【コラム】
神社の源流を訪ねて(31)

丹後一宮元伊勢籠神社と奥宮真名井神社

栗原 猛

◆ 4年間、天照と豊受大神を祀る

 丹後鉄道宮豊線の天橋立駅から一宮行の観光船で、松並木の天橋立を右手に眺めながら、静かな阿蘇の海を15分。船着き場からのびる白砂の参道を少し上ると、急に山腹が開け、広い境内に元伊勢籠神社の社殿が現れる。

 奥宮の真名井神社はこの社殿のさらに奥にある。周辺には縄文遺跡があり、古代の祭祀遺跡と思われる磐座もあって、この遺跡からは弥生時代のミニチュア祭祀土器破片なども出土している。          
 往古、神は磐座や古木に降臨するもので、人間がつくった建物に祀るのは失礼だとされ、磐座は神社の一番古い祭祀形式といわれる。籠神社という名称は珍しいが、祭神の「彦火明命が、竹で編んだ籠(かご)船に乗って竜宮に行った」という伝承による。

 「元伊勢」と呼ばれるのは、内宮の天照大神と外宮の豊受大神(とゆけおおかみ)の2神が、伊勢神宮に祀られる前は、籠神社の奥宮・真名井神社に祀られていたことに由来するが、このことは伊勢神宮でも十分知られていることとされる。その後、天照は籠神社を出て、いくつもの神社を回って伊勢に祀られることになるが、そのことは元伊勢と呼ばれる神社が20以上あることからもうかがえる。

 参道脇の由緒書きには「神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神さまをお祀りしてきましたが,その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和の国笠縫邑からおうつりになり、之を𠮷佐宮(よさぐう)と申し、豊受大神さまと伴に四年間お祀りしました。その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、また豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当社は元伊勢と云われております。両大神がおうつりの後、天孫彦火命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として朝野の崇敬を集めてきました」とある。

 この経緯については少し説明が必要で、日本書紀によると、崇神天皇が三輪山のふもとに宮殿を作り、天照と大国主命を一緒に祀る。ところが疫病がはやり、天候不順で凶作も続くので占うと、そのたびに二神は霊力が強いので分けて祭るようにとの卦が出た。
 そこで皇女の豊鍬入姫命が天照のお供をして宮殿を出て、三輪山の西北の地にある笠縫村の檜原神社入る。ここに暫く留まってから真名井神社に移り、ここで4年間、豊受大神と一緒にいたという。一方大国主命は子の大田田根子が大阪の陶村にいることがわかり、探し出して祀ったところ疫病は治まったという。 

 籠神社の祭神は主神が海部氏の祖神、彦火明命(ひこほあかりのみこと)で、海部氏は代々神職を務め、朝鮮半島など広く海上交通や漁労にかかわっている。870年代に作られた「海部氏系図」は国宝で、現宮司の光弘氏は82代目である。元伊勢と呼ばれる神社は20以上あり、元伊勢神社を訪ねていたら、うちには天照大神一行が立ち寄った際、神社の秘宝を持っていかれたという言い伝えがありますよ、と明かしてくれた神主さんがいた。

 (元共同通信編集委員)

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