【北から南から】フィリピンから(4)

フィリピン史の原点、マクタンの戦い

麻生 雍一郎


 フィリピンは16世紀から20世紀半ばまで、約400年にわたってスペインとアメリカの統治下に置かれたが、歴史の原点には民族の輝かしい1頁を刻んでいる。それは臼砲、鉄砲などの火器で武装したマゼラン提督の軍に弓、矢、刀のラプラプ酋長の部隊が立ち向かい、巧みな戦法でこれを撃退、マゼランを殺害した事実である。

 世界一周航海でセブ島に上陸したマゼランの軍隊を マクタン島の酋長ラプラプが打ち破ったのは1521年4月27日。戦場はマクタン社殿として野外歴史博物館のような存在となり、内外から訪れる人が絶えない。フィリピン史の原点ともなった戦闘から今年で494年、戦闘記念日の先月(4月)27日には社殿の前に広がる波打ち際に当時の住居や見張り小屋などが建てられ、マゼラン軍、ラプラプ隊に扮した数百人が当時の衣装をまとい、武器を手に壮大な野外劇を展開、戦闘とその前後の様子を生々しく再現した。

 「マクタンの戦い」が行われたのはマゼランの艦隊がセブの沖合に停泊してから20日後のこと。火器で武装した艦隊にセブ島の酋長たちが服従し、カトリックも受け入れる態度を示したのに対し、隣接するマクタン島の酋長ラプラプだけは服従を頑として拒んだ。ラプラプを懲らしめるべくセブからマクタンへ向かったマゼランと兵たちは夜明け前に岸辺をめざしたが、干潮のため接岸できなかった。

 ラプラプはマゼラン側の最後の降伏勧告も拒否、逆にマゼランを挑発し、千数百人の部隊を木陰などに配備して待ち構えた。干潮時の上陸は危険だと引き止めるセブの酋長たちの助言を無視して、船から兵を降ろし、上陸を強行したマゼランだったが、1時間余りの戦闘で足に毒矢を受け、刀、槍で刺されて息絶えた、と一緒に戦った側近ピガフェッタが記録に残している。

 野外劇には早朝から1万近い観客が押しかけた。ラプラプ側の兵の勇敢さに加えてラプラプの指揮が際立っていたことが分かる。先ず砂浜に子供、女たが現れ、裸足の兵のため浜辺を整備する。子供たちはでんぐり返りをしたり、後方宙返りをするなど観客を沸かせながら石や貝を拾っていく。これで水にぬれる軍靴のマゼラン軍の兵よりラプラプの兵士はずっと機敏に動けるようになった道理だ。

 マゼランには明らかに火器を保持しているとの過信があった。マゼラン軍が臼砲などを放ち、岸辺のニッパヤシの小屋が大音響と共に火を噴いて倒壊する。驚いて、あるいは驚いたと見せて、後退するラプラプ隊、しかし、マゼラン軍が上陸すると正面だけでなく、左右の木陰から次々に襲撃部隊が繰り出す。最初は弓矢の隊が、それをかいくぐってマゼランの兵が接近すると今度は槍の部隊が現れる。そして最後は白兵戦、抜刀隊の出番だ。両軍入り乱れ、もはやマゼラン隊の鉄砲は役に立たず、重い鎧、兜も動きを鈍らせる。時に引くと見せながら、ラプラプは鶴翼の布陣から機動的な波状攻撃をかけたのである。

 白兵戦となれば、最後は兵の数が多い方が勝利する。千数百のラプラプの部隊に対し、マゼラン提督が選りすぐった49人の精兵は良く戦ったが、1人、2人と倒され、1時間余りの奮戦の末、ついにマゼランが倒れる。槍、刀を振り上げて一斉に時の声をあげるラプラプ隊。観客の興奮も最高潮に達し、トーテムの前では勝利の舞、踊りが繰り広げられる。最後にラプラプとマゼランを演じた俳優のビン・アブレニカさんとジョセフ・ビタンコさん、ラプラプ王妃のレイナ・ブラクナ役のハイメ・ヘレルさん、続いて演じた全ての人たちが登場、歓声と大きな拍手を浴びて2時間余りの壮大な野外劇は終わった。

 この日、ラプラプ市は祝日。子供たち、赤ちゃんを抱いた女性たちも大勢集まった。セブに赴任間もない私にとってはフィリピン史の原点を見る貴重な機会になったが、劇の進行に沿ってスピーカーが時代背景を説明したので、子供たちは自分たちの先祖が侵略者に対し、いかに勇敢に、また頭脳的に戦って撃退したかを耳で聴きながら目にしたことになる。教室の授業では経験できない、生きた歴史教育は子供たちに大きな感動を与えたはずだ。民族と自分の国に対する自信が芽生えたのではないか。そう思わせる野外劇だった。

 (筆者は日刊マニラ新聞セブ支局長)


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