【コラム】宗教・民族から見た同時代世界
仏教国カンボジアで、なぜ権力闘争が尽きぬのか
カンボジアというと、世界遺産アンコール・ワットの森厳にして優美な佇まいをふと思い浮かべるくらいの、漠然としたイメージの国になっていたが、8月、長年、一党独裁を続けてきたフン・セン氏が、首相職を長男のフン・マネット陸軍司令官に移譲したという報道に触れて、突如、1960~80年代の、混乱・激動のカンボジアに、筆者の記憶が引き戻された。
◆20年に亙る内戦の始まり
当時、カンボジア政治の立役者はノロドム・シハヌークだった。智略に富む若き国王として1953年、フランスからの独立を果たすと、王位を父に譲って、政治団体「サンクム」を結成する。
サンクムは、正式な名称をサンクム・リアハ・ニヨムといい、「人民社会主義共同体」と訳されるが、直訳すると「庶民に帰依する組織」の謂いである。王制尊重と仏教の理念・道徳に基づく独自の社会主義を標榜した。95%以上が敬虔な上座部仏教徒とされる国情に添った、いわゆる「仏教社会主義」である。
サンクムは独立後初の総選挙で国会の全議席を制して、「シハヌーク翼賛体制」を固め、シハヌーク「殿下」は、自信満々、意気揚々と、政治指導者の歩みを踏み出した。
ところが、である。右翼も左翼も取り込んだ包括的な「翼賛体制」の脆さと、「仏教社会主義」なる理念のとりとめのなさ、さらに、シハヌークがその中で左右のバランスを弄んだことが原因となって、ほどなくサンクムは亀裂を明らかにする。まず、67年、左派のキュー・サムハンらが地下に潜る。次いで70年、右派のロン・ノルがクーデターを起こし、「クメール共和国」を樹立する。
ロン・ノルのクーデターは、ベトナム戦争下、カンボジア領内に北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の輸送路(ホーチミン・ルート)を認めるシハヌークの放逐を図る米国の教唆によるとされている。北京に逃れたシハヌークは、亡命先で、先にシハヌークらの弾圧を逃れてジャングルに潜んだポル・ポトやイエン・サリ、サンクムを離れたキュー・サムハンらのカンプチア共産党(「クメール・ルージュ」=赤いクメール)をはじめ、反米・反ロン・ノル諸勢力に共闘をよびかけ、「カンプチア王国民族連合政府」を立てて、内戦に入った。
註)仏教社会主義は、シハヌーク政権のみならず、ビルマ(ミャンマー)のウー・ヌ政権およびネ・ウィン政権、スリランカのジャヤワルダナ、バンダラナイケ両政権などによって唱えられたが、理念のとりとめなさに加えて、本質は反共政策と多数派仏教徒偏重政策であったため、いずれも混乱や内戦に帰結した。
◆ポル・ポト政権下で仏教壊滅
内戦は、北ベトナムの支援を受けたクメール・ルージュの武装勢力と、米国・南ベトナムの支援を受けたクメール共和国軍の間で熾烈に戦われ、米軍の空爆も加わって、数十万のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となった。
ベトナム戦争の帰趨も見えた75年、ロン・ノルのクメール共和国は打倒され、クメール・ルージュ主導の「民主カンプチア」が樹立された。シハヌークは国家元首に返り咲いたが、実権はポル・ポトに握られ、シハヌークは幽閉状態となる。
ここで大粛清がはじまった。原始共産制をめざす政策により、都市住民は農村や強制収容所に移され、強制労働、飢餓、疫病、虐殺などで百万人から2百万人が死亡した。とりわけ、エリート層や知識人への弾圧・虐殺は凄まじかった。
仏教は禁止され、寺院は破壊されたり虐殺場や倉庫に変わり、僧侶は還俗して強制労働に駆り出された。カンボジアで仏教は壊滅した。
この、ポル・ポト政権下での大量殺戮や仏教壊滅を、のちに還俗した仏教僧タ・モクが促しているのも皮肉である。
仏教のその後を補えば、79年にポル・ポト政権が滅亡すると、回復の兆しを見せるが、内戦とポル・ポト政権下で多くの成年男子が失われていたことから、89年まで、50歳以下の男子の出家が制限されていて、それが解けたのちに本格的なサンガ(教団)の復興が始まった。さらに93年に仏教が国教とされ、国に保護・振興が義務づけられたこともあって、現在、寺院数は内戦前を上回る5千寺に及び、僧侶数も内戦前に迫る6万人に及んでいる。人々の心の拠りどころの座を取戻し、セーフティ・ネットの役割も果たしている。
◆果てしなき合従連衡の権力闘争
78年になると、中ソ対立が進む中で、ソ連寄りのベトナム軍と、民主カンプチアの軍人ながら反ポル・ポトに転じてベトナムに亡命したヘン・サムリンらの「カンプチア救国民族統一戦線」が、親中派の民主カンプチアに侵攻を開始。翌年にはポル・ポト政権を打倒してヘン・サムリンを首班とする「カンプチア人民共和国」が樹立された。これに対して中国軍がベトナムに侵攻して中越戦争が勃発(79年2~3月)。カンボジア内では、ヘン・サムリン政権に対して、ポル・ポト派、ソン・サン派、シハヌーク派の三派が結束して「民主カンプチア連合政府」を立てて対抗。再び内戦がはじまった。
繰り返される合従連衡、権謀術数の権力闘争。だが、そこに深入りするのは止めよう。
92年になってようやく国連管理下で和平プロセスが開始され、国王に復帰したシハヌークを元首とする立憲君主制の新生カンボジアが誕生した。このときの国連の特別代表が明石康氏であり、選挙期間に二人の日本人が命を落としたことを記憶される読者もあろう。
さて、こうして、20年を超える内戦ののち、国際社会から平和と民主化を期待されて誕生した現政権だったが、実権を握るフン・センという男、どうも誉められた人物ではなさそうだ。反ロン・ノル政権の亡命シハヌーク軍に加わり、ポル・ポト政権で軍司令官になるも、ヘン・サムリン政権に移って外相と首相の地位を手に入れ、和平プロセスで新生カンボジアの共同首相に就くと、相方のラナリット殿下を外遊中にクーデターで追い落として権力の独り占めを図り、連立相手のフンシンペック党を自身が議長を務めるカンボジア人民党の支配下にねじ伏せて一党独裁強化を策した。そして、総選挙ともなれば、前回2018年の選挙では、当時の最大野党・カンボジア救国党を「政権転覆を企てた」かどで解党させて圧勝。今年7月の選挙では、最大野党・キャンドルライト党を、「書類の不備」を理由に選挙から締め出して圧勝。強権政治や言論弾圧に加え、こうした野党排除で、38年間、権力を握り続けてきた。そして、このたびの長男への権力移譲である。
中国との関係強化で経済発展と果たしたとされ、息子もその路線を継承する方針のようだが、「債務の罠」を危ぶむ声も多い。
なお、シハヌークは、2004年、王位(国家元首)を実子ノロドム・シハモニに移譲した。シハヌークの退位は、一説に、フン・センの強権姿勢を嫌ってともいわれる。2012年、北京で、有為転変の生涯を閉じる。ギネスブックは、シハヌークを「世界で最も多くの経歴を持つ政治家」と認定している。
註)首相を移譲したフン・センだが、今後10年間は、首相を選ぶ権限を持つ人民党の党首にとどまり、来年には国家元首代行の機能ももつ上院議長に就く意向を示しており、権力欲は衰えを知らない。
(2023.9.20)
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