【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

ロシアのウクライナ侵攻の背景にアイデンティティー衝突

荒木 重雄

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに軍事侵攻する前年7月、政府の公式ウェブサイトに「ロシア人とウクライナ人の歴史的な一体性について」という論文を掲載し、侵攻直前の2月21日にも、国民向け演説で同様の趣旨を1時間にわたって語り続けたという。

 それほど一体性を強調する隣国になぜ侵攻したのか? しかも常軌を逸したその侵攻のしかたに、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大という安全保障上の問題だけでなく、隣国に対する独自の歴史観と、ある「感情」が影を落としているとの論調がある。そしてその「感情」とは、ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチ氏が指摘するように、「スラブ世界の救世主(メシア)」を自負しているとの見方がある。

 プーチン氏の心理は確かめようもないが、事態の判断の一助に、この欄ではロシアとウクライナの歴史的関係を概観しておこう。
 この地域の歴史は複雑を極めるので、ごく大筋だけを追うことにする。

 ◆ キエフにはじまる両国の歴史

 ロシアとウクライナを隔てる国境線はソ連時代にできたものである。両国は互いに絡み合う共通の歴史をもち、その起源は9~10世紀に栄えた「キエフ・ルーシ」に遡る。

 イスラム教徒が地中海の制海権を握っていた当時、バルト海と黒海の間を河川で結ぶ交易路が創設され、ウクライナを南北に流れるドニエプル川などの河川沿いに「公国」とよばれる都市国家群が形成された。
 これらの都市国家は、現ウクライナの首都キエフ(キーウ)を中心に「ルーシ(大公国)」とよばれる緩やかな連合体を形づくった。

 キエフ・ルーシは、コンスタンチノープル(現イスタンブール)に中心を置くビザンツ帝国(東ローマ帝国)と並ぶ大国として栄えたが、キエフ・ルーシの王ウラジミール1世は988年、ビザンツから、後に東方正教となるキリスト教を受け入れて国教とし、宗教的・文化的基盤が整えられた。
 この、ルーシと正教の伝統をもつ「東スラブ人」をルーツとするのが、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシである

 そのことば国名にも示されている。ロシア、ベラルーシはともに「ルーシ」に由来するし、ウクライナとは、「中央に属する土地」すなわちキエフ・ルーシの膝元の地を意味する。また、3国に共通するキリル文字も、ビザンツ帝国から派遣されたギリシャ人宣教師が、布教のために、無文字言語であったスラブ語に充てて考案した文字とされている。

 ◆ モスクワは第三のローマ!

 13世紀、モンゴルが侵入しキエフは衰退する。すると、キエフ・ルーシの北東辺境に位置する小国にすぎなかったモスクワ公国が急速に台頭し、1326年、キエフにあった正教の府主教座(コンスタンチノープル総主教に次ぐ主教の地位)をモスクワに移す。さらに1453年、正教の中心地で「第二のローマ」と呼ばれたコンスタンチノープル(ビザンツ帝国)がオスマン帝国に滅ぼされると、モスクワこそが「第三のローマ」であり、キリスト教世界の盟主(「神の代理人」)だと主張するようになる。
 「ロシア正教」とよぶにふさわしい「モスクワ総主教」の座が確立したのは1589年のことであった。

 「第一のローマは堕落し、第二のローマ=コンスタンチノープルは異教徒の手に落ち、第三ローマ=モスクワこそが世界の盟主。そして、第四のローマは、ない」というのは、いまにいたるまでロシア人の好きな言葉だ。その自負が、いまや、プーチンを衝き動かしているともいわれる。

 ◆ ソ連が創った「民族」概念

 モスクワ大公国の隆盛と対照的に、ウクライナは、ポーランド・リトアニア大公国の支配を受け、カトリックの影響が強まる。すると、正教徒の武力共同体コサックが反乱を起こし、指導者ボグダン・フメリニツキー将軍は1654年に同じ正教のモスクワと同盟を結び、ドニエプル川左岸の地域がモスクワ側に組み込まれる。
 さらに18世紀後半のプロイセン、オーストリア、帝政ロシアによるポーランド分割に際して、リトアニア、ベラルーシと併せ右岸もモスクワに併合され、こうしてウクライナは全体が帝政ロシアの版図に入ることとなった。

 帝政ロシア期には、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは、おしなべて、ロシア皇帝が統治する単一のロシア、ロシア人として扱われた。ところが、革命後の混乱を経たソ連では、「民族自決」の世界史的潮流も背景に、ウクライナやベラルーシの住民を独立した民族=別個の国と認め、ソ連は、ロシアやそれらの国々が「ソビエトの理想(労農兵の連帯による革命達成の理想)」によって結びついた連合国家との概念を立てた。かくしてウクライナは「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」となり、ソ連の政治体制に統合されつつ、締めつけを受けながらも、一定の自治権を享受した。
 いってみれば、ソ連共産党が、図らずも、後に政治的な火種ともなる「民族」を創出したのである。

 そして1991年、ソ連崩壊。ウクライナは、他の連邦構成共和国とともに独立。幾度かの政変を経て、ロシアとも対立しつつ独自の路線を進んできた。宗教の面でも、2019年、ロシア正教会の猛反発を受けながらウクライナ正教会が独立した。

 ◆ 衝突するアイデンティティー

 さて、プーチン大統領が、言われるように「大ロシアの再興」とその「皇帝」を目論んでいるのなら、ウクライナの「離反」が許せないことは、上に見てきた関係史からも明らかであろう。キエフ・ルーシも「ロシアによる統合」の正統性の根拠として譲れない。同時に、キエフ・ルーシは、ウクライナの人々にとってもまた譲れない別なアイデンティティーの源泉である。
 一人の老独裁者がプライドを満足させるために引き起こしたアイデンティティーの衝突、これが「ウクライナ戦争」の原因なら、「士気の高いウクライナ兵」と「なぜ戦っているのか分からないロシア兵」の違いは当然だろう。しかしそれは、あまりにも悲惨な痛みを両国民にもたらしている。

 テレビのニュースなどで見ても明らかなように、ウクライナの人たちも、ロシアの人たちも、互いに相手の国に、家族や親戚や友人を持っている人が多い。ウクライナ人のほとんどはウクライナ語とロシア語のバイリンガルだ。ゼレンスキー大統領自身も、母語はロシア語でウクライナ語とのバイリンガル。ユダヤ系の出自をもつ。
 ロシアとウクライナの戦いは一面「骨肉相食む」争いである。

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 と、ここまで書いてきて思う。いま、私たちの社会は、ウクライナを巡る状況を、感情的に、極端な「善悪」の二分法で捉えすぎてはいないだろうか。プーチン大統領を、権力欲に駆られた冷酷な「悪玉」に仕立てあげる一方で、ゼレンスキー大統領を「英雄」に祭り上げ、その構図を正当化するため、情報戦のプロパガンダさえ無批判に受容してはいないだろうか。

 この小論にさえ、ウクライナの肩を持ちたいバイアスがかかっていることを、筆者自身認めなければなるまい。

 ウクライナのNATO化は、ロシアにとっては下腹部に突き付けられた刃であろうし、ウクライナにもそれなり深い闇はある。2014年に親露派のヤヌコーヴィチ大統領を追い落とした「マイダン革命」から今回の開戦に至るまでの経緯を、なにがあったのか、もう一度、客観的な視線で仔細に検証する必要はありそうだ。さらに広くは、冷戦後、米欧が、ロシアをどう位置づけ、どう扱い、どう受け入れてきたかも検証されねばなるまい。

 ロシアの非道な軍事侵攻と破壊・殺戮を眼前にするいま、それを言っても詮無いことかもしれないが、国際関係は善悪二分法では解決しない。むしろ、感情にまかせた世論(と、それを煽る政治家、メディア)のイケイケドンドン、付和雷同、思考停止は、将来に禍根を残す。

 問題はプーチン個人にだけあるわけではあるまい。東西冷戦後の30年間で、旧ソ連の影響圏は、東ドイツからウクライナ、ベラルーシのラインまで後退した。そこにおいての、ウクライナのNATO加盟の動向は、ロシアにとっては、安全保障上の最後の防衛線の喪失にとどまらず、上に述べたような密接な歴史的関係からしては、「『ロシア』という民族の一部、国土の一部」の喪失とも映り、旧東欧諸国のNATO加盟などとは意味合いがまったく異なる、看過しえない重大な事態と、ロシア側には受け止められることは、状況を捉える大前提として見落としてはなるまい。

 (元桜美林大学教授)

(2022.4.20)
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