【コラム】神社の源流を訪ねて(63)
儒教式の村祭
韓国に神社の源を訪ねる4
栗原 猛
◆「酺祭」壇は男性中心
男性中心に儒教式で行われる村祭は、酺祭壇(ポジェ)と呼ばれる。女性中心の堂祭と酺祭は、もとは同じ一つの祭祀だった。
ところが、朝鮮時代に儒教が国教になると、儒教形式の儀礼が強制され、男性主体の酺祭と女性中心の堂祭に分けられた。ただし同じ場所で、男性の酺祭が終わった後、女性たち中心の堂クッが行われる。だから互いに似ているところがあるようだ。
堂祭の主催者は祭官と呼ばれ、生年月日や祭日の干支などを選んで決められる。祭官になると、厳しいしきたりを守らなければならない。まず家の周囲に禁止縄を張って赤土を撒き、人の出入りを禁止する。そして斎戒沐浴して出番を待つ。赤土を大地に撒いて清めるという風習は、日本にもあるようだ。
祭儀は三献、読祝、飲福の順に儒教形式で進められる。祭儀はまず手水を行い、修祓、降神、献饌、祝詞奏上、玉串拝礼、撤饌、昇神の順に進められる。神社の儀式に似ているように思われる。祭の場所は小さな鎮守の森だったが、ビルの一室で行なわれることもあるという。年に一回の酺祭は、今回の訪問では見ることはできなかったが、済州道立民俗自然史博物館で何か所かの映像と、担当者から丁寧な説明を受けることができた。野村伸一氏の『東シナ海祭祀芸能史論序説』も参考になった。映像などで見せてもらったいくつかの儀式はこうだ。
旧暦正月の「新過歳」(シングァセ)と呼ばれる祭りは、このような手順だ。
神房(シンバン)と呼ばれる祭主が、小さな石でできた祭壇の神門を開け、神の来歴を語り、食事や酒、季節の果物を飾る。女性たちは神門の前で踊り、大きな餅を高く投げ上げる。これは豊作を祈る儀式だという。
続いて村と個々人の厄除けが行われ、模擬的な狩猟もする。地域独特の本縁譚(由来)が語られ、歌や音楽を交えて皆がにぎやかに歌って踊ったりする。
一方、本郷(ノヌル)堂では、次のように行われている。文武秉蛆氏の『済州島堂信仰研究』などによると、午前8時半、堂には50人ほどの婦人たちが、準備した供物、果物、酒を持ってくる。午前9時を過ぎると、正装した神房がはじまりを告げると同時に、太鼓と銅鑼の音が響いて、神衣を保管している神門を開いて、神房が村人の名を家族単位で告げる。献酌して祭の次第を語ると、神宮門が開かれ本郷神からの神意伝達が行われる。
続いて神房が交替して厄除けが行われ、神を招き入れると、伴奏の音楽に合わせて皆で踊りを始める。
神房は神刀を持って乱舞する。小巫が脇にいて酒を口に含み吐き、駆けめぐる狩猟神を再現する。三献官が入場し火のついた焼紙(ソジ)を上げ、神房が大きなカムサン旗を両手に持ち、本郷神以下の神がみに座席の按配をする。
神饌が献上され、村人の拝礼が続く。各氏の家の祭祀ではそれぞれの祖先本縁譚が唱えられ、歌などを歌ったりする。やがて激しい音楽に変わり、神房が踊りながら餅を投げ上げて神に献じる。
また薄幸の生い立ちを持った人にまつわる物語が歌われたりする。この後、占いをして村やそれぞれの家に本郷神からの神意が伝えられ、最後に、神房が鈴を振りながら厄除けを行って祭りは終わる。
この祭りは、音楽に合わせて歌ったり踊ったり、人々の苦しみや悲しみ苦労などを語り合ったりして、集まった人々の気持ちを一つにするところに特徴がある。巫俗が仏教や儒教などから激しく迫害されたにもかかわらず、根強く人々に引き継がれてきたことについて、千人以上の巫女達にインタビューをした古代史学者の徐廷範氏は、著書、『韓国のシャーマニズム』で、「巫女達の巫女的行事は愛情の欠乏を補う行為だとも言え、その見地からすれば巫女的な神は巫女達の恋人と言える」と、現代のシャーマンたちの心象を語っている。
以上
(2024.2.20)
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