーマで発表した。研究授業は各人、年1回必ず実施、平田も率先した。授業研究の記録は必ず残し、みんなの意見が出やすい雰囲気を目指した。
地元の霧島神宮の清掃が、創立以来の伝統行事で、毎週1回参加し、巨木の下で生徒たちと他愛もない話を楽しんだ。年度末には、神宮賞として卒業生に印鑑が贈られた。例祭には奉納剣道大会でにぎわった。
この年は、町内研究会の当番校で公開授業をした。卒業生は2クラス50人のうち、進学が公立6,私立5、各種学校4だった。翌42年度の卒業生は39人、進学10、各種学校1で、あとは神奈川、愛知、大阪などに就職した。まだ高校進学の少ない時代が続いていた。
3年目の42年、専任の校長を迎えた。1年ごとの校長の交代で、校長・教頭のチームワークができるものか、と反発も見せた。
この年、長男は千葉工業大に入学した。長女は前年、宝島同郷の同級生と結婚した。夫はトカラの中之島小の助教諭で、まもなく玉川大学の通信教育で教員免許を取り、長女とともに中之島小で一緒に働くことになった。
4年目の43年、学級の1減に伴い、職員も1人減に。国語免許の3人に対し、音楽など4教科は無免許状態で、短大卒の女性が家庭・音楽・保健体育を持つことになり、平田の免許授業の国語は組めなくなった。また、校内研修3年の区切りに、そのまとめの論文を応募したところ入選、地味な研修が認められ、喜びを味わった。郡内の教頭会で研究発表した。
<8>学校長として奄美大島・管鈍小中学校へ
昭和44年4月、2度目の奄美勤務だ。瀬戸内町立の管鈍<くだどん>小中学校(現諸鈍<もろどん>小中学校)は奄美大島最南端、最初の名瀬からはかなり遠い瀬戸内町に属するのだが、さらに離れた加計呂麻島にある。5度目の離島勤務だが、平田にとっては「大栄転であった。これから一国一城の主として理想の学校を経営することが出来るのだと燃えての旅立ちであった」。そして霧島2代目に仕えた篠原正治校長のおかげ、として、御恩に報いなければ、と決意する。この小中校は奄美大島側の花天(けてん)にも4年生までの分校を抱えていた。
当時の校区の人口は270人、きび耕作のほか米作を営むが、砂糖以外に換金作物はなく、出稼ぎ、季節労働が多く6割は留守家庭で、労働力不足で生産性向上は望めなかった。船による交通事情も悪く、当時の陸路は狭く、自動車はまだ通れず、道路拡張中だった。1970年ころの地方事情はこのようなものだった。ただ、船からは釣り糸を垂れ、潮時がいいとカツオが釣れた。風景も本土とは全く異なる風情で、独特の奄美言葉、南国調の花々などの異国情緒に包まれた。
1,2年複式学級に13人、3,4年複式17人、5,6年が16人、花天分校は1,2年複式7人、3,4年11人、さらに中学校は1年13人、2年16人、3年13人。職員は校長以下13人の小規模のうえ、併設、分校を抱えていた。養護や司書などはいない。また、校長、教頭は新任、11人の職員のうち8人は初任地で、正に「教員養成所」だった。救いは、子どもたちに向学心があり、高校進学率はよく、卒業後は殆どが本土で就職、帰郷はなかった。町や地区の校長会、校長研修会、学習指導要領の改訂、PTAなど極めて多忙の新学期で、とくに離島僻地は社会教育関係の会合も多く、婦人会、老人会などで話すこともあった。
また、学校に電話がなく、区長宅の部落共用電話を使うのだが、人事など不確定情報が流れかねず、分校には部落電話があるので、分校勤務がいきおい多くなった。
*忘れがたい児童の死亡事故
6月の日曜日、4年生の男子が家でひとり、紬の織機のそばで細引きひもをかけて忍者遊びをしているうち、首を入れたまま畳に足が滑り立ち上がれないままに息絶えたらしい。妹が帰って見つけ騒ぎになったという。駆けつけると、人工呼吸中だったが、苦しみもなく眠るように亡くなった。テレビの忍者遊びが流行っていて、なぜ早く学校で取り上げなかったか、残念でならなかった。「我が子同然の教え児の幼い命が消え、悲しい出来事の一日であった」。「職員会あたりで遠慮なくものが言える環境を作るべきだ、と教頭先生とも話し合うことであった」。
*学校環境あれこれ<5>
管鈍小1年目の昭和44年、じつに出張が町、郡、県の校長会、諸研究会など20数回あった。2年目は、対外関係は例年通りでよかったが、校内関係はそうはいかず、PTA、家庭訪問などは早々に済ませ、算数、数学の公開研究会に向けて努めた。加計呂麻島などの出張は海のタクシーと言うモーター付きの小船で便利だった。
技術、音楽の特別教室も完成した。昭和28年に日本復帰した奄美は、復興が遅れていて、「学校の施設、設備も惨たんたるもので」、奄美復興予算(奄振法)補助の恩恵を「いかに早く受けるかが校長の腕の見せどころでもあった。従って、新聞によく注意し予算が発表になったら直ちに行動を起こすのである。もちろん、かねてからの働きかけも必要であった」。
校地拡張と体育館建設のセットの計画に動き、翌46年9月に体育館建設にこぎつけた。
先生同士の結婚もあり、2組の仲人も。また先生のひとりが病気で入院、病死の事態もあった。45年度の卒業生は小学校9人、中学校15人で、その進学は全日制、定時制各5人で、「向学心旺盛」と喜んだ。
3年経ち、僻地派遣が終わった。異動の発表は、頴娃(えい)町立新牧小学校だった。
<9>1年後廃校の新牧小学校へ
この学校は頴娃町(現南九州市)にあった。昭和47年4月、小雨の中、タクシーを使った夫婦だけでの「寂しい赴任であった」。校長以下4人と養護教諭、給食婦、用務員の「ミニミニ学校」の複式3学級だった。すでに前年に八部通り統合・廃校が決まっていた。「今年度統合という学校で校長、教頭とも転出とは県の人事異動の異常さが感じられた。結局来年また引っ越す破目になった。引っ越しの煩わしさなど無視した人事異動に腹立たしかった」。離島の小規模校5回ながら、各校で計画を立て、近隣ともなじみ、教育自体に情熱を傾けてきた平田も、今度の人事には怒ったのだ。戦争に駆り出され、大学を休学して十分な教員免状をとれないまま、郷里の離島で代用教員から一途に教職の道に進んだのだが、教員としての力量から判断せず、学歴優先でのみ対応し続ける県教委の姿勢に納得がいかなかったのだ。それでも、教育長の「来年は希望通りに」との言葉で、「教育長ご自身無理な転人がわかっていれば」と一応納得した形になった。
昭和4年には116人だった児童は、47年度在校生19人、この年の卒業生は一人だった。小規模校は、学力の面では大規模校に劣らない力をつけられるが、集団教育が劣るのは事実、と平田は言う。体育、学級、児童会、クラブなどの活動など4,5人ではどうしようもない。
3月、卒業式、次いで廃校式があり、平田は姶良郡蒲生町の西浦小学校(現姶良市立)へ転出した。
<10>3校目の西浦小校長は全校生34人
昭和34年のピークに160人いた児童は、平田の就任したころの48年には34人に減っていた。薩摩半島突端に近い前任校よりは鹿児島市に近づいたものの、またも小規模校だった。お茶の産地だった。
「30年代後半から40年代にかけて、日本は工業国として急激に復興し、労働力供給県の鹿児島の農村はどこでも過疎の波に見舞われ、複式小規模校が増加した。また道路の整備とともに学校統合なども行われ、農村はさびれていった」。飲料水問題、老朽校舎問題など、PTA会長らと配管工事、台風後の屋根瓦の修理などにも追われた。
私的には、41年に求めていた土地に、退職前の49年に自宅を新築した。
*組合運動に腐心の時代
この学校経営で苦労したのが鹿児島県教組との交渉だった。在任した48-51年度の3年間の起債は労組関係が中心だった。
この時代は教委・学校と日教組・県や各校支部との対立が激しい時代で、また日教組委員長(1962-71)を奄美大島出身の宮之原貞光が務めたこともあり、地元の組合運動も盛んで、その苦労があったようだ。
時代を語るうえで、平田の記録から対組合の関係に触れておこう。
高千穂中時代の昭和32,33年ころは、「1人として組合意識はなく平穏で和気あいあい」とあり、「道徳」「君が代」「国旗」などの「問題が騒然となるも私どもの周辺では未だだれも反応を示すものはいなかった」。36年の日教組の学力テスト阻止運動が活発化するが、「本県では混乱は起きなかった」。教頭の霧島東中のころ、教組が来て非組合員加入の働きかけがあり、学力調査、宿日直拒否の闘争、ILO批准の問題が出始めた。
宮崎大出の新任女子教員が、「君が代」の「君」論争を仕掛けてきたのを、平田は「久しぶりに骨のある問題であった、さすが4年制大学を終えただけあった」と喜んだ。
校長としての新牧小では、組合活動が活発化、その対策のための校長会が増えた、と書く。西浦小校長の48年には、スト権奪還、処分阻止のストがあり、「彼等の言うことは余りに矛盾点が多く」と書いた。教育行政批判、教研集会、主任制、管理職試験反対など、教組の反対運動が激化、教育長も教組との慣れ合い行政を批判、僻地、島嶼の多い鹿児島は交流が必要とした。平田は離島僻地の交流、地区間交流の促進を歓迎した。このことで交渉も増え、50年はストに暮れストに明けた。
<11>最後の校長は入来小学校
薩摩郡入来町、今は薩摩川内市立の小学校で、定年までの2年間を送った。7学級、児童169人、各学級30人以下、校長以下13人と用務員1と給食婦2の16人体制。ほとんどが2校以上経験の中堅教師。平田は「理想的な学級」と喜ぶ。町立の幼稚園長も兼ねた。離島・僻地・小規模・複式ではない、最初にして最後の通常規模の学校だった。
百葉箱を修理し、使用不能だった観察池を再生し、幼稚園に砂場を作った。「どこに行っても校長は大工であり、庭師であり、工事人夫だった」と喜んだ。ただ11月夕刻、思いがけない火事が起きた。初期消火に努め、学校の天井と外側の壁が焼けたが、延焼は防げた。カマドの過熱と建築構造の不適、とわかる。12月ころ、彼自身の単車の事故も2回あった。
定年まであと1年を残して、退職優遇の措置がこの年までなので、在職1年の昭和51年に退職した。教員生活に入ったのが昭和21年11月、教頭7年、校長8年を含めてちょうど30年。休んだのは熱発の1日のみ。
*平田松栄さんその後
教職を去って悠々自適の日々に、自宅の手入れや庭園作り、戦友会長なども務めた。孫たちの成長と団欒を楽しんだ。盆栽の通信教育も。
そして昭和59年11月から、この「じいさんのたわごと―激動の昭和史に生きて」<508ページ>を松月庵松栄の雅号で書き始め、2年有余月を持って書き上げた。
「婿のワープロを譲り受け、指導を受け、テキストと首引きで幾多の機能のうち文字と符号だけの入力をマスターして、最初の方は技能の未熟から誤字、脱字が目立ち、読みづらいものになってしまった、判読してもらいたい」とあとがきに書く。
「この冊子はおじいさんが君たちへのたった一つの贈り物である、君たちの書架の中に加え永く保存して読んで欲しい。平和な時代に何不自由なく育った君たちのこれからの人生に何かの参考になれば幸いである」。
<昭和62(1987)年7月23日発行>
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トカラの島々の実情を書く中で、この平田松栄さんの記録の存在を知り、原本の記録をたどりつつ、多彩な生涯を読みやすく紹介できたら、と思いながら上中下の3篇に仕上げました。松栄さんの長女平田ゆたか、健志ご夫妻、福澤章二十島村副村長はじめ関わって頂いた皆さんに心からお礼を申し上げます。 羽原 清雅(元朝日新聞記者)
以 上
※編集事務局注:本寄稿の上、中は、下記のURLからお読みいただけます。
トカラの離島出身教師の生涯(上)
トカラの離島出身教師の生涯(中)
以 上
(2023.6.20)
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