中国と日本はどう付き合っていくべきか

― 中国抗日戦争勝利70周年に際して ―

王 鉄橋


 中国でよく言うことわざですが、「低头不见抬头见」があるように、「頭を下げていると見えないけれど頭を上げると顔が見える」と、お互いにしょっちゅう逢っているという隣近所関係を言うものです。中国と日本の距離は、地理的に言えば、よく言う「一衣帯水」のように本当に近いです。上海から東京まで飛行機でたった3時間足らずだけです。また、中国と日本は、世界で有数の漢字文化国、同じ儒教文化圏にあります。文明学や文化進化論の考えによれば、日本文明は中国文明という「中心文明」に対する「衛星文明」とでも言われています(注1)。中国と日本はまさにこのような隣近所の国です。しかし、長年来、中国と日本は、近くて遠い、似通いながらも違う、よく知りあっているようだが分りあわない、頻繁にやり取りをする裏に不信や警戒心を抱く関係にある(注2)とよく言われています。

(注1)Ph・バグビー著、堤彪訳『文化と歴史』創文社 1976年参照
(注2)尚会鵬『日本人と中国人』北京大学出版社 2000年参照

 戦後の歴史から見ても戦争の痛みがまだ癒されていないのに世界は冷戦状態に入り中日両国がそれぞれ東西両側に所属し、不信感を続けてきました。ようやく国際情勢が変わり、日本民間組織および中日友好活動家たちの長年の努力によって中日国交正常化になりました。その後蜜月時代も経たし、いろんなトラブルも起こりましたが、決定的なのはバブル経済崩壊後に、前世紀の90年代から両国間の摩擦や不信感が深まる傾向が見られてきました。その時のアンケート調査の資料からもわかるように、中日両国の人々はそれぞれ相手へのイメージがあまり良くないということなのです。日本の総理府の調査によると、70年代から80年代にかけて、中国人に親近感を持っているものは70から80%でしたが、1992年になると、55.5%になって、1995年に48.4となり、さらに1996年に45.1に減少したといいます。それに、中国に親近感を持たない20代の者は61.8%と高く、30代の人も53.5%にもなっていました。一方、中国の『中国青年報』では、1.5万人の中国の若者を対象にアンケート調査を行った結果によると、日本に悪い印象を持っている人は41.5%で、良い印象を持っている人は、たった14.5%しかなかったです。

 2009年以降、釣魚島問題が表面化し、国家関係が悪化し、マスメディアに煽られ、国民感情のマイナスの面を呼び出されました。最近の調査(2014年)によると、中国民衆の日本イメージは「良くない」と「あまり良くない」と答えた比率が86.8%で、中国民衆の日本イメージは「良い」と「比較的良い」と答えた比率が11.3%となっています。それに対して、日本人の中国イメージは下がる一方、「良くない」と「あまり良くない」と答えた比率が93%にもなっているということです。
 こういった不信感やダメージが生じた原因はいったいなんでしょうか。また、どのようにしてお互いに理性的につきあっていけるのでしょうか。われわれ両国の人々には考えないわけにはいかないことでしょう。
 中日両国は、なぜ、こんなに揉め事が出やすいのか。言うまでもなく、そのなかに国家利益という原因があります。そのほかに、お互いの歴史・文化・価値観を理解し、認め合う程度の差もあるからでしょう。

 第一に、生態環境によるものですが、日本は国土が狭く資源も少ないから、空間的窮屈感があり、他国に頼るところが多く危機感が強い。外国からの資源が断ち切られると、もうおしまいだと、いつもびくびくしている心境です。厳しい現実を前にして日本は二つのルートしかない、つまり、他国と仲良く付き合い自国の高度な技術と精密な製造業をもとに外国の資源と交換するルートと、外国と戦争を起こし資源を武力で占有するルートだけとなってしまう。だから前世紀前半の戦争を経験していた中国人は日本を警戒しているわけです。それと比べて、中国は中華意識がまだ残り、自尊心が強い。国民に土地の意識はあるが領土意識はあまりないのです。また、国も国で、以前は、実力がなかったから、周りの国に堪忍していましたが、最近、全体的に国力が増強になり、国益に関する主張が強くなり、周りの国にも日本にも脅威を感じさせたのです。

 第二に、両国はいずれも長い歴史があってその独特の文化を持っていてそれを誇りとしています。日本は仏教も信仰していますが氏族神など神様を大事にしています。中国は仏教も道教も儒教もいずれも自分に有利で幸運をもたらしてくれるものであれば信仰します。一方、両国民とも自分の歴史や先祖を大事にすると同時に美化する傾向のある民族です。中国人は自分の両親や先祖を侮辱されるのを最大の恥だと思っています。まして殺害されることは世世代代の恨みになってしまうのです。つまり、殺人者の子孫もその恨みをうけつづけていくことです。

 第三に、両国とも公正、公平、人間性、個性の意識が薄い。自分の所属する集団(国家も含む)内の者の価値指向に従う傾向があります。中国では政治文化やその体制によって集団主義の傾向が強化されています。日本は民主主義制度が導入されて反対の声が聞こえるとは言うものの、会社の終身雇用制、甘えの社会構造、組織本位など、日本人の深層心理に浸かっている文化意識によって集団認識に従う傾向が見られるでしょう。日本は一見して各集団、各組織が、ばらばらにはなっていますが、集団や島国全体の利益が脅かされるとき、一団となってたちむかう傾向があります。一方、中国は一見して一枚岩のように見えますが、実は、皇帝に対する忠は空洞化して(注3)それぞれ家族や自分の利益を考えています。結局、ばらばらになって、崩れていく。早く言えば、中国人は口で強く言うが、実際にやるときは、全力を出さないのです。日本人は、周りの人の認識に従う傾向で自分の所属する集団の目標を達成するためにはたちまち一体となって不本心でも不合理でも全力を尽くしていきます。

(注3)王鉄橋『儒教文化とその変容』軍事誼文出版社 2002年5月

 第四に、両国とも欧米人と違って全体的に見れば外向的民族性格ではない。よい面と言えば、口先に頼らず心の付き合いや協力の行動で好意を示しますが、悪い面では、何か自分に不利なことがあれば、自らが心の中で相手を憶測し、妬み、恨み、むっとむくれて何も言わずに関係悪化を待ち、爆発してやむを得ず攻撃行動をしてしまう、というような行動様式を取る傾向があるでしょう。

 中日両国はこんなに違うからこそ、いろいろな問題が起こるわけです。その中に、物を見る目の違いもあると思う。一歩突っ込んで事実を調べれば、日本人と中国人という二グループでなく、日本人にも中国人にも少なくとも二グループずつに分かれているようです。ある日本人の記者が中国を旅行してきた日本人に感想を尋ねたら、すっかり中国嫌いになり、もう二度と行きたくないという拒否反応組と、すっかり中国ファンになり、機会があればまた訪ねたいという順応組とにわかれているらしい(注4)。日本の中国研究家・村山孚(むらやま まこと)氏が「同じものを見聞きし、同じようなことを体験してもこの違いが出てくるのは、物差しのあて方ではないか」(注5)と言うように、色眼鏡をかけて物事を見る人がいます。

(注4)村山孚『中国人のものさしと日本人のものさし』1995年 草思社
(注5)村山孚の同上掲書

 両国民はいずれも自己心理上の欠陥を克服し、「大同を求め、小異を残す」を原則に、本当の相互理解を目標に付き合わなければならないと思う。相手を理解するとても重要な道のひとつは、お互いに文化を認識し、お互いに尊重し、相手国の言語を習って人間的な交流を行うことです。中日両国だけでなくすべての国と民族や文化はこのように付き合う必要があるのではないでしょうか。

 いつも自己中心に(自分の所属している集団も含む)ものを考えるなら、自らがこうした考え方によって、ものを見る目や、行動様式などが大きく異なって人類全体の生存と利益への関心が少なくなります。戦争の根本的な原因はここにあるのではないでしょうか。それを反省して見ればわかります。身近の例をあげれば、自己中心で人の気持ちも何も考えずわがままにしたり、何でも人からもらうばかりで、他人に、何もしてあげたりしない人は、人々から敬遠されるでしょう。また、誰か自分の気に障ったりすると、いつまでも心で恨んでいて陰で悪口を言ったり、その人の揚げ足を取ったり、その人を陥れたりするような人は、みんなの友達になれないでしょう。それに対して、お互いの違いを認め相手を尊重して譲り合いながら協力していけば、一時は理解されなくても誠意を持って付き合っているうちに仲間同士になって、両方とも共存し成長していくでしょう。
 もっと範囲広く言えば、世界の国関係、民族関係もそうでしょう。自分の国の利益だけを考える国は、各国から反感を買うことに決まっています。日本もかつて自分の利益だけを図る為に、反感を買ったり、日本叩きされたりした経験があったでしょう。いまのアメリカも実力にだけ頼って世界で自分の主義を押し通しているだけに、民族問題、テロリズム問題などが続出して、頭を悩まされており、世界の多くの国からも反感を買っているのではないでしょうか。「一寸の虫にも五分の魂」があるように、国と国の関係も優劣・貴賎の別なしに互いに尊重すべきではないでしょうか。

 東京都知事の極端な言論、総理大臣の靖国神社参拝、教科書問題・・・事件の連続でした。「事件」はあってもおかしくない、おかしいのは、いったん起こると、経済問題であれ、商業問題であれ、民事問題であれ、たちまち国家間レベルにエスカレートして全面的に反日感情が高まり、両国政府や民間組織および中日友好活動家たちが長年努力して築き上げた両国の友好・親善の関係を一瞬で吹き飛ばしてしまうことです。日本も日本で、隣の中国やアジア諸国にあんなに大きな災難をもたらしたのに、恥ずかしいのか、いわゆる尊厳なのか、自分が思い出したくない、人にも忘れてもらいたいという狭い心なのでしょうか。表では「日中関係を大切にする」、「戦争を反省する」と唱えていながらも、陰で「侵略ではなく解放に行ったのだ」と言い張っている人は信頼をされないでしょう。自分の面子を保つために後世の若者に歴史の真相を隠したり黙っていたりして教科書を作っていけば、将来の日本人はただ被害者の意識だけが募るなら歴史過ちを繰り返さないとは言えないでしょう。実際には、それらの言動は、いずれも、せっかく日本の民間組織および中日友好活動家たちが努力して築き上げた成果を無にしてしまって本当に心痛ましいことです。

 中日両国間の摩擦などが頻発することは、日本をよく知っている中国人の学者がすくないし、中国を良く知っている日本人の学者も少なくないことを物語っています。21世紀に入って中日両国は、現在ほど相互理解、相互交流を必要とする時期はないと思います。「世世代代と友好しなければならない」と自覚した以上、相手国のGDPだけでなく、もっと大事なことは相手が何を考えているのか、なぜそのように考えているのか、また、なぜ相手の考えがわれわれのと違うのかを真剣に検討したらいかがでしょうか。なぜなら、良好な隣近所付き合いが相手の「こころ」を理解する基礎に築かれるのだと思います。

 たしかに、日本に対して客観的・理性的な認識を持たせる重大な障害物は、戦争によってもたらした感情的な傷跡です。中国人は日本人や日本社会を理解しようとする場合、常に理性と感情の衝突で必死にもがいている実情です。被害者としては自分を傷付けた国や人々への自然な感情を完全に取り除くことが確かに難しいことです。しかし、その民族や文化を全面的に認識するためには、超脱する立場が必要です。科学的研究は、情緒化した要素を、たとえこの要素に十分な理由があっても、排除しなければなりません。しかし、ここで説明しておきたいのは、それは戦争中の日本の暴挙に対する理解や堪忍を勧めるのではなく、その暴挙や慰安婦および罪を悔いない態度などが生じる深層心理を探求するようにと言いたいのです。どの民族でもその性格に、良いとも悪いとも言えない「原質的な要素」が見出せます。このような要素は、一定の条件がそろえばプラスに成長させていけるが、また一定の条件のもとではマイナスの方向に転落していくことも可能です。理性的に相手国を見られるかどうかは、一つの研究の成熟度、認識の客観性を測るものでもあるし、またその民族の理性的思考能力を測るものでもあります。もちろん、日本人にも同じことが言えます。

 中国の抗日戦争勝利70周年に当たりまして、われわれ中日両国の共通の課題は、過去の教訓を忘れず、将来、同じ惨劇を繰り返さないようにすることで、ファシズムや軍国主義の再興を許さないことです。われわれはそれぞれの民族の原質的な要素を十分に認識した上で、プラスの方向に誘導し、マイナスの傾向を意図的に抑えるように働きかけるとすれば、中日両国の未来を自覚的に把握し、また拓いていくようになるでしょう。また、中日両国の隣近所付き合いがうまくいくでしょう。

 (筆者は中国・河南大学教授・日本語研究会会長)


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