バターとウォッカ

大原 雄

 加藤宣幸さんと初めて会ったのは、2014年3月、東京・千代田区の学士会館ロビーだった。かつての職場の先輩のAさんの仲介で、「オルタ」に連載を書いて欲しい、という申し出があり、ついては編集長の加藤さんに一緒に会って欲しい、ということであった。学士会館での顔合わせは、短時間で終わり、「打ち合わせは一献しながら」ということになり、神保町・すずらん通りのロシア料理のレストランへ席を移すことになった。そこで、私はトンダ醜態を見せることになる。

 次々に出てくるロシア料理に舌鼓を打ちながら、打ち合わせでは加藤編集長から「オルタの裾野を広げたい」など私の連載の狙いや注文について聴きながら、私は、初対面の加藤編集長や昵懇のAさんとの忌憚のない会話に加えて、飲み慣れないウォッカの盃をいつしか重ねてしまった。歓談の後、レストランの急な階段を降り、神保町のメトロの駅まで一緒に移動した辺りまでの記憶はあるのだが、途中で記憶が断絶する。加藤さんとAさんが何やら腰が砕けてしまったような私をサポートしている声が遠くに聞こえている。

 私が、次に目を覚ました、というか意識を取り戻したのは、見知らぬ部屋の布団の中であった。そこが、九段の加藤さん宅であり、靖国神社近くの早朝の景色の中を、初対面したばかりの加藤さんに送られてメトロの九段下駅から、改めて自宅へ戻るという仕儀になったという次第。誠に恐縮の至り、というシチュエーションだ。初めて無断外泊したことになり、自宅の家人には、心配をかけたと思って電話をしたら、Aさんが前夜のうちに、外泊することになった事情を伝えておいてくださったと判った。あの時、加藤さんとAさんにはご迷惑とご面倒をおかけしましたが、改めてお詫びとお礼を申し上げます。

 「オルタ」では、「大原雄の『流儀』」というタイトルで連載が始まり、14年4月の124号から「オルタの視点」を含めて、60本近い記事を連載したが、我ながら多方面に筆が進み、分野別では、歌舞伎・人形浄瑠璃ネタが16、映画ネタが14、そしてジャーナリスト本来のメディア論や時事ネタが26、その他に絵画、演劇ネタなどという足跡を残した。僅か4年間。だが加藤さんとは濃いお付き合いだった、と思う。学生時代に一時愛読した『現代の理論』と所縁のある「オルタ」に晩年執筆するとは、夢にも思わなかった。

 加藤編集長とは、その後も、オルタセミナーの打ち上げばかりでなく、個別の打ち合わせの後に個人的にも盃を重ねる機会が増えたが、気心も知れてきたころあいの、ある時、ウォッカの飲み方の話になり、ウォッカは、飲む前にバターを食べて胃の内側に脂肪の薄い膜を張り、その上で酒を飲むようにしなければならないと教えていただいた。ビールやワイン好きの私はウォッカもビールのように流し込み醜態を演じていたというわけであった。そう言えば、加藤編集長は、マスコミやアカデミズムなどのタオヤメやツワモノという個性の強い酒を、あの微笑みの薄い膜で包み込んでは、14年余も世間の動きを定点観測するように毎月、的確な視点を通して「オルタ」を発刊していたのだなと、思った。

 加藤さん宅には、その後も打ち合わせなどの用事を兼ねて、来るように誘われることがあったが、結局、あの後は、ご自宅には、お邪魔しないままになってしまった。あの夜が最初で最後の加藤宅訪問であった。

  おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな/芭蕉

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事)

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