【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

モディ首相はなぜに今、『マハーバーラタ』に思いを馳せるのか

荒木 重雄

 小欄はどうも不穏や悲惨な話題が多くなる。世界的に分断、対立が進み、宗教が巻き込まれているからであろう。だが、新年を目前に控え、悲惨な話でもあるまい。そこで思いついたのが、インドのモディ首相が、同国の国際的な呼称を「バーラト」に変更する意欲を示した出来事である。「バーラト」とくれば、『マハーバーラタ』である。一刻、不穏な国際情勢を離れて、古代インドの叙事詩の世界に遊んでみるのも悪くはあるまい。

◆国名変更が意味するものは
 
 事のしだいは、9月のG20サミットに始まる。議長国インドのモディ首相の机上のプレートには、「インディア(India)」ではなく「バーラト(Bharat)」と記されていた。各国への夕食会の招待状でも「バーラト」である。
 バーラトは、確かに、インドの公用語・ヒンディー語や国内諸語ではインドを指す言葉である。憲法でもインドと並んで、バーラトも自国の名称として認めている。しかし、外交の場ではもっぱら英語表記のインディアを自称してきた。それが唐突にバーラトと名乗ったのだ。
 
 インドでは、ボンベイがムンバイ、マドラスがチェンナイ、カルカッタがコリカタと、地名を変えてきた。地名の変更はインドのみならず、多くのアジア、アフリカの国々で、植民地から独立後の民族主義の高まりなかで行われてきたことだが、インドではかなり遅れ1995年以降、つまり、ヒンドゥー至上主義を旨とする現政権・インド人民党(BJP)の党勢伸長と軌を一にしている。その流れを見れば、G20サミットという世界が注目する舞台で「バーラト」を打ち上げたのは、国際社会で自信を深めつつあるモディ首相による、一連の地名変更の総まとめとしての、国際的な呼称の変更への布石であろう。
 では、その「バーラト」とは何か。叙事詩『マハーバーラタ』で主役を演じたバラタ族にちなむ、バーラタヴァルシャ(バラタ族の土地)に由来する。

◆『マハーバーラタ』が描く世界

 さてその『マハーバーラタ』であるが、世界の三大叙事詩というと、ギリシャの『イリアス』『オデュッセイア』と併せ、『マハーバーラタ』が挙げられる。だが、長さでいえば、『マハーバーラタ』は前二作を合わせた量を遥かに超える。紀元前10世紀頃に起こった有力部族・バラタ族の領土を巡っての親族間の争いの物語が、吟遊詩人によって連綿と伝えられ、そこに、さまざまな物語や寓話、民間信仰、宗教説話や道徳説話が混入し、紀元5世紀頃に現在の形にまとめられたと考えられている。

 物語のあらすじは以下である。
 バラタ族の王家に兄弟がいた。兄は盲目のため弟に王位を譲ったが、弟は聖仙から受けた予言によって早逝し、兄が王位を継ぐ。弟の5人の王子は兄の100人の王子とともに育てられるが、武にも徳にも勝れた五王子に百王子が反発し、対立を深める。やがて王は、領土を五王子と百王子に二分して与えるが、繁栄する五王子の国に百王子側が妬み、一計を案じる。五王子の長男ユディシュティラをサイコロ賭博に誘い出して、イカサマで全てを奪い取って、五王子とその共通の妻を12年間、森に追放する。追放の期間が過ぎて、五王子は領土の返還を求めるが、百王子側はそれを認めず、援軍を合わせ両サイドで800万の軍勢がクル平原で対峙し、遂に戦いの火蓋が切られる。
 
 ここで、「ヒンドゥーイズムの精髄」ともいわれる、インドで最も有名な哲学的詩編、「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」が登場するのである。
 五王子の次男・勇者アルジュナは、クリシュナ(ヒンドゥー教の3人の最高神の一人ヴィシュヌ神の化身)が御する戦車に乗って最前線に立つが、対峙する相手側に親族や師友の面々を見て、悲歎にくれ、武器を投げ捨てて戦車の上にくずおれてしまう。すると御者クリシュナは、霊魂の不滅と、利己心のない本務(ダルマ、義務)の遂行の聖なることを諄々と説いて、ヴィシュヌ神としての神体を現わし、アルジュナは迷いを払拭し、決然として戦いに臨むのである。
 このくだりは、インド独立運動のリーダー、ティラクやガンディーやネールらが等しく、苦難のなかで勇気を得たと述べていることでも有名である。

 インドにおいては、業の鎖を断ち切り、輪廻から離脱することが宗教、哲学の第一の目標とされるが、ギーターではそれに三つの道を説いている。霊魂と肉体の関係を正しく認識する「知識の道(ジュニャーナ・ヨーガ)」、迷いなく本務を遂行する「行為の道(カルマ・ヨーガ)」、神に対する熱烈な信愛と絶対的な帰依にもとづく「信愛の道(バクティ・ヨーガ)」である。
 『マハーバーラタ』ではこのギーターに限らず、全編に、4カースト(ヴァルナ)それぞれの権利・義務、人生の4段階(アーシュラマ)のそれぞれの権利・義務、バラモン(司祭者)扶養の義務などが散りばめられていて、ヒンドゥー思想全般の教科書といわれている。

◆モディ首相が思いを馳せるものは

 戦いは、勇猛な武人同士の手に汗握る一騎打ちから、核兵器としか想像できないような超大量殺戮兵器の登場まであって、18日間の壮絶な戦いの末、800万の軍勢の殆どが屍を晒すなかで、五王子側の勝利に帰する。長男・ユディシュティラが即位し、徳をもって国を治め、老境に入って譲位したのち、兄弟と共通の夫人を伴って聖地を行脚し、最後はヒマラヤ山から昇天する。

 さて、冒頭の国際呼称に戻ろう。「インディア」を「バーラト」に変えることは、日本でいえば、「ジャパン」を「ニホン / ニッポン」に変える程度ではなく、建国神話の「神武東征」の時代にまで遡るような意味合いだが、モディ首相は、はたして、この『マハーバーラタ』の物語の、何に思いを馳せ、誰に自分を重ねようとしているのだろうか。
 いやいや、来年の4、5月に予定されている総選挙に向けて、自党の支持基盤であるヒンドゥー保守層にアピールしているだけだ、との説もある。

(2023.12.20)
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