【コラム】
神社の源流を訪ねて(9)

出雲の神々① 素戔嗚命

栗原 猛

◆まず新羅に天下った素戔嗚命(すさのおのみこと)

 島根県松江の新聞社に先輩を尋ねたら、地元の人しか行かないという店に連れて行かれた。しばらくして「何か気が付かないか」と先輩がいう。店の雰囲気などは、特に変わったところはないが、目をつぶってカウンターの中の人と常連とおぼしき客の会話を聞いていると、すぐに気が付いた。
 日本語で話しているのだが、どこかハングルのイントネーションに似ている。「ハングルに似ていますね」というと、「そうだ、子供のころはもっと似ていたぞ」と、先輩は言った。朝鮮半島に近い島根県は海流の関係で大陸との交流が濃密だったようだ。

 出雲には毎年10月になると、全国の神々が集まってくるので、神有り月と呼ばれる。神社の鬼瓦に「有」と書かれたのを見かけるが、「10月」とも神「有」の意味もあるらしい。訪れたのが10月だったからではないだろうが、夜の町を歩いていると、神話の神々からそこここで見られているような不思議な気分になる。

 素戔嗚尊は、朝廷が編纂した『日本書紀』と『出雲国風土記』とではかなり違っている。『紀』の素戔嗚尊は、姉の天照大神に乱暴をして、天照は怒って天の岩戸にこもり、素戔嗚尊は高天原を追われ、出雲の簸の川上に天下って八岐大蛇を退治するというのが筋だ。
 同じ『紀』でも「一書に曰く」として、素戔嗚尊はその子の五十猛神と、まず新羅の国に天下り、曾尸茂梨(そしもり)に行くが、「ここにはいたくない」と言って、船に乗って東に渡り、出雲の簸の川(斐伊川)上流にある鳥上山の峯に下りる。一方、五十猛は多くの樹種を持って来て、筑紫を皮切りに各地に撒いて青山として、紀伊国の大神に祭られたと記す。『紀』の筆者たちに朝鮮半島が視野に入っていたことは面白い。
 また鳥上山(鳥髪山)の峯に降りたとあるが、「船に乗って東に渡り」とあることから、空から降りて来ることを、『紀』の編集者は海を渡ってくると表現したのではないか。鳥上の峯は新羅、伽耶に近く海流も朝鮮半島から渡って来やすい地域とされる。

 新羅、伽耶も島根も古くから製鉄が盛んで、『出雲国風土記』(733年)には鉄で農機具をつくった記事が出てくる。
 水野祐氏は『古代の出雲』で、考古学などの成果も踏まえて「須佐之袁命は新羅帰化人の斎祭った神」とし、「韓鍛冶」集団が砂鉄を求めていたのであろうと説く。岡谷公二氏は『神社の起源と古代朝鮮』で、出雲には新羅、白木、白城という名の付く神社がないことに着目して、「出雲ではある時期から出雲国造家の意向よって、新羅色、ひろく言って朝鮮半島色が次第に消されていったのではないか」とみる。政治的にも新羅色を薄める必要があったのだろう。

 素戔嗚尊を祭る神社には、八坂神社(京都市)、氷川神社(埼玉県大宮市)、熊野本宮大社(和歌山県本宮町)、津島神社(愛知県津島市)をはじめ八雲社・天王社・祇園社・弥栄神社などがあり、神社の祭神としては、八幡神に次いで多いとされ、農業、疫病避けの神として広く信仰されている。

 (元共同通信編集委員)

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